一章
設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目を覚ますとまだ明け方だった。部屋を見回したがやはり鉢屋くんの姿はなくなっていた。
彼のおかげでとてもよく眠れた気がする。昨夜の会話を思い出しながら思わず頬が緩んだ。
伸びをしたあと朝日を浴びるために立ち上がろうとしたが叶わなかった。
痛めた足で踏ん張りがきかずよろける。思わず衝撃に備えたが床に倒れ込むことはなく、誰かが支えてくれたのがわかった。
目を開けるとそこにいたのは他でもない、潮江くんだった。
「ありがとう。そろそろ来る頃だと思ってた。」
体勢を立て直してお礼を言えば、彼は困惑した表情を見せた。もっと怯えられるものだと思っていたらしい。
一体いつから待っていてくれたのだろう。話せるチャンスを窺っていたのだとすぐにわかった。
私は布団へと座り、潮江くんは一定の距離を保って正座する。お互いに姿勢を正してどちらかが口を開くのを待つ。
左門くんの言葉を聞いたからだろうか。あんなにも恐ろしかったはずの彼の顔が、まだあどけない少年のように見えた。
しばらくの沈黙のあと、潮江くんは手をついて深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。」
学園に来てからずっと聞かされてきた威圧的な声ではなかった。そういえば私は彼の穏やかに話すところを見たことがない。
「自らの愚行により傷つけてしまったこと、貴方にとって大切なものを壊してしまったこと、いくら謝っても謝り切れるとは思っていませんが本当に申し訳ありませんでした。」
どこか不思議な気持ちで彼を眺めていた。こんなにもしおらしい姿を見るのは勿論初めてで、あれほど恐ろしかった彼がひどく小さく感じた。
私はもしかしたら潮江くんは謝らないかもしれないと思っていた。ここに来てからの彼しか知らない私は、彼が自らの行動を省みて非を認めるとは考えられなかった。
とんだ思い違いをしていたかもしれない。恐らくこれが本当の潮江くんなのだ。
本来彼は自らの嫌悪感だけで感情的に突き動くタイプではなく、冷静に自分も周りも見定めることができる優秀な人なのだろう。己の間違いを認め、人に頭を下げる強さを持っている。途端に彼の見方が変わった気がした。
自分の中で毒気が抜かれていくのがわかる。
「貴方に何故あのような行動をとったのか、その理由を伝えることはできません。しかし謝りたいと思っているのは本心です。」
潮江くんは顔を上げずに続ける。
「許してもらえるとは思っていません。許さなくていいです。今後私は極力あなたに近づきません。私の存在をあなたの中から消す、これが贖罪だと思っていただいて構いません。」
恐らくたくさん考えて彼が辿りついた答え。しかしその言葉に私は納得できなかった。彼が反省していることは痛いほど伝わってきたが、何だかそれで終わりにしてくれと言われている気がした。
「それは嫌だ。」
はっきり告げると、彼はようやく私と目を合わせた。
「嫌だ、というのは。」
「私が潮江くんを許すかどうかは今後の貴方を見て決めようと思ってる。だから私から逃げてほしくない。」
逃げる、という言葉に彼は顔を顰めた。
「嫌な言い方をしてごめんなさい。それにあの夜のことも、怒鳴りつけてしまってごめんなさい。でも、贖罪だというのならもう一度私と向き合うことを選んでほしい。」
私は潮江くんとやり直したかった。
こんな出会い方をしていなければ、彼はどんな人間だったのだろう。私にどんな表情を見せてくれたのだろう。もしかして笑顔を向けてくれただろうか。それが知りたかった。
「我が儘なお願いかもしれない。それでも、距離を置いて終わりにするんじゃなくて、もう一度始めさせてほしい。」
自分の気持ちからも私の気持ちからも逃げないでいてほしい。今度こそ。
「……貴方は優しすぎる。」
潮江くんは俯きながら呟いた。随分自己中心的なお願いをしたにも拘わらず私をそう形容した彼の人柄など、今後を見なくても分かったような気がした。
「そうかな。距離を置こうとしている相手に逃げるななんてかなり厳しいこと言ってると思うけど……。」
「もう顔も見たくないと言われても仕方がないことをしたというのに、私の為にまだやり直す機会を与えてくださっているでしょう。」
「それなら、潮江くんだって優しいよ。」
顔を上げた彼ににっこりと微笑む。泣きそうに歪んだその表情は、年相応の男の子に見えた。
「あんなことがあったのに、ちゃんと謝りに来てくれたでしょう。これってすごいことだと思う。」
「……そうでしょうか。」
「そうだよ。自分を一度否定して正直に謝るってなかなかできないことだと思うよ。」
ありがとうと言えばため息を吐かれる。
「おかしな人だ。」
「え、謝る気ある?」
突然の悪態に思わず砕けて答えると彼の表情は穏やかになった。潮江くんが笑ったところを初めて見た。
「ねえ、改めて自己紹介してもいい?」
「……構いませんが。」
「みょうじなまえです、よろしくお願いします。」
握手の為に私は右手を差し出した。彼は戸惑いながらもしっかりとそれを握り返してくれる。
「六年い組の潮江文次郎です。よろしくお願いします。」
そう、本当はこんな風に始めるべきだったのだ。
彼の大きな手はもう私を抑えつける恐怖の対象ではなく、確かに温かさを伝えてくれるものだった。
「妙な感じですね。」
潮江くんが照れ臭そうに手を放す。
「そうかもね。だけどこれでやっと、貴方と対等になれた気がする。」
やはりおかしな人だ、と言って彼は笑った。二人の間に穏やかな空気が流れているのは初めてのことで、どこかむず痒い気持ちになる。
完全に朝日が昇りみんなも起き出しているようで、外が段々と賑やかになってきた。そろそろ善法寺くんが様子を見に来てくれるだろう。
「それでは私は失礼させて頂きます。」
「うん。本当に来てくれてありがとうね。」
「いえ、お礼を言うのはこちらの方です。話を聞いてくださってありがとうございました。」
深々と頭を下げる。今日見ている彼の姿は全てが初めてのもので、どこか新鮮な気持ちになる。
顔を上げたあと潮江くんはすぐに消えてしまった。彼のいなくなった部屋はがらんとしていたが、先程まであった温かさはまだ残っている。
私と潮江くんが改めて始まった、そんな朝だった。