大学四年生
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車内に陽気な音楽が流れる。旅立ちにぴったりのこの曲を選んだのは勿論運転席でハンドルを握っている朋也だ。彼のおかげで先程よりは車内の空気がいくらか柔らかい。鈴芽ちゃんは時折白猫を睨みつけていたが、名をダイジンというらしいその子がすやすやと私の膝の上で寝息を立て始めたことによって毒気が抜かれたらしかった。彼女も今は座席に凭れ掛かり外からの風を受けながら目を閉じている。どうやら相当気を張っていたようだ。
「たそがれせまる街並みや~車の流れぇ~よぉこぉ目でぇ追~い越してぇ~~。」
「歌がうるさいわ。」
「ふ、同感です。」
「ちょっとなまえちゃん!?」
変なところで強心臓というか何というか。見知らぬ親子との珍道中だというのに運転しながら熱唱できる度胸が凄い。環さんの当然のツッコみに思わず吹き出すと朋也は不満げに唇を尖らせた。
「旅立ちにはこの曲でしょ、何か猫もいるし。」
「鈴芽は聴いとらんよ。ずっと寝ちょる。」
「かなり疲れ溜まってたんでしょうね。」
朋也がハンドルを操作しながらもう一方の手で学生証を取り出し環さんに見せた。その仕草がかっこいいと思ったことは私の胸の内だけに留めておこう。未だ彼を信用しきれずにいる環さんはそれを静かに受け取り、顔を顰めて必要な情報を注意深く読み取る。
「その猫って鈴芽ちゃんのすか。」
「うちは猫なんて飼っちょらん。」
「なまえにすげー懐いてるけど。」
「あ、いやうーん。寝床にされてるだけっぽいよ。」
丸くなって動かない白い毛玉をほわほわと撫でる。抵抗こそされないがずっと無反応のその子が自分に懐いているとは言い難かった。きっとダイジンは鈴芽ちゃんに着いてきているのだろう。喋る猫と高校生の少女に一体どんな接点があるのかはわからないけれど。
「芹澤くんて、え、教育学部?」
「まあ、教師になりたいんで。」
「あの、私の学生証も……。」
「みょうじさんことは疑うちょらん。」
「ひどくねえすか!?」
朋也に続いて私も身分を証明しようとするも環さんに別に大丈夫だと断られてしまった。不服そうな彼だったがさすがにその風貌じゃ文句も言えない。泣き真似をしながら彼がギアを変えれば車は大きく上下に揺れ、体ががくんと浮かび上がった。
「お、なまえちゃん大丈夫?」
「ん、平気。」
「ぼろい車やねぇ。」
「これ、中古でめちゃくちゃ安くて。かっこいいっしょ?」
自慢げに笑う朋也を見て環さんがため息を吐く。安全のため鈴芽ちゃんとダイジンの様子も確認したがどちらも深い眠りに落ちたままだった。
「君ら、本当に良かったと?片道で七時間以上はかかりよるよ。」
「草太探してんのは、娘さんだけじゃないんで。」
「宗像くんに会えなくなるのは私たちも嫌ですから。」
尤もな意見に淀みなく返すと、何がそうさせてしまったのか環さんに影が差した。彼女は過去の記憶を辿るように目を伏せ、重たい声でぽつりと零した。
「ああ、娘やなくて……鈴芽は、姪なんよ。」
その事実を知り自分の中にあった疑問が腑に落ちた。成る程。鈴芽ちゃんが彼女のことを環さんと呼ぶのは、二人の間に微妙な距離があるのは、そういった背景があるからなのか。
「姉が死んで私が引き取ったと。こん子んとこ母子家庭やったから。」
「……ああ。」
「あん時鈴芽、まだ四歳やった。急におらんなった母親のこと理解できんで、探しに出たまま迷子んなったことがあったとよ。」
遠くを見つめる環さんはその日のことを思い出しているのだろう。鈴芽ちゃんは今十七歳。お母さんが亡くなったのが四歳の頃で、私たちが向かっているのは東北で。点と点が、悲しい線に繋がっていく。宗像くんの部屋で見た古文書が何故だかふと頭に浮かんだ。
「……あの、鈴芽ちゃんの誕生日っていつですか。」
「え、ああ、五月二十四日。」
「そう、ですか……。」
やはり。三月十一日に彼女はまだ誕生日を迎えていなかった。辻褄が合ってしまうことに気づけば途端に息苦しくなる。姉を亡くして、たった四歳の小さな女の子の嘆きと人生を背負って。想像を絶する過酷さの中で環さんは今日まで必死に生きてきたのだ。娘のように鈴芽ちゃんを愛し、大切に大切に育ててきたのだ。それは隣の健やかな寝顔を見れば簡単にわかることだった。
「……十二年、あれから。九州に連れてって、ずっと二人で暮らしちょったのに……。」
俯く環さんにどんな言葉を掛けて良いのか。未熟な私には見当もつかない。無断で出て行ったきり碌に連絡も返さず家にも戻らない鈴芽ちゃんを、単身で東京まで探しに来た彼女。その覚悟も、余るほどの心配も、鈴芽ちゃんは子供故の鈍さで気づかない。ようやく彼女と再会できた御茶ノ水駅で帰れないといって手を振りほどかれた瞬間、環さんは一体どんな気持ちだったのだろう。どれ程それは絶望的な拒絶だっただろう。
悩ましげなその表情に胸が詰まる。何も言えない自分が情けなくて唇を噛むと、その時重苦しい車内を軽くするような白い煙が目の前を漂った。
「煙、嫌すか。」
私と付き合い始めてからはなるべく吸わないようにしてくれていた朋也が珍しく煙草を手にしていた。いつもなら不快に感じるその匂いも今は何だか居心地が良い。彼が環さんの気を紛らわせるためにわざとやっているのだと瞬時に理解してしまったからだろうか。
「……まあ、君ん車やからね。」
「未成年の前だし私は吸ってほしくないけど。」
「すぐ消します。」
火をつけて数分で煙草入れに吸殻を捨てた朋也を見て「あんたらええカップルやね」と環さんが苦笑した。「よく言われます」と調子良く返す彼のおかげで私にもいつの間にか笑顔が戻る。
「今から鈴芽ちゃんの地元に帰るってことですよね?」
「そうげなっちゃね。」
「そこに草太がいるんすかね。」
「さあ……でもあそこにはもう何もないとよ。」
環さんの言う"何もない"には鉛のような質量があった。何もない。その言葉通りきっとあそこにはもう、何もないのだ。
「君、今んうちに東京戻ってくれん?したらこん子も諦めるかも。」
「いや俺草太に貸してる二万円回収しないと。」
「それまだ言う?」
無理を承知で持ち掛けた彼女の申し出を朋也はやはり断った。元々宗像くんを繋ぎ止める理由の一つとして舞い込んできた二万円は今や言い訳という名の盾になっている。あのお金がこれ程万能な隠し玉になるとは。備えあれば憂いなし。朋也の作戦勝ちだ。
「はあ、君。借金取りんごつあるね。」
「ふふ、確かに。」
「ははっ、叱ってもらうわ~マイダァリ~~~~ン。」
環さんからの呆れた視線を躱すように彼がまたうるさい歌を口ずさむ。真っ直ぐに伸びた高速道路に眩しい陽が差し込み、私たちの七時間ドライブに追い風を吹かせていた。