二章
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夜の食堂も大盛況で体はくたくた。余裕があれば後で図書室に行くつもりだったがこれはちょっと難しいかもしれない。
久しぶりの疲労感に足を引き摺りながら脱衣所へ向かう。すると夏休み中幾度も焦がれた賑やかな声が浴室の方から聞こえてきて思わず全身の力が抜けた。うん、やっぱり一人じゃないって素敵。
「お邪魔します。」
「あ、なまえさんお久し振りです!」
「会いたかった~!」
服を脱いでお風呂場の戸を開けると早速嬉しい言葉が飛んできて一瞬で心を射抜かれる。「私もだよ」とにっこり返して風呂桶にお湯を汲めば恵々子ちゃんが頭に泡をつけたまま隣を空けてくれた。
「ここどうぞ。」
「ありがとう。もっと端っこでもいいんだよ?」
洗い場の真ん中に座るよう促され不思議に思いつつも腰を下ろす。シャンプーを手に取って髪を洗い始めると体を流していた女の子達は囲むように揃ってこちらへ視線を向けた。
「だってなまえさんもうすぐ帰っちゃうって言うから!」
「私達もっとなまえさんとお話ししたいです。」
「ん、成る程そういう……。」
石鹸の良い香りに塗れながら涙目で詰め寄られて合点がいく。どうやら有難いことに別れを惜しんでもらえているらしい。いつも以上に近い距離間で接してくれるみんなは可愛くて私もますます離れ難くなってしまう。
「曖昧なことしか言えないけど、そんな急に帰るわけじゃないと思うよ。」
「本当ですか?」
「具体的にどれくらい猶予あります?」
「うーんそれは何とも……。」
桶のお湯を被り困ったように笑うとまた彼女達の顔が曇る。自分の為の気休めでもあったのだがその場凌ぎにすらならなかったようで申し訳ない。せめて残された時間くらいはみんなの明るい表情が見たいのだけれど。私の未熟さ故か中々現実は上手くいかず却って寂しさを募らせてしまった。
「いつお別れになるかわからないなら甘味処巡りしとかなきゃ!」
しかし暗い雰囲気が漂いかけたその時湯船に浸かっていたユキちゃんが勢い良く立ち上がった。ばしゃりという音と共に激しく波打つ水面を見て浴室にしばしの沈黙が流れる。
「……そうよね、こうなったら一つでも多く思い出増やさないと!」
「なまえさんとお泊まり会もしたいでしゅ!」
「それ良い!忍たま達に負けてらんない!」
みかちゃん・おシゲちゃん・そうこちゃんも彼女に賛同してまたみんなの活気が戻ってくる。リンスを流し終えてほっと胸を撫で下ろせば切り替えの早いトモミちゃんがいつの間にやら私の右を陣取っていてその意味深な瞳に冷や汗が滲んだ。うーん、嫌な予感がする。
「思い出増やすっていう点で言うと、殿方の方はどうなんです?」
やっぱり。例えどんな会話をしていたとしても最終的にはこの手の話題に行き着いてしまう。最早色恋の呪いから逃げることは敵わないのか。助けてほしい。
「残念ながらどうもこうもありません。」
「え~。」
「え~じゃないの。そもそも私帰っちゃうんだし。」
終わりがすぐそこまで迫っているというのにこのタイミングで下手な繋がりを求めてもお互い苦しくなるだけだ。それならいっそ、初めから期待も希望も持たずに過ごしていた方が。
「だからですよ!」
「え?」
思わぬナオミちゃんの返しに動きが止まる。浴室中に水蒸気の靄が立ち込める中彼女の勝気な笑顔だけははっきりとこの目に映っていて、まるでそこだけ空間が切り取られているかのようだった。
「もう一生会えないからせめて思い出だけでも作っとくんじゃないですか。」
「思い出だけでも……。」
いやでもそれは。決して恋仲でなくても作れるはずで。一度タガが外れてしまえばもっともっとと欲張ってしまいそうで。自分の判断にさらに迷いが生じてしまう可能性が私はたまらなく怖かった。
しかしくのたまのみんなは誰一人として反論せず深く頷いている。臆病な私だけが何だか一人取り残されているみたいで、言い知れない恥ずかしさが胸の奥から込み上げた。
「そうそう、いっそのこと無理矢理唇奪ったり。」
「形振り構わず迫ったり。」
「勢いだけで既成事実作ったりね。」
「発想がえげつないな……。」
猪々子ちゃん達の公序良俗に反する提案に苦笑を漏らしつつも心の動揺は収まらない。
だって、どうしよう。揺れる。揺れてしまう。彼女達の逞しさに。何を差し置いても相手を手に入れてやるという強さに。そして自分の気持ちから逃げない誠実さに。
