一章
設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
潮江くんとの一件から十日ほどが経った。足の怪我も回復し、食堂の手伝いと事務員の仕事も再開できている。
今日は学園がお休みの日だ。私は朝から図書室に籠もり、うんうん唸っていた。
「うう、くじけそう。」
「大丈夫です。ここまでよくできていますよ。」
不破くんは褒めてくれるが全く進まない。先程から辞典と書物とノートを行ったり来たりだ。
三日前、以前中在家くんが提案してくれた勉強会をようやく開始することができた。
図書委員のみんなも快く協力してくれ、作業のついでに様子を見に来てくれる。今日は不破くん、怪士丸くん、能勢くん、それに三郎くんと勘ちゃんが付き添ってくれていた。
まずは簡単なものからと中在家くんが用意してくれた生活史の書物を読んでいるのだが、これが果てしなく終わらない。
くずし字辞典と照らし合わせ、現代で使われている漢字へと直す。次にそれを書き下し、現代語訳する。最後に自分で辿りついた文章の意味を不破くん達に判定してもらう。概ね間違っていなければやっと次に進める。
恐ろしく時間がかかるのだ。気が遠くなるような作業に己の勉強不足を恨んだ。
書いては消してを繰り返す。ノートには漢字の羅列がびっしりと並んでいた。非常に非効率な方法にも思えたが今はこれを地道にやるしかなかった。
少しでも進みが速くなるように、私は自分が持ってきていた筆記用具とノートを使っている。みんなが興味津々だったので、壊さなければ好きに遊んでもいいと伝えた。初日から顔を輝かせていた勘ちゃんはジェルボールペンが大層気に入ったようで、今も夢中で落書きをしている。
「なまえさん、これ本当にすごいですね!」
勘ちゃんは私を名前で呼ぶようになった。突然呼び方が変わった三郎くんのことを彼が見逃すはずもなく、何があったのか問い詰められた末下の名前を許すことで何とか事は収まった。
「そこの黒いところがなくなったら書けなくなっちゃうから気をつけてね。」
無邪気に笑う彼の手元を見ると、もうインクは半分になっていた。今後日の目を見ることはないだろうから私としては使い切ってもらっても構わないのだが、喜ぶ顔が見られなくなるのは少し寂しい。
「そろそろ休憩しませんか。」
煮詰まっている私を心配して三郎くんが声をかけてくれる。確かに始めてから大分時間が経っていた。
「うー、ありがとう。でも何が何でも今日はここまでやる。」
そう、このページが終わるまでは図書室から出ないと決めていた。もはや意地だった。
「……本当に熱心ですね。」
唸りながらも再びノートへと視線を移した私を見て、不意に能勢くんが呟いた。彼は図書室にいることが多く、ここ数日よく顔を合わせている。
「そうかな。元々勉強は好きな方だけど。」
「なまえさんは歴史に詳しいとお聞きしました。」
作業をしていた怪士丸くんも手を止めて興味深そうに話に加わる。
「自慢できるほどじゃないよ。現にこの時代の文字全然読めてないし……。」
目の前の文章を苦々しく見つめる。
「いえ、十分読めてると思います。みょうじさんが書いた文字、僕達が馴染んでいるものと随分形が違いますから。」
「能勢の言う通りですよ。親しみのない字を一から学んでるのになまえさんは短時間でここまで進んでる。私にはできないです。」
「ええ、三郎くん賢いし同じように辞書があったらすぐ読めるよ。」
「買い被りすぎです。」
謙遜しているが彼なら難なくこなしそうだ。しかし二人が励ましてくれたおかげでやる気が出てきた。
「歴史に詳しいということは、なまえさんは今後起こることも知ってらっしゃるんでしょうか?」
怪士丸くんが話題を戻す。彼が興味を持ったのはそこだったか。
「それは、そうだね。歴史に遺るのは大きな出来事ばかりだから、細かいことは分からないけどね。」
「では、この時代はどうなっていくのでしょう。」
意外にもここに来てから初めてされた質問だった。それは幼い怪士丸くんから出た純粋な疑問だったが、不破くんや三郎くん、遊んでいた勘ちゃんまで興味ありげな顔でこちらを見ている。
「……ごめん、答えられない。」
無垢な瞳に向かって言うのは心苦しかったが、歴史を学ぶ者の端くれとしてこれだけは譲れなかった。
「すごく先のこと、例えば私のいた時代のことなんかはいくらでも話すよ。でも直近の時代の話をするわけにはいかない。」
「……ごめんなさい。」
しょんぼりと肩を落とした怪士丸くんの頭を優しく撫でる。
「私の方こそごめんね。自分の未来がどうなるかって確かにすごく気になるよね。でもそれを知るのは多分とっても怖いこと。」
「怖いことですか?」
「うん。どこへ向かうか明確になってしまっていることは、時にとても恐ろしいものだと思うよ。」
「ちょっと難しいです。」
私の抽象的な発言に怪士丸くんが眉を下げる。
「ふふ、今はそうかもね。でも必ず分かる日が来るよ。」
彼は冷静に物事を見極めることができる人。言葉の意味を理解できる日もきっと近い。
「あとは時代に逆らってしまうのが怖いかな。」
本当はこれが教えられない主な理由だった。
「理に背くことになるからですか。」
やはり三郎くんは賢い。鋭い指摘に感動さえ覚えた。
「うん。私が余計なことを言うってことは時間の流れを阻害してしまうってことだから。何が起きるかわからなくて怖い。」
世界が違うと言えど、ここはどうやら室町時代を基にして作られた物語の中だ。すぐそこの未来の話をすることで世界の在り方を変えてしまう危険性は十分にある。
この場所に生きている人々が積み重ねてきた愛おしい営みを、イレギュラーな自分の存在によって壊してしまいたくはなかった。
みんなは真剣な顔で聞いてくれていた。言わんとしていることも察してくれているようだった。
「それに、先がわからない人生の方がきっと楽しいよ。」
私が笑いかけると彼らも頷く。
定まった未来にただ向かうだけなんてつまらない。何が起こるかわからないからこそ人の世は面白いのだ。
「やっぱりずるして将来のことを知るのは駄目ですね。」
どうやら怪士丸くんも納得してくれたようだった。
「そうそう。努力して手に入れた文明にこそ価値があるってね。」
戦の果てに行きつく先がどこであろうと私がそれを止めることはできない。不便であっても凄惨であっても、その歴史を改変することは誰にも許されていないのだ。
「私の時代のことに興味があったらいつでも聞いてね。何でも答えるから。」
にっこりと微笑めばみんなの表情も和らいだ。朝から難しい話しちゃったな。
「それじゃあ怪士丸、久作、作業を再開しようか。」
不破くんの呼びかけに図書委員の面々は奥へと姿を消す。私もやりかけの文章へと目を落とし、再び課題に取り掛かった。