大学四年生
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「いや……違うな。違う……あ、これかな。」
スマホのプレイリストを漁っていた朋也がようやく手を止め、再び一昔前の曲が流れ始める。しかし悲しいかな、「けんかをやめて」「二人をとめて」とまさに現状を表すような直球の歌詞に笑ってくれる人は一人もいなかった。
「晴れると気持ち良いでしょ、この車。」
「歌がうるさいわ。」
土砂降りだった雨も上がり頭上には青空が広がっていた。環さんから一通り事の顛末を聞いたあと、私たちは何とか双方を説得して落としどころを見つけてもらった。鈴芽ちゃんはちゃんと食事を取ること、それを条件に環さんはこの旅を見届けること。両者を渋々納得させ、強引とも呼べる形で無理矢理同じ車へと押し込み今に至る。
「ええ、ゲストに合わせて選んでんだけどなあ。鈴芽ちゃん、懐メロって良いよねぇ。」
「選曲の問題じゃないと思う。」
「なまえちゃん厳し~。」
無言でクリームパンを頬張り朋也を睨みつけた彼女の代わりに私が答えると、彼は間延びした口調でケラケラ笑った。決してお互い視線を合わさずどんよりと沈んでいる二人にどうしたものかと腕組みしていれば、見兼ねた朋也が私と鈴芽ちゃんの間にいる黒い塊に話しかけてくれる。
「空気が重いなぁ。なあ、新入り。」
「……まさか一匹増えるとはね。」
「はは、本当だよ。……しかしでけー猫だな。」
そう、環さんを宥めて駐車場に戻ると何と大きな黒猫が後部座席で丸くなっていたのだ。この子もダイジンと同じで朋也の車に居座ったまま動こうとしない。黒猫と白猫が寄り添う姿は親子のようにも見え、引き離すのも可哀想だということで結局一緒に連れていく運びとなった。さすがに二匹とも膝に乗せるのは重すぎる故、この子たちには隣の開いているスペースを使ってもらうことにした。
「あ、虹。幸先良いなぁ。」
「本当、綺麗。」
「な~。」
「「……。」」
空に掛かる七色の光に縋ってみるも、会話が途切れた途端非常に気まずい静けさがやって来る。「なまえ以外全員反応なし」と苦笑する彼につられて私もこっそり眉を下げた。
「……鈴芽ちゃん。猫ってさ、理由もなく着いてこないでしょ。犬じゃないんだからさ。」
何も言わずにジュースを飲んでいる彼女に朋也が優しく語りかける。鈴芽ちゃんにぴったりとくっついて眠る二匹はその少女を拠り所にしているようにも見え、また逃がさないと退路を断っているようにも見えた。
「その白と黒さ、よっぽど鈴芽ちゃんにしてほしいことでもあんじゃねえの?」
「その通り。」
法定速度で車を走らせている朋也が片手でハンドルを操作しながらにっと口角を上げた。すると次の瞬間その問いかけに応答する声が響き私たちは息を呑んだ。それが、この場にいる誰のものでもない声だったから。
「「えっ?」」
「人の手で、元に戻して。」
時が止まったかのような沈黙が訪れ朋也と環さんが目を丸くする。鈴芽ちゃんがまずいといった様子で表情を引きつらせごくりと喉を鳴らしたのがわかった。大きな黒猫が、確かに両眼を光らせながらこちらに訴えかけていた。
「「ね、猫が喋ったぁ!?」」
「やっぱ喋ってるよね。さっきも喋ってたよね?」
「冷静かよ!ってうわ!?」
「前前前!」
『わあああ!?』
やはり御茶ノ水駅でのあれは聞き間違いじゃなかった。一人満足していると後ろに気を取られ運転が疎かになっていた朋也が悲鳴を上げる。私たちの車は完全に車線をはみ出し、すぐそこにはクラクションを鳴らしている対向車のトラック。ぶつからないよう慌ててハンドルを切った彼にその後態勢を立て直す余裕などなく、私たちはそのままコントロールのきかなくなった車と共に道路脇の土手に突っ込んだ。
