あるフリーターの憂鬱Ⅲ
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「意味が解らないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ」
「うん、それ無理」
俺が諳んじた台詞の後、二人は原作通りのやりとりを見せる。俺は朝倉の動きを警戒しつつ、彼女の注意を自分に引き寄せることを意識した。コンマ一秒にも満たない時間経過で、火花が散るように俺と朝倉の視線が交錯する。満身創痍な俺を見て、彼女は余裕たっぷりにナイフの背で肩を叩いて、こちらの出方を伺っているようだった。
閉鎖空間で固定を行う際には、ノートに逆さにしたお椀みたいな枠を描いて、鉛筆でその枠の内側を塗っていることが多い。可視化することで脳の負担を軽減し、自分が現在やっていることを明確にしていく作業だ。敢えて鉛筆で行うのは、塗る速さを一定にして丁寧さを意識することで、力が自分の意識の外側にいかないように留めるのが一番の理由だった。
今回鉛筆ではなくマジックにした理由は、朝倉から目を逸らせない以上当たり判定がでかい方が塗りやすいと思ったからだ。先ほど言った通り、ノートとペンは能力をセーブするための儀式みたいなもので、最初から全力全開でやる場合にあまり意味はない。ただその方が上手くできる気がするとか、ルーティンに則って動く方が落ち着くという精神的な支えになるからそうしただけだ。後は、塗り終わった時に目標を一つ達成した、というわかりやすい目印になれば他の行動を取る際の時短になる。
安心行動をとったところで、固定する能力をフルオートで出力していることには変わらない。ここは俺を許している空間ではなく、むしろ拒絶している朝倉の制御下空間だ。例え俺にとって物質やエネルギーを固定することが呼吸するように自然なことであったとしても、水中で息をするには補助がいるよな? 任意の物体の運動意識を逸らすことが歩行のように軽々しくできても、無重力では思うように動けないのと同じで、普通できないことを生身でやらされているわけだ。
今までの数倍無茶をやっていることになるので、シャツの中は大げさでなく大雨に降られたように汗を掻いていて、重い荷物をずっと持っていたみたいに肘や腰が痛んで、呼吸が荒くなってくる。肉体が限界を超えて走らされているような悲鳴をあげ、どんどん猫背になっていく。
しかし、予備の脳であるiPhoneがあるおかげか長門が何かしてくれたのかは知らないが、身体も頭の中も軋んだ音を立てているにも関わらず、汗も痛みもその不快さは邪魔にはならない。思考回路は明瞭そのものだった。危険信号も警鐘も無視した俺は、難なく空間を覆う薄皮の材質を解明することに集中できている。
それがどんな分子で成り立っているのか知るのが自動なら、どう固めればいいかプランを立てるのも自動で、実行するのも自動だ。ありがたがればいいのか、何もわからないことを勝手に頭や身体がやることを恐ろしがればいいのか、わからない。
ただ一つわかるのは、おそらく、もうすぐで空間制御の権利を俺も入手するできるだろうという、そんな予測だった。
かちかちかち。
頭の中のカウントダウンが終わるまでに長門が間に合わなかったら、俺に何が起きてしまうのだろうか。まるで他人事のように思う。
「だって、あたしは本当にあなたに死んで欲しいのだもの」
朝倉が右腰に構えたナイフが、床を蹴る勢いそのままに体重ごと突っ込んでくる。ナイフで突くって発想がそもそも素人の俺にはない。闇雲に振り回したって十分危ない代物だ。彼女の攻撃が直進だったおかげで一発目はなんとか避けられた。すぐさま抜刀術よろしく左腰から横薙ぎに払われた一閃もしゃがんで回避。
いいぞ、さすがは危険察知能力。しかし、身体がそれに毎度反応するかは別だ。
脇に挟んだデッキブラシの柄が骨を抉ってくる。身体が強張って、自分の緊張を緩めることもできない。今更になってナイフが怖くなってきた。いや、今更もクソもない。相手がどうでるかわかっていたところで、ナイフなんてそうそう人に向けられるものではない。怖いに決まっている。ちょっと紙で指を切ったって痛いんだ。あんなギザギザなもんで刺されたら、大泣きするかもしれない。
それでも俺は彼女の注意を引き受ける。キョンよりも俺を殺した方がいいと思わせることを何より念頭に置く。いくら宇宙人だって、デバフ持ちから潰すのは定石だろう。愛着の湧いた教室を朝倉から取り戻すため、俺はノートを塗る手を止めない。
「おい、そいつは関係ないだろう! なんで急に標的を変えた!」
「そうね。あたしはどっちでもいいのだけど。ほら、彼女なにかしてるでしょ? 邪魔されたら困るから」
「……俺を殺すんじゃなかったのか?」
「勇ましいのね。ふーん、あなたたちって仲が良かったんだ。なら、彼女が死んだら涼宮ハルヒに聞いてみて。どうして芦川ヒカリは死んじゃったのって」
「ふざけやがって……!」
あと少し、もう嫌だ、あと少し、頭が割れる、あと少し……! 固まれ、痛い、固まれ、気持ち悪い、さっさと固まれ……!
