一章
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僕と伝七は、初め彼女のことが好きではなかった。安藤先生は彼女のことを良く思っていないようだったし、特に僕は潮江委員長の影響も強く嫌悪感さえあった。
しかし自分の敵対心とは反対に、彼女は誰にでも優しかった。潮江先輩のことを怖がってはいたが、他の忍たまには分け隔てなく接していて纏う雰囲気はとても柔らかい。
段々と彼女への暗い気持ちは薄れ、いつのまにか憧れのようなものにすり替わっていった。近づいて話がしてみたかった。気兼ねなく側に行ける学級委員長委員会の彦四郎が羨ましくて仕方がなかった。
けれどあの夜事件は起こった。僕達一年生が恐れ戦く潮江先輩に、彼女は一人で立ち向かっていた。彼女の鬼気迫る叫びに僕は大層驚き、そして戸惑った。
自分も彼女を追い詰めた一端なのだとその時ようやく気がついたからだった。頭を殴られたような衝撃だった。
食堂で失礼な態度をとってしまったことを、それからずっと後悔している。他の三人も同じようなもので、彦四郎は仲良くなってからも謝る機会を伺い続けているらしかった。
一限目が始まってすぐ、彼女は一年い組の教室へとやってきた。
「失礼します。」
ひょっこりと顔を覗かせた彼女の手には勉強道具が握られている。みんなどこか緊張した面持ちで、誘ったはいいがここからどうするかを悩んでいるように見えた。
「お待ちしていました。」
比較的仲の良い彦四郎が迎え入れ、席についてもらうよう促す。
「ありがとう。何を持って来ていいかわからなかったからとりあえず筆記用具だけにしたよ。」
彼女が机に置いた道具は初めて目にするものばかりで、みんな口には出さないが興味を示していた。
「早速ですが、昨日出された宿題を見て頂いてもよろしいでしょうか。」
「わかった。一人ずつ見ていくね。」
自身のそわそわした気持ちを悟られないよう伝七が宿題を差し出す。彼女はそれを丁寧に確認してくれていた。みんな緊張しているからか話すことができず、沈黙のまま先生役の彼女をじっと見つめていた。
「うん、みんなよくできてる。間違ってないと思うよ。」
私が見逃してたらごめんね、と言って彼女は笑う。
どうしよう、まだ授業が始まって十分しかたっていない。あまりに早くやることが終わってしまいその場に気まずい空気が流れた。
すると困った僕たちを気遣ってか彼女は自身の筆記用具を取り出した。
「これは私が元の世界で使ってたものなんだけど、実は墨がなくても紙に文字を書くことができます。」
不敵な笑みが僕たちの好奇心をくすぐる。
「そんなことできるんですか?」
「できるよ~。紙も持ってきたやつ使っていいから書いてみる?」
「いいんですか?」
一平が筆の代わりらしきものを持たせてもらう。試しに手を動かすと、真っ白な紙の上を真っ直ぐ黒い線が滑った。
「す、すごい。」
「筆よりずっと細い線が書けるんですね。」
「紙も僕たちが普段使うのよりすべすべだよ。」
「これどうなってるんですか?」
僕たちは思わず興奮気味になる。彼女は丁寧に答えてくれた。
「うーん、どう説明したらいいんだろう。えっとこの中にね、樹脂と黒鉛を混ぜて固めたものが入ってるの。ほらこれ。」
彼女が筆のようなものを何やら動かすと黒く細長いものが出てきた。どうやらこれが墨の代わりらしい。
「こくえん?って何ですか。」
伝七が目を輝かせて質問する。いつの間にか気まずさは消えているようだった。
「ええと、黒くてこんなふうに文字が書ける性質を持った石のことだよ。」
彼女は僕達にもわかるよう言葉を選んで説明してくれているようだった。投げかけたものにはしっかりと答えてくれ、その知識の深さに尊敬の念を覚える。
「そしてなんとこれ、消せます。」
