あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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ぴぴぴ、と電子音が鳴る。フローリングの硬い床で起き上がった俺は、目覚ましを止めに寝室に向かった。
昨夜流しっぱなしにしたアニメは途中から記憶がない。後で見返さないと。
欠伸を噛み殺してシャワーを浴び、機関の用意した別の制服に着替えて弁当を詰める。制服は後でアイロン当てないと。皺ついちゃっただろうな。
昨日は見つけられなかったが、クローゼットにあったエプロンを使う。私服もいくつか。パーカーやら、ラフな服が多い。なんかシュシュもいっぱいある。この青いのにしようかな。
さて、おかずは6つもあればいいだろう。ご飯は半分は混ぜご飯にしておくか。もしも古泉昨日怒って帰ったとしても、ハルヒの前だと食わないといけないだろうし、手抜きはできない。
一応、朝食にホットケーキも焼いた。食べるかわからないけど持っていくか。俺はつっかけサンダルを履いて、深呼吸を一つ。扉を開いて、隣の部屋の前に立つ。チャイムを押そうとした瞬間、自動みたいに扉が開く。額にクリーンヒットした。
「エンッ」
なんで顔を扉で叩かれるんだ。判断が遅くても手なんだぞ。扉ってことないだろ。あーあ、ホットケーキも落っこちてしまった。尻餅をつく俺に、古泉が目を見開く。
「すみません、大丈夫ですか?」
「うん……」
古泉は手を差し伸べてくれた。俺は、迷いながらもその手を取る。
「怒ってないの?」
「え? ああ、もしかして、返信を見ていないんですね。と、それよりも。朝食を……すみません」
古泉は通路に転がったホットケーキと、割れた皿を見て眉を顰める。
「返信?」
「はい。先に片付けてしまいますね。中に入っていてください。少し散らかっていますが」
携帯を押し付けられ、ドアを開かれる。有無を言わせない態度に、俺は部屋にお邪魔することにした。散らかってるイメージないけど。
なんというかまあ、シンプルな家だ。カーテンは紺色、全体的にモノトーンを基調にした、シックな内装である。物が全然ない。その割に本棚はごちゃごちゃしていて、パジャマがソファーに脱ぎ捨てられている。なるほど、これだけこざっぱりしていると、ちょっとでも散らかると目につくわけだ。
男の子の部屋って、みんなこんな感じなんだろうか。こいつだけなのか? なら、それなりにギャップ萌えを狙えそうだが。
そういえば、携帯を渡したということは見ろということだよな。失礼してメールを開く。あいつは返信って言ったか? 俺、寝ぼけて昨日のメール送っちゃってたのか。
『こちらこそ、何も言わずにお暇してすみませんでした。人に叱られるのも何年かぶりで、どう答えればいいかと悩んでしまいました。でも、嬉しかったです。もしよければ、これからもよろしくお願いします』
なげえ。いや、メール文化の頃ってこんなものだったかもしれない。俺はその文面を指でなぞり、もう一度読む。これからもよろしくされてしまった。
と、古泉がそんな俺を認めて声を掛けて来た。
「なにかよい知らせでも?」
「まあな」
「ご容赦くださいね。なにぶん、こういう交流は久方ぶりで」
「いいよ、許す」
あんまり謝っても古泉も困るだろう。俺は尊大に返した。
「ありがたき幸せです。しかし驚きました。あなたもホットケーキ、とは」
よく驚く奴だ。古泉の目線を追えば、リビングのテーブルに黒めの物体が皿に乗せられて置かれている。
「……お前、あれをホットケーキと呼ぶ気か。可哀相な小麦粉だろあんなん」
「意外と難しいものですね……」
「まあ、もったいないから食うけどさ」
止めに入る古泉を無視して、俺は少し冷えたホットケーキを口に運ぶ。まあ、苦みがあるのはご愛敬ということで。古泉は俺を見ると苦笑して、自分も手製のホットケーキを切り分けて食べ始める。まずそうな顔すんなよ、こっちは我慢してるのに。
