一章
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事務仕事が一息つき、私は図書室を訪れた。最近は勉強に追われる忍たまの子達でいっぱいだったこの部屋も、今は試験真っ最中ということで人がいない。
机の側の障子窓を開け風を中に入れながら、この前不破くんにおすすめしてもらった生活史の本を開く。ここひと月で私も随分成長し、以前よりかなり早く一冊読み終えられるようになった。根気強く付き合ってくれた図書委員のみんなのおかげだ。
「……みょうじさん、ここでしたか。」
不意に物音がして顔を上げると中在家くんが入り口に立っていた。彼も読みかけの書物を手に持っており、読書をしに来たのだとわかる。
「あれ、授業は?」
「私達ろ組はもう実習が終わりましたので。あとは採点を待つのみで授業はありません。」
淡々と答えた彼は私の向かいに腰を下ろした。そうか、上級生はそれぞれ試験の日程が違うから休みが始まるのもばらばらなんだ。ろ組がもう授業ないってことは小平太くんは今頃どうしてるんだろう。日に焼けるのも気にせず太陽の下を走り回る彼の姿が目に浮かんだ。
「ふふ。」
「……どうされました。」
「ううん、小平太くん夏が似合うなと思って。」
「確か……季節の中で一番好きとか。」
「やっぱり。」
中在家くんも私と同じ想像をしたようで、二人して顔を見合わせて笑った。静かで穏やかな彼との時間。何だかすごく落ち着く。
「みょうじさんは、夏休みもずっとここにいらっしゃるんでしょう。」
「うん。学園長先生が置いてくれるって。」
「……寂しくありませんか。」
その瞳には心配が滲んでおり、賑やかな学園しか知らない私を気遣ってくれているらしかった。
「確かに慣れるまでは寂しいかもね。でも大丈夫だよ。しばらく図書室ゆっくり通えそうだし。」
読みたい本もたくさんある。元々一人の時間は好きな方だしそんなに心配する必要はない。気にしないでと続ければ彼はふむ、と無表情に考え込んだ。
「帰る方法も探さないとですね。」
「うん。それも調べてみるつもり。ここのところ忙しかったから後回しになっちゃってたけど。」
いくら大切なものがこの場所に増えたからといって私に帰るべき世界があることからは目を背けられない。どれだけ寂しいと思ってしまっても、その方法を探しておくことに越したことはないのだ。せめて、自分で去り際を選べるように。
「……そういえば。」
「どうされました。」
「いや、この二か月色々ありすぎて忘れちゃってたんだけど。」
「はい。」
帰る話になってふと頭に浮かんだのは、最初に私が怪しまれてしまった最大の原因についてだった。
「あの、私がここに来てすぐの頃みんな私とお姫様がそっくりって言ってたよね?」
「……はい。本当に瓜二つですので。」
「そんなに似てるの?」
「似てると言いますか……顔は本人そのものです。話し方や所作は異なりますが。」
中在家くんはそれをきっかけにどこか深刻な面持ちでぽつりぽつりと彼女について話してくれた。そのお姫様の城で潜入の任務に当たっていたこと。判断を誤り城を陥落させてしまったこと。その炎でお姫様も焼けてしまったこと。そして城が焼けた直後に私が現れ大変驚いたこと。
あの時詳しく聞けなかったことが今ようやく解明された。こちらも充分混乱していたが、みんなもさぞ困惑したことだろう。お姫様だと思って保護した人物が赤の他人で、しかも異世界から来たなどと訳の分からぬことを言い始めたのだから。本当によく学園に置いてくれたものだ。学園長先生の懐の深さと自分の運の良さに改めて安堵する。
「私が最初に立ってたお城はそのお姫様のお城だったんだね。」
「はい。あの炎で正源寺家は滅び、我々に親切にしてくれた綺姫も亡くなってしまいましたが……。」
「え?」
悔しさを滲ませる中在家くんが口にした単語に、全身が強張るのがわかった。今、彼は何と言っただろうか。
「……ご、ごめん。もう一回、言って。」
「何をでしょう。」
「さっきの、そのお城、お姫様は……何て名前。」
思えば城の固有名もお姫様の名前も、一度だって尋ねたことはなかった。日々の目まぐるしさの片隅で、その存在自体忘れかけていた。それなのに。
脳が、中在家くんの口から零れた言葉を拒絶する。だってそんなこと、あり得ない。
「?……あの城はヤマイグチ城、正源寺家の当主賢斉様のもので、みょうじさんと瓜二つなのは正源寺 綺姫でいらっしゃいます。」
がつんと頭を殴られたような衝撃。心臓がどくどくと脈を打った。先程までうるさく鳴いていた筈のセミの音は一切聞こえず、代わりに耳鳴りが頭に響く。じわりじわりと嫌な汗が滲んできて、私は息をするのも忘れていた。
「……みょうじさん?」
中在家くんの怪訝な視線にもまるで気づかない。自分の肌が色をなくしていることさえ感じられなくなっていた。ただただ、愕然と彼が発した名前を反芻する。
正源寺 綺。私が卒業論文の題材として選んだ、その人の名前。城の名前も当主の名前も日記の内容と一致する。
これは一体どういうことだ。
この世界は実際私のいた世界とは違う。私の知っている室町時代とはまるで異なっていて、物語の中に迷い込んでしまったのは明らかだ。それなのに、どうして全く同じ名前の人の日記が私の世界にあったのか。
この世界の人間の日記を、どうして私は向こうで読んでいたというのだろう。しかも、自分と瓜二つという姫の日記を。これをただの偶然と結論付けるのは到底無理な話だった。
不意にあることが頭をよぎる。そうだ、あの日記が発見されたのは確か小さな山寺。前日まではなかったはずの場所に突然現れた。多くの研究者をもってしても未だ解明されることなく謎のまま残っているその出自。
点と点が、線に繋がっていく。もしかして、あの日記を山寺へと届けたのは。私のいた世界にもたらしたのは。
「みょうじさん。」
近くで名前を呼ばれはっと意識が戻される。顔を上げると中在家くんは心配そうにこちらを見つめていた。
「大丈夫ですか。」
年下の彼相手に取り繕うことさえできない。外は茹だるような暑さだというのに、指先は氷のように冷たかった。
「だい、じょうぶ……。」
ようやく絞り出した声は震えている。首筋を伝った汗がぽたりと机の上に落ちていった。もし今考えていることが正しいならば。こちらとあちらを繋ぐ役割の為にここに呼ばれたのならば。
私は、戻らなければならない。戻らなければならない。
開けられた障子窓の向こうから真っ青な空がこちらを見下ろしている。夏休みが、もうそこまで迫っていた。