固まる。それはやわらかい物や液状の物、または粒状の物が、しだいに固くなる。固形状になる。凝固するということ。
一か所に集まる。寄り合う。一団となること。しっかりしたものになる。確かになる。定まる。他のことにはまったく関心を示さず、そのことにだけ夢中になる。こりかたまる。考えなどに柔軟さがなくなり、進歩・発展が止まる。
緊張してからだがこわばる。気持ちが縮こまる。
コンピューターが機能も作動もせず、キーボードやマウスからの入力を受け付けなくなること。
空間に意識的な不具合や、誤作動を起こす。元々存在しない俺がこの世界に来て、世界が逸脱事項を抱えたように。俺が入ることで、朝倉の制御にエラーを吐かせる。
いるだけで迷惑。邪魔者。厄介で、はっきりとわかる害悪。大したことのできないお荷物だけど、ハルヒは俺を呼んでくれた。たしかに、俺のメッセージに答えてくれた。だから、だからこそ──、塗り、終わった……!
「……避けろ! なにやってるんだ!」
全身の力がふと抜ける。待ってましたとばかりに切りかかってきた朝倉に反応して、キョンが俺の腕を引いて走り出す。そんなことをしても、そこにもう出入口はない。俺はノートとペンをポケットに無理やりねじ込んで、その強靭から思わず目を離す。
もう、顔を上げるだけの力が湧いてこない。膝に両手をついて俯いたまま動けない。不恰好な呼吸音くらいしか彼への返事になるものがない。
汗が、ぼたぼたと床に落ちていく。くらくらしてきた。真冬にマラソンをしたみたいに、肺がちくちくと痛い。酸欠みたいな、強制的な眠気みたいな「足りなさ」に支配される。
「おい、ちゃんと走れって! どうし……、ていうかこれ、なんなんだ! 出られないぞ!」
「無駄なの」
朝倉が近づいてくる。
長門が来ないってことは、まだ、俺は役目を終えていない。だというのに、もう足元は酩酊状態のようにふらつき始めている。
確かに制御権は手に入れたはずだ。でも、ただそれだけだ。
この空間を壊す術を俺は知らない。閉鎖空間は神人が倒されれば消滅するが、ここでは朝倉相手にそういうわけにもいかないだろう。どう足掻いたって俺とキョンでは彼女に傷一つつけることはできない。
そうなのだ。俺には、攻撃手段がない。
「有機生命体の一個体に過ぎないあなたに、まさかここまでのことが出来るなんて驚いたわ。でもね、権限が書き換わったわけじゃない。あなたがこの空間を操作しようとしても、わたしがそれを認めなければいいだけ」
「なにを言っているのかまったくわからねえんだよ! 朝倉、お前が芦川になにかしたのか」
「この空間はあたしの制御下にある。脱出路は封鎖した。簡単なこと。この惑星の建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変できる。今のこの教室は密室。出ることも入ることもできない」
分子。分子の結合。分子というのはいくつかの原子が結びついてできている。
原子。原子を離すまではいかなくても、動かせれば。わずかな振動でも与えられれば? 俺は少しでも動いているものなら、そのエネルギーを助ける形で能力を行使することができる。この空間がどう動いているかなんてのは、俺にはわからない。制御の権限だって朝倉の方が上だ。
俺は顔をあげる。でも、元々空間をどういう仕組みで固めているかなんてことを俺は知らない。それなら、やり方さえわかれば結果はついてくるんじゃないのか?