食べ終えてシンクに皿とフライパンを片付ける古泉の後ろ姿を見て、俺は思わず吹き出した。
「あはは、なにそれ! どんな寝方したらそんな寝癖つくんだよ」
「え?」
後頭部を撫でる古泉に、俺は腹を抱えて笑い続ける。一部分だけが勢いよく跳ねて、なんとも古泉らしくない髪型だ。
「あーいい、いい。やるよ」
洗面所からスタイリング剤とブラシ、ドライヤーを持ってくる。そして、椅子に座らせた古泉の髪を整えてやった。さらさらで羨ましいな。俺だって髪の毛はケアしているつもりだが、元がいいやつはこれだから。
「できた。お前みたいな髪質のやつは、ワックスなんかを使わんでもナチュラルに決まっていいな」
谷口なんかはバッチリとオールバックにしているもんな。あれはあれで、硬めの髪って色々遊べて面白そうだが。
「……先生は」
「親と教師を間違うやつはいるけど、同級生と教師を間違うやつは初めて見るな」
古泉は照れたような奇妙な笑い顔をする。どうやら俺は、たったの一日で古泉一樹という男の意外にも表情豊かな一面を見まくってしまったようだ。笑顔の種類で、微妙に見分けがつく。
「なかったことにしていただけます?」
「いいよ。貸し一個な」
「三ヶ月分の指輪で構いませんか?」
「お前は結局それを続ける方向でいくんだな。まあ、好きでやる分にはいいけどさ」
「ええ、楽しませていただいています」
「物好きなやつだ」
時計を見る古泉に、俺も自分の部屋に戻って支度をせねばと思い立つ。その俺を、何やら湿度のこもった眼差しで古泉は見た。
「自分でもそう思います」
なんの納得なんだか。俺から言わせて貰えば、SOS団なんかに所属している時点で全員とっくに物好きだと思うけどね。俺も含めて。
さて。どの方向から登校してもこの長い坂を登らないといけないってのは、どう考えても深刻な立地ミスである。俺は朝一番に待ち受ける試練に辟易とした気分だった。これが毎日続くなら、登校拒否もあり得る。
「おはよう、芦川くん」
「あ、芦川くんだ。おはよう!」
「うん、おはよう」
クラスの女子たちが話しかけてきた。昨日、俺に好きなテレビを聞いた女子と髪の色について聞いた女子だ。隣の古泉も笑みを広げて会釈する。わかる、わかるぞ。これは営業スマイルだな。
「そうそう、昨日は失敗しちゃったから。好きなテレビ番組を聞くね」
この答えは用意してあるので、俺は頷いた。
「ん。金曜やってる商品貰えるクイズのやつと、深夜アニメかな」
「芦川くんアニメ見るんだ。金曜のってあれだよね。イケメン芸人が司会者の」
「そうそう。結構雑学多めで面白い」
わかるー、と女子。まあぶっちゃけまだ見てないけど。ちらっと調べた感じ、イケメン芸人と言われてもまあ普通だった。隣にもイケメンがいるので価値観がバグってるのかもしれない。
三次元にこの顔いちゃダメだろと思うんだが、この世界では芸能人なんかはレベチで、古泉よりもカッコいい奴がゴロゴロいるらしい。
京アニ作画で人類のベース顔面がいいからよくわからん。なんなら国木田や谷口だってだいぶ顔は整っていると思う。
俺ってもしかして金髪で女顔の男だからキャラの存在感を保てているのではないか。女だったらモブに埋もれるから、男にしたんですか。どうなんですかハルヒさん。
「髪、すっごく綺麗だよね」
「ほんと? 気遣ってるから嬉しいな」
「シャンプーってなに使ってるの? シュシュもかわいい。どこで買ったの?」
しまった。気を遣っていると言ったのに自分が今朝使ったシャンプーは知らん。なにせ大抵の物は機関が用意しているのだ。シュシュも知らん。どこで買ったんだこれ。
この質問に、古泉がひょいと顔を出す。なんでこいつはこんなに距離感がぶっ壊れているんだ。実は海外育ちなんて設定があってもおかしくないくらいだぞ。ないよな?
