あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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「古泉!」
俺はまたもや自分を裏切って、神人と相対するように屋上を駆け出した。柵に縋りついて身を乗り出す。
もしかして声が届いたのだろうか。古泉はすんでのところで巨人の振り下ろした腕から逃れたらしい。ほっと胸を撫でおろし、はたと気づく。
──神人の巨躯は、腕を伸ばせばこの棟に届くであろう距離まで近づいていた。
ここで蘊蓄だ。古来より「神人」とは神職者や神社に隷属した職種に就くものを言う。祭事の警備においては武器を携帯し、特権を利用し狼藉を働く者たちも多く存在した。
機関がどうしてこの怪物を神人と名付けたのかは知らないが、案外皮肉なのかもしれない。縁日の雪洞のような構成員たちは、ふわふわと戸惑う様に漂っていた。
なんだか、こうして半透明で向こう側が透けていると、神人がクリオネかなにかの海中生物に見えてくる。そいつは、あらゆる星座を内包したような美しい身体を持っていたからだ。
点が三つあれば顔に見えることをシミュラクラ現象というらしいが、今それはいい。ハルヒがこの光る巨人にその理論を当て嵌めたことに、俺としては思うところがあった。
もしかすると、こいつの敵意を判断したり、コミュニケーションを取ることが可能なのではないか──と。
涼宮ハルヒという少女に関してはいくら自分勝手でも可愛ければいいと言ったが、同じく人の形をしてそのハルヒから生み出されていても、こいつに対しては恐怖心が生まれる。俺は不思議だったのだ。絶え間なく脈動する光の巨人が、怪獣の形を取っていないことが。
もし、神人が本来の意味での「神の使い」であれば、なにか言伝があるのではないか。和解できれば、古泉はぐっすり夜を眠れる日もあるかもしれない。
だから、もう少し近寄ってみても、いいんじゃないか。
いやいや、もちろん詭弁だ。俺は逃げようとした。「元の居場所からも逃げてここにいる」癖に。でもここでも俺は迷惑をかけるらしいじゃないか。ならば。俺がここにいることで困る人間がいるなら、いっそ。
俺は神人に手を伸ばす。相手も、呼応するように手を伸ばす。手とは逆に、足は一歩下がろうとしている。人間って、こんな時でも助かるために勝手に動くから参ったもんだよ。
握りつぶされた俺が地面に叩きつけられる静止画が、脳に延々と映写されている。頭と体がちぐはぐだ。もう、脳からの指令は楽になりたがっている筈なのに、身体が興奮していざという時に避けられるように筋肉に熱を送っている。
このままこいつの身体に取り込まれて、宇宙を漂うみたいに溶けてしまえたらどんなにいいだろう。そうしたら、みんなにとってもいいことなんじゃないか。
瞼を閉じた。美女も野獣もここにはいないが、俺たちが通じ合って生まれる結末だってあるんじゃないか。そういうプリンセスだって、あるかもしれない。抱きしめて、ダンスを踊れたりすることだって。
──ないだろ。
そいつは随分と自分に都合のいい妄想じゃないか。
誰にもいなくなれなんて言われていないだろ。
それどころか、望まれてここにいるんじゃないか。
ちゃんと考えろ。俺がいなくなった時、本当にそれだけで済むのか?
