あるフリーターの憂鬱Ⅲ
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勢いよく目を覚ます。本当にこんな風に起き上がりながら目を覚ますことってあるんだな。あと、起きた瞬間に人とぶつかることもあるんだな。あるあ、ねーよ。
誰かさんに頭突きでもされたらしく、頭がかち割れるかと思った。勘弁してくれよ。この世界での俺の脳みそにはそれはとてつもない価値があるんだぞ。
「いってーな馬鹿。顔が近いんだよ」
「すみません。ちょっと寝言を聞こうと」
「寝言を聞くのはモーニングコールって言わないからな?」
「でも夢の中で僕を呼んでいましたよね。呼ばれたら出来るだけ駆けつけるという約束ですから」
「……夢でまでお前を呼ぶわけねーだろ」
夢の内容は詳細には思い出せない。オートモードだなんだと宣ったが、ぶっちゃけ人間の臓器なんて大抵オートモードだ。何もしなくても勝手に呼吸が出来るし、最初は出来なかったことだって成長したり慣れたりすれば意識しないでも済むようになる。ようはオートモードを切るスイッチに気を使えばいい。ん? この考え方は俺の能力にも当て嵌まるかもしれない。
そして、覚えていないことを無理矢理思い出そうとしてみる。薄ぼんやりとだが、確かに古泉たちがいなくなるような夢を見たかもしれない。夢は情報の整理だ。はて、なんだろうか。憂鬱編のラストのことでも懸念しているんだろうか。逸脱事項で俺だけ取り残されてしまうようなことになれば、確かに嫌だな。しかしあまり先のことばかり考えても仕方ない。
「とにかく一回当たれ」
「了解しました」
古泉は俺の投げた枕に棒立ちのまま当たって、律儀にベッドに枕を戻して去って行く。腹立つなこいつ。俺は鳴るはずだった目覚ましを止める。少し早めの起床だな。
待てよ? ということはこの時間に起きなければ目覚ましが鳴るまであいつは俺の寝言を聴き放題だったってことじゃないか。クソ、変なこと言ってないよな? 俺って寝言かなり言うらしいからな……。
まったくさあ、人が寝ている顔がそんなに面白いのかよ。ハルヒの命令とはいえ、せめて時間まで来ないように言っておこう。
俺たちはたまごサンドで朝食を済ませ、(古泉はよく卵を食べることがなんとなくわかってきた)二人で早めに家を出て、だらだらと登校する。
iPhoneの充電は85%。これからどれだけ必要かわからないので、本体を長持ちさせるにはマックスまで充電しきらない方がいい。当然の如く落としたり壊したり、無くしたりするのはもってのほかだ。ここにはiPhone12を修理してくれる工場はないのだから。
「電源を入れておくことが、お兄さんからの指示なんですよね」
「ああ。でも、意味がわからなくてさ。俺が兄貴に電話をかけようと……いや、もしかすると向こうの世界なら誰でもいいのかもしれないが、それが世界と世界を重ねる、そこはいいとして」
「指定された時間に電話をかけろ、という指示ではないことが気にかかりますね」
「そう。ただ電源を入れておくことになんの意味があるのか。そこなんだよな。まあ、番号自体はずっと変えていない兄だ。覚えてはいるから、どこからでも掛けられる。でも、これに電源をいれておけ、ってことはこれを使うってことだ。それなのに、掛けろと言われないのは変だろ?」
「電源を入れているだけで空間を重複させるための準備が整っている、とは考えられませんか? 言ってしまえばスタンバイモードですよ。それだけで世界間を繋げてしまうようなことはない。けれど、いつでも実行は可能であるというような、そんな状態です。今僕の言ったことが正しくて、そしてそういった意味であなたのお兄さんが指示をしたなら、彼の思惑を読み解く方法はいくつかあります。これはあまり言いたくはありませんが、そうですね。例えば、今日──あなたの帰還を涼宮さんが許すタイミングがある。そうすれば、あなたは電話をかけることであちら側へ戻れるのでしょう。もちろん、その際は例のオブジェをお忘れなく」
