二章
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『何かを選ぶということは何かを捨てるということだ。自分は一体何がしたくて何故そちらを選んだのか。そして何故そちらを選ばなかったのか。よく考えて悔いのないように行動しなさい。』
習い事、勉強、部活、進路。あらゆる人生の岐路で父からこの言葉を投げかけられた。どちらかを選べばどちらかを捨てることになる。自分が何をしたいのか見極めて進めと。そしてその度に私は最善を尽くし、最良の選択を取ってきたつもりだ。しかし。
今はどうだろう。私は、一体どちらを選びたいと願っているのだろう。どちらを捨てなければならないと、捨てたくないと躊躇しているのだろう。答えが己の中にしかない事はわかっている、それでも。
教えて、お父さん。お願い誰か、無理矢理にでも私に正しい道を与えてほしい。
「……っ夢……。」
寝苦しさに目を覚ませば頬に熱いものが伝っていた。歪んでいる天井と滲む額の汗に自分が魘されていたのだと知る。重たい体を起こして鼻をすすると障子の向こうはもうぼんやり白んでいて、今日という朝に似つかわしくない程穏やかな虫の音が聞こえた。
久しぶりに元の世界にいた頃の夢を見た。厳しくも優しい、大好きな父。その声が、姿が、脳裏に焼きついて離れない。
「……お父さん、私……どうしよう。」
自身の肩を抱きながら一人小さく呟いても返してくれる人なんている筈もない。私は虚しさが襲ってくる前に急いで濡れた目尻を拭い、余計な不安を増幅させないよう朝の食堂に向かう支度を整えた。
割烹着を着て部屋を出ると空は重たく曇っていた。只でさえ気が滅入っているというのにこれは今日という日が思いやられる。何か不吉の予兆でないといいけれど。苦笑を漏らしつつ食堂までの道を辿っているとその時校庭から人影がこちらに近づくのが見えた。こんな朝早くに誰だろうか。
「おはようございます、みょうじさん。」
「食満くん、おはよう。鍛錬終わり?」
「そんなところです。」
姿を現したのは逞しい筋肉を露わにしている食満くんで、その首筋には汗が流れている。まだ5時過ぎだというのにこの仕上がり様。もしかして夜通し野山を駆け回っていたのだろうか。さすが武闘派と心の中で拍手を送る。
「みょうじさんはこれから食堂ですか?」
「そうなの。疲れてるだろうししっかり朝ごはん食べてね。」
「これくらい大したことありませんよ。ですがみょうじさんのごはんは美味しいので有難く頂戴させてもらいます。」
「ふふ、うん。待ってる。」
真っ白な歯を見せてくれる食満くんはあまりに爽やかで好青年そのもの。さらっと人を褒めることも出来るし彼も中々女性人気が高そうだ。何故だかくのたまのみんなとの恋ばなで名前が挙がったことはないけれど。
礼儀正しくお辞儀をして長屋へと戻っていく彼に私も手を振る。先程まで落ち込んでいた気持ちが食満くんのおかげで浮上してきてこれは幸先が良いかもしれないといつの間にか顔が綻んだ。
鼻歌まで口ずさんでしまいそうになっていると遠くから「あ、そうだ」と溌溂とした声が聞こえて別れたはずの食満くんが返ってくる。何か忘れものだろうかと首を傾げれば縁側まで来た彼に手招きをされ、私は誘われるがまま身を乗り出した。
「みょうじさんの探してらっしゃる山寺、いくつか心当たりがあるので今度一緒に行きましょう。」
耳を傾けると食満くんから発せられた提案は私がまるで予想していなかったもので思わず目を丸くする。鍛錬や里帰り、立花くんや兵太夫くんもそうだったが只でさえ険しい道中だというのにみんな気遣ってくれている。私が無事帰ることができるよう。早く元の世界で家族や友人に会えるよう。それが永遠の別れになるとわかっていても。
その優しさを無下にしたくはない。選ぶべき道はきっともう一つしかないのだと、今この瞬間に思い知らされた気がした。
「え、本当に?いいの?」
「はい。六年生揃って、一緒に。」
「わ、」
頼もしく口角を上げた食満くんに大きな手で頭を撫でられる。遠慮がちな視線がばれてしまったのだろうか。近づいた距離間はまるで私を安心させてくれているみたいで、伝わる温度に自然と心が安らいだ。
「食満くん何か、お兄さんみたいだね。」
「私が?みょうじさんの?」
「うん。頼りになるお兄ちゃんって感じ。」
揉みくちゃになった髪の毛を戻しながら素直な感想を述べれば彼が照れくさそうに頬を掻く。こういうところは年相応だなって口元を緩めていると食満くんは何か考え込む仕草を見せ、こちらに向かって勢い良く拳を突き出した。
「でしたら妹のことは何があっても守るんで。いつでも呼んでください。」
決意の炎が燃えている瞳に捉えられ真っ直ぐその熱い思いが伝わってくる。年下の子に兄だなんて可笑しな話だというのは重々承知しているがそれでも弟しかいない私にとっては例え戯れと言えどその存在が嬉しかった。「ありがとう」とお礼を零せば彼はまた屈託のない笑みを浮かべ、今度こそさよならの挨拶と共に長屋へと帰って行く。
食満くん、素敵な人だな。空は薄く覆われているというのに彼の周りだけ快晴のようだ。明るく今日を照らしてくれたお兄さんに感謝して、目を細めつつ再び廊下を歩き出した。