大学三年生
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「俺は宗像草太。よろしく。」
「芹澤朋也。お互い呼び捨てでいこうぜ。」
大学三年生春。教育心理学のゼミで入学以来初めてできた友達と熱い握手を交わした感動も束の間。調子に乗ってのんびり昼飯を食いすぎたせいで三限に遅れそうだ。
これまでずっとオンライン授業だったからか時間配分が掴めない。一般教養と言えど初日の段階で遅刻するのはまずいとエレベーターも使わず教室のある四階まで駆け上がった。死にそう。
スマホを見ると始業開始の一分前。とりあえず間に合ったと軽く息を整えてから扉を開ける。
お、結構集まってんじゃん。こうして他学部の人間を見るのも初めての経験。妙にそわそわしながら黒板を確認すると「レジュメ一人一枚」と書かれており、すでに席に着いている学生は全員その紙を持っているらしかった。
俺もさっさともらっておこう。そう思って辺りを見回すがどういうわけかお目当てのレジュメがどこにもない。もしかして来るのが遅すぎて品切れになったとか。まじかよと心の中でため息を漏らし仕方なく手ぶらで空席を探す。
対面授業とは言ってもコロナ禍のまま始まったキャンパスライフ。本来であれば長机に対して三つ置かれているであろう椅子の真ん中が全て抜き取られ、学生は充分な距離で両端に座らされている。席数を減らしているおかげで教室はほぼ満員状態。自分の受け入れ場所を手に入れることすら困難を極め、迫る時間に焦りばかりが募った。
「……あった。」
休み時間終了のチャイムが鳴ってやばいと思った矢先漸く空いている場所が視界に入る。奥に座っていた子と目が合ったが会釈する暇もなく滑り込むように着席した。定刻の数分後に教授が教室の入り口から歩いてきてセーフ、と脱力したがどうやらまだ俺の苦難は終わっていなかったようだ。ぬるりと始まった講義は配布されたレジュメに沿って行われるらしく、ルーズリーフと筆記用具しか持っていない俺には内容がまるでわからなかった。
どうしたもんかと頭を掻きつつ頬杖を突く。九十分無駄にしてしまったことに虚無感を覚え離席しようか迷い始めたその時、隣の女の子が手元に置いていた紙をそっと横にずらした。
「良かったらどうぞ。」
「あ、ああ……ありがとうございます。」
年上か年下か判断がつかなくてとりあえず敬語でお礼を言う。ふわりと穏やかに笑った彼女も黒板の指示通り一枚しかレジュメは取っていないらしく、俺たちはそれを仲良く眺めながらこの授業を乗り切ることになった。
心底ありがたいと感謝の念を送っていれば不意に二人の視線が交わる。ちょっと待ってくれやばいかも。先程まであまりに必死でちゃんと顔を見る余裕がなかったがこの子すげぇ可愛いじゃん。硝子玉のようなきらきらした瞳にいつの間にか鼓動は速まりペンを握る手に汗が滲んでくる。こんなドキドキしてんの、いつぶりだ?
「……あの、ありがとうございました。」
心臓がうるさいまま講義は滞りなく終わり緊張しつつも話しかけてみる。まあこれで何も言わず立ち去るとか感じ悪すぎるしな。決して次に繋げるための下心などではない。別に誰から責められているわけでもないのに下手な言い訳が頭を埋め尽くす。そうして彼女の返答を待っていると黒い髪が嫋やかに揺れた。
「ふふ、お役に立てて良かったです。」
柔らかく細められた目元は俺よりずっと大人びている。もしや先輩だろうかとさらに力が入るがここで引き下がるわけにはいかなかった。夜のバイトで鍛えられた話術で何とか会話を続けようと試みる。
「いやほんと助かりました。え、っと何年生すか?」
「三年です。あなたは?」
「あ、俺も三年……っていきなり敬語なくなるけど良い?」
「うん、その方が嬉しい。」
タメなのか。急に距離が縮まった気がしてにやけが止まらない。絶対不審者だろ落ち着け俺。こういう健全な女子との交流も終ぞしていなかったが故浮かれ具合に拍車が掛かる。
「あ、そうだ。レジュメの追加なかったけどこれコピー取る?」
「え、良いの?」
「うん、私次授業ないしそちらの時間が許せば。」
予想外の申し出に勢い良く首を縦に振る。すると彼女は可笑しそうに笑って「じゃあ行こう」と鞄を持った。
こんな幸先の良いことなんてあるのか。講義前までは想像もしていなかった世界にガッツポーズが出そうになる。二人揃って教室を後にしコピー機を探している俺たちは周囲からすれば仲睦まじい男女に見えるのだろうか。慣れない校内にきょろきょろと目移りしているふりをして平静を装っていると、彼女がおどけたように肩を竦めた。
「最初怖い人かと思っちゃった。」
「俺が?」
「うん、背高いし色付き眼鏡でピアス開けてるし。」
「あー……これには色々と事情がありまして。」
「事情?」
不思議そうに小首を傾げる仕草が可愛くてうっかり口を滑らせそうになるが何とか堪えた。薄汚い夜の街の匂いを彼女に嗅がせるわけにはいかない。ぎりぎりのところで理性が働きそれとなく話題を逸らさせてもらう。
「ま、それは追々ってことで。てかまだ名前言ってねえよな。俺芹澤朋也。」
「あ、そういえばそうだね。みょうじなまえです。ちなみに文学部。」
「え、すげぇ俺も。」
「本当?私日本文学専攻なんだけど。」
「あー、俺は教育学科。」
「……冗談?」
「いやまじよまじ。」
疑わし気な視線に思わず吹き出せばみょうじさんから真剣な「ごめん」をもらってしまいそれがまたツボに入った。そりゃこの風貌じゃ仕方ない。全く気にしてないことを伝えると彼女はほっと胸を撫で下ろしており、配慮の出来る良い子だなってまた興味が湧いてくる。
「あ、コピー機。」
「ほんとだ。んじゃちょっとお借りしますよ。」
「ん、どうぞ。」
事務室の脇にお目当ての物が置かれているのを発見し、彼女が持っていたレジュメを渡してくれる。これどうやって使うんだっけ、と普通の世に生まれた大学生なら手間取らないようなことに四苦八苦しているとみょうじさんが操作方法を教えてくれ、何とか一枚刷り終えられた。
「次何限?俺五限。」
「私さっきの授業だけだから帰るよ。」
「三限のためだけに学校来んのえらすぎだろ。」
「いや五限取ってる方がえらいと思うけど。」
目的を済ませて他愛のないことを喋っていると何故かお互いを褒め合う流れになり、しかもこのやり取りは二人の分かれ道まで続いた。半ば「えらい」の押し付け合いになりながらも全く嫌な空気じゃない。仲良くなれている実感に浸りつつひらりと手を上げれば「それじゃあまた」と彼女も振り返してくれた。正直怠いと思っていた五限だが今は体が羽のように軽い。
「また、か。」
二号館へと向かいつつ一人ぽつりと呟いた。彼女が何気なく口にした次の約束。その言葉通りきっと俺たちは来週も同じ講義で顔を合わせるのだろう。その時彼女は、俺の隣に座ってくれるだろうか。
まだ見ぬ未来に頬が緩み柄にもなく心が弾んだ。もしかしたらこれ皆勤賞狙えるんじゃねえの。鼻歌が漏れるとさらにやる気が満ちてきて、珍しく今夜のバイトにも精が出そうな勢いだった。