大学三年生
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大学三年生春。必要単位数のために取った一般教養の講義にはかなりの学生が集まっていた。対面授業になったと言えど周囲の目は厳しく大きな声で騒いでいる人間もいない。この分野に興味があって選択した人、緩い教授との噂を聞いて何となく時間割を埋めた人。事情は様々だろうが皆一様に無言で席に着き、大人しく配布されたレジュメを眺めている。かくいう私もその一人。右端の中腹あたりの机を陣取り授業の導入について内容をある程度把握する。
そろそろだな。ちらりと時計を見ればチャイムまであと一分。鞄に忍ばせていたチョコを一粒口に放り込み定刻を待っていると、その時背の高い男の子が黒板の前で立ち尽くしているのが視界に入った。
あと少しで定刻だというのに座らないのだろうか。そう思い観察していると彼が手ぶらであることに気づく。もしかしてレジュメの数が足りないのでは。私のその予想はどうやら当たっていたようで、配布物が置かれてあったはずの机が空になっている。人数分印刷してないというのは大分問題なのだが、こんなところにまで教授の緩さが出てしまったというわけだ。
あの子どうするのかな。派手な風貌だしこのまま帰って履中する可能性もあるかもと無意識の偏見で失礼なことを考えていたが、その予想とは裏腹に彼はやれやれとため息を零し空席を探し始めた。
その意外な行動に内心驚いていると講義開始を告げる鐘が鳴る。早く着席しないと。なんて何故かこちらまで焦っていれば彼は漸く私の左隣を見つけ出し勢いのまま腰を下ろした。気怠げな垂れ目と一瞬視線が交わるが特に会釈もなく顔を逸らされる。この一分間でどっと疲れた様子の彼は教授の登場と共に力なくルーズリーフと筆箱を用意していた。
しかし胸を撫で下ろしたのも束の間、彼に再び困難が立ち塞がる。マイクのスイッチを入れた教授が開口一番「レジュメをご覧ください」と学生たちに指示したのだ。当然それを貰っていない彼は為す術がない。詰んだと言わんばかりに頬杖を突いた男の子の横顔からはどこか哀愁が漂っており、一部始終を目撃してしまった私はこの状況を見過ごすことにも気が引けた。
色素の薄い髪にピアスに色付き眼鏡。指には髑髏のシルバーリング。正直普段なら絶対関わらないタイプの人なのだが今回ばかりは特例だ。拒否されたらどうしようと不安になりつつも手元にあるレジュメを横にずらす。
「良かったらどうぞ。」
「あ、ああ……ありがとうございます。」
突然の申し出にびくりと揺れる肩と咄嗟に出たお礼の言葉。恐らくこの男の子は怖い人じゃない。直感的にそう判断して思わず口許を緩めると彼はほんの少しだけ体をこちらに寄せた。香水だろうか、何か甘い香りがする。講義そっちのけで意識が彼に向かい、さっきよりも近い距離で目が合ってしまう。
あ、溺れそう。不意にそんな気持ちが頭に浮かんで慌ててレジュメに視線を落とす。速くなる鼓動を抑えながら、必死で教授の説明に耳を傾けた。
「……あの、ありがとうございました。」
心に浮遊感を持たせたまま講義は滞りなく終わり、筆記用具を集めて帰り支度をする。すると隣の彼が緊張した面持ちで話しかけてくれ、私も改めて会釈をした。
「ふふ、お役に立てて良かったです。」
先程の動揺を悟られないよう努めて冷静に対応する。ここで会ったのも何かの縁だ。とりあえず自己紹介をしてみようかと思考を巡らせているとありがたいことに彼の方から会話を続けてくれた。
「いやほんと助かりました。え、っと何年生すか?」
「三年です。あなたは?」
「あ、俺も三年……っていきなり敬語なくなるけど良い?」
「うん、その方が嬉しい。」
背が高いので正直年上かと思っていたが同学年。途端に親近感が湧いてきて私も彼と同じように砕けて返す。もしかすると初めて他学部の友達ができるかもしれない。そんな期待に胸が弾んだ。