「ちょ、ちょちょちょっとぉ!?」
「おいおいおいおい嘘だろぉ!」
「鈴芽ちゃん何かに掴まって!」
「だから冷静かよ!?」
言ってる間に車体は傾き、地面がどんどん近くなる。真っ赤なスポーツカーからずしんと悲痛な叫びが聞こえ、その衝撃でエアバッグが正常に作動した。何かのはずみでボタンを押してしまったのかいきなり収納扉から屋根が飛び出し、ゆっくりと私たちの頭上を覆う。先程雨に降られた際閉まらなかったそれは名誉挽回と言わんばかりに張り切った様子を見せ、今度こそ指定の位置でぴたりと止まった。
「……あ、直った。」
「言ってる場合じゃないって。とりあえず脱出。」
「お、おお。」
朋也の素直な感想にツッコみを入れ安全を確保するよう促す。彼が静かに運転席のドアを開けるとそれは勢いそのままに彼の手から滑り落ちていき、鉄のへこむ音とガラスの割れる音が二重奏のように虚しく響いた。
「……まじか。」
一先ず全員で宙に浮いた車から地面へと降り立ち今後について思案する。いても立ってもいられなくなった鈴芽ちゃんが一人土手を駆け上がりヒッチハイクを始めたのを眺めながら、私は朋也に視線を遣った。
あれ程忙しなく働いて一心に愛情を注いできたアルファロメオが見るも無残な姿になっている。帰りの交通手段に対する不安よりも先に彼のメンタルが気にかかった。しかし私の心配とは裏腹に朋也は随分冷静だった。起こってしまった現実を受け止め、それに不平不満を言うこともない。恐らく愛車が壊れたことよりも、もっとずっと衝撃的なことがあったから。
「はあ、ほんとに危なかったっちゃねえ。」
「命があって良かったです。」
「……ていうか、やっぱり喋っちょったがね、あん猫。」
傾いたままになっているスポーツカーを横目に環さんが私たちの方へと身を屈めた。必死で別の車に止まってもらおうと親指を立てている鈴芽ちゃんの足元にはこちらの動揺などまるで気にしていない素振りの二匹が佇んでおり、規則正しく揺れる尻尾に私たちは揃って眉根を寄せる。
「喋って、ましたよねぇやっぱ。え、何なんすかあれ。心霊現象?」
「いや、そんげ馬鹿なこつ。」
「でもあんまり怖い感じはしないよね、猫だし。」
「そ、そりゃまあ……猫だしな。」
「呑気なこと言いよる場合かね!」
率直な所感を述べたら環さんに怒られてしまった。しかし本当に幽霊だとか妖怪だとか、その類のものだとしても恐怖心は感じなかった。見た目のせいもあるだろうが纏う雰囲気が何というかこう、小さな子供のようなのだ。特にあの白猫の方は。
「芹澤さん!あと10㎞くらいだよね!?」
一向に停車してもらえない現状に痺れを切らし、鈴芽ちゃんが道路からこちらへと身を乗り出した。斜面を下った先にいる私たちが彼女を見上げていると、すかさずカーナビが『目的地までおよそ20㎞です』と結構な距離を告げる。
「20㎞あるってよ。まだちょっと遠いね。」
『コースを外れています。』
「わかってるよぉ!」
「ふふ。」
淡々と残酷な現実を突きつけてくるカーナビに朋也が吠える。場違いにも思わず吹き出すと私たちの戯れを無視して鈴芽ちゃんがくるりと背を向けた。
「私、走っていく!ここまでありがとう!芹澤さん、みょうじさん、環さんも!」
「え、鈴芽ちゃん!」
鈴芽ちゃんは白と黒の猫を引き連れ一直線に駆け出した。弾むポニーテールに呼び掛けても止まってくれないことはもう知っている。どうしようかと朋也の服を掴めば彼が応えるより先に環さんが周囲を見回し、近くに捨てられてあった蔦の絡まる自転車を無理矢理道路へと押し上げた。
「芹澤くん、なまえちゃん、私も行くから!」