むしろ……俺に何かあったら「世界がヤバイ」ってやつなんじゃないのか。
この後のことを考えれば、連続でクラスメイトが失踪することをハルヒは不審がるに違いない。第一、人を傷つけたくないからここには誰もいないんだ。わざわざそんなところを作って化身を暴れてさせているのに、死人なんか出た日にはストレス発散もクソもない。
長門は俺に期待していると言った。朝比奈さんはいないと困ると言った。古泉は戦友になれそうだと。キョンくんの隣の席は、空白で本当にいいのか。
「いいわけない」
俺は、キョンくんに一瞬でも曇ってほしくない。
済まないが、お前の初めての殺人事件に付き合ってやることはできない。それはいずれどこかの島でやるから、もう少しだけ待っているといい。
止まってくれ。脳が軋む。
止まってくれ。暴れた後はすっきりするけど、虚しさも残ったりするじゃないか。だから、あんまり疲れないように、この辺で止まってくれ。
明日も明後日も、俺に面白い世界を見せてくれるんだろ。お前の目が爛々と輝いてないと、俺は嫌だよ。もしも弱音を吐くなら、二人っきりの時にしてくれ。
視界が、ちかちかと瞬いた。神人の腕が重力に逆らうように、空中で停止する。
気づけば、赤い球の軌跡が青光りする巨人の腕を一周していた。ちょうど粘土を糸で巻き切るように、ず、と長い腕が斜めに崩れ落ちる。それを皮切りに、次々と機関の戦闘員たちが神人を解体していく。
まるで変身バンクを待ってくれる悪役のように動かないでいた構成員たちに、俺はふと違和感を覚えた。よく覚えるな違和感とかいうやつ。テストに出たらいい点取れそうなのに。
浮力を纏った古泉が、物理法則を完全に無視した移動で軽快に屋上に着地して見せる。理数特進クラスのやることじゃない。教師が泣くぞ。
「ただいま戻りました」
「おかえり。随分遅かったな。どこをほっつき歩いていたか知らんが、帰りが遅い男は減点だ」
「すみません。ちょっとした混乱がありまして。お怪我はありませんか?」
なんでここで髪をかき上げるんだろうか。仕草の一つ一つで矢鱈に格好つけやがって。俺はそんなことでときめいたりなんかしないんだからね!
「俺は平気。お前こそ手こずったな」
「ええ、いつもとは勝手が違いまして。そんなこともご存じなんですね」
古泉は手を差し出す。
「帰る時は手を繋ぐ必要はないだろ?」
「おや、今度はうまくいきませんでしたか。いいムードかと思いましたが」
「ぬかせ」
「いいものが見られますよ。これも知ってるかな。それでは頭上をご覧ください。神人の消滅に伴い、この空間も元通りになります。ちょっとしたスペクタクルですよ」
バスガイドのように古泉が頭上を指し示す。それに合わせて、卵の殻を割るような、小さなヒビが空のど真ん中に入った。
福音のように夕陽の光が差し込み、灰色の世界に陰影を作っていく。ヒビはどこまでも広がっていき、視界に映る限りの全ての空が網目のようなものに覆われた。それは赦しみたいで、生誕祝いみたいで、俺は知らずに涙を流した。
そうして、一瞬。
夜の帳が開くように、神様がペンキを零したように世界が色づいていく。沈みかけた橙色が、地上を行き交う親子の頬を染めた。
無音の場所から突然賑やかな日常に放り込まれて、俺は慌てて耳を塞ぐ。三半規管が狂いそうだ。心臓がとくとくと脈打ってる。
ああ、俺はきっと、この不思議な夜明けを忘れることはできないだろう。
俺たちは非常階段を降り、人々の生活区域を通り抜けて車が横づけできる通りを目指す。行き交う人々は減り、工場地帯へ向かう細い路地を抜けているようだ。
「協力者が、あなたを引き入れるようにと助言した意味が分かりましたね」
わからん。