朝倉は壁の方を見ながら、夕飯の献立を訪ねる子供みたいな声色で呟く。
「あなたは彼が死んだら嫌?」
その視線がこちらを向く。俺は両足に力を入れて踏ん張った。嫌だ。嫌に決まっている。
「じゃあ、誘いに乗ってあげる。あなたが死んでも、涼宮ハルヒはきっとアクションを起こす。多分、あたしたちが想定しているよりも大規模な情報爆発が観測できるはず」
「は? むしろお前はさっきから芦川を狙っているじゃないか」
「違うわ。あなたに向けたナイフを、彼女ずっと自分に向くように操作しているの。これってちょっとすごいことなのよ。だって、あたしの意識に介入しているんだから」
原子。原子を動かす。最初のワンアクションさえあれば、俺はそれを維持したり誘導したりして、長門の侵入経路を生み出せるかもしれない。でも、どうやって? 俺はiPhoneに触れる。
──そういえば、5G回線が始まるって時に有害な電波がどうとかって騒ぎになったよな。兄貴が説明してくれた気がする。
5G電波は非電離放射線だから、原子を電離させることはできない。だから人体の健康に問題はない、とか。非電離放射線のエネルギーは物質の分子中の原子をわずかに移動させるか振動させるだけだから、みたいなことを。
おいおい、じゃあなにか、5Gの電波なら移動するのか? 人体への影響なしで? でも基地局なんてないのにそんなことができるのか。いや、今日はまだ満月だ。なら、もしかしたら部室のオブジェを介してどうにかなったりするんだろうか。出来るとしたら、まったくスマホ無双この上ないのだが、だからってそれをどう使えばいいわけ? とりあえず長門の携帯にでも掛けてみるか?
番号を打ち込んだところで、目の前で朝倉がナイフを振り翳す。咄嗟にiPhoneを後ろに放り投げてキョンを背に庇うと、俺はデッキブラシでそれを受け止めた。なんつー力だ。手が痺れている。しかも、真っ二つになったデッキブラシの柄は、ナイフの刃が当たったところから光の粒になって分解されていく。
「ヘイトを稼ぐとかじゃなくて、お前の超能力でどうにかならないのかよ。このままじゃお前、死んじまうんじゃないか」
「……いやあ、これでも、一応最善手で……」
俺の背中を支えたキョンが、ブレザーにまで染み込んだ汗に触れて息を止める。
「おい……、おい、一回手を止めろ! お前になにかあっちゃ元も子もねえって! お前は世界と一蓮托生なんだろ!」
「もちろん、死ぬつもりは……ぜんぜん、ない……!」
俺はというと、分解する力のようなものが手まで到達しないように、両手に持ったデッキブラシの端の粒子をその場で維持することしかできない。
「今、このナイフで切ったものはね、制御空間内での結合解除を可能とするために命令を書き込んだの。あなたが持ち込んだ能力よ。あなたがここに来たから、統合思念体の許可なく情報連結を解除できるの。あなたが持ち込んだ固定の能力で上書きして、ナイフを強化できたのよ。あなたがいるだけで、あたしに頭を開いて見せているのと変わらないの。きっと、来るだろうと思ってたわ」
「でも、長門は盗めないようにプロテクトをかけたって」
「そんなもの、かかってないけど?」
え? 長門が、俺に嘘を? いや、吐くならきっと、朝倉の方だ。
「本当よ。それに盗んだっていうのとはちょっと違うかな。あなたが空間の制御権を持ったおかげで、この空間は既に持っている情報を使用することを許容しているのよ。あなたが来なければ、ここまで自由にできなかったかもしれない。残念だった?」
「何から何まで掌ってことか」
「彼女と繋がっているから気持ちが大きくなっていたのね。でも、どんなに広大な領域があっても、そこを通る道が細くちゃ意味がないじゃない?」
「繋がってる?」
「なんだ。知らなかったんだ。何も聞いてないのね。今みたいなこと、普通にやっていたらとっくに死んでるのよ」
長門がなにか保険をかけているだろうとは思っていた。もしかして俺の負担をあいつが肩代わりしているのか? だとしたら、それでもこれだけ劣勢なのは相当まずい。
朝倉は繋がっている、と言ったか? 繋がっている。なにかパスのようなものを通して俺のパフォーマンスを底上げしているんだ。俺と長門が繋がっている。空間を隔てても繋がっていられるものなのか。光か音か、情報か、陽子か素粒子かは知らないが、なにかが通り抜けるだけの隙間がこの空間にはあるってことなのか?