古泉はいつも通りの詩人面でこともなげにそう言う。今日のハルヒは体調が悪く、一日中世の中のつまらなさを嘆いている予定だ。こんな世界どうでもいいとさえ思い始めている。
だから、もしかするともう異世界人なんていらないと考えるのかもしれない。そういうこともあり得るかもしれない。夢が現実になって、たったの六日で。
「俺は……まだ帰りたくない。兄貴が無事なのがわかった途端に現金かもしれないけど……」
古泉の袖を掴む。幾分か温度のある顔で彼は微笑んだ。
「ただの仮説、それも一例に過ぎませんよ。それに、その場合あなたは無事帰還できるとして、そうすると僕らは都合が悪くなりますね。涼宮さんは一度手に入れたものを手離すとなれば、例え自分が書類に判子を押したとしても後悔するに違いありません。それから、いくつか謎も残ります」
謎? と聞いて欲しいのだろうからその通りに返した。話が早くて助かるなどと口では言うが、持論を展開するのが嫌いじゃないやつだ。
「ええ。長門さんが異世界に干渉することができないのであれば、あなたのお兄さんにその指示をしたのは誰なんでしょうか。僕たちの知る限り、そんなことが可能なのはあなたと涼宮ハルヒだけです。あなたのお兄さんが元々別の世界からあなたの世界に訪れた異世界人で、そういった能力を有していたなら話は別ですが。もしくは、あなたの世界はこの世界よりも超常的かつ幻想的で、異能や魔法にありふれた世界だった可能性はありますか?」
「うちの兄はただの夢見がちなハイスペック引きこもりだ。そして俺のいた世界は飽き飽きするほどつまらなくて平凡だ。保障してもいい」
「なるほど。夢見がち、というと?」
「昔から俺に特別な能力があると思い込んでいた」
「自分自身を特別だと思い込むのは思春期の少年少女にはよくあることですが、自分の妹を……ですか」
「まあ、俺には下に親戚もいないんでわからないが、妹ってのは兄にとって特別なんじゃないか。その上俺は美少女だし」
「否定はしませんが。因みに特別とはどのような?」
「ツッコミなしだとつらいんだが。なんてことはない。俺は子供の頃は夢遊病が酷くてな。年頃の兄としては、深夜徘徊する俺に設定を付与したかったんだろう。で、謎っていうのは? 結論までが長いんだよお前は」
「子供の頃? こんなことを尋ねるのは失礼かもしれませんが、おいくつなんですか?」
「言ってなかったか? 二十歳だ」
古泉は肩を竦める。言ってなかったか……。何でも話したつもりでいたが。
こいつは話をするために早く登校したんだろう。生徒はほとんどいない。坂はまだまだ長いから、いくらか話を聞く時間もあることだろう。古泉は気を取り直したのか、また独自の理論を展開し始める。
「涼宮さんがコンタクトを取るとして、具体的な指示をあなたのお兄さんに伝える状況とはどんな状況でしょう。彼女は自分の能力に無自覚です。どこからかあなたのお兄さんの電話番号を入手して、充電器を用意してあげて欲しいと、そのくらいのことは言えるかもしれません。しかし、あなたが出現した地点まで誘導するというのは偶然でも起きない限りは難しいでしょう。まあ、涼宮さんなら無意識のうちにできなくはないかもしれませんが、やはり彼女だけの力で異世界にアクセスが可能かという疑問が残ります」
「じゃ、なんだよ。俺が指示したって言いたいのか? そんな覚えはないが……いや、そうか。これから俺が過去の兄に指令を出す。条件が揃えばやってやれないことはない」
「おそらくは。そうなると逆説的に、あなたがこのタイミングで帰還することはあり得ないんですよ。となると、他の可能性としてはそうですね……」
古泉は勿体ぶって顎に手をやる。そして手振りを交えてこう切り出した。推論はいくつか用意されているはずなのに、わざわざ間を開ける。詐欺師みたいなやり口だ。
