大学三年生
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汗で貼りつくシャツに煩わしさを感じる午後、私はバイト先の古書店で本の入れ替えに勤しんでいた。元々置いてあったものを棚から取り出し、新しく入荷した古本を空いた場所へと埋めていく。そうしてパズルのように全ての本があるべきところに収まった頃、ふらりと入り口を潜る人影が見えた。
「……宗像くん?」
「みょうじさん、バイト先ってここだったのか。」
休憩用の麦茶を飲み干し、タオルで首筋を拭いて宗像くんに駆け寄る。芹澤くんに紹介されてから度々言葉を交わすようになった彼は、照りつける太陽に晒されたあとでも涼しげだった。
「うん、父の知り合いのお店なの。宗像くんは買い物?」
「ああ。少し遠出する予定があるからその前にいくつか見繕っておこうと思って。」
「移動の時読むものないと困るもんね。」
「そうなんだ。それに気になる史料もあってね。」
同じ本好き同士読書談議に花を咲かせていると宗像くんは不意にある棚に手を伸ばした。まるで初めからそこに飾られているのがわかっていたかのような迷いのない動作に、どうにも不思議な心持ちになる。
店の大時計は変わらず時を刻み続けているというのに外の景色が異様にゆっくりと流れていく。先程まで道路を埋め尽くしていた車も歩道を行き交っていた人々も。全てが彼の横顔に吞まれ静けさだけがその場に佇んでいた。
「……これだ。」
ぽつりと零れた彼の声と表紙を開く際の紙の擦れた音で雑踏が返ってきて私も現実へと引き戻される。白昼夢でも見ていたのだろうかと放心状態のまま額に滲む汗を拭えば、宗像くんは「大丈夫?」とこちらの体調を気遣ってくれた。
「う、うん平気。ちょっと暑くて。」
「水分を摂った方が良い。少し顔色が悪いように見える。」
「……ありがとう。」
微笑を浮かべて私を覗きこむ宗像くんからは一切真夏の暑さが感じられない。いつでも落ち着き払っているその目に捉えられる度、私は上手く呼吸ができず動けなくなってしまうのだった。
追加の麦茶を注ぎに行き再び喉を潤していると、ページを捲る彼の手が視界に入る。宗像くんが食い入るように読んでいるそれは何百年も前の古文書で、地方の天変地異とそこから生まれた伝説が事細かに記されたものだった。
どうして彼が自分事のように真剣な眼差しでその本を見つめているのか。私に尋ねる勇気はなく、閉ざされた胸の内を知る術もない。
「これ、頂くよ。」
「あ、ちょっと待ってね。今値段聞いてくるから。」
一通り彼が店を物色し終えたところで例の本を渡される。私はご主人を店の奥から引っ張り出し彼の元へと案内した。大人顔負けで店主と渡り合う宗像くんの姿は、やはり一介の大学生とは決定的に何かが違っている気がした。
「それじゃあまた学校で。」
「ああ……でもしばらく会えないかもしれない。」
会計を済ませた彼を店先まで送ると蒸し暑さがまた纏わりつく。私の別れの挨拶に目を伏せた宗像くんは、ふらりとそのままどこかへ消えてしまいそうだった。
「そんなに長く旅行行くの?」
「うん、そうだな。きっとまた長くなる。」
曖昧な言い方に不安が募るが私では彼を繋ぎ止められない。ここにいたのがもし芹澤くんだったら。起こり得る筈のないたらればを考えるも現実は変わらず、己の無力さを痛感する。
「みょうじさん。」
「……何?」
「今日のこと、芹澤には黙っててくれないか。」
一瞬だけ眉を下げた彼はいつも以上に一人に見えた。まるで自ら孤独になりたがっているような、大切なものを持ちたくないとでも言うような。わざと芹澤くんを遠ざけ、一定の線を彼が超えてしまうことのないよう細心の注意を払っている。きっと深く関わると芹澤くんを傷つけてしまうから。
「うん、わかった。」
どうしてそんな風に感じたのか、私自身にもわからない。しかし飄々とした表情の中に時折混ざる寂しげな色は私の勘違いなどではなく、宗像くんが何かに縛られているというのもまた事実だった。
「……雲を掴む、だなあ。」
家路を辿る大きな背中を見送りながら零した言葉は風と一緒に流れていった。蝉の声が妙に耳につきせっかく摂った水分もいつの間にか蒸発している。
宗像くんが何の躊躇もなく芹澤くんの手を取れると良いのに。釣り合っているようで歪な二人の関係にささやかな祈りを添える。街の雑踏にほんの少しの名残惜しさを覚えながら、私は店の中へと戻った。