「跡形もなく消えた方が、ひとりぼっちの異世界に肉体を置いていくよりいいでしょ? だから、もう諦めて」
キョンはキャッチしたらしいiPhoneの画面を見ている。彼の行動を確認すると振り返ってしまうので、朝倉から視線を外せない俺としては、なんとなくそうしているんだろうという予測でしかないが。
俺がいると邪魔になるだろうと思って来たのに、朝倉の言い分ではそのことによってむしろ長門は侵入できないでいるってことか? 彼女がわざわざ嘘を言って揺さぶりをかけるようなことをするとは思えない。長門はそれもわかっていたはずだ。それでも俺を送り込んだなら、やっぱり勝機はゼロじゃない。なにか、なにか隙間を広げる方法は──。
「お前、もうふらふらじゃねえか。なあ、長門ならなんとかできるのか」
「わかんないけど、一応長門に電話してくれ」
「長門さんは入って来られない」
「……クソ、かからないぞ!」
「そんな気はしてた。よし、やっぱり朝倉から逃げ回るしかない」
「何しに来たんだよ、お前は!」
何って単なる時間稼ぎだ。
「時間を稼ごうとしても意味ないよ。だって、あなたが権限を得た時点でこの空間はあなたのものでもあるの。ここはあなたを拒まない。あなたの意識がある限り、維持され続けるわ」
ああ、俺って本当に余計なことしか、しない。でも、それだって長門なら計算できていたと思う。出たとこ勝負、なんて言葉を使ってわざわざ俺に下駄を預けたなら、俺が考える中で導き出せる正解があるはずなんだ。
「ねえ。だから、もう彼女を渡して?」
「できるわけないだろ、そんなこと! こいつが消える? それを俺に黙って見てろって言うのか!」
「そうよ」
「断る……!」
キョンは舌打ちをして、何度も長門に電話をかける。
そのうちに、俺には確かに「わかった」ことがある。世界が丸ごと震えるような、けれど小さな小さな変化があった。ドアも窓もない無機質な壁に囲まれた教室に、しずかな冷たい空気が入り込んでくるようだった。
きっと、これがなにか──、長門は俺に電話番号を教えた。そうだ。だからそれは解決の糸口になるはずなんだ。それを上書きされては堪らない。
俺はそのことが気取られないよう、闇雲に朝倉に向けて切れたデッキブラシの短い方をぶん投げる。汗ですっぽぬけて見当違いの方向に飛んで行ったそれは天井に当たって、それでも朝倉の上方から降っていく。当然、誘導を掛けて彼女に向けた。どこに投げても、後から曲げればいい。
朝倉はそれを飛び退いて避けた。そんなものを当てるまで動かし続けても意味はない。距離を取れただけマシだ。当てる気なら朝倉に全力で固定を掛けなければならない。彼女の敵視を俺に誘導しながら、彼女の足を止めながら、箒を誘導しつつ、この空間の制御権を完全には渡さないまま維持する。そこまでのことをしたらさすがに俺も廃人コースだ。
幸い、一度固定したこともあってか意識し続けなくても空間自体には俺が介入している感覚はある。キョンが長門に電話してくれたおかげで、この空間と外の空間が繋がろうとするきっかけはできた。そして、朝倉がご丁寧に説明してくれた「結合を解除するための命令が書き込まれた状態」のまま維持した箒を天井に当てた。なにしろ、原作では長門は天井から降ってくる。
でも、それでも長門は現れない。やれることはやったはずだ。もう、だいぶ眠くなってきてる。がくん、とふらついた俺をキョンが抱え込むように支えた。あ、体温が、あったかい。俺がここに来なければ? でも、長門は俺に任せるって、信じてるって、言ってくれたから。俺は、やりたいよ。できることをやって、長門がまた、無表情で手を挙げて挨拶をするところを、見たいんだよ。なのに、なのに何もわからない。なにもうまくいかない……!