「シャンプーは海外製のもので、ネットであれば注文できますよ。シュシュは駅に隣接したデパートで購入しました」
「なぜお前が答える」
「簡潔にお答えしますと、シャンプーは僕と同じものだから。シュシュは僕が選んだものです」
また嵌められてるじゃねえか! お前海外のシャンプーとか使ってんのかよ腹立つな。いや俺も今や同じなのか。デパート? そんなもんいつ行った。
古泉は耳打ちする。
「購入したのは森さんですがね。写真を見て選んだのは僕です。本当ですよ」
どうでもいい事を話すために顔を近づけるんじゃない。肩を組んで仲良しアピールをする古泉に女子たちはきゃいきゃい騒ぎながら「応援してるね」なんて言って先に走って行った。俺の事を応援するやつだっていてもよくないか? これが顔面偏差値の力なのか? 力が……欲しい……。
「よお、お二人さん。朝からやってんなあ」
「おっさんみたいな挨拶だな」
んだとお、と反論したのは谷口だ。
「すごい噂になってるよ、芦川たち。涼宮さんのクラブ活動に入ったこともそうだけど、9組の女子から二人のことが広まってるみたい」
「草です」
「朝っぱらから暑苦しい。道を塞ぐな」
「あ、キョンくん。ごめんな。おはよう」
国木田とキョンも合流だ。なにを人事みたいに。どうせ谷口も国木田も巻き込まれることになるんだ。今に見ていろ。
俺は古泉を引き剥がす。
「芦川よお、お前も災難だよなあ。転校早々涼宮に捕まっちまうとは運のないやつだ」
「残念だが谷口。芦川はどっちかっつーと涼宮に毒されてる側だ」
キョンくんの指摘は意外にも鋭い。俺はハルヒの世話を焼きたくて、流れ星に願い事をしていたくらいなのだ。花丸大正解だ。
「まーね。せっかくの高校生活だから、変わったことやる方が面白いしね」
「まあ、俺としちゃ女子人気高めの二人が戦線離脱でありがたいけどな」
「へー俺って人気あるんだ」
作画のおかげだろうけど。
「てか俺と古泉が離脱したからと言って谷口がモテるわけじゃないだろ」
「なにをう!?」
谷口は肩を組んで、俺を擽りにかかる。あーこれ、なんか今めっちゃ男子っぽいな。これはこれで、学生生活を楽しめるのかもしれん。
「やめときなよ谷口。彼の前でさ」
「構いませんよ。何も思わないわけではありませんが、最後に僕の元へ戻ってきていただければ」
「ラオウか?」
「ラオウか?」
まずい、こっちの世界に北斗の拳があるか知らないまま反射で喋ってしまった。と思ったものの、まったく同じツッコミをキョンくんが入れたので俺は溜息を吐く。
いやあ、キョンくんとハモれるとはなかなかに良質な体験だ。微笑みかけてみよう。昨日はあまり話せなかったし。ハルヒがいない時くらいならいいかな。
「なに笑ってる。こっちを見るな」
完全に古泉扱いを受けた。そうだった。今や俺も変なキャラ付けをされていたのだった。ちょっとショック。
八つ当たりってわけじゃないが、俺は未だ絡んでいる谷口を押し除けた。持ってきた紙袋が潰れそうになったからだ。実は昨日、スーパーでプレゼントになりそうなものを探しておいたわけで。スーパーでかよ、というのは言いっこなし。
「つーか、さっきから気になってたんだけどよ。その花柄ピンクの袋はなんだ? まさかお前……マジに女だったのか?」
「ピンクが女って偏見もおっさんくさいな。朝倉に礼だよ。昨日教師連中に口利いてくれたらしいからな」
「マメだね。そういうの朝倉さん喜ぶんじゃない? 芦川のことだいぶ気にかけてるしね」
「羨ましいことだぜ。あーあ、俺も転校して来りゃあな」
