あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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浮遊感。
しずけさに包まれた時間だった。現実感を失わせるほどの沈黙に、俺は床の溝に触れることで自分が座っていることを知覚しなおす必要があった。
俺の耳は長門の呼吸にのみ向けられ、切り取られたようにそれ以外を一切キャッチしなくなる。瞬きの音すら聞こえそうなほどに無音なのに、自分の呼吸音も認識できない。意識して深呼吸してみて、ようやくその呪縛から解かれる。なぜこんなにも緊張しているのか、自分でもわからない。
部屋は不思議な明るさに包まれている。光が窓の外に逃げていくような、あるいは夜の闇が入り込んでくるような、そんな絶妙な明暗のバランスがあった。
長門が目の前に正座して、俺をまっすぐ見つめている。
「涼宮ハルヒのこと」
訥々と話し始める長門に、俺は唾液を飲み込んだ。
「それと、あなたのこと」
原作では「わたしのこと」と続く筈の言葉に、俺は虚を突かれた。多分、長門は俺が「知っている」ことを「識っている」んだろう。それで自己紹介よりも他己紹介を優先したわけだ。
俺は長門がヒューマノイド・インターフェースとかいう存在だということを知っている。俺が持ったまま返すタイミングを逃したこの眼鏡だって、一瞬で作れるのだと知っている。大人しいけど好奇心旺盛で、ぼんやりしてるけど戦えば強い。そういう宇宙人なのだと、ずっと前から知っている。
だから長門は自分のことを語らない。でも、はたしてそれだけなのだろうか。そんな横着をするキャラクターには思えないし、階段飛ばしをするならばお茶をあれほど出さない気がする。
つまり、言う必要がないから言わないのではなく、意図的に言葉にしていないのではないか。ふと、そんなことを思った。そしてそれが、もしかすると俺をこんなにも居心地悪くさせている原因なのかもしれない。
とはいえ、長門のことを疑っているわけではない。必要だからそうしているのだろう。
「あなたは普通の人間」
情報の伝達に齟齬が発生することを、長門は言わない。ちょっと残念だけど、それよりも残念なことが告げられた。俺は普通の人間。キョンと同じ一般枠。何の属性も持たない。
しかし、それならば疑問が生まれる。
涼宮ハルヒを監視するために生み出されたのが長門だ。何もない俺をどうして彼女は家に招いたのか。それって今年オリンピックが開催されるのとなにか関係ある? と聞きたくなるくらい、まったく関連性が見えない。俺がトーチを持って走ったりしないのと同じで、SOS団もまた俺と関係がなくなってしまう。テレビ越しに見るなら、アニメも四年に一度の祭典も、等しく俺の生活の外側で回っている事柄に変わらない。
思わずがっくり肩を落とす。夢なら俺に都合のいい状況を作り出してくれても構わなかったじゃないか。なんらかのすごい力に目覚めて色々なことに挑戦してみたかった。そう思うと、現金なことに急に夢の世界に入る前の場所が名残惜しくなって、読んでない漫画の続きが気になったりする。鬼滅の19巻、兄貴買ったかな。
「現時点では」
「ん? 含みがあるな」
俺は手のひらを握ったり開いたりしてみる。涼宮ハルヒの憂鬱は、念じてみたら急に一般人から魔力が出るなどという世界観ではない。だから「俺、なんかやっちゃいました?」みたいな発言の準備も必要はない。スキルウィンドウとかも表示されてないし、そもそもチートキャラの座はハルヒで埋まっている。
現時点ではと言うからには後になにか出来るようになるのだろうか。遅咲きの能力者はここぞの場面で出番があったりするし、この時点でなくてもまあ、望みは……あるかなあ?
