一章
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実習から帰ると、遠くの方に校庭を掃除する彼女の姿が見えた。
「なまえさんだ。」
思わずその名を零すと、隣にいた雷蔵と八左ヱ門もそちらに視線を向ける。この位置からすぐに彼女だとわかってしまったことが気恥ずかしく感じだが、幸いにも二人は気にしていない。
「本当だ。」
「暑い中頑張ってんなあ。」
日差しが一番きつくなるこの時間にやらせることないのにな。若干吉野先生の采配にむっとする。
「三郎見すぎ。」
「え、」
雷蔵に言われて慌てて目を逸らす。どうやら向こうもこちらに気づいたらしく、ほうきを持ったまま近づいてきてくれた。
「みんな帰ってたんだね。お疲れ様。」
実習で三日ほど空けていた自分達を、花が咲いたような表情の彼女が迎えてくれる。駆け寄る姿は小動物のようでとても愛らしかった。
彼女の額には汗が滲んでおり、今日の暑さを感じさせる。
「ありがとうございます。みょうじさんもお変わりないですか。」
「うん、元気だよ。今日は一年は組の子達とかくれんぼするの。」
彼女の返答に俺たちは顔を引き攣らせた。三人とも似たようなことを考えているらしい。
「それは、大丈夫ですか。」
眉を顰めて問えば、意気込んだ様子で拳に力を入れている。
「大丈夫、気合十分。」
全く大丈夫じゃない気がするのは俺だけだろうか。とりあえず水分をしっかりとるように注意する。
「実は立花くん達にも心配されたんだよね。正直ちょっと怖いです。」
「一年は組は元気だからなあ。」
力尽きるまで遊ぶ、といった印象がある。加えて面倒ごとにも巻き込まれやすい。後で庄左ヱ門にそれとなく伝えておこう。
「そういやみょうじさんこの炎天下の中熱くないですか?」
思っていたことを八左ヱ門が口にする。
「ちょっとね。本当はもうちょっと陽が落ちてからでもいいんだけど、今日は約束があるから早く終わらせたくて。」
「……無理は禁物ですよ。」
彼女は人の気持ちを優先するあまり自分を蔑ろにしてしまう傾向がある。潮江先輩との一件が頭に浮かんで思わず口を出してしまった。
「えへ、十分気を付けます。」
まずいと思ったらしい彼女は視線をそらしながらおどけて笑う。叱られるのを回避するように話題を変えた。
「み、みんなも暑かったでしょ。しっかりお水飲んでね。」
「ありがとうございます。これから井戸に向かおうと思っていたところです。」
「みょうじさんも、掃除頑張ってくださいね!」
「ありがとう、竹谷くん。」
まだ言いたいことはあったのだが、あまり仕事の邪魔をするわけにもいかず背を向ける。雷蔵の隣に並ぼうと足を踏み出した瞬間、小さな手が俺を呼び止めた。
「あ、待って三郎くん。」
何事かと振り向けば背伸びした彼女の手が俺の頬へと伸びた。何が起きたのか理解できず固まる。
「土、ついてたから。取れたよ。」
ふわりと笑った彼女を見て、ようやく手拭いで汚れを拭われたのだと気づく。夏のせいではない顔の熱さに先程までとは比じゃない汗が吹き出してきた。
「あ、りがとう、ございます。」
やっとのことで絞り出せば、彼女はまるで気にしていない様子でゆっくり休んでねと掃除に戻る。
いまだ根が生えたように動けずいる俺に、二つの憐みの視線が向けられる。半ば強引に八左ヱ門に引きずられながら、俺はようやく思考を取り戻し始めた。
「大丈夫かよ三郎。」
「いや、」
「みょうじさん、三郎相手だと距離近いよね。」
「……そう思うか。」
頭を撫でないように気をつけてくれてはいるものの、他の上級生と比べてどこか自分とは距離が近い。男性として全く警戒されていないのか、はたまた本当に特別なのか。正直前者なのは目に見えていたが、他の人とは異なる扱われ方に心が弾むのも事実だった。
隣にいることを誰よりも許されている。そう勘違いしてしまいそうになるほど、今の俺は腑抜けていた。
「俺あんなに不用意に近づかれたことねえもん。」
「勘右衛門も仲は良いけど、三郎ほど踏み込ませてもらってないように見えるよ。」
立花先輩にも勘右衛門にもどこか一線引いているように見える彼女。その線引きが自分にはない。ずっと不思議に感じていることだ。
「だよな。……何でだろ。」
「聞いてみないのか?」
至極当然のように聞いてくる八左ヱ門を、苦々しい気持ちで見つめる。俺もお前ほど素直な性格ならよかったよ。
「いや……しばらくは聞かない。」
俺の言葉に、隣の片割れが笑った。聞かないのではなく聞けないのだということを見破られている。雷蔵は特に口にはしなかったが、俺のことを見守ってくれているらしかった。
今はまだ何も知らずにぬか喜びしていたい。あの笑顔を、俺だけの特別を手放したくない。
尽きるのことのない欲が頭を支配し、熱が加速するのがわかった。