人間の集中力は、十五分程度が限度だと言う。たしかに、それくらいは経ったかもしれない。怒りと悲しみとがない交ぜになり、ぶつん、通信が途切れるような音が脳内でする。あれ、これ俺が寝ちゃったら空間をあれ、どうこうする権利ってもう完全に朝倉のものになっちゃうのかな。じゃあ、ねるわけにはいかないんだけど。
「もうおしまい?」
「おい、芦川……! 返事をしろ、朝倉が来てる!」
口がゆるゆるになってきて、全然しゃべれる気がしない。俺は持てる力を振り絞って、朝倉を足止めした。弾んで一歩踏み出したままの姿勢で、彼女は不自然に停止する。髪も、スカートも揺れることはない。けれど、表情はにこやかなまま、のんびりと口を動かした。
「あれ、すごい。本当にこんなことが可能なんだ。やっぱり、あなたは生かしておくべきかな?」
「いきてるかぎりおまえのじゃまをしつづける」
「じゃあ、死んで」
「この状況で挑発するやつがいるか!」
「本当にすごいね。有機生命体の情報処理能力じゃこんなことは不可能だわ。あなたのことを見誤っていたみたい。もっと早くこうしておくんだった。あなたが来てから少しだけ期待していたの。いつか膠着状態を解いてくれるんじゃないかなって。もっと色々な検証をしてみたいけど……でも、もう」
朝倉はなにもない空中を蹴るようにして、
「──動けるわ」
両手で強く握ったナイフで空気を切り裂くように、弾丸のように真っすぐ突っ込んできた。キョンが俺を庇う様に飛び出して、床に倒れ込む。あ、だめだ、なんのために俺が誘導して──。意識が混濁する。寝ちゃだめだ。目をあけて、そのまま。そのまま、最小限の生命維持を。一回、全ての能力のスイッチを切る。切ると、だめだった気がするけど、そうしないと死んでしまう。それはだめらしい。なので、そうする。
「芦川!」
勢いよく起き上がったキョンが、俺の顔を覗き込む。目を開けたまま、俺はぴくりとも動けない。口元をよだれが伝う。口を閉じるという方法がわからない。瞼は勝手に、一定のリズムで開閉する。机の山が吹き飛ぶ音がする。目の前の男が息を呑む。デッキブラシは転がっていく。
身体から魂が抜け落ちていくようだった。血液が床を這って行くように、体温が奪われていく。男は板のようなものをポケットにしまい、俺を背に庇う。さいごにみるのが彼の背中なら、ちょっといいかもしれない、なんて。
どろどろ、どろどろと、何かが俺から流れ出す。だいじにもっていたかったものだった。だれかにもらったものだった。それをなくしたらまけると思っていた。なのに、身体から、脳みそから出て行ってしまう。
「しっかりしろ、芦川! くそ、混ぜろとは言ったがな……! こんな命がけの場とは聞いてないぞ……!」
男が手近な椅子を投げつけると、微動だにしないまま女はそれを弾き飛ばす。彼の背中越しにそれを見ていることしかできなかった俺が、俺の脳が、勝手に動き始めた。まだだめだ、全然休めてないよ。マジでしんじゃうって、きいてるのか? 俺の身体のくせに。
どろどろと、大切な何かが零れ落ちていく。それは網目状にひび割れるように広がって、どこかで見たふうけいだ、とあたまは、おもう。どろどろが床と、かべと、くっついていく。天井と、くっつけない。おれはゆかになって、かべになって、男と女を色んな方向からみている。おれはおれではなくなって、うすい膜になっていって、にんげんのかたちがわからなくなる。
ころころ、デッキブラシがころがる。おんなはあるいてくればいいのに、おれをじっとみつめて、ないふをなげる。
おれはそれをじっとみつめて、とめる。おれ? おれってだれだ。だれ? それってなにだ? なに? なにって、
「芦川……? なあ、お前……まさか死んじまったんじゃないよな……」
「ねえ、もうやめたら? とっくに有機生命体の活動には限界が来ているはず。長門さんになにかしてもらったのかもしれないけど、どうにもならなかったのだから仕方ないわ。どうして諦めないの? 絶対的な差があるのよ? まったく理解できないわ」