国木田と谷口は他人事だと思って好き勝手に言う。俺はお前らのような危険な女の趣味はないんだよ。あの凄味のある笑顔で見張られたいってのなら、いつでも代ってやる。今すぐ押し付けたいくらいだ。
「マジに女も何も、お前昨日俺のほぼ上裸見てるだろ」
「それなんだよ。いくら女顔でもお前は男だからな。すまん」
「なんでフられた今。屈辱すぎるんだが」
「実際の話どうなんだ。朝倉、お前に気あんじゃねえの? もしそうだったら羨ましすぎるぜ」
谷口はまた肩を組む。距離感が近いのは北高独自の文化だろうか。
「ないない。あれは委員長だからってだけだね。いざこっちがその気になったらそんなつもりなかったのって申し訳なさそうに言われてプライドがへし折られるのは目に見えてる」
「おいリアルな想像やめろよ」
「僕はともかく」
唐突に古泉も顔を寄せてくる。なんかの談合かよ。
「この光景を涼宮さんに見つかると、あまりよろしくないかもしれません」
「げっ、涼宮に目つけられるのはごめんだぜ」
古泉の一言で、谷口は大袈裟に俺から距離をとった。嫉妬ムーブに見せかけて、いざハルヒと登校時間が被った場合の対策も立てる。優秀な団員である。
まあ、そのうちお前もサブの団員として目をつけられるんだが。精々今のうちにバイトと合コンを謳歌しておくといい。俺は谷口に手を合わせた。
「因みに芦川はどの女子が一番イケてると思う?」
「ハルヒ一択。長門も朝比奈さんも好きだけど、一番はハルヒだな」
「キョン、お前の言った意味がわかるぜ」
「だろ」
俺たちは駄弁りながら校門をくぐる。男子五人、上履きに履き替えて廊下をぞろぞろ歩いて、教室の前。俺は爽やかに手を挙げて去ろうとする古泉を呼び止めた。
「おい、弁当」
「本当に作ってくださったんですか」
「ハルヒが作れって言ったら諦めて作った方が早い。抵抗するだけ無駄だ」
「おかげで僕はあなたの手作りをいただけて幸せです」
「安い幸せだな。どうせ一緒に食えって言うだろうし、後で連絡する」
「おや、では楽しみにお待ちしています」
古泉と俺のやり取りを、溜息を吐いてキョンは鑑賞し終わる。
「お前は涼宮がやれって言ったらなんでもするのか? あの素っ頓狂にいつまでも付き合うことはないぞ。なんなら今からやめたっていい」
「俺が団にいると嫌? 場合によっては役に立つよ、俺」
もしかするとキョンくんとしては美女軍団から男子の数を減らしたいのだろうか? だとすると、期待には沿えない。
「そうは言ってないだろ。お前は涼宮に甘すぎる。意味わからんだろ、急にくっつけなんて言われてもよ」
「古泉とのあれは、まあ新感覚漫才と思ってるから。キョンくんが嫌じゃなきゃ、団は抜けないつもり」
「そうかい。お前も……」
「んー?」
「……なんでもない」
お前も長門みたいなトンチキな理由があるのか? と聞こうとしたのかな。順番的に、俺がその話をするのはきっともっと後だ。それとも、お前も涼宮が好きなのか? かな。そっちなら、答えはイエスだけど。
俺は何を言っているのかわからないフリをして、教室の扉を開く。
ハルヒはまだ登校していないようだ。朝倉が俺の姿を認めて、ぱっと花が咲くように笑う。ああ、きた。先制攻撃でさっさと終わらせよう。
「おはよう朝倉。これ」
「おはよう。ええと……なあに?」
朝倉は俺の渡した紙袋をのぞき込む。わくわくしたような表情も、弾んだ声も、いかにも人気者の女の子だ。怯みそうになる。
「俺が居眠りしたの、先生に頼んで見逃してくれたんだろ。昨日の礼。こういうのでいいのかわからんけど」
「わあ、かわいいマスコット。お花を持ってるのね」
「うん。一輪、造花がついてる。あと、飴が何個かのボックス。好きじゃない?」
