一章
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―悲しい、悲しい。
誰?
―私は確かに存在しているのに。
泣かないで。
―一体誰が覚えているというのだろう。
大丈夫、私は覚えているから。きっと伝えてくるから。
「あ、待って!」
声のする方向に伸ばした手は空を切った。周りを見渡してみると医務室のようだ。
「今のは夢……?」
あんなにはっきりと見ていたはずなのにもう内容は覚えていなかった。何か大事な夢だったような気がするが、今となっては分からない。
「……またみんなに迷惑かけちゃったな。」
いつの間にか学園へと戻り怪我の処置までしてもらっている。足に巻かれた包帯に気づき小さくため息を吐いた。
あんなに激しい雨の中、みんな探してくれたんだ。自分が犯した事の重大さに、また涙が滲んできた。
どれほど眠っていたのだろう。医務室には誰もいなかった。
外が暗い。まだ夜中だろうか。いつもは孤独に震えていたが今は一人の方が心地よかった。泣いている姿も見られなくて済んだ。
「私だって、私だって来たくて来たわけじゃない!!!」
運ばれた記憶はないのに、自分が言ってしまったことだけは克明に思い出せる。みんなに合わせる顔がない。
これからどうしようか。このまま出て行こうとしたらやっぱりばれてしまうのかな。
「こっちだー!」
自分の行く末に頭を悩ませていると、聞き覚えのあるフレーズが部屋の前を通った。
「左門くん?」
思わず名前を呼ぶと、通り過ぎたはずの足音が戻ってきて可愛い顔が障子の隙間から覗いた。
「なまえさん、もうお加減よろしいのですか?」
言われて気づいたが、体が楽になっている。残っているのは足の痛みくらいだった。
「そうみたい。ごめんね、あんなところ見せちゃって。」
涙を拭きながらこちらにおいでと手招けば、珍しく迷わず隣に座った。
「いえ、みんな気にしていません。それよりも、なまえさんに無理をさせてしまったことがよくなかったのです。」
「そんな。何も言わなかったのは私が勝手に意地になってたからで、誰のせいでもないよ。」
「あの場で誰も潮江先輩を止められなかった。それはやはり僕達の責任です。」
そう言い切る彼の目は、十二歳とは思えないほど強かった。
「潮江くんにも、悪いことしちゃったね。」
「いえ、後輩の僕が見てもあれは潮江先輩が悪いです。」
はっきりとした口調にどこか安心している自分がいた。いつからこんな性格になってしまったのか、潮江くんが悪者のように扱われていることに少しも胸は痛まなかった。
「潮江先輩は、本当になまえさんが好きなんだなあ。」
「えっ?」
唐突だった。先程までまるで真逆の話をしていたように思えたが、左門くんの顔はやはり真剣だ。
「好きってどういうこと?」
「潮江先輩はなまえさんのことを女性として見ていらっしゃるということです!」
「左門くん、あの、私と潮江くんのやり取り見てた?」
「はい!最近はなまえさんにひどい態度ばかり取る潮江先輩のこともずっと観察していました。」
どうやら冗談ではないようだ。いやしかし、そんなことがあり得るのだろうか。
「潮江先輩は、なまえさんが誰かと話すたびに嫌そうな顔をされてましたから。」
青天の霹靂だった。左門くんの言葉は突拍子もないもので、今まで一度も頭に浮かんだことのない可能性だった。
初めこそ信じられなかったが、彼の話を聞いていくうちに憑き物が落ちたかのような気持ちになる。
いくつもの点と点がつながり、途端にその行動に意味が見出された。成る程、そういうことだったのか。
潮江くんが怯えていたのは、自分自身に対してだったのだ。
どこの誰かもわからない怪しい女に恋をしてしまった。プライドの高そうな彼のことだ、そんな自分が許せなかったのだろう。
嫌いな素振りを見せながらわざわざ近づいてきたり、そうかと思えば急に遠ざけたり。私が悪者でなければならなかったのも、彼の中で処理しきれない感情を敵対心とみなすことで必死に整合性を図ろうとしたからだろう。認めてしまえば自分のこれまでが崩れるようで、恐ろしかったのかもしれない。
「左門くんはすごいね。」
「何がですか?」
「私潮江くんの気持ち全然わからなかった。」
「潮江先輩は最近ずっとなまえさんのことを気にしていました。はじめは僕も嫌っているのかと思っていたんですが、厳しい言動のわりに本気で追い出そうとしていないことに気がついたんです。」
「そうだったの。」
「嫌ってないことがわかれば、あとの結論は出しやすかったです!」
感服する他なかった。三年生は揃って恋愛経験豊富なのかもしれない。次屋くんの顔が頭に浮かんだ。
左門くんは自分自身に迷いがなく、その澄んだ大きな瞳で真っ直ぐに物事を捉える。それは彼の尊敬すべき部分であり、私を救ってくれる光になった。
憎悪で黒く塗り潰されそうだった感情をきらきらと光る迷いのない瞳が溶かしていく。
ずっと夜が続いているような薄暗さが心の中に立ち込めていたが、それもどこかに霧散していた。
「なまえさん、ほら陽が差してきましたよ。」
左門くんの指さす先には、先程までの土砂降りが嘘のように眩い光が差し込んでいた。
今ここに朝が来たのだと思った。
「僕、みんなのこと呼んできますね。」
「え、ちょっと待」
「大丈夫です、みんななまえさんに会いたがっていますよ。」
心配していたのはそういうことではないのだけれど。呼び止める声にも振り向かず走って行ってしまった。果たして左門くんは誰かの所に辿り着けるだろうか。
彼が去ったあと、どこか新鮮な気持ちで外を見ていた。一日の始まりをこんなにも美しく感じたのは初めてだ。
問題は未だ山積みである。帰れる方法も見つかっていない。
しかし気分は晴れやかだった。毎日追い出されてしまわないことに必死だったが、これからはもっと肩の力を抜いてやれる気がする。
ここに来てからというもの、誰かに迷惑をかけることも頼ることも悪のように感じていた。
負担になってしまえば居場所がなくなる気がして、無意識のうちに自分の感情に制限をかけた。しかしそれは違う。
寂しいも悲しいも苦しいも、言っていいのだ。
左門くんの真っ直ぐな瞳が何故だかそう思わせてくれた。
ここにいていいのだと言われた気がした。
世界はこんなに明るかっただろうか。今登ろうとしている朝日が、優しく私を照らしてくれていた。