「未知の異空間に侵入ことに使用する、などが順当でしょうか。異世界とは、まあ言い換えてしまえば異空間です。閉鎖空間は涼宮さんの作った場所ですからね。彼女があなたを拒むわけはないので自由に出入りが可能で、能力を行使しやすいのも頷けます。あなたの世界は、当然普通に暮らしていた世界ですから繋がりやすいのでしょう」
後に、ハルヒのような閉鎖空間を作成できる人物が登場する予定はある。だが、そいつとこの時点で会って尚且つその閉鎖空間に侵入するとは思えない。そいつを担ぎ上げたい奴らは、今も俺を監視しているとは思うが。
「異空間への侵入か。いずれは利用するかもしれないが、今日使うとなると……その心当たりは遠慮したいな」
長門と共に朝倉の空間に飛び込む、なんて可能性はないと誰かに言って欲しい。想像する限り、その状況だともう詰みに近いんだよな。俺とキョンを庇いながら朝倉と戦わなければならない状態にまで長門が追い込まれているのなら、朝倉側の対策は万全だ。負け濃厚。
俺の思考を読んだように、古泉は難しい顔をする。
「危険なことは」
「なるべくしない。するとしても断りを入れるし、助けを呼ぶ」
「……わかりました。最大限譲歩します。話を続けますね」
古泉は溜息を吐いた。あまり気にいる返事ではなかったらしい。
「それから、気になることがいくつか。なぜその指示では向こう側からこちら側にのみ荷物を送ることに限定していたのでしょうか。話を伺った限りではご家族仲が良さそうでした。あなたがお兄さんにとても大事にされているのだとすると、尚更元気に暮らしている証拠などを欲しがるものではありませんか?」
古泉が思うよりもずっと俺の頼みは何でも聞いてくれる兄妹思いの兄だが、それは過保護すぎる愛情からくるものだ。俺が異世界にいると知れば連れ戻そうとするに違いない。
俺がここに残る為の協力をしてくれるとしたら、相当な熱意を伝えてあの理論武装男を説き伏せ、しかも長門をダシにしたとしか考えられない。
「……再構築には長門のような宇宙的パワーが必要だからじゃないのか」
「本当にそうでしょうか。長門有希にはっきりと、どちら側からも物資の輸送に再構築を必要とすると……そう断言されましたか?」
いや、そう言われると長門にしかできないって話じゃなかったかもしれない。長門語を自己解釈したのが間違いだったか。やはり翻訳機である古泉を通さないといけないな。俺は録画テープを巻き戻すように、記憶を引っ張りだす。
「すべての軸が重なる条件下なら、重複した次元断層を越える無機物の分解と再構築はそれほど難しいことではない。芦川ヒカリはその条件を発生させることができる」
これを俺は条件のみ自分で発生させられる、と思ったんだ。
「誘導能力では世界間を超えて物体の移動を操作することは不可能」
「まさか、会話をそのまま覚えているんですか?」
「ああ。SOS団に関することは大抵覚えられるんだ。繰り返し情報を取り込むわけにもいかないから、こっちに来てからは精度が落ちているけど」
「十分驚くべき能力ですよ。それだけの記憶力があれば、お兄さんもあなたを特別だと思うことでしょう」
「褒めなくていい。ていうかお兄さんって長いな。兄の名前は朔だ。そう呼んでいい」
「では、今後そのように。続けますが、例えばあなたならば分解と再構築なしに手に収められたとは考えられませんか。なにせあなたの世界のあなたの荷物です。持っていることが普通なんですから。もしくは、そもそも条件が重なっていれば分解と再構築は自動で為される、とも受け取れる言葉です」
「それなら長門が俺に取りに行けって言えば済んだ話じゃないか。俺は長門に言われれば何も疑わずに行くぞ」
「現状あなたが食べては問題のあるものが入っていたからじゃないですか?」
「おい、なんだと思ってるんだよ。俺はそんなになんでも口に入れる人間じゃない」
「長門有希はあなたがそういった人間だと把握していないかもしれませんよ」
