二章
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学期初めは事務員の仕事も忙しい。もうすぐ陽も落ちるというのに動き始めた学園内の各手続きで私も吉野先生もてんてこまいだ。何故か小松田くんだけが一人のんびりしていて今も大きな欠伸を隠すことなく披露している。正直吉野先生から殺気が漂っているので勘弁願いたい。
「……あれ。」
「どうしたんですかぁ?」
間延びした声に私まで気が抜けそうになってしまう。駄目だ駄目だ気合を入れ直さないと。何しろようやくこの殺伐とした状況を打破するきっかけを見つけてしまったのだから。
「次の予算会議の申請、学級委員長委員会に記入漏れがあったからちょっと行ってくるね。」
「僕も一緒に行きましょうかぁ?」
「……君はまだやるべきことが山程残っているでしょう。」
「そうでしたっけ?」
吉野先生の額に青筋が浮いていることにまるで気づいていない小松田くん。最早私は冷や汗を滲ませると共に渇いた笑いを漏らすしかなく足早に事務室を後にした。今日ばかりは書類の不備に心から感謝を述べたい。
「失礼します。」
小松田くんのメンタルに感心しつつ迷うことなく目的地へと辿り着き、室内に向かって声を掛ける。どうだろう、学級委員長委員会は活動してない日も多いからな。不在だったら五年長屋まで行ってみようかと考えていたその時慌ただしい足音が聞こえて「いらっしゃい」と障子が開いた。
「勘ちゃん、今平気?」
「平気平気!なまえさんなら大歓迎!」
明るく出迎えてくれた彼に腕を引かれて中へ入れば珍しく委員会メンバーが全員揃っていた。「なまえさん!」と駆け寄ってきてくれる一年生二人に軽く会釈してくれる三郎くん。和やかな雰囲気に私の頬も緩んでくる。
「どうされたんですか?」
「あ、えっとこの書類なんだけど……。」
庄左ヱ門くんに見上げられ持っていた紙を取り出すと私を囲むようにみんなが集まってくる。予算会議書と書かれたそれに全員で視線を落として確認していればいち早く反応したのは勘ちゃんだった。
「やべ、俺の記入漏れだ。ごめんなさいなまえさん。」
両手を合わせた彼が私に向かって勢いよく頭を下げる。上目遣いで許しを請うその姿に少しだけきゅんとしたけれど年頃の男の子相手に可愛いは禁句。本心はそっと胸の内に仕舞い黙って首を横に振るだけにしておいた。
「大丈夫だよすぐ終わるものだし。ただちょっと締め切りに余裕がないから今日中に提出してもらえると助かるかも。」
「本当すみません!今書いちゃうんでちょっとだけお時間いいですか?」
「うん、少しくらいなら平気。こちらこそ急かしちゃってごめんね。ここで待たせてもらうことになるけどいい?」
「それは勿論!」
元気に親指を立ててくれた勘ちゃんにくすりと笑みが零れる。不備のあった書類を渡せば彼は「ありがとうございます!」と素早く机の前に腰を下ろし早速作業に取り掛かった。待っている間どうしようかと振り返ると後ろでくつろいでいた三郎くん達が手招きをしてくれ、その厚意に甘えて輪の中へと入る。
「これ、なまえさんのお茶です。」
「わ、ありがとう。」
「お茶菓子もどうぞ。」
「ふふ、何だか至れり尽くせりだね。」
さすが学級委員長。庄左ヱ門くんも彦四郎くんも先輩達に負けず劣らず気配り上手でおもてなしに余念がない。せっかくなのでありがたく湯呑みを頂戴すると立ち上る湯気と共に茶葉の良い香りが辺りを包んだ。
「美味しい。」
「鉢屋先輩のお土産です。故郷の名産品だそうですよ。」
「そうなんだ。お茶菓子の甘さともすごく合ってるし……もっと飲みたくなっちゃうね。」