「お気づきかと思いましたが。あなたは閉鎖空間への侵入と同時に、見事にその拡大を遅らせて見せました。最終的には完全に固定し、凍結させるとは……驚きましたよ。神人の注意を誘導し、活動停止状態を維持するなんて、そんなのアリですか?」
聞き覚えのある単語だ。
凍結、誘導──確か、長門が俺に存在すると言っていた能力だったか。ていうかそれ、オートで発動するのかよ。なんか実感ないな。知らない間にMPが枯れてるなんてのはなしだぞ。
多分、今の俺の表情の動きなんかで、古泉にはいくつかの思案を悟られているのだろう。にこ、と意味深な笑顔を向けられる。
こいつと頭脳戦を繰り広げるのは俺には無理そうだ。胸襟を開くまではいかないが、第一ボタンくらいは外して話した方が楽そうだな。
「さてね。俺にそんなことができるとは思えないが、まあ、お役に立ててなによりだ」
「あなただからできるのではありませんか? 僕はそう思っています。運命という言葉は軽く聞こえますが、それに限りなく近しい導きで僕らは出会ったのだと思いますよ」
お前さっき散々俺のこと運命だなんだと言っていた気がするが、とはツッコまないでおいてやろう。労働の対価だ。
「なぜそう思う?」
「異世界人なのでしょう? 閉鎖空間も言ってしまえばまあ、異世界とも言えます。それを制御するのですから、いっそ僕たちよりもプロフェッショナルな仕事ができるのも当然です」
俺は首を傾げた。
異世界人。異世界召喚。
確かに言ってしまえばそうだ。昨今あまりにもそういうジャンルが溢れていてすっかり理解が及んでいなかった。
なんだ。俺はハルヒにとって、きとんと役割を与えられてここにいるのか。なぜだか気に入られているのではない。異世界人だから、SOS団などという珍妙集団に取り込まれた。
涼宮ハルヒが願った、会いたくてたまらなかった存在。その中に、俺もちゃんとカウントされていたんだ。
きゅう、と胸が締め付けられる。多分、人生で一番テンションがあがった顔をしている自覚がある。
そうか。俺は、SOS団の団員なのだ。決して、よそ者なんかではない。
「ほんとだ! 異世界人だ俺!」
「本当にお気づきでなかったのですね。まあ、自分のことというのは自分では気づけないものです」
きらきらと世界が美しく見える。実感が湧いてくる。
俺の願いはハルヒに届いていた。何年もかかったが、それでも七夕よりもずっとずっと簡単に。光速も時空も超えて、届いた。
「例に漏れず、僕にもあるのでしょうね」
「じゃあ、その時は俺が教えるよ。俺が気づいたら、古泉に教える」
「……では、頼りにしています」
タクシーはコンビニの駐車場に停車していた。駆け寄ろうとする俺に、古泉が待ったをかける。スマホが鳴っていた。
おいおい、嘘だろ。また閉鎖空間か? 今さっき沈めたばかりじゃないか。首も痛くなってない。古泉は頷きながら誰かと会話しているらしい。そして、そのスマホを俺に手渡してきた。
まさか、協力者というやつか? こんなに早く接触できるとは。俺は一言一句聞き漏らすまいと、慎重にスマホを耳に当てた。うわ古泉が持ってたから微妙に温い。
「あ、ヒカリ?! あんたちゃんとおすそわけとか考えてる?!」
耳から離した。機嫌のよさを天元突破したハルヒが、爆音で捲し立てている。
「聞いてんの? おすそわけよ。家事得意なんでしょ? 作りすぎちゃって、とかいって古泉くんに持っていきなさい! あ、手作り弁当もいいわね。明日から作ってくること!」
「それじゃ俺が片思いしてる側みたいじゃないか」
「わかってないわねえ。いい? あんたはこれからうちの団で活躍してもらう不思議寄せパンダなの。もう、人間とか宇宙人とか問わず篭絡してもらわなきゃ困るのよ! それに、古泉くんが携帯の契約付き合ってくれるんでしょ? だったらそれくらいのご褒美あげなきゃ可哀相じゃない」