「あなたに芽生えつつあるのは、情報操作能力。維持と補正」
「現状維持とか? なんだかフリーターの得意そうなポジションだな」
「情報統合思念体はあなたと涼宮ハルヒの接触に期待している」
「えーと、自律進化の可能性……だっけ。俺には不思議なことなんて何もないのに? 俺とハルヒが会うことでなんらかがうまく行くかも、とお前の派閥は思ってるわけだ」
「そう。既に小規模で変化は始まっている。三年前」
「ああ、情報爆発が起きたとか。SFには明るくないからだいたいで話して欲しいし、俺もそうするんだけど……その中心にハルヒがいたんだよな。普通の人間では扱えない類の情報を扱った。それで、長門の親玉はそれに注目している」
「だいたい、そう」
だいたいで喋れと言って、こう返す長門を俺は愛おしく思う。ここまでディティールに拘って長門を作ったのなら、情報統合思念体には創作の才能があるな。
「あなたも」
「俺?」
「そう。三年前、惑星外空間に拡散した情報爆発はあなたにも影響を及ぼした。そうしてあなたがこちらに干渉する起点となった」
「三年前にハルヒが起こしたことで、今?」
ストーリーと違うことを話されるとちょっとわからないな。俺は首をひねった。
三年前。なにか思い出深いことがあっただろうか。三年前、三年前か。確か、年下のプロ棋士とか年上のプロスケーターが活躍していた。35億とかジャパリパークとかもその辺だったっけ? そうだ、その春から夏にかけて俺は体調を崩して学校を休みがちになったんだった。家で兄貴の手に入れた最新ゲーム機で遊んで過ごしてたなあ。わかばシューターのなにが悪いんですか?
兄貴で思い出したけど、英語の教科書でハルヒが扱われるって一時期話題になった気がする。買ったとか言ってたっけ? どうだったかなあ。一年用のだったし、学校を休んでいたのもあって俺が実物を見ることはなく、結局ネットニュースで見たに留まったが。そもそも俺は五年くらいハルヒ関連の情報を追っていないし……それくらいかな。いや、時事に疎すぎるな。もっといろいろなことがあったと思うけど。
「そう。この時間軸に来るべきではなかった。あなたはイレギュラー」
「来るべきじゃないってそんな冷たいこと言われても。呼びに来たのは長門じゃないか」
「ちがう」
「違うの?」
「あなたと涼宮ハルヒの意思がそれを決定した」
「よくわかんないけど、長門は来るべきじゃないさっきのあの場所に俺が来ることを知ってた。それで待ってたのか」
「だいたいそう」
「それは……ありがとう、なのかな?」
長門は否定も肯定もせず、ただ俺を揺れた瞳で見た。こういう時、どういう顔をすればいいかわからないみたいに。
月の光が部屋に入り込んできて、彼女の横顔を照らしている。
「どういたしましてって言えばいいと思うよ」
「そう」
珍しくわずかに逡巡した少女は抑揚のない声色で続けた。
「どういたしまして」
「こちらこそ」
「こちらこそ」
「あ、それは続けなくていい」
「そう」
長門は湯飲みに口をつける。俺は部屋の明かりを見上げた。つまりどういうことなのか……さっぱりわからん。俺は来るタイミングを間違えたらしい。そんなこと言われてもなあ。もしかすると、それが原因で俺は装備なしなのか?