「ううん、嬉しい。なんか悪いな。こんなにしてもらっちゃって。鞄につけてもいい?」
「好きにしたらいいんじゃないか」
「お花はクラスに飾らせてもらうわね。本当にありがとう」
「こちらこそ」
「そういえば涼宮さんのクラブに入ったのね」
「ああ。気づいたらそうなってた。クラスのやつらともそれなりに打ち解けたし、色々世話かけたな」
「委員長だもの。当然よ。それに、芦川くんとは気が合いそうだから、わたしがおしゃべりしてみたかっただけ」
「どうかな」
谷口が脇腹に軽いパンチを入れてくる。やめろ。違うって。
朝倉には悪いが俺とお前は気が合わない。なにせ俺はハルヒの狂信者みたいなもんだからな。そのまま谷口に面倒な事情聴取を受けそうだったので、俺は近くの席の女子に声をかける。
「おはよう。毎日三つ編みしてるの? 大変じゃない?」
「あー、芦川くん、おはよう。これ簡単なんだよ。教えてあげようか」
「教えてもらっちゃおうかな」
女子たちの輪に入って髪の毛をいじってもらう間、俺は美容室の客みたいに目を閉じて成すがままになる。好きなんだよなあ、ヘッドスパとか。男子の視線が痛いけど、俺だってたまには女子の輪に交じってもいいだろう。女子だし。
サイドに一本三つ編みを作ってもらって一緒に写メを撮っていたら、ちょうどハルヒが登校してくる。
「あんた……髪の長さあたしと同じくらいなのね」
「おはよーハルヒ」
「そんなことはどうでもいいのよ。髪型変えるならあたしに一言言いなさい。キャラのポジションってのがあるんだから。どうせやるならうなじを出しなさいよ。セクシー路線を目指すとか、あるでしょ? 自覚を持ちなさい自覚を!」
躾けのできた犬のようにハルヒの席に寄っていくと、ハルヒは鼻を鳴らして着席した。髪の長さがハルヒと同じなのは、ずっとこの髪型だからだ。ハルヒのことを初めて見て、大好きだと思ってから真似してる。そんなこと恥ずかしくて言えないけど。
「じゃあやって」
「甘えてんじゃないわよ。ったく、しょうがないわねえ」
ハルヒは鞄からリボンを取り出す。その手つきは意外にも優しくて、なんだか姉妹でお洒落を楽しんでいるような、不思議な感覚だった。しずかな教室に涼しい風が吹き込んでくる。
「どういうのがいいの?」
「うなじが出る方がいいんだろ」
「ふうん。じゃあポニーテールね。ああもう、長さが微妙に足りないじゃない」
ハルヒは俺の髪を纏めて小さなポニーテールにすると、細いリボンでくるっと結ぶ。
「ほら、この方がさっぱりしていいじゃない」
「おー。普段あんまり上で結ばないからいいかも」
ポニーテールか。キョンくんが好きな髪型だよな。
つい気になってキョンを見ると、眉を寄せて難しい顔をしていた。すまんな、萌えヘアーをしたのが俺でさ。ハルヒや朝比奈さんの方が良かったろうに。
今日一日このまま過ごすように言いつけるハルヒは満足げで、俺も幸せな気分になる。古泉に言っておいてなんだが、俺も安い幸せだ。
授業が始まる。隣の席を見れば、キョンくんはそっぽを向いていた。シャーペンをくるくる回して、失敗。かたん、と机に落とす時に小さく「うお」と呻く。
俺はそれを眺めている。意図せず笑みが零れる音を聞いて、キョンくんがこちらを向く。見られていたことに気づいて小さく舌打ち。照れくさそうに、腕で顔を隠す。
五月の日に照らされるキョンくんの手の甲が眩しい。握ると意外と大きいんだよな。男の人の手なんだ。さわさわと短い髪が風に揺れている。耳が赤い。かっこいいなあ、と思う。