やれやれ。契約するのは古泉じゃなくて機関なんだがな。とは思いつつも、俺はにやにやと笑いが止まらない。
うちの団で活躍してもらうという部分に気分を良くしたのだ。元気に爆走するハルヒが、俺はやっぱり好きだ。
「わかったよ。やりゃいいんだろ」
「なによ、いやに素直ね。気持ち悪い」
「どっちなんだよ!」
「まあいいわ。あたしの目に狂いはなかったってことよね」
そうだな。狂ってるのは頭だもんな。
「連絡取れないと困るんだから、ちゃっちゃとしなさい。あ、お弁当の卵焼きはしょっぱいのね。あたし甘いのって好きじゃないのよ。それじゃ」
ぶつ、と終話する。なんで古泉につくってやる弁当のおかずをお前の好みで決めるんだよ、というツッコミは行く当てもなく空中を彷徨った。仕方なく、俺は新川さんにスーパーマーケットに寄ってもらうようお願いする。
俺たちは談笑基、年頃の男女のやり取りのようなものをしながらタクシーに乗り込む。古泉は意外にも「失礼」と言って、同じドアから後部座席へ乗り込んだ。
「なんです? その顔」
「別に。お前って打ち解けると早いんだな」
「おや、こういう男性があなたの好みですか」
「相手の好みに合わせようとすると後悔するぞ」
「ヒカリくんはそういうタイプに見えますが。尽くすタイプに」
「喧嘩売ってんのか?」
新川さんが微笑ましい顔でこちらを見ていることに気づき、俺は押し黙る。古泉は人差し指を立てると、ずい、と距離を詰めて来た。
「そういえば」
「近いんだよいちいち。会話の公共性を考えるなら、両手を広げて詩人のように話せ。しかし自主性も捨てずに好きに行動することも時には必要だ」
「どっちなんですか」
古泉は、結果的にそのままの距離で話し始めた。そっち選ぶんかい。
「次元断層の隙間を感知した際には、体調に異変が出ていましたね。今は大丈夫ですか?」
「特になにもない……いや」
改めて言われてみると、具合が悪い気がするのが人間というものである。
「昨日からこっち、時々頭が痛くてな。それから……いつもより眠くなる。報告はしておこう」
「あまり無理はさせられませんね。なにせ世界を移動してきているのです。負荷があるのも当然でしょう。馴染むまでは」
「馴染むと言えば、なんか閉鎖空間の中がしっくりくる瞬間があったな。それも、異世界だからなのかも」
「本当に順応性が高い方ですね。機関の構成員以外で、閉鎖空間へアクセスできる人間が存在するとは……それも、侵入前から視認して」
俺は古泉のどんどん近づいてくる顔にストップをかけた。手のひらに、古泉の顔がぶつかりそうになる。
「閉鎖空間にアクセスできるって、じゃあなんで手を繋いだんだよ」
「恋人同士が手を繋ぐことに理由が必要ですか?」
「恋人じゃないしはぐらかすな」
古泉は咳払いをして、少し不器用に眉を下げた。
「あなたが震えていらっしゃったものですから。それから……これは、秘密にしてほしいのですが。僕も初めての閉鎖空間は、入ることを躊躇ったものです。怖くて、手を繋いでもらいました」
移り変わる窓の外の景色を、遠くを見るように古泉は眺めた。細められた目はいつかの温かい思い出に対してだろう、随分と優しい瞳の色をする。
そんな大人がいるなら、機関ってのも悪くないところなんだろう、と俺は思う。
「そうか。それは、ありがとう」
「いえ、僕がそうしたかったんです。同じことを」
そうやって男の子ってものは成長していくんだろう。少しだけ、そのきっかけを与えた存在に嫉妬しないでもない。こんなことを考えていたらまた調子に乗らせそうだ。俺は新川さんにお礼を言って、ご当地スーパーの前で先にタクシーを降りた。
お菓子を買いたい子供のようにのぞき込む古泉を振り払いながら、俺は籠に食品を放り込んでいく。