でも、間違えたことはそうなんだけど、どうやら俺はハルヒに会う必要自体はあるらしい。それで、なにごとかを維持したり補正したりするのがお仕事みたいだ。長門と一緒にここで暮らしてハルヒを見守っていく、とかだろうか。それだと多分、俺にはあんまり活躍の場はなさそうだ。
なにせ問題があったら修正するのは長門だろうし、奔走するのはキョンだろう。維持するのは古泉だろうし、かわいいマスコットには朝比奈さんがいる。やはり改めて考えるとSOS団って完璧な布陣だな。
俺には特筆したスキルがあるわけでもなく、強くてニューゲームどころかスマホという文明の利器も取り上げられた。なんの変哲もない村人Aとしてスタートして、どうやら今のところはやることもない。世界を滅ぼす魔王とか、明確な目的もいないし。喜緑さんの部下辺りの立ち位置になるのだろうか。
嫌われ役の悪役令嬢ですらなく、その存在に価値があるのかはまったく不明。けれど、長門とその親御さんには期待されている。これさえ言われなければもう少しのん気でいられたけど、ここがどうにも引っ掛かる。
──情報操作。俺が唯一持っている武器は、あるいみ情報といえば情報だ。涼宮ハルヒとその周囲の関係や今後の展開。それってオタクが原作通りだって楽しむ以外にどう使えばいいんだ? 情報統合思念体先生。放任すぎませんか、それは。
「あなたが涼宮ハルヒを選んだ。あなたと涼宮ハルヒは相互干渉によって、自律進化の可能性を握っている」
「キョンじゃなくて」
「彼は鍵」
トリプル主人公にしちゃ、メイン二人が能力なしってのは心許ない気がする。まあ、キョンは必要があって一般人枠を与えられているわけだけど。
初恋みたいなものだったからちょっとは嫉妬するけど、まあ最終的にはハルヒとの仲を応援するつもりでいる。俺はハルヒのことも大好きだし。好きな人が好きな人とうまく行くところを見て見たいってのも、ある。
そこまでこの夢物語が続いたら、の話だけど。
「あなたと涼宮ハルヒには自分の能力を自覚、共有し、予測できない危険を生む可能性もまた存在している。それを制御し、内側から凍結する役割、それがあなた」
「え~。なにか芽生えても悪用するつもりはないけど」
「存在しているから」
「いるだけで悪いとか詰んでるわ。あーでも、もう少しだけここにいたいなあ。やっぱりメインの登場人物はコンプしたいし」
「いて」
「えっ、キュンときた」
長門的には俺とハルヒを会わせたいらしいので、そういう意味なのだろうけど。こういう言い方するのってすごく可愛くてちょっと狡いよなあ。
さて、ここで問題なのが、涼宮ハルヒという人物に俺のようなモブがすり寄る隙はないってところだ。ハルヒが目をつけるほどの能力がないのならば、接触すら難しいかもしれない。なにせ、てきとうに集めた団員が宇宙人や未来人や超能力者っていうくらいの怪奇狩りの達人。キョンがいるのに、今更どんな一般人枠を欲しがるというのだろう。
それと、どうやら今の言い分では長門は俺に能力があっても明確に伝える気はないのかもしれない。もしくは、ふわふわ理論では説明できないって可能性もある。俺がもっと頭が良ければなあ。
俺はすかすかの頭を振り絞って一生懸命考察サイトの内容を思い出そうとした。結果的に言うと、こんな状況の考察はなされていなかった。
そりゃそうだ。誰も長門にあったことはないのだから。とりあえず長門が言うならハルヒに会えることだけは確定として、それ以上は細かく考える必要はないのかな。
「悪い。俺のことについて出来るだけわかりやすく頼む」
「そのうちわかる」
そりゃわかりやすい。だって俺は長門を信じてるから。
やおら立ち上がる小さい背中の後についていく。締め切られた部屋が一つ。その隣の部屋を指差して、長門はまた突っ立ったまま動かなくなった。
「寝て」
「寝てる間に時間が急に進んだりは」
「しない」
「ちなみにシャワーとか借りられる? 服は、どうしようかな」
「わかった」
長門はシャワールームがあるらしき方向を指差して「どうぞ」とだけ返した。俺はいまさら手持無沙汰になっていた眼鏡を、同じ言葉を言って彼女に返す。