「えっ。」
「ここまで送ってくれてありがとね!」
「はあ!?」
無鉄砲さは血筋だろうか。あれだけ鈴芽ちゃんを連れて帰ろうとしていた環さんは脇目も振らずに彼女を追いかけ始めた。私たちが慌てて斜面を上がると環さんはペダルを踏み込み、一度だけにっとこちらに笑いかけた。
「君、意外に良い先生になれるかもしれんね!」
それは紛れもなく母親の顔だった。鈴芽ちゃんと環さんの間に確かに家族の絆はあったのだと、小さくなる彼女を見送りながら何故だか泣きそうになっていた。この十二年間を思わせる美しい笑顔は、慣れないながらも少しずつ積み重ねてきた二人の生きた証だ。そして或いは、言い表せない程に深く清らかな愛の証明だった。
自転車が進むと同時に落ちてしまった、環さんの肩に掛けられていたカーディガン。それを拾い上げながら、宗像くんの顔を思い浮かべた。
きっと大丈夫だ。あの二人なら、鈴芽ちゃんなら。迷いなく彼に手を伸ばしてくれる。
「……何だったんだ、あの二人。」
「嵐みたいだったね、ふふ。」
「ふ、はははははっ。」
「突然の大爆笑。でも、ふ、ちょっとわかる、ふふふっ。」
「だよな!はははははっ。」
他に通る車もなく二人きりになったその道で、私たちはどちらからともなく笑い出した。何か大きなことに巻き込まれ、そしてその役目を終えたかのような不思議な清々しさ。私たちは宗像くんに鈴芽ちゃんを送り届けるため、恐らくあの猫たちに呼び寄せられたのだ。鈴芽ちゃんに出会ったのは運命的な必然だった。大袈裟すぎる表現かもしれないが、今はそういうことにしておこう。
朋也は一頻り笑ったあと空を見上げ「良いなあ……草太の奴」と羨ましそうに目を細めた。それは親友が孤独でなくなったことに心底安堵している表情だった。「朋也くんには私がいますよ」とおどけてその手を握ると、「それはその通り」と無邪気に歯を見せてくれる。頬にそよぐ風は信じられない程に澄んでいた。
「さてどうしよっか。」
「あー、なまえちゃんガムテープとか持ってる?」
「え、まさかレッカー呼ばないつもり?」
「帰りの金がねぇよ。」
「私下ろしてくるけど……。」
「最寄りのコンビニまで60㎞。」
「おおう……。」
想定以上の遠さに慄くと、朋也は「な?」と苦笑を漏らした。再び土手を下りた彼が外れたドアの傍らに立っては、どう元に戻すか睨めっこしている。慎重にその後を追いへこんだ車体を一撫ですると、朋也は「それにまあ」と切り出しさも当然かのように言い放った。
「さすがに今の体力で徒歩20㎞はきついっしょ。」
ごく自然に、素直に彼から零れた言葉。見知らぬ親子と共に片道七時間かけて東北まで辿り着くも、ゴール手前で何より大切にしてきた愛車が壊れ目的地には一歩届かない。疲労も溜まり失ったものも大きく、一見すれば挫けてしまいそうな状況だ。
しかしそれでも尚、彼は宗像くんを諦めていなかった。これもまた、愛と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
「とりあえず役に立ちそうなもの全部出すね。」
「なまえちゃんの鞄異様に大きいよね。」
「何かあるかもと思って色々持ってきたの。」
「うーん、俺の彼女がしごでき過ぎる……。」
彼の横に並びああだこうだと試行錯誤を繰り返す。あの猫たちにとって私たちは役目を終えたただの人間かもしれなかったが、ここで帰るわけにはいかなかった。私も朋也も、宗像くんに会いたくてはるばる東京からやって来たのだから。
西日に照らされながら朋也と一緒に汗を流す。長距離移動の末の力仕事は想像以上の過酷さだったが、その時間さえも悪くないと思える程妙な高揚感に包まれていた。