そう言って彼女は白い塊を取り出し、一平が書いた線をなぞった。
「!?」
彼女の言ったとおり、先ほどまで紙に書かれていたものは綺麗さっぱりなくなっていた。まるで妖術でも使ったかのような光景に恐怖さえ感じる。
「すごい。何これ!」
「僕もやってみたい!」
「一平次貸して。」
わあわあと騒がしくなる。い組らしくないとも思ったが僕も試さずにはいられなかった。
「ふふ、まだ何本かあるから好きに使って。」
彼女はいくつか同じようなものを僕たちに渡してくれた。これらはしゃーぷぺんしるとけしごむと言うらしい。それからしばらく僕たちは夢中で遊び、彼女はそれを優しい目で眺めていた。
ひとしきり遊んだところで、伝七は当初の目的を急に思い出したようだった。先程までの楽しそうな顔とは打って変わり、どう切り出そうか困っている。
伝えたいことは僕も同じだった。あとは誰が口を開くかだ。彼女に対する後悔を振り切るように、意を決して柔らかな瞳に声をかけた。
「あの、みょうじさん。」
「ん?」
目を細めながらゆっくりとこちらを向いた彼女が、何故だか母上と重なった。
「以前は申し訳ありませんでした。」
『申し訳ありませんでした。』
三人も続いて頭を下げる。突然繰り出された謝罪に彼女はとても困惑しているようだった。
「どうしたのみんな。何も悪いことされた覚えないよ?」
心当たりなどまるでないかのような口ぶりで、慌てて顔を上げさせられる。彼女が気にしていないことなど僕達もとうに分かっていたが、それでもあの夜の涙を忘れられるはずなかった。
「みょうじさんが食堂で働き始めた日に、僕たちはひどい態度をとってしまいました。」
伝七が泣きそうになりながら答えると、ようやく彼女は合点がいった様子だった。
「全然気にしてないよ。敵かもしれない人が食べ物扱ってたら怖いに決まってるし、私がみんなでも同じようにしたと思うよ。」
僕達を安心させるように、彼女はふわりと笑う。温かな響きを持つ言葉の一つ一つが、心を溶かしてくれていた。
「それに今はこうやって話せてる。私は今日みんなが誘いに来てくれて本当に嬉しかったよ。」
ぽんぽんと頭を撫でてくれる温もりに触れ、とっさに唇を噛む。まるで喉にものが詰まったように、僕は何もしゃべれなかった。
「勇気を出して謝ってくれてありがとう。これからも仲良くしてくれる?」
ずっと言いたかったことを先に言われてしまった。半べそをかいている僕達を見て、彼女は大きく両手を広げた。
我慢できずに涙を溢した彦四郎と一平が迷わずその胸に飛び込む。僕と伝七は遠慮がちに近づいたが、彼女は母のように包み込んでくれた。
「泣かせちゃった。ごめんね。」
あやすように背中をさすってくれる。その柔らかい手に、落ち着いた声に、段々とみんなの呼吸が整っていく。
「みょうじさん、一つお願いしてもいいですか?」
赤い目をした彦四郎が彼女を見上げる。
「ん、いいよ。」
「下の名前で呼ばせてください。」
それは一年い組全員の悩みだった。僕達以外の一年生はみんな彼女のことをなまえさんと呼んでいる。しかしそんなことを気にしている素振りを見せるのは、あまりに子どもっぽくて躊躇われた。
彼女は一瞬驚いた素振りを見せたあと、慈愛に満ちた表情で僕達を再び抱きしめた。
「勿論。私もみんなのこと名前で呼んでもいい?」
「呼んでもらいたいです。」
すっかり甘やかされている伝七はいつもよりずいぶん素直だ。
「ふふ、良かった。改めてよろしくね。」
僕達を腕から解放して微笑んだ彼女に僕達も声を揃えて返事をした。
その日から僕達はなまえさんのことを母のように慕い、二人きりの時にはよく膝に乗せてもらう仲になるのだが、恥ずかしいのでそれはここだけの話にする。
ヘムヘムの撞く鐘の音が聞こえる。一時間目終わりの合図だった。