卵、ちりめんじゃこ、ゴボウ。パスタにツナ、エビに、味噌汁くらいは出来合いでいいだろう。
ピーマン、ひき肉、ほうれん草。大根、にんじん、キャベツ、ちくわ。
しそ、こんにゃく、レンコン、玉ねぎ、じゃがいも。鮭と豚肉と。まあ、こんなもんでいいだろう。
「米ってある?」
「あるにはありますよ」
自炊しない人間の発言だな。スマートに会計を済ませた古泉に荷物まで奪われ、俺たちは暗くなってきた夜の道を歩く。今頃長門はキョンと話しているだろうな。無限茶を食らうキョンくんを思うと、微笑ましい気分になる。
その長門のマンション同様、妙にセキュリティの厳重なマンションに辿り着く。新築ってわけじゃないだろうが、綺麗な住処だ。
恐らく、他にも一人くらいは機関の人間がここに住んでいるのだろう。想像していた通りのマンションに住んでいるのがいかにも古泉らしい。エレベーターは4階を表示している。
「四階なのか」
「ええ、本当は二階が良かったのですが」
「階数が低い方がいいのか?」
「いえ、ここって三階まではアルファベット表示されているんですよ。同じ号室のA-Bというように割り振られて、ご両親と二世帯で別々に暮らしている方が入居されているそうです」
「お前、まさか221Bを狙っていたのか」
「ご明察です」
ミステリオタクめ。
辿り着いた部屋は404号室。ノットファウンドってか? なんとも挑戦的な部屋番号である。まあ、いいさ。俺は今のところ自尊心の塊だからな。
古泉は鍵を開き、スイッチを点けて照明を起動させると俺を招いた。多分俺の家なのに、堂々と入っていくものだ。
「おお、かわいらしい部屋だな」
「好みの内装であれば森さんが喜びますよ。相当急いでくれたそうですから」
「会ったら礼を言わんとな」
内装は白を中心としたシンプルなものだ。家具の一つ一つにセンスを感じる。やわらかな樹の材質を感じるテーブル、藍色のソファ。吊り下がったライトから淡い光が溢れている。北欧風っていうのかな、こういうの。かなりお洒落に作ってもらったもんだ。
古泉は懐からおもむろに通帳を出して、テーブルの上に置いた。俺の名前が書かれているから、俺のなんだろう。開いて、二度見した。普通に暮らしたらめちゃくちゃ余りそうな金額が振り込まれている。
そういや、前にネットで検索したら古泉のやつがしている時計はバカ高いんだったな。とはいえ、前線で戦う古泉を思えば正当な報酬なのかもしれない。
置かれているスマホが古泉と色違いの銀色ってのは、なんでかね。開いて見れば、既にハルヒと古泉、新川さんの連絡先が入力されていた。
「ゲームがお好きなんですか?」
古泉が棚の上をしげしげと眺めている。DS-LiteにPSP2000とは随分と懐かしい。やはり見知ったゲームも存在しているんだな。ソフトもスパロボやら三國無双やら、ロックマンDASH……おいおいモンハンが初期じゃねーか。兄貴の棚をそのまま持ってきたみたいになってるな。
さすがに見たことのないシリーズもあるみたいだが、それはそれで楽しめそうだ。お、アニメのDVDBOXも色々ある。新作はレンタルで借りててくれてるみたいだし、これから攻めていくかな。
「んー。オタクカルチャア全般ね。今から履修して行かないと」
「なるほど、こちらで暮らしている人間であれば当然持ち合わせているであろう知識を習得しなければならないわけですね。ボードゲームでしたらご教授できるのですが」
「でもお前弱いだろ」
肩を竦める古泉はスルー。俺は美少女アニメをDVDデッキにセットして、再生しながら食事の支度を始める。DVDデッキて。
アニメの方は興味ないのか、古泉は料理しているところを横から覗き込んでくる。うざい。
いくつか副菜を作り置きして、明日の弁当の準備を整える。パスタを茹で始めると漸く古泉は背を向けた。お前がパスタにしろっつったんじゃねーか、喜べそこは。
