大学四年生
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今日は金曜日。仕事を滞りなく終わらせ所属する博物館の閉館時間と共に職場を出る。居酒屋までの行き先をマップで確認しいつもとは反対側のホームに急いだ。
十五分ほど電車に揺られ指定された店の最寄り駅に着くと、空はすでに夕焼けが終わりかけている。最近暑くなってきたなとそよぐ風に初夏の匂いを感じていれば、手に持っていたスマホが震え「鈴芽ちゃんたちと合流」の文字が表示された。
私も急いで行かなくては。もう当分会っていない顔を思い浮かべると自然に足も速くなる。目印の赤提灯を見つけ暖簾をくぐると「いらっしゃいませ!」と明るい声に出迎えられ、予約を入れてくれた朋也の名前を店員さんに告げた。
「お待たせしてすみません。」
「なまえちゃん久しぶり。私らも今来たばっかりやかい気にせんで。」
「なまえさん職場スタイルも大人っぽくて綺麗……!」
「ふふ、ありがとう。」
半個室に通され中を覗くとすでに三人集まっていた。ジャケットをハンガーにかけ鞄を荷物かごに入れる。空いている朋也の隣に腰かければ「お疲れ」と頬杖を突いた彼がおしぼりを渡してくれ、お礼を返しながら大人しくそれを受け取った。
「朋也もお疲れ。よく定時で上がれたね。」
「そりゃもうこのために一週間死に物狂いで働きましたから。意地でも残業してやんにゃかった。」
「芹澤さんえらい!」
「ほんまにちゃんと教師やっちょるんやねぇ。」
「こう見えて社会人三年目なんで。」
鈴芽ちゃんたちに褒められ朋也がへへ、と上機嫌でお通しの枝豆をつまむ。学生時代にかけていた薄い色つきの眼鏡はコンタクトに変わり、目にかかっていた前髪も随分短くなった。おかげで素顔が見やすくなり、こちらの心臓に少し影響を及ぼしていることは本人には伝えていない。
「ま、草太は安定に五分遅れるらしいけど。」
「宗像くんも最近かなり忙しそうだもんね。」
「女子生徒にも保護者にも人気ありすぎて対応に追われてるんだと。」
「アイドルなの……?」
私と朋也のやり取りに若干表情を曇らせた鈴芽ちゃんが不安そうに膝の上で拳を握る。「大丈夫だよ」と声を掛けると彼女はぴょんと体を跳ねさせ、心を見透かされたのが恥ずかしいといった風に俯いた。
「悪い、遅くなった。」
タイミング良くがらがらと店の入り口が開き、息を切らした宗像くんが入ってきた。どうやら駅から走ってきたらしい彼は額に汗を滲ませている。煩わしそうにジャケットを脱ぎネクタイを外す姿をしみじみと眺め、彼も随分人間らしくなったなと勝手に感慨深くなった。
「お疲れ色男~。」
「色男って何だよ。やあ、鈴芽さん、環さん。お久し振りです。みょうじさんもお疲れ様。」
宗像くんが朋也のちょっかいを華麗に躱しながら軽く会釈してくれる。みんなでお互いを労い合い、宗像くんが鈴芽ちゃんの横に座ったところで漸くテーブルに置かれてあったメニューを開いた。
「草太も来たし飲み物頼もうぜ。枝豆は先に食ってっけど。鈴芽ちゃん何飲む?」
「あ、私まだあんまり強いお酒飲めなくて……。」
「んじゃこっから選びな。大人たちはビールで良いすか?」
「ビールが良いで~す。」
朋也の間延びした口調を真似すると宗像くんと環さんも問題ないと頷いてくれた。「すみませーん、生四つください」と通る声が店内に響き、その他の食べ物も朋也が手際よく注文してくれる。こういう世話焼きなところが教師たる所以なのだろうと何だか自然と目尻が下がった。結局鈴芽ちゃんは迷った末にレモンサワーを選び、数分もせぬうちに机の上に各々の飲み物がずらりと並ぶ。
