大学三年生
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二日酔いだと錯覚していた頭痛はその日の夕方になっても治まらなかった。どうやら異常なまでの足の重怠さも酒のせいなどではなく、正真正銘本物の体調不良だったようだ。やけに体が火照ると思い熱を計れば何と三十八度もあり、あっという間に喉もずきずきと痛み出した。そしてその翌日に三十九度近くまで上がった体温計を見てこれはただの風邪じゃない、と確信した。十中八九例の感染症だ。マスクもなしに賑わう店内で騒いでいたのだから当然と言えば当然の結果だったが、しかし今さら病院に行く気にもなれなかった。
Uberで大量のスポーツドリンクとゼリー飲料とレトルトのお粥を届けてもらい、俺はそのまま部屋に籠もった。真夏なのに寒くて寒くて仕方がなく、俺は歯をがちがちと鳴らしながら押し入れから毛布を引っ張り出しそれにくるまって目を瞑った。五分おきに込み上げる咳のせいで充分な睡眠は取れず、仕方がないので浅い眠りの合間にゼリーを喉へと流し込んだ。
部屋の隅で忘れられていた救急箱を命からがら探し出し、偶然買い置きしてあった解熱剤を適当に飲んでまた無理矢理目を瞑る。しかしそれから二日経っても三日経っても、熱はほとんど下がらなかった。
「お前は自分の扱いが雑過ぎる。」
遠くで誰かが言っていた。
「寂しい時なんてない。」
遠くで誰かの声がした。
「自分のこと大切にしなきゃ駄目だよ。」
遠くで誰かが手を差し伸べてくれていた。
これは罰だ、と俺は思った。何に対してかはよくわからないがこれはきっと罰なのだ。俺には金がなく、未来もなく、思いやりも誠実さもなく、だから友達もいなかった。寂しい人が寂しくないと言った時、それに気づける優しさもなかった。正しくない行いを目にしたとき、それに意見する勇気もなかった。自分を気に掛け引き留めようとしてくれていたその手を、自己保身のために跳ね除けた。
上京して必死に生き抜いてきたつもりなのに、手に入れたのは借金だけだった。もう楽にしてくれよ、と俺は思った。神でも仏でも総理大臣でも、誰でもいい。いい加減俺たちをもう、楽にしてほしかった。
その時、何かを叩く音がした。
俺は毛布から頭を出した。音は玄関からだ。誰かがノックしているのだとそこで気づいた。
「芹澤、いるんだろ?俺だ、宗像だ。」
部屋のドアを開けると大きなリュックを背負った草太が立っていた。久しぶりの見知った顔に俺は心底ほっとし、それと同時に厚かましくも彼女も一緒に来てくれているのではないかとその姿を探した。
「なんだ芹澤、本当に風邪か?入るぞ。」
本当にって何だ。俺を見て驚いたように言いながら草太は泥のついたワークブーツを脱ぎ、勝手に部屋に上がり込んできた。「換気するからな」と言って窓を開け、蒸し暑い空気が室内に流れ込んでくる。
「おい、ちょっと、」
「お前ちょっとやつれたな。寝てろ。美味いもの作ってやる。」
「おい草太、出てけよ。コロナが感染る。」
慌ててマスクをつけようとするも草太はまったく気にしていないようで、ただ笑って俺の額に手を被せた。
「大丈夫、お前のはただの夏風邪だよ。」
「はあ?」
「大丈夫だよ、芹澤。俺にはわかるんだ。」
馬鹿みたいに優しい顔で草太にそう言われ、俺は何も言い返せなくなってしまった。
「あとこれ、みょうじさんからの差し入れだ。」
「え、嘘。」
草太が手に持っていた袋を渡してきたので大人しく受け取ると、中身は栄養ドリンクと喉飴だった。
「ここに来る途中偶然会ったんだ。一緒に来ないかと誘ったんだが、二人きりの方が良いだろうからと断られてしまった。」
「そう……なのか。」
よく気の回る彼女のことだ。家に来るのを遠慮したのは俺と会うのが気まずいからではないのだろう。俺が草太と二人で話がしたいはずだと、彼女はそう思ってくれていた。草太にこの袋を預けている時の彼女もきっと、今のこいつと同じ心底優しい顔をしていたのだ。会って謝りたい。罪悪感を理由に逃げ続けるのはもうやめにしたかった。
それから草太は文句を垂れる俺を半ば強引にベッドへ追いやった。生活感のないほとんど空の冷蔵庫に愚痴を言いながらスーパーへ買い物に出かけ、戻ってくると何やら料理を始めた。
「草太、お前どうして……。」
そこには"どうして会いにきたんだ"と"どうしてここまで世話を焼くんだ"の両方が含まれていた。台所に立ついやに頼もしい背中に問いかけると「お前に連絡したけど、返事がなかったからな」と端的な答えが返ってきた。俺の枕元にはとっくにバッテリーが切れたスマホが転がっており、成る程と一人で納得する。草太がラインの返信がないくらいで俺の家まで訪ねてきたのは大いに想定外だったが、今はその見当外れが泣きそうなほど胸に沁みた。