前から配られたプリントを、ハルヒに渡す時、少し腰を浮かして取りやすいようにしているところなんて、すごくやさしい。
隠れて欠伸をしたら、それがハルヒと同じタイミングで眉を顰めるのがかわいい。
シャーペンの芯を出し過ぎて机に散らかしたり。あ、襟足の長さがばらばらだ。隣の席だと、キョンくんを見ているだけで時間が過ぎていく。見ていないフリをしながら、時々盗み見てしまう。だから古典の授業はぜんぜん頭に入ってこない。
このまま、また好きになってしまったら困るなあ。ハルヒだって嫌だろう。キョンくんにはいい迷惑だ。俺は男なわけだし。
いや、でも男で良かったのかもしれない。キョンくんは女子には甘いから、俺にも優しくしてくれたことだろう。そうしたら、ハルヒはきっと怒る。
うん、やっぱり、このままでいいや。俺は机にうつぶせた。見るからいけないんだよな。
体育の着替えは女子が奇数クラス、男子が偶数クラスに移動する。俺はハルヒに捕まって出遅れてしまった。さすがに女子と一緒に着替えるわけにはいかないというのに、ハルヒは「あんたはいいでしょ」と訳の分からない理論を展開。困惑する俺を見て、何人かの女子は「別にここで着替えてもいいよ」などと言っていたが、まったくマジで俺が男だったらどうする気なのだ。
で、這う這うの体で偶数クラスの扉を開けると、ちょうどキョンくんがネクタイを解くところだった。
「これ以上いけない」
「は?」
キョン君は不審な顔をしていたが、俺はそのままカーテンにまっすぐ歩いて行ってくるまることにした。そこで隠れてごそごそと着替える。出て来た俺を見て、谷口が肩を叩く。
「あるある。パンツがダサい日だろ」
アームロックをキメた。
女子は体育館でバスケらしい。その間、男子はなぜか意味もなく何度も校内マラソンを走らされる。俺はいかにも二本走りましたという顔で周回遅れを誤魔化し、体育館裏で座り込んでいた。
しくじった。明らかに変に思われたよな。いずれは着替えに慣れないといけない。いや、でも、キョンくんの肌とか見ていいのか? 犯罪じゃないか?
「よう、芦川。お前も女子を見に来たのか」
美しい流線形を描いて、ハルヒの放ったボールがリングに吸い込まれていく。スリーポイントが入ってしまうなんて、さすがは涼宮ハルヒだ。
「まあ、団員としてはハルヒの活躍を見ないとな」
「サボりの言い訳だよね」
国木田も合流。汗を拭いながら、階段の段差に座る。俺と谷口も横に座った。
「いやー、朝倉にあんだけ言い寄られて涼宮ってのが、お前がおかしな団に入ってる理由って感じだぜ。マジで」
「言い寄られてねえって。興味ないし」
「じゃあ古泉なのか? 古泉だっていうのか? 顔が良けりゃ何でもいいのかお前と言うやつは」
「揺さぶるなっつーの」
「いやあ、違うでしょ」
「だよなあ」
谷口にヘッドロックを掛けられながら、俺は含みのある言い方に二人を見上げる。
「どっちかっつーとキョンだろ」
「そうそう」
「は? はあ!? 違いますけど!? はあ!? 何!?」
「おい暴れんなよ。誤魔化すの下手くそすぎねえか」
「安心していいよ。多分、みんな気づいてないからさ。特にキョンはそういうの鈍いし」
「ちが、ちがうし! 別にそういうんじゃないし!」
「わかったわかった」
谷口はよちよち、と言いながら俺の頭を撫でた。こいついつ殺そう。
身体中の血液が顔に集まるように熱い。
俺がキョンのことを好きなわけがない。二次元のキャラなんていつまでも好きでいるわけにはいかないんだ。俺は立派な大人で、あんなのはただの初恋なんだ。
──本当に? 今は隣にいるのに? 話しかければ、答えが返ってくるのに?