「じゃ、全員揃ったということで。久々の再会と鈴芽ちゃんの成人を祝して!」
『乾杯!』
朋也に音頭を取ってもらい楽しい宴会が始まった。グラス同士がぶつかる音は実に景気が良く、数年前の疫病が嘘のようだ。ジョッキを傾け黄色い液体が喉の奥へと入っていくと全身にアルコールが沁み渡る。今日一日の疲れが一気に霧散しさらに気分が高揚した。
「草太くん仕事ん方はどんげ?」
「大分慣れました。一年目は戸惑うことばかりでしたが、今は何とかやってます。」
運ばれてきた水晶鶏を宗像くんがそれぞれのお皿に取り分けてくれる。ありがたくそれを頂戴していると、鈴芽ちゃんが言葉を詰まらせながら彼の様子を窺った。
「草太さんその……バレンタインとかはどうしてるの?お、お返しあげたり……する?」
先程の私たちの話がまだ引っかかっているのだろう。好意を寄せる相手が自分の知らない場所で大モテしているだなんて気が気じゃない。余計なことを言ってしまったと自責の念に駆られていれば、宗像くんはその質問の意図を知ってか知らずかさらりと不安要素を排除した。
「生徒から贈り物は貰わないことにしてるんだ。保護者から貰うとトラブルになりかねないし、極力そういうリスクは避けてる。」
「同僚からは貰うだろ。」
「朋也くんお口チャック。」
「す、すんません……。」
せっかく宗像くんのファインプレーのおかげで鈴芽ちゃんの表情が戻りかけていたというのに、朋也が新たな可能性を挙げてきたことによりまたしょんぼりと肩を落としてしまった。脇腹を小突きながら睨むと頬を引きつらせた彼が愛想笑いをし、それを見て宗像くんも小さく喉を鳴らした。
「いや、他の先生方にも特にそういうものを貰ったことはないな。」
「ほ、ほんと!?」
「意外やねえ。」
「あ、でも確かに。宗像くん大学の時も人気高かったけど告白されたりとかはなかったよね。」
「人気?俺が?」
「自覚なしかよ……。」
きょとんと首を傾げる宗像くんに朋也が呆れたように顔を顰める。反対に鈴芽ちゃんは大きな瞳を輝かせており、一先ず良かったと胸を撫で下ろした。
恐らく宗像くんがそういうイベントを回避できている理由は大学時代と同じ。高嶺の花すぎる孤高の存在に誰も近づけないのだろう。独り占めするなど畏れ多い。皆この整った造形を遠巻きに楽しむだけで充分満たされるのだ。本当に罪な人。
「そういや草太、今度釣り行くって話はどうなったんだよ。」
「ああ、悪いがしばらく予定が組めそうにない。二週間くらい待ってくれ。」
「まぁた家業かよ!ったく閉じ師ばっかで本業おろそかにすんなよな。」
「どっちも本業だ。」
「へぇへぇ、わかってますよ。」
厨房から出汁巻き卵が出てきたところで話題は彼らが新しく始めようとしている趣味の話に移った。二週間程前、宗像くんが我が家へと遊びに来た際二人が釣りの話をしていたのは私もよく覚えている。お酒を酌み交わしながら一緒に釣具屋へ行こうと盛り上がっていた筈なのだが、今も昔も変わらず宗像くんは忙しい。今回もまた些細な約束を反故にされそうで朋也は不満げに唇を尖らせた。
「つうかお前、いっつもふらふらしてて次いつ会えるかわかんねえからとりあえずこれ渡しとくわ。」
「あ、じゃあ環さんと鈴芽ちゃんにも。」
二杯目を半分ほど飲み段々と酔いの回ってきた朋也が鞄の中身をごそごそし始めたため私も一緒に封筒を取り出す。可愛く装飾されたそれを手渡すと彼女たちは期待の眼差しで中身を確認し、二人同時に顔を綻ばせた。