「家業の手伝いがあってさ。」
一人で涙を堪えていると野菜やら肉やらを切りながら草太がぽつりと呟いた。その後ろ姿は先程より少し小さくなったように見え、俺は無言で続きを待った。
「お前からのラインに返信できなかったんだ。心配かけて悪かったな。」
そんな。そんな何週間も前のことをこいつが心苦しそうに態々謝罪したことに俺は随分と衝撃を受けた。俺のせいでお前は病気になったのだと、体調不良の責任の所在を背負わんばかりの口ぶりだった。
「別に……。」
思わず声が詰まった。上手く次の言葉を続けられずぐっと唇を噛む。包丁がまな板を叩く音、湯が煮える音が控えめなBGMのように部屋を満たし、出汁のいい香りが鼻を掠めた。
「さあ、一緒に喰おうぜ。」
片づけたテーブルの上に草太が置いたのは白い湯気を上げるつみれ鍋だった。
「真夏に鍋か。」
「鍋が一番栄養のバランスが良い。」
「そりゃそうかもしんねえですけど。」
苦笑しながらもぐつぐつと煮えるそれに俺は迷わず箸を伸ばした。長ねぎがたっぷりと入っていて、鶏のつみれにはぴりっと生姜がきいていた。食欲などなかった筈なのに一度食べ始めると止まらなくなる。しばらく無言のまま、俺たちは一つの鍋をつついた。コロナじゃないにしても油断しすぎだろ、とは敢えて言わなかった。みるみる汗が噴き出してきて、油断すると鼻水と涙までが垂れてきそうだった。タオルで顔を拭いながら草太を見ると、いつも涼しげなあいつも同じように汗だくになっていた。
体中の水分が溢れる油まみれの男が二人。ここに彼女が来なかったのはもしかすると正解だったのかもしれない。しかし汚い姿を晒すのもまた一興という気がした。どれだけ不格好な俺だとしても、きっと彼女は笑って認めてくれるのだろうから。
灼熱の食事を終え、俺は全身の汗を拭き下着とシャツを新しいものに替えた。いつの間に作ったのかお手製の冷たいレモネードを草太から手渡され、みょうじさんからもらった栄養ドリンクと合わせてごくごく二杯続けて飲んだ。草太は「シャワー借りるぞ」と言って浴室に行き、出てきた時には勝手に俺のTシャツを着ていた。
「悪い、これちょっと貸してくれ。俺のシャツも一緒に洗濯させてもらっていいか?」
「は?お前料理以外もやるつもりかよ。」
やめてくれと言ったのに草太は洗濯機まで回した。本当にどこまでも世話焼きの男である。
窓から吹き込む風が淀んだ部屋の空気を一掃し、俺の肌を気持ちよく撫でていた。喉の痛みはいつの間にか弱まりずっと薄暗かった視界はくっきりと開けていた。体温計を使わずとも自分の熱が随分下がっているだろうことがわかった。こいつは魔法でも使えるのか、と俺は一瞬本気で思った。
「鍋の残りは、夜には雑炊にすればいい。喉が楽になったからってまだ煙草なんて吸うなよ。明日また見に来る。」
玄関で靴紐を結びながら、草太は俺にそう言った。普段見ることのできないつむじをぼんやりと眺め、不意に先程引っかかっていたことを思い出す。
「……なあ、お前が最初に言ってた本当に風邪かってやつ。どういう意味?」
「?ああ、みょうじさんに教えてもらったんだ。お前が風邪だと。」
「は?」
草太が薄く笑いながら呟いた事実に俺は目を丸くした。こいつが魔法使いならみょうじさんはエスパーか。確かに差し入れだと渡された袋の中身は今の俺に必要なものばかりだった。
「何だ、連絡を取り合っていたわけじゃないのか。」
「あ、ああ……返してない。」
「じゃあ本当にただの勘だったんだな。」
草太は珍しく驚いた表情で彼女の慧眼を褒めていた。未だに彼女からのラインに返信できていないでいることに後ろめたさを覚え目を伏せると、「礼を言っておけよ」と見透かしたように釘を刺され苦笑が漏れる。わかってるよ。格好悪く逃げるのはもうやめだ。
「ああ……あのさあ、草太。」
「ん?」
今しかない。何故だかそんな気がして、俺の赤いシャツを着た背中に向かい思い切って尋ねた。
「お前の抱えているものって、何なんだ?」
「……。」
しばしの沈黙の後草太はゆっくりと立ち上がり、少しだけ眩しそうな顔で俺を見た。吸い込まれそうだ。相変わらず水の底のような青い瞳。しかし今度こそ俺はその瞳から視線を逸らすことなく言葉を重ねた。
「その家業ってやつのこと、話せないのか?」
触れてくれるなと、俺を線の外に追いやるこいつの核心。草太がそうならざるを得なかった、孤独の根幹。
「……いつか聞いてくれるか?」
泣き出しそうにも聞こえる切ない声で、草太は言った。束の間に揺れる水面のように、ほんの僅かな寂しさが青の中で滲む。草太の方から未来の話をしてくれたのは、これが初めてのことだった。