彦四郎くんの説明に道理でと頷けば三郎くんは薄らと目元を細めた。あ、その表情。やはりどこか弟と重なる仕草に一瞬喉の奥が詰まる。
「気に入って頂けたなら差し上げます。もう少ししか残ってないですが。」
記憶の中のあの子よりも低い声が耳に届いて我に返る。三郎くんと視線が交われば凍りついていた指先に湯呑みの温度が伝わってきて私は小さく息を吐いた。
そうだ、彼は弟ではない。今まさに心を通わせてくれている人の後ろに別の誰かを見るだなんて。そんなのあまりに失礼な話じゃないか。
「……いいの?」
「はい。なまえさんに喜んで頂けるなら私もその方が嬉しいので。」
「それは……私も嬉しいな。ありがとう。」
三郎くんの気遣いが身に沁みると共に後ろめたさも降り積もる。夏休み前はこれ程動揺したことなかった筈なのに、久しぶりに彼と話したからだろうか。一つ綻びが生じてしまえば人間というのは脆いもので、薄れかけていた家族に対する懐かしさはほんの数秒の間に私の頭を埋め尽くしていった。
みんな、今頃どうしてるんだろう。不意に過った郷愁が束になって襲い掛かる。
困ったな、泣きそうだ。どちらか一方の世界を選ぶことに未だ迷いのある私は結局地に足を着けることも出来ず、無力感に苛まれながら迫りくる時間の狭間で揺れていた。
駄目だ、自分でも知らぬ内に優柔不断に拍車が掛かっている。こんなことではきっと、私は何処へも行けなくなってしまう。
「よっし終わり!なまえさんお待たせしました。」
思考が自嘲気味になってきたところで勘ちゃんが軽やかに立ち上がった。驚いてそちらを見れば彼は完成した書類を意気揚々と私の傍まで持ってきて白い歯を覗かせてくれる。その褒めてと言わんばかりの瞳にどういうわけか毒気が抜かれ涙はするすると引っ込んでいった。
「……うん、完璧。この内容で吉野先生に渡しておくね。」
「良かったー!お手煩わせちゃってすみません!今後は気をつけます。」
えへ、とウィンクを飛ばす勘ちゃんのおかげで一気に気持ちが軽くなる。すごいな、彼の眩しさは。厚い雲が立ち込めていた筈の視界が嘘のように晴れていく。
「なまえさん、こちらも包み終わりました。」
「わ、こんなに良いの?」
「はい、もらってください。」
書類を懐へと閉まっていると今度はタイミング良く三郎くんが会話に加わった。何に於いても手際の良い彼は私が書類を確認している間に茶葉を筒に移してくれていたらしい。相変わらず大人顔負けの仕事の早さで舌を巻く。
「また来てください。」
「うん、近い内にお邪魔させてもらうね。お茶とお菓子ありがとう。」
庄左ヱ門くんの強い瞳に了承を返すと彦四郎くんも控えめに袖を引っ張ってくれる。やはり一年生の愛らしさは今学期も健在だ。可愛いなあと癒されつつ頭を撫でていれば「私達も楽しみにしてるんで」って勘ちゃんまで覗き込んできて、何だかみんなに繋ぎ止められているような感覚になった。
「それじゃあ失礼します。」
「なまえさんはこれから食堂もあるでしょう。どうか無理のないように。」
「ん、肝に銘じます。」
最後に三郎くんからの心配を受け取り学級委員長委員会を後にする。障子を閉めるとそこには暗くて長い廊下が私を待ち構えており、いつも通りに一歩踏み出すのが躊躇われた。ここのところ何故こうも浮き沈みが激しいのか。
本当はわかっている。心が忙しなく動いてしまうのは、私が私を信じられなくなっているから。向こうへ帰りたい。ここに残りたい。どちらも本心だということは紛れもない事実なのだけれど。
ほんの数週間では答えなど出るはずもない難解な問い。せめて一つの結論が出るまでは何も起こりませんように。声にならない小さな祈りはあまりに途方もないものに思えた。