無論、一日分の汗を流したかった。それもある。あるが、確認しなければならないことがあるっていうのが今一番重大な風呂に入る理由だ。確認なんてしたくないけれど、しなければならない。
なぜ俺が、さっきからこんなにも歩きにくいのかを。
──いや、気づいてはいたんだよね。脱衣所で俺は頭を抱える。こんな描写は省きたいんだが、こういうことは最初に開示しておくのが物語のセオリーなので仕方なく、本当に仕方なく俺は一瞬だけ目をやる。
なぜ、足の間に妙なものがついているのか。
愚問だ。代わりに失われた上半身の脂肪が移動したわけでなければ、答えは一つ。俺は鏡を見る。顔は大して変わっていない。美容室で綺麗に染めてもらった金髪もそのままだ。髪の長さも肩くらいで、後ろで結んだまま。
ちょっと背は伸びているのかもしれない。ほんの少し、手も大きくなっている気がする。骨格も、しっかりとした気がしないでもない。
でも、ほんとうにわずかな違いだ。だから「コレ」さえなければそんな変化にも気づかなかったはずだ。
「思ったことはあるよ。男体化ね。よくあるよね」
独り言を呟きながら、俺は既にぽかぽかと温かい浴室に足を踏み入れた。長門も風呂とか入るのかな。それとも、俺のためにわざわざ超特急で沸かしたのだろうか。蛇口をひねってシャワーを浴びながら、俺は思った。
滅多な妄想はするもんじゃない。思いもよらない出来事が待ち構えていることを考慮にいれて、人はこんなこといいなできたらいいなの希望を口にすべきだ。でも、それをすっかり忘れちゃうのもまた、人の浅はかなところである。
ちなみに、風呂でどこをどう洗ったかなんてことは、割愛させてもらおう。
脱衣所に戻ると大きなバスタオルが用意されていた。どうやって入手したのかボクサーパンツと、上下のスウェット。俺はそれを身に着けながら、もしかして先ほどからの長門への接触はセクハラに該当するんじゃないかと心配になってくる。
さっきは無かったドライヤーで髪の毛を乾かすと、清潔なシャンプーの香りがした。
待て待て。これって、本当にまずいんじゃないだろうか。既に現在この家には男女二人が寝泊まりしているとはいえ、そして俺の心は女であるとはいえ、さすがに一つ屋根の下はダメなんじゃないだろうか。情報統合思念体が「娘になにをする!」って怒ってきたりするんじゃないか。いや、しないだろうけど。
「あー、長門」
「なに」
「ごめん」
風呂から出るなり謝る俺に対して「なにが」という顔で長門は見上げてくる。制服姿のままだ。ちゃんと眼鏡はかけなおしている。うん、やっぱり眼鏡はある方がかわいい。眼鏡がある方がかわいいって言ったらセクハラかなあ?
「いや、こう……不用意に触ったりして」
「いい」
長門は答えあぐねる俺にもう一度「いい」と言った。そうして、再度寝室を指差す。俺は隣の部屋の戸をちらりと見た。あそこには、朝比奈さんとキョンくんがいる。詳細は省くが、あの二人が原作で同衾(?)している時点でありなのかもしれない。ただ、これを出会ったカウントにされたらちょっと寂しいな。
「ハルヒだけじゃなくて、みんなに会いたいなあ」
「へいき」
独り言に、返事がある。
「お前が言うなら、これほど安心できる言葉もないな」
「そう」
俺は長門の頭を撫でる。長門はしずかに俺を見ている。俺はふかふかの布団に寝転んだ。じわじわと睡魔が襲ってくる。
今日も一日よく働きました。そういえば、俺はいつの間にお弁当の入った袋をなくしたんだろうか? などと思うけれど、それも寄せては返す微睡にかき消されていく。
「……おやすみ、長門」
「おやすみなさい」
ちゃんと挨拶が返ってきて、俺は安心して布団を被る。ぱちん、と音がして暗闇に包まれた。影だけしか見えない長門が扉を閉める。
夢を見た。
ハルヒが俺を呼んでいた。
道の真ん中で、大きな声を出して俺を探していた。
俺はそれに気づかないで隣の路地を歩いている。
気づかないで、ハルヒのことを考えていた。
ハルヒに会いたいな。
会ったらどんなことを話そうかな、なんて考えていた。
「やっぱりダメね! 見つけたら縛りあげて逃がさないようにしなくちゃ!」
聞かなかったことにした。