「息……は、してるな……しっかりしろ、なあ。芦川……どうしちまったんだよ」
かれがおれをかばうように、だきしめる。
女は空中に磔になっていたナイフ手に取り、ゆっくりとこちらに歩いてくる。俺は、それを見ている。
「芦川……お前、いつもこんなことしてたのか? やっぱり涼宮にキレた方がいいぞ。頼むよ、死ぬなって……!」
ぎゅう、とかれが俺をだきしめる。なんだっけ、これ、ああ。タッチングって言うんだっけ? 安心と同時に身体は眠ろうとする。だめだ。おきないと。でも、そうだよ。えーと、俺は知っている。俺はこの人の体温で、我に返ることができる。そういう裏設定があったはずだ。
「……あいつは、よけた」
「なんだ? 芦川……?」
男が俺の顔に耳をよせる。女から視線は外さないまま。俺の呂律も、言葉選びもなにもかも元通りというわけにはいかない。でも、なぜか視界が広い。360度、見えるような不思議な感覚がある。
「さっき、よけた。いま、よけない」
「なんの暗号だ……!」
「あれ」
俺は女をみつめている。360度からみつめている。床に転がるデッキブラシは、未だ光の粒子を切り口に宿している。おれはもう、おれというものを捨てたみたいだった。幽体離脱みたいに身体がかるい。
女は言った。空間にいるだけで、既にある情報を使用することを許容されている。女は言った。俺がいるからここは閉じることはない。女は言った。俺が持ち込んだ空間結合解除能力。固定で上書き。
デッキブラシに残っている結合解除の因子。それを固定することで俺による命令に書き換えられるなら。彼女が避けたのは、俺に属性を付与されたことによって諸刃の剣となってしまった結合解除に、自分自身触れることはしたくないから。
そして、俺がもしも彼女の言う様に空間結合解除なんてことができていて、あまりにも自然でそれに気づかなかったとしたら──。
ぎち、と耳の奥が痛む。鼻から赤い何かがぼたぼた流れる。
この教室に入る時も、俺は空間を「破った」じゃないか。自動ドアみたいに受け入れられたわけじゃない。なら、これはきっと俺に使える力のはずだ。もう立てない。もう、顔もあがらない。だけど、やらなきゃいけない。ちがう。やりたい。
ちからになりたい。
まもりたい。
ずっと、みんなといっしょにいたい。
「貸して」
男は頷いて俺にデッキブラシを持たせる。女はすぐになにかに気づいたように飛び退いた。おれは彼女をみつめたまま、瞬きもせずにいる。
彼は俺の提案に一瞬ひどく狼狽したが、「信じていいんだな」と一言零し、俺を抱きあげて立たせる。そのまま、女に向かって俺を突き飛ばした。
女の目が見開かれる。瞬時にナイフを構えて俺に向かってくる女に、俺は彼に握らせてもらったマジックを持って応戦する。いや、応戦なんてものじゃない。でも、これが意外に捨て身でもない。女がナイフの柄で叩いたマジックはくるくると回転し、物理法則を無視して天井に向かって一直線に飛んで行く。さっき、デッキブラシで一度叩いたところにめがけて。
世界がスローモーションみたいだった。
──それが、彼女の視界には一切入らない。映らない。なにも起きていないように、俺に向かって刃を振りかぶる。
男は、机の山に登り、そのマジックが叩いたところを間違いなくデッキブラシで突きあげる。
身体が動かない俺は、それと同時に彼が乱雑に放り投げたiPhoneを俺の手の中に引きずり込むように誘導して、頬で無理やりに画面をタップしながら床に倒れ込む。
なんてことはないさ。同時押しギミックなんて、定石だからな。
突如、天井をぶち破る轟音。瓦礫をまき散らしながら、夕陽の光と共に制服を翻して少女が飛び込んでくる。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲。そのメロディが懐かしい着メロのシンプルな和音で流れて、俺は泣きそうなくらいに安心した。
「「長門……!」」
キョンの真上から現れた小柄な少女が、床で痙攣する俺の顔、数ミリ先に迫った刃を素手で受け止めていた。