確かに。というか、長門は自分で出来ることをわざわざ他人に求めたりはしない。自分がやった方がスムーズな場合、手を借りたりせず勝手に終わらせてしまうやつだ。怪我をしようが、熱を出そうが、そういうやつである。
なので、俺はあまりあいつに負担を掛けたくないのだが、頼ってくれと言って頼ってくれるやつでもない。
「話が逸れたな。向こうからこっちに荷物が来るだけなのはおかしいって言ったか」
「ええ、涼宮さんはあなたの意向を汲み取ってこちらに招いた。これはあなたの願望だけでは不可能だったでしょうし、彼女だけでも不可能だったはずです。両方向からの意思が合致したからこそ、あなたはここに存在している。現状涼宮ハルヒから異世界人を除外しようという様子は見受けられません。とすると、世界間を繋ぐトンネルは現在一方通行なのではないでしょうか」
推論に過ぎないが、辻褄は合っている。話し足りないなら続けてもいいぞ。
「そして、どうしてあなたでなければならなかったのか。僕にはあなたが招かれたことがランダムだったとは思えません。あなたはこちらに来る以前から我々を知っていた。そしてこちらに来ることを願っていた。しかし、本当にそれだけで人が一人こちらに来られるものでしょうか? 何度も言っていますが、異世界から人を一人呼ぶということは綿密で長期的な下準備が必要で、それも大規模な行為であるはずです。それに、僕の推測ではさきほどの条件を満たす存在自体は、多分あなたの世界では少数ではないのでしょう。きっと、あなたは朔さんの言う通りになにか特別だったんですよ。この六日より、もっと以前から。彼の発言は妄言でもなんでもなく、あなたが異能力者であることになんらかの確証を持っていたんじゃないでしょうか。そうすれば辻褄は合いますよ。朔さんはこうなる日を予期していた。だからあなたの指示に簡単に従った。案外、ご兄妹揃って特別な存在なのかもしれません」
「今までで一番長い」
俺は袖を引っ張るのを止め、古泉の脇腹を肘で小突いた。理論は通っている。そして、予知能力という単語は俺も気にはなっていた。こちらに来て何度も言われた言葉だが、実は兄貴にも何度か言われたことがある。
「俺が元から異世界人の素質を持っていたのなら、俺は元の世界ですら異世界人だか異空間人じゃねえか。実は家族は偽物で、俺は月かどっかから竹に埋め込まれたとで、も……」
──まるで、それはかぐや姫みたいじゃないか。
「どうしました?」
「……俺、兄貴にかぐや姫って呼ばれたことがあるんだ。兄貴の幽霊もそう言っていた。いや、まさか、え? 俺ってなんなの!? 人間じゃない? いや、長門は俺を普通の人間だって……」
「なんだそりゃ。哲学の話か」
振り返ると、キョンがあくびをしながら立っている。随分と早い登校だ。キョンがこんなに朝早く登校する日なんて、俺のイメージでは憂鬱編のラストくらいのものだと思うが。さっきまでの話も気にかかるが、今日起きることにはどうしても神経が尖ってしまう。
「ああ、いや。そうだな。うん、驚いたが俺は普通の人間だった。勝手にパニックになってしまった。古泉の話が長すぎて容量オーバーだったかな」
「すみません。一例としてお話したつもりだったのですが」
「なにが容量オーバーだ。瞬間記憶能力かなにかがあるんじゃなかったのか?」
どうやら昨日のパフォーマンスをなにか勘違いしているらしい。まあ、俺は元からハルヒシリーズに関することだけ記憶力がいいからな。マジでそれだけだから一生有効活用できる日は来ないはずだったんだけど。
「先ほども長門さんのセリフを暗唱していましたね」
「それでなぜ小テストの点数が谷口と変わらないのか甚だ疑問だな」
「言っておくけどキョンも変わらないからな」
ぐ、と言葉に詰まったキョンは、寝ぐせが跳ねている。朝からいいものを見た。幸先がいいということにしよう。
「で、またお前らは秘密の会議か。ご苦労なことだ。毎日涼宮のことばかり考えていて飽きないもんかね」
「逆に飽きるか? ハルヒだぞ」
