一章
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文次郎が部屋から出て行ったのが気になり、こっそりと後を尾けた。すると案の定奴は彼女の部屋に向かっていた。
少々不安ではあったが、話ができれば何かが好転するかもしれない。危なくなったら自分が止めればいい。そう思ってしばらく様子を窺うことにした。
これがいかに甘い考えだったか、私はすぐに思い知ることになる。
用事があって偶然六年長屋の近くに来ていた四年い組と五年生も、ただ事ではないと同じように身を潜めているようだった。
私の期待も虚しく、やはり文次郎は罵詈雑言を彼女に浴びせ始めた。助けなければとすぐに出て行こうとしたのだが、驚いたことに彼女が言い返した。その剣幕は初めて見るもので、その場の誰もが動けなくなっているようだった。
そこから二人の言い合いはより激しさを増していき、大きな声に驚いた忍たま達が長屋から出てきた。雨音をかき消すような文次郎の笑い声が、学園中に響き渡る。
「はは、それがお前の本性か。ついに尻尾を掴んだぞ。おい、みんな見てみろ!これがこいつの本当の姿だ!」
文次郎の狙いはどうやらこれであったようだ。我慢できないほど罵り相手が怒ったところで野次馬を呼ぶ。とにかく彼女に不利な状況が作りたかったわけだ。
しかしそれに怯むことなくはっきりとした口調で彼女は言葉を続けた。
「確かに貴方の言ってたことは正しいよ。私は非力だし何の取り柄もない。貴方に嫌われていることで学園は変な雰囲気になっているし年下の子達にまで迷惑かけてる。」
そんなことを考えていたのか。初めて聞く彼女の胸の内は、いつもの朗らかな笑顔とはかけ離れたものだった。
「でも、絶対に貴方ほど卑怯な人間じゃない!」
「何だと!」
文次郎が彼女の胸ぐらを掴む。私はたまらず飛び出していた。
「やめろ文次郎!いい加減にしないか。」
しかし二人の動きが止まることはない。
「ほら今も同じ。腕力で自分に敵うはずがない相手に必要以上に力を見せつけて恐怖を植えつける。そうやって支配した気になっていたんでしょう。」
「この、」
「理屈を無視して感情だけで押さえつけられて黙っていられるほど良い子でもないし大人でもないの、私は。」
どうやら私の姿も見えていないようで、凛とした表情のまま彼女は文次郎を追い詰めていく。
しかし最悪の事態は起こった。
文次郎が彼女の右手に目を向けたのだ。
彼女は学園に来てからというもの、それを至極大事そうに持っていた。一度一緒に夕涼みをした際に聞いてみると、家族との思い出が入っているお守りのようなものだと教えてくれた。彼女にとってそれがどれほど価値のあるものなのか、その表情を見ると一目瞭然であった。
「これで何をする気だ。」
「何もしない。」
「嘘をつけ!何かよからぬことを企んでいるんだろう。」
「っ違う!これに害がないことは荷物検査で証明されてるじゃない!」
「使い方がわからぬ人間がいくら調べても何も出てくるはずがない。」
文次郎は彼女の言葉に聞く耳を持たない。
「返して、大事なものなの。」
その声は震えていた。
懇願も虚しく、それは宙を舞った。咄嗟に手を伸ばしたが間に合わない。彼女の顔からみるみる色が失われていくのがわかった。
力なく俯いてしまった彼女を見て文次郎は満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん、これでもう何もできまい。」
勝利を確信して手を放そうとしたその時、彼女が顔を上げて文次郎の胸に掴みかかった。
「貴方、誰なの。」
聞いたこともないような低い声。しかしそれは他でもない彼女から発せられたものだった。
その表情を見て、思わず息を呑んだ。
彼女は泣いていた。大粒の雫が硝子玉のような綺麗な瞳から次々に零れ落ちていく。
我々が彼女の涙を見たのは、この時が初めてだった。
「もし私が間者だったとして、貴方は誰なの。こんなことをして、許される人なの。」
「この、離せ!」
しかしその手は引き離せない。怒りに突き動かされるように、目の前の男を逃がすまいと抑えつけている。
「何なの?何したら満足なの!?今ここで死んだらいい?明日突然いなくなってたらいい!?」
これほど感情的な彼女を誰も見たことがなかった。いや、私達がこれまで彼女の感情を見たことなどあったのだろうか。
思い返せば彼女はいつも笑っていた。困っている時も驚いた時もいつも一定の微笑を保っていた。
この学園に来てからの彼女しか知らない自分達は、恐らくこれが彼女の地顔なのだろうと気にも留めなかった。ただいつも笑いかけてくれる彼女の存在が嬉しく、その顔の裏側を微塵も想像していなかった。
結局、その強さに甘えていたのだ。
彼女はきっと悲しい時も寂しい時も、誰にも言えずに笑っていたのだろう。
溶け込まなくては、気に入られなくてはここに居られなくなってしまうから。追い出されないよう、必死で自分を守っていたのだろう。
「何だお前、気でも狂ったのか。」
「うるさい!消えろとかいなくなれとか、そんなの私だってそうしたいよ!できるなら!」
泣きじゃくる彼女に、誰も何も言えない。
「でもできない!帰りたくても帰れないの!貴方にわかる!?何もわからない場所に放り出されて毎日怯えて過ごして!意味不明な悪意にさらされる恐怖が貴方に分かるの!?」
文次郎でさえもその気迫にたじろいでいた。
彼女の言葉はあまりに痛ましいもので、それは一度も語られていなかった本音だった。
「何も知らない癖に勝手なことばかり言って、一体どうしろっていうの?私が貴方に何したっていうの!?じゃあ早く帰してよ!そんなに言うなら今すぐここから帰してよ!!」
それは彼女自身が閉まっておいた心からの願いだった。
「私だって、私だって来たくて来たわけじゃない!!!」
思い切り手を放すと彼女は外へと駆け出した。
そのことがわかっているのに、体中から訴えかけるような悲痛な叫びに誰もが動けずにいる。
はっと意識が引き戻された鉢屋と尾浜はそのまま彼女を追いかけて行った。
私は彼女の言葉を噛みしめたあと、未だ雨に打たれているそれを拾い上げ屋根のある場所へと移動させた。
「家族との思い出が入っているそうだ。」
呆けている級友に静かに声をかける。
「自分が何をしたくて、何故彼女にあのようなことをしたのか。頭を冷やして考えろ。」
それだけ言い残して雨の降る闇の中へと走った。