でも。だって、ダメだから。キョンは、ダメなんだよ。俺は、二人の邪魔をするためにこの世界に呼ばれたわけじゃないんだから。
鼻を啜る。なあハルヒ。なんで、隣の席にしたんだ。なんでだよ。あんなに近くで見てたら、誰だってキョンが本当は優しいやつだって気づいちゃうじゃないか。
やれやれ、って言いながら付き合いがいいことも。気持ち悪いなんて言いながらも、気に掛けてくれることにも、気づいちゃうじゃないか。
「お、おい泣くなよ芦川。俺らが悪いみたいだろ」
「……言ったら許さない」
「大丈夫だよ。言わないからさ」
「絶対、絶対に、キョンくんに言わないで」
「言わねえって。男と男の約束だ。しかしキョンになあ、惜しいな。お前顔だけはAランクにいいのに」
「じゃあ俺が傷心したら谷口はもらってくれんの」
「一生女装するなら……あるいは……?」
俺は谷口にチョークスリーパーをかけた。
「まあまあ芦川。そこはほら、古泉くんがいるじゃない」
「あれが本気に見えるのか」
「見えないけどさ」
俺はまだ谷口にチョークスリーパーをかけている。ハルヒと目が合った。授業中だというのにハルヒはこちらに歩いてくる。まあ、その辺は俺たちも人のことは言えないが。
「あんた、なんで谷口とは絡めて古泉くんとは絡めないのよ。なんのためのBL要員なわけ? 谷口なんかじゃ不思議なことが寄って来るわけないでしょ、この馬鹿! 団員にしなさい、せめて!」
ハルヒは俺のほっぺを両手で勢いよく挟んだ。解放された谷口が肩で息をしている。なにそれは。お前のいう不思議って腐女子のことを言うわけ?
そのままハルヒの顔が近づいてきて俺が驚いた顔をしていると、なんてことはない。彼女は俺の頭蓋骨をかち割らんばかりに盛大に頭突きをかまして、バスケコートに戻って行った。キスされちゃうのかなってちょっと思った。悔しい。
「ひでー。聞いたかよ今の。はん、古泉なんかのどこがいいんだっつの。なあ、芦川」
「…………顔かな」
「てめーはどっちの味方だよ!?」
「あはは。っまあ、芦川は涼宮さんの味方だもんね」
「決めた。俺は芦川の味方だぜ。涼宮のあの言い草、腹立つしな。キョンとうまくやれよ」
「マジで余計なことしたら、一生彼女できないように呪うから」
「こえーよ?!」
騒ぎに気付かれ、俺たちは三人揃って体育館裏を逃げ出す。団員にしなさいって。まさか、マスコット同士でイチャイチャしろということだろうか。それ、朝比奈さん、困って泣いちゃいそうだな。もしくは変に張り切りすぎて、空回る未来が見える。ありありと見える。あの人ドジっ子属性だからなあ。
昇降口まで走ってくると、キョンくんは水飲み場の影に座っていた。考えることは皆同じだ。
「お、キョンじゃねえか。なんだ、お前はここでサボってたか」
「お前らもか。まあ、岡部はうちのクラスだけ張り切りやがるからな」
「逆に贔屓だよねえ」
そう、一年五組の担任である岡部教諭の担当教科は体育である。なぜだか、自分のクラスの男子には厳しいそうだ。熱血らしい教育理念があるのだろう。
俺は手で顔を仰ぐ。五月でこんなになってたら、夏の体育はさぞかし地獄だろう。汗でべたべただ。
なあ、ていうか、おい。谷口の方が絶対顔に出てると思うんだけど。お前、マジで何も余計なことすんなよ?
「なあ、芦川」
「んー?」
俺はキョンくんを視界に入れないように、空を見上げてシャツをはためかせて空気を送り込む。視界の端で彼がこちらを見ていることに気づいて、今度は冷や汗が出てくる。
いや、まさか。マジで気づかれてたら終わるんだが。俺がというより世界が終わるんだが?
「いや、なんでもない。行儀悪いぞ」
キョンくんは立ち上がると、俺の頭をぽんと叩いて先に走り出した。
ああもう、そんなの狡い。なんでそんなことするんだよ、馬鹿。
好きになるなって言う方が、無理じゃないか。