「お前に聞いた俺がアホだったな」
「ヒカリくんのことも考えているので、それほど涼宮さんのことばかりと言えるかはわかりませんね」
「訂正しよう。お前らに聞いた俺がアホだった」
「古泉と一緒にするな。俺は便宜上口触りの良さで神と言ってるだけで、あいつを信仰してはいないし、この世界が三年前に出来たとは思っていない」
メタなことを言えば、涼宮ハルヒシリーズの連載が2003年に始まったからと言って、その時に今俺がいるこの世界が生まれたとは言い難い。そこを起点とすれば小説での三年前は2000年だし、俺がいるこのアニメのスタートを主体にした2006年の軸では2003年となる。もっと言えば作者の頭の中でどれくらいの時間練られた作品なのかと考えればキリがない。
これが俺の妄想だとしても、ハルヒシリーズに出会ったのは十年前の2010年だし、そこを起点とした三年前は2007年となる。ほら、どの西暦からも数えられる今の状態じゃなんの信憑性もないってわけだ。
「いずれにせよ実りある考え事ではないですか。二人共、可愛らしい方たちですし」
「ハーーーーーーッ!!?!?」
「朝から声がでかい」
「でかい声も出るだろ。俺はなあ、可愛いなんて、家族からしか言われたことないんだぞ……!」
「悲しい話をするな。昨日俺も言ったろ。谷口も国木田も涼宮も言った」
「ハーーーーーーッ!!!!」
「発声練習ですか?」
交互にファンサをするな。ときめいてるてる場合じゃないんだって、今日ばっかりは。古泉のやつ、マジで昨日の謎の一人納得から篭絡ペースを上げて来てやがる。まあいいさ、落とせるものなら落としてみろ。俺を誰だと思っている。令和の時代までキョン最推しを貫いてきた女だぞ。
ともかく、今日は一つ目の大きな山場だ。規定通りに事が運ぶように見守らないといけないんだから朝から飛ばさないでくれ。キョンは首を傾げて鼻を鳴らす。
「一日だけだったな。ヘアゴムつけたの」
「毎日して行ったらめちゃくちゃ嬉しいみたいじゃん」
「ほう。そんなには嬉しくなかったのか」
「違っ! めちゃくちゃ嬉しいよ……! 嬉しいけど、こう……なんか、浮かれてるみたいだろ。人から物貰って毎日つけてたら、うわ~こいつ、いつも付けてるよ~、お気に入りかよ~って言われるだろ!」
「因みに誰なんですか、それを言ってくる相手って」
「俺だよ……」
「もうわけがわからんな」
やれやれ、を会話終了の合図みたいに俺たちは下駄箱に向かう。自分の下駄箱を開いたキョンは俺の想定通り固まり、俺たちに先に行くように促した。きっと彼を放課後に呼び出したいやつからメモが入っていたはずだ。
古泉はそれだけで何か察したようだった。お弁当を受け取ると、相当に真面目な顔をする。
「随時報告の徹底をお願いします」
「わかってるって」
「そういえば……」
キョンが悩み顔で教室に向かってくるのを認め、古泉は口元に手を当てる。身分を明かした今、キョンにこそこそとして話すことがまだあるんだろうか。俺は腕組みをして耳を寄せる。
「昨日はドキドキしましたね」
「てめ、そんなこといちいち耳元で言うな!」
攻撃として繰り出した裏拳的ツッコミはひらりと躱されて、古泉は楽しげに教室に向かって行く。お前の真面目とおふざけの切り替えタイミングが俺にはまったくわからん。耳が溶けるように熱い。クソ、昨日の謎手繋ぎを思い出してしまった。
「キョンくん、俺耳ちゃんとある?」
「何を言っているんだお前は」
そう言ってくだらない冗談みたいに流した彼が、教室の戸を開きつつポケットにメモ用紙をしまったのを、俺は見ていた。
教室に入るだけだが妙に躊躇われる。彼と二人きりだからではない。既に、俺には油膜のようなものが部屋一面に張られている映像が見えていた。
──やばい。これは、まずい。咄嗟に隣のクラスに行こうと方向転換した俺の背中をキョンが押した。
「毎度教室の前で突っ立っているな」
「……あ」
このたった一歩を、俺はひどく後悔することになる。