一章
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徳利とお猪口を二つ手に持ち、用のある部屋へと向かう。
これはは組のよい子たちと遊んでくれたお礼のためなのだと何度自分に言い聞かせても、夜に年頃の女性を訪ねるというのは気が引けるものだった。
得てしてこういうことが苦手な自分だが、今日はどうにも話がしたかった。
「なまえさんは、怖いです。」
報告に来てくれた庄左ヱ門の言葉を思い出す。さすが学級委員長と言うべきか、聡い子だ。
彼女の危うさは、何となく初めから気づいていた。潮江文次郎との一件がある前の張りついた笑顔。逃げ場がないほど自分を追い詰めてしまう厳しさ。自らを押し殺してでも優先させる他人の気持ち。
最近はましになったと言えど、人の本質はそう簡単に変わるものじゃない。誰かに甘え心を預けるということが、彼女はひどく苦手なようだった。
他人の為にいつか取り返しのつかぬほど傷つくのではないかと、恐らく庄左ヱ門だけではなく何人かの忍たまは危惧している。それは彼女の誇れる部分でもあるのだが、時に首を絞めてしまう凶器にもなり得た。
「あれ。」
「おや。」
部屋の中に声をかけようとしたところ、先に障子が開いた。私の訪問が物珍しかったのか、大きな目をさらに丸くしている。
「どうされたんですか。」
「あーいえ、ちょっと晩酌でもどうかなと、思いまして。」
歯切れが悪くなりながらも自分の手に持っているものを見せる。慌てた様子の私を見て彼女は少し笑い、嬉しいですと呟いた。
二人で縁側に腰かけ日本酒を呷る。意外といけるクチのようで、注がれた酒は一瞬のうちに飲み干された。
「今日はありがとうございました。うちの子達と遊んで頂いたようで。お疲れでしょう。」
「ふふ、確かに体はへとへとですが私もとても楽しい時間を過ごせました。」
整った口が綺麗に弧を描く。夜に映える彼女は月灯りに照らされて、どこか大人びて見えた。
「団蔵達がご迷惑をおかけしたとお聞きしました。」
「あ、庄左ヱ門くんですか。」
「そうです。」
察しがいい。様々な物事に気づいてしまう賢さは彼女の敵にも味方にもなる。
「本当に怪我はありませんでしたか。団蔵の方は大丈夫そうでしたけど。」
「それは良かった。私も特に異常ありませんよ。明日の筋肉痛が心配なくらいです。」
おどけたように見せる彼女に、不安げな庄左ヱ門の顔がちらつく。
先程から自分の体調は一切言わない癖に、団蔵の無事には大層安堵した様子を見せる。相変わらずの彼女に思わずため息が出た。
「庄左ヱ門と、約束したでしょう。」
「え。」
「本当に大丈夫ですか。」
風がすぐ側をすり抜けていく。少しの沈黙のあと、彼女はきまり悪そうに視線を逸らした。
「ええと、受け止めた際に少しだけ腰を打ちました、ね……。」
尻すぼみになっていく声は状況を理解しているからで、怒られるのではないかとこちらを窺っている。
「医務室には行かれましたか。」
「ああいや、本当に大したことないので。」
「……みょうじさん。」
「あ、あはは……。あの、はい。行きます。明日必ず。」
「約束ですよ。」
「はい……。」
視線に圧されてか、彼女はようやく了承してくれた。それにしてもこの子はいつでも自分は後回しだ。生来甘えるということが苦手なのかもしれない。どうしたものか。
「今日は、約束してばっかりです。」
二杯目を飲みながら、彼女がぽつりと零す。どこか自嘲気味なその響きに、視線が逸らせなくなる。
「庄左ヱ門くんにいなくなってしまいそうで怖いと言われた時、はっとしました。あんな顔させるつもりじゃなかった。」
ああ、この子も本当は分かっているのだ。自分を大切にしなければならないこと。誰かを頼らなくてはいけないこと。しかしここには大切なものが多く、ままならない。
「駄目ですね。お酒が入ってるからでしょうか。……いや、土井先生だからかな。なんだか弱音ばかり出てきます。」
土井先生だから、という言葉にあからさまに熱が集まる。普段見ることのない弱々しい姿に、思わず触れてしまいたい衝動に駆られる。
「弱音、吐いてもいいんじゃないでしょうか。」
回らぬ頭で何とか答えを絞り出し、年上らしい返しをする。彼女はふわりと笑ったあと、目を伏せた。
「……そうですね。土井先生は先生ですし、弱音とか、愚痴とか、我が儘とか、言えそうな気がします。」
再び目を開けた彼女と視線がぶつかる。悪戯に微笑んでいるその顔はいつもより妖艶で、心臓が跳ねたのがわかった。
「構いませんよ、いつでも。お聞きします。」
「ふふ、頼れるなあ。」
顔が赤いのはばれていないだろうか。いや、今なら酒のせいにしてしまえる。いつになく気やすい彼女から、ずっと目が離せなかった。
恐らくこの学園で私と一番年の近い彼女。その会話は心地よかった。
年下に手放しで甘えることができないというのなら、いくらでも頼れる身近な存在にしてもらって構わない。元々初めから頼られたくて声をかけたのだ。
不意に彼女が空を見上げた。月明かりに照らされた横顔はあまりに綺麗で、そのままどこかへ消えてしまいそうな錯覚に陥る。
咄嗟に彼女の腕を掴んだ。いなくなってしまうのではないかと、本気で思った。
彼女は驚いて振り返ったが、自分も自分に驚いていた。
「あ、いや……すみません。」
上手く言葉にできず謝るしかない。一瞬きょとんとした彼女は意図を察してくれたのか、安心させるように手を握り返してくれた。
「いますよ、ここに。」
彼女の手はひんやりしていたが、確かに生きているという感触があった。そうだ、ちゃんとここにいる。急に消えてしまったりなどしない。
伝わる温度が鼓動を速くさせる。気づかれているのではないかと内心ひやひやしながら隣を盗み見るが、まるで気にしていないように酒を呷る姿があった。
この手を離したくない。
まずいと思った。彼女の未来を奪って全て自分のものにしたいような激情。穏やかに笑っている彼女にだけは気づかれてはいけない衝動。必死で感情を抑え込み、自身の黒いものを落ち着かせる。
やめろ。困らせるだけだ。どう転んでも幸せにしてあげられるわけがないというのに。
どうか、どうか彼女の隣にいるのが自分ではありませんように。懇願にも似た思いで月を見上げる。自らの感情を消し去るように、乱暴に酒を流し込んだ。
未だ重なる二つの手は温かい。今はこの確かな熱だけがあれば十分だった。