ここにきてまだ足掻いてみたいと思うだなんて微塵も想像していなかった。
「だぁってどうせそのまま別れちゃうならその後嫌われようが別に問題なくないですか?」
「本当それ!自分が後悔しないように行動するのが一番!」
「だよね、たった一夜だけの思い出でもなまえさんの記憶の中では一生残ってるわけだし。自分の気持ちに嘘ついてお別れするよりやりたいこと全部やってさよならした方がお互い辛くないかもですよ?」
「結局は今を楽しんだ者勝ちってこと!」
次々に生まれるくのたまのみんなの至言にうっかり泣きそうになってしまう。だってそんな我が儘許されるんだろうか。こんな勝手に来て勝手に帰るような酷い女が、己の欲を優先するだなんて。軽率にも背中を押されそうになっている私は湯気に紛れて唇を噛み、溢れてしまいそうな涙をお湯と一緒に洗い流した。
「……記憶の中で、一生。」
しかしそんな中でふと苦さが胸をよぎる。ぽつりと繰り返した言葉の陰で蘇ったのは大学三年生の夏だった。
当時私には恋人がいた。告白を断り切れずに付き合った同じゼミの男の子。彼が一線を越えようと私に迫った時のことを今でも鮮明に覚えている。熱に浮かされたような目といつもより低い声、軋むベッドの音。触れられたところから伝わる温度まで、そのどれもがとてつもなく恐ろしくて私は無我夢中でその場を逃げ出した。
そしてその行為は彼を傷つけるには充分だったようで、次の日には向こうから別れを告げられた。纏わりつく風の生温さも耳鳴りのような蝉の声も。刻み込まれてしまった記憶は薄れることもなく忘れてしまいたい私の足を掴んだまま離さない。
そんな風にもし取り返しのつかない思い出になったら。自分だけじゃなく相手まで暗い記憶を抱える事になったら。それこそ一生自分の選択を悔やみはしないだろうか。
「……それってちゃんと、良い思い出として残るのかな。」
気づけば不安を口に出していた。我に返って顔を上げるも時すでに遅し。みんながきょとんと首を傾げた後神妙な面持ちになって考え込む。
しまった。慌てて取り繕おうと思考を高速回転させる。しかしこちらが弁明するよりも早く眩しすぎる一声が高らかに響いた。
「そりゃあ残りますよ!心から好きな人との一夜ですもん!」
「え……。」
迷わず拳を上げたあやかちゃんの笑顔に頬を打たれたような感覚になる。
心から好きな人。そうだ、確かに男女の営みというものは過不足ない互いの愛から始まるものだった。そこには尊ぶ気持ちと強固な信頼が不可欠だった。何に変えても大切にしたいと思える相手との交わりが、自分を苦しめるものであるはずがない。
あの夏はきっと、私が最初から何もかも間違えてしまっていたんだ。本当に彼の事を尊重するなら一方通行の好意に応えるべきじゃなかった。
「……そっか、そうだね。」
「お!珍しく肯定的なお返事!」
一体いつどこで誰に救われるか。まるで予想がつかないからこそ人生は面白い。
たった今、ようやく彼との別れが昇華された気がして私は小さく息を吐いた。こちらの目尻が下がったのを見逃さなかったしおりちゃんが手を叩き、再び会話に賑やかさが戻ってくる。
「ということはつまりなまえさんには一夜を共にしたい殿方が~?」
「ふふ、そういうんじゃありません。ほらそろそろ湯船浸からないと風邪引いちゃうよ。」
「え~んやっぱりつれない。」
洗い場を綺麗にしてトモミちゃん達と浴槽へ向かう。排水溝へと流されていったのは何だか床に散らばっていた泡だけじゃないように思えた。ちゃぷりと足先を湯船に入れると心地の良い温かさが広がって肩の力が抜けていく。
「それでなまえさんどうします?」
「一線は越えないにしても誰かと接吻くらいしちゃいます?」
「しないって。」
煽り上手の彼女達にどれだけせつかれてもやはりすぐに欲深くなれる程勇気があるわけではない。それでも後悔だけはしないように。一先ず自分を押し殺しすぎるのは控えてみる事にしよう。
「……記憶の中で一生、か。」
恐らく私にもいつか来る生涯忘れられない一夜。何度も何度も繰り返しなぞる甘い一時。その日を迎えるならば、心も体も許せる相手はどんな顔をしているのだろう。私は今この場所でその誰かを望んでも良いのだろうか。
不意に浮かんだその人の微笑が湯気と共に消えていく。これでもかと背中を押された私の一歩はまだ何処へも踏み出せないでいた。