「わ、ありがとうございます!」
「ほんまに私らも参列して良いと?」
「是非、私たちも来ていただきたいので。」
二人の喜ぶ姿に少々照れ臭くなり誤魔化すようにビールを煽る。宗像くんも朋也から受け取った紙をまじまじと見つめ、「おめでとう」と穏やかな声でお祝いの言葉をくれた。
「この日だけは絶対空けとけよ。」
「わかってるさ。必ず行く。」
「友人代表のスピーチすんのお前なんだからな!」
「それは……責任重大だな。」
突然舞い込んだミッションに宗像くんが目を丸くして固まる。何をそんなに驚くことがあるのだろうかと、焼き鳥を頬張りながら朋也と一緒に苦笑を漏らした。自己評価が高すぎないところは彼の美徳だがあまりに愛されている自覚がないというのも考え物だ。私たちを語る上で、宗像くんより適任な人物はいないというのに。
「それ、ほんま綺麗やねぇ。」
「あ、これですか?ふふ、はい。かなり気に入ってます。」
「ち、近くで見てもいいですか?」
「どうぞどうぞ。」
賑わってきた周囲につられて自然と私たちの距離も近くなる。環さんと鈴芽ちゃんが興味深そうにこちらへと視線を向け、私は何の躊躇もなく二人の前に左腕を伸ばした。それに対して娘の門出を祝うかのように目を細める環さんと興奮気味の鈴芽ちゃん。こうも真っ直ぐ好意を向けられるというのはやはり中々慣れないもので、気恥ずかしさが胸に込み上げそわそわと背中がむず痒くなった。
「次このメンツで顔合わせんのは秋かにゃ~。」
「いっぱい写真撮ります!」
「ふふ、ありがとう。」
呂律の回らなくなってきた朋也のためにこっそり水を注文する。一眼レフを買うかどうかで議論を始めた鈴芽ちゃんと環さんに冷静な宗像くんが「一度落ち着きましょう」と待ったをかけていて失礼ながらも笑ってしまった。
「なまえさんのドレスどんなのかなぁ。」
「すんげぇ可愛いってことだけ保証しとく。」
「ちょっとハードル上げるのやめてくれる?」
「芹澤、お前酔ってるだろう。」
「いや~、早う見たいっちゃね。」
珍妙なドライブから始まった顔ぶれで幾度も未来の話をするようになるなど、一体誰が想像できただろう。本当に人生は何が起きるかわからない。彼女たちと会って言葉を交わす度、あの時のことを鮮明に思い出す。未だ色褪せることなく記憶に残り続ける、宝物みたいな二日間。
猫の形をした神様が繋いでくれた、私たちの縁。それはある人の境界線を取り払い、ある家族のわだかまりを解消し、ある恋人たちに知らない世界を教えてくれた。その誰もに輝く明日を示してくれた。積み重なる営みの儚さを、互いに手を取り合う尊さを。私たちは他でもない神様からかなり荒療治的に学ばせてもらったのだ。
今日も、明日も、明後日も。一年後も五年後も十年後も。もっとずっと先の未来へと私たちの日々は続いていく。それがいとも容易く壊れることを知りながら、それでも抗いたいと一歩を踏みしめて。
「……幸せ。」
楽しそうにはしゃぐ四人を眺めながらぼんやりと胸の内を呟いた。あの頃は姿かたちもなかった未来が、今確かにここにあった。
私たちが出会えたことの意味に追いつく日が来るのはこの身を終える間際かもしれない。それでもただ目の前にある一瞬を互いに手繰り寄せながら、心のままに途方もない永遠を誓いたかった。
机に置かれた左手が照明によってきらりと光る。この薬指の輝きが灯台となり二人の行く道を照らしてくれるだろうことを、すでに私は確信していた。
fin.
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