ツナ缶を開き、オイルごと投入。調味料は一通り揃っていたので、醤油少々と黒コショウ。しそは手で千切って入れると、まな板も包丁もいらないぞ。そんなこんなで、出来上がり。
「和風パスタですか」
「ミートソースとかの方が良かったか? これは俺が初めて料理した時に作った超簡単レシピだ。父考案。母の日だったかな」
兄貴と一緒になって作ったのだ。きっと、あの人の方がここに来たかっただろうに。そしてもっとうまくやっただろうに、とも思う。
なにせ俺の数倍上を行くハルヒオタクだ。
「ご家庭の味を知ることができるのは役得ですね」
「はいはい。ほれ、座れ。いただきます」
「いただきます」
テレビでは自分の使命を全うしようと頑張る女の子が、恋との間で迷っている描写が詳細に描かれている。俺はそれを視界に収めつつ、パスタをフォークでくるくると巻いた。うん、うまい。
「おいしいですね」
「そりゃよかった」
「あなたに作っていただいたからでしょうか」
「ツナ缶の会社が頑張ってるからだろ」
よく考えたら、俺、はじめて男子を家にあげているんじゃないか。手料理を食べさせたのも初めてだ。や、まあ、こいつは男子っていうより弟って思った方がしっくりくる年なんだが。
弟か。そう思うと、可愛く見えないこともない。
「つれないな。もう少し距離を詰めてはいけませんか?」
「あのさあ。お前、好きなタイプの子とかクラスにいないの? なにも俺と四六時中一緒にいること無いと思うぞ」
古泉は優雅に食事していた手を止める。
「そういうわけにはいきません」
「いくだろ。別に、バレないように上手くやればいいじゃないか。別の学校でもいいよ。ハルヒがいない時まで気を張るなよ」
「ですが、これは涼宮さんが望んだことです」
「どうしてそう頑なになる。フォローくらいするぞ」
「閉鎖空間の仕事もありますし、やはり一緒にいるほうが効率も良いかと」
「閉鎖空間は俺一人でも入れるんだろ? どうせお前以外にも俺のこと監視してる機関の人間もいるんだろうし」
古泉は目を逸らした。今日一日で、初めてそんな古泉を見た。
「……ご迷惑でしたか?」
「そうは言ってない。別に好きなやつがいないならそれでもいい。単に、無理するなって言ってるんだ。心配してるんだよ。今日、お前……神人との闘いでもちょっとぼーっとしてたろ。疲れてんじゃないか?」
「……わかりました」
古泉はさっさとパスタを平らげると、流しに皿をおき、そのまま俺を一瞥もせず帰っていく。無機質な扉の音が、どこか寂しい。
怒らせたのだろうか。それとも、了承した結果だったのだろうか。俺にはわからない。ただ、これで良かったのだと思うことしかできない。
いや、でもずけずけ言い過ぎたかもしれない。
俺は、あいつの三年間を知らない。今日、エスコートしてくれた閉鎖空間に入るのが怖かった時期なんて、知らない。中学生の古泉を救った人を知らない。あいつの好きな食べ物も知らない。
そりゃ、考えて見れば一番の被害者はあいつだよ。いきなり男とカップルにされて、隣に住むことになって、嫌だったはずだ。初めて会ったやつに説教されて。機関とハルヒの言いなりになって。
なんで、俺がそれを解消できるなんて思いあがったんだろうか。
『勝手なこと言って悪かった。許してもらおうとは思わないが、謝らせてほしい』
メール画面に打ち込む。SNSよりもメールの方が送るのに緊張するのはなんでだろう。結局俺は送信できないまま、テレビに映る少女が健気に頑張る姿を眺めていた。
案外、古泉とのふざけた男子学生みたいなやり取りと楽しんでいたのは、俺の方だったのかもしれない。
アニメを流したまま、布団を被る。
「おやすみ」
昨日は返ってきた挨拶が、今日は部屋を漂って、誰にも届かない。