二章
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彼女の日課の夕涼みに僕達は顔を出したことがなかった。何でかと聞かれると難しいけど多分彼女と仲の良い忍たまの輪の中に入るのが怖かったんだと思う。
あの人に限って誰かを拒否するなんてあり得ないのはわかってる。それでももし、受け入れてもらえなかったら。共に海に行った日の謝罪に本当は納得がいってなかったら。悩み始めれば不安ばかりが頭を埋め尽くして六年長屋まで来ては自室へ帰るという無意味な行為を繰り返すばかりだった。そしてそんな僕を気遣ってか久作と左近もあまり彼女の部屋には近づこうとしなかった。
「……あの、こんばんは。」
「あれ、池田くん……と二人も。こんばんは。」
視線を合わせず挨拶をすると縁側に座っていたみょうじさんが顔を綻ばせる。窺うように一歩前に出れば彼女の方から「良かったらここ座って?」と申し出てくれ僕達は頷き合って腰を下ろした。
涼しい風が頬をすり抜けて季節が秋めいているのだと知る。気まずさを隠すようにぼんやり虫の音を聴く振りをしていたら夜の闇に紛れて彼女が笑った。
「ふふ、三人が来てくれたの初めてだね。嬉しい。」
こちらに向かって緩やかに描かれた弧に安堵している自分がいる。良かった、僕達がここにいる事を許してもらえた。緊張して固くなっていた体から力が抜けて閊えていた胸が一気に楽になる。
「……ええ、その。今日は図書室にいらっしゃらなかったので少し気になって。」
「それでわざわざ会いに来てくれたの?ありがとう。」
久作がおずおずとここにいる理由を白状すればみょうじさんは目を丸くした。石人や四郎兵衛ならともかく僕達が行動を起こした事が意外だったのだろう。まあ、今まで然程関わってこなかったのだから仕方ない。だからこそ僕達は今日ここに来たわけだし。
「あ、いや……でもそれだけではないと言いますか。」
「うん?」
まだ何かあるのかと首を傾げたみょうじさんに左近がぐっと言い淀む。それもそのはず。一年生ならまだしも僕達がこの願いを口にするのは非常に勇気がいるのだ。幼稚で幼いと呆れられたら。そんな心配がまた本音を隠したがっている。でも。
「……あの、休み中に石人と仲良くなられましたよね。」
「え、っとそうだね。って勝手に私が肯定しちゃっていいのかな。下の名前で呼ばせてもらえるようになってちょっとは仲良くなれたかなと思ってるけど。」
謙虚。どこか嬉しそうにはにかむ彼女を見て僕達三人の頭にその二文字が浮かんだ。意気揚々とい組に自慢しに来てたあたりこの人の想像以上に石人は親密になったつもりでいると思うけど。そして僕達は石人のしたり顔が悔しくて決死の覚悟でここにいるってわけだけど。
「その、それです。」
「え?」
「僕達のことも、あの……石人や四郎兵衛みたいに……。」
ああもう普段の僕ならこんなまどろっこしい言い方しないのに。肝心な部分を濁してしまっている自分にいい加減腹が立ってくる。
しっかりしろ。何しにここまで来たんだよ。力のままにぎゅっと拳を握ったその時手を差し伸べてくれたのは他でもない彼女だった。
「名前で呼ばせてもらっていいの?」
月灯りに照らされているからそう感じただけなのか。僕の顔を覗き込むみょうじさんの目は潤んでいるように見えた。その美しさに一瞬呼吸を忘れたけれど、遠くの木から鳥が羽ばたいてくれたおかげで意識が現実に引き戻される。
「よ、呼んで頂けると嬉しいです。」
「勿論。嬉しい、ありがとう三郎次くん。」
すぐさま名前を口にしてくれた彼女は当然拒絶も呆れもしてなくて。僕達の申し出がただただ喜ばしいとでも言わんばかりに感謝を繰り返すものだから体が熱くなってくる。
「それで、僕達も……。」
「あの、みょうじさんのお名前を……。」
勢いがついたのか左近と久作がもう一歩彼女の懐へと踏み込む。するとみょうじさんは「ふふ、みんなの好きに呼んで」とさらに機嫌を良くしてくれてその母親のような眼差しがむず痒かった。
「……みんなと仲良くなれるの、本当に嬉しい。今日来てくれてありがとうね。」
噛みしめるように目を閉じたみょうじさんはまるでかぐや姫のようで月夜がよく似合う。そしてたった一息で煙のように消えてしまうんじゃないかって不安になる程、儚く脆い存在に見えた。
「っなまえさ、」
置いていかれたくなくて咄嗟に彼女の手を取れば不思議そうな丸い瞳が僕を捉える。今ここにある確かな温度が伝わると「ど、どうした?」って久作の焦った声が妙にはっきり響いて僕は慌てて後ろに飛び退いた。
「ご、ごめんなさい!」
「ううん、大丈夫。三郎次くんは何ともない?」
「あ、えと……はい。」
自分の大胆な行動を謝るも逆に気を遣われてしまう始末。情けないなって一人赤くなってたら彼女の腕が伸びてきてふわりと髪を撫でられた。慈しむような表情を前に、何故だか唐突に泣きたくなる。
嗚呼そっか。やっぱり僕この人とこのまま別れたくないや。
「……僕らもなまえさんと仲良くなれるの、嬉しいです。」
ようやく絞り出せた素直な気持ちに級友二人が驚いているのがわかる。まあこんな姿滅多に見せないもんな。普段なら恥ずかしいが勝つんだけど、でも。それでも、伝えられるうちに伝えておかなくちゃ。もう二度と傷つけて後悔しないように。
「というか、嬉しい通り越して必死です、みんな。僕らだけじゃなくて、この学園にいる人なら誰でも。少しでもなまえさんと一緒に思い出作りたいって。忘れたくないって、忘れられたくないって。そう思ってるはずです。少なくとも僕はそう思ってます。」
途端に饒舌になった自分が何だか可笑しい。だけど言いたいことを全部吐き出したらすっきりして、前より迷いなく彼女の顔を見られるようになった。これは間違いなく僕が掴んだ成長だ。
「……ありがとう。私もみんなのこと忘れたくない。一つも、取り零したくない。」
まるで星に祈っているような。破れぬ誓いでも立てているような。いつものなまえさんとは程遠い口調に僕達は揃って息を呑んだ。
この強さが、気高さが、賢さが。彼女自身を苦しめるんじゃないかって。十一年しか生きていない僕達にはその心配の欠片すら浮かばない。
ただ今はお互いに思いが通じた事が嬉しく、あの母のような笑顔でまた名前を呼んでくれないだろうかと自分のことばかりを考えていた。
忘れたくないと言った彼女が忘れられたくないとは言わなかった。あまりに重大すぎる言葉の裏側を、読み解く事が出来たのはずっと後になってからの話だ。