「あ、そうだ。レジュメの追加なかったけどこれコピー取る?」
そういえばと思い立ちファイルに入れ終えたレジュメをもう一度取り出す。これがなければ彼も困るだろう。ノートに書き写すには量が多いし私の持っているものを増やした方が早い。
「え、良いの?」
「うん、私次授業ないしそちらの時間が許せば。」
驚いた様子の彼に頷けば「是非!」と威勢のいい返事。この人、第一印象よりもはるかにとっつきやすくて愛嬌がある。勝手に彼の性格を決めつけてしまっていたことに反省しつつ席を立つ。鞄を肩に掛け「じゃあ行こう」と教室の外を指させば薄く目を細めた彼が年相応の顔で笑った。
コピー機を探しながら二人並んで歩いているが慣れない校内ですぐに見つけるのは難しい。これは一度マップを確認した方が良いかもしれないと彼に提案しようとすれば、私以上に落ちつかない様子できょろきょろしている姿が目に入って危うく「可愛い」と口に出すところだった。
「……最初怖い人かと思っちゃった。」
どんな反応をしてくれるのかという好奇心が疼き素直な感想を伝えてみると彼が目を丸くする。
「俺が?」
「うん、背高いし色付き眼鏡でピアス開けてるし。」
「あー……これには色々と事情がありまして。」
「事情?」
その近寄り難い風貌のことを指摘すれば彼は瞳を泳がせた。気になって追及してみると先程まで調子の良かった彼が一瞬言い淀む。成る程、恐らくこれは深掘りしてはいけない話。
「ま、それは追々ってことで。てかまだ名前言ってねえよな。俺芹澤朋也。」
予想通りそれとなく話題を逸らされてしまったが仕方ない。今日初めて会った私に聞かせるような内容ではなかったということだろう。パーソナルな部分に踏み込むにはそれなりの時間を要する。いつか彼の方から打ち明けてくれる日を待つことにしよう。
「あ、そういえばそうだね。みょうじなまえです。ちなみに文学部。」
「え、すげぇ俺も。」
気を取り直して自己紹介すればまさかの同学年で同学部。奇跡の偶然に若干興奮して前のめりになってしまう。
「本当?私日本文学専攻なんだけど。」
「あー、俺は教育学科。」
人を見た目で判断してはいけない。先程反省したばかりの教えだがさすがに今の印象とかけ離れすぎていて絶句してしまった。
「……冗談?」
「いやまじよまじ。」
私の不躾な返答に芹澤くんが吹き出し彼が本気で先生を目指しているのだと知る。さすがに申し訳なくて「ごめん」と真面目な謝罪を零せば彼はさらに可笑しそうに腹を抱えた。ツボがよくわからない。
「あ、コピー機。」
「ほんとだ。んじゃちょっとお借りしますよ。」
「ん、どうぞ。」
衝撃の事実に気を取られていたが、その数歩先で事務室の脇にお目当ての物を発見し持っていたレジュメを彼に渡す。ずっとオンライン授業でコピーを取る機会がなかったらしい彼が「にゃーにこれぇ……」と使い方に四苦八苦していたので、僭越ながら操作方法を伝授させてもらった。五分後には何とか一枚刷り終えることができ二人で事務室を後にする。
「次何限?俺五限。」
「私さっきの授業だけだから帰るよ。」
「三限のためだけに学校来るのえらすぎだろ。」
「いや五限取ってる方がえらいと思うけど。」
他愛のないやり取りを繰り返していると何故かお互いを褒め合う流れになる。おふざけ交じりの「えらい」の押し付け合いは二人の分かれ道まで続き、最終的には笑いすぎて結論が有耶無耶になった。
心地の良い空気感に名残惜しさを感じていれば芹澤くんがひらりと手を上げる。私も「それじゃあまた」と彼に応えわざと次の約束を取りつけた。
二号館へと歩いて行く大きな背中をぼんやり見送っていると胸の奥が温かくなっていることに気づく。初対面で随分波長が合ったその人に惹かれてしまっている自分がいるのは、紛れもない事実だった。
「……また。」
我ながら大胆な別れの挨拶だったかもしれない。来週の講義までには頭を冷やさないとと理性の欠けた自身を戒めつつ、いつもより小さい歩幅で家路を辿った。