二章
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お風呂ですっかり温まったあと夕食も手早く済ませた。先程の夕立が嘘みたいに空は晴れ渡っておりまるで宇宙のように星が広がっている。向こうの世界じゃこうはいかない。
日課となった夕涼みの為に自室前の縁側に腰かける。眩い光がきらきらと降り注いで私を慰め、どうかこの景色をいつまでも忘れませんようにとゆっくり瞼を下ろし思い出ごと閉じ込めた。
写真を撮る手立てがもうないのなら、せめてこの目に焼きつけていたい。日を追うごとに欲深くなっていく自分がひどく滑稽に思えて私はぎゅっと拳を握った。
「ご一緒してもよろしいでしょうか。」
気分が沈みかけたところで穏やかな声が私に問いかけた。視線を遣ると柱の陰には羽丹羽くんが佇んでいてこちらに向かってにっこり笑った。
「うん、お話ししてくれると私も嬉しい。」
私が頷くと羽丹羽くんは嬉しそうに隣に座った。二人で足を投げ出してじっと誰もいない学園を見つめる。いつもは恐ろしく感じる静寂も何故だか彼が一緒だと心地良かった。
「夕立があったからか昨日より涼しいですね。」
「そうだね。お昼間もこれくらい過ごしやすいといいんだけど。」
「あとひと月もすればきっとそうなりますよ。」
あとひと月、その言葉に思わずぐっと喉が詰まった。羽丹羽くんはそんな私の心情を知ってか知らずか、こちらに表情を晒さないまま会話を続ける。
「……ごめんなさい。ひと月後にはもう、みょうじさんはいないかもしれないんですよね。」
先程より幾らかトーンの落ちた声に謝らないでと言いかけて止まる。まるで首を絞められているかのように息苦しくなってその時初めて自分が泣きそうなのだと気づいた。
「みょうじさんは、何か迷っていらっしゃいますか?」
大きな黒目がようやく私の方を見た。どうしよう、飲み込まれてしまいそう。彼の柔らかな口調に反して緊張は高まり、理由も判然としないまま汗が滲んでくる。
「どう、して。」
「いえ、帰る目途がついてからとても寂しげに見えるので。私の勘違いかもしれないですけど。」
やっとの思いで絞り出すと彼は至って冷静に答えを返してくれた。最近忍術学園に入ったばかりだという羽丹羽くん。彼の雰囲気は同学年の中でも群を抜いて独特で、大人顔負けの洞察力を備えている。
一体どこまで見抜かれてしまっているんだろう。一瞬ひやりとしたがこちらも気圧されている場合ではない。年下の子でましてや下級生。一人の成人女性としてその強さにしな垂れかかるわけにはいかなかった。
「……うん、確かに寂しいよ。ここの人達はみんなすごく優しいし、大事な物もたくさん増えたし。でもいつかは帰らなくちゃいけないから。ここは元々私の居場所じゃないから。だから、迷いはないよ。今の内に楽しい思い出いっぱい作らなきゃね。」
こんなの嘘だ。あれからずっと迷ってばかりの癖に。それでも本音を話してしまえばもう誰かに手を引かれなければ立てない気がして。必死で自分を騙して壊れかけの心を保っていた。
羽丹羽くんは「そうですか」と相槌を打ったきりそれ以上追及してこなかった。人一倍成熟した聡い子だ。私の虚勢を受け止めた上で放っておいてくれてるのかもしれない。こちらが舌を巻く程の彼の優しさにどうしようもなく救われていた。
「みょうじさん。」
「ん?」
「名前で呼んでもよろしいですか?」
唐突に切り出されたお願いにほんの少し面食らう。もしかして話題の転換を図ってくれたのだろうか。だとしたら本当に思いやりのある賢い子だ。ありがとうと心の中で呟いて肯定の意で首を縦に振る。
「勿論。私も石人くんって呼んでいい?」
「え、なまえさんにも呼んで頂けるんですか?光栄だなあ。」
彼の口からナチュラルに下の名前が零れてそのスマートさに驚いた。これはかなり紳士的というか、近い将来絶対モテるだろうなと俗な考えが頭に浮かぶ。
ふわりと風が吹いて彼のしなやかな髪が小さく揺れた。月も星も、忍ぶ夜には向かないほど明るく私達を照らしている。
「なまえさん。時々で良いので僕のこと思い出してくださいね。」
私ではなく僕。この時彼はわざと砕けた言い回しをしたのだと直感的に思った。世間話の一環にも切実な願いにも聞こえるその言葉。石人くんがどういう意図でそれを私に伝えたのかはわかるはずもないけれど。
何故だか今この瞬間を私はこの先一生忘れないだろうと確信していた。きっと幾度となく彼と二人で話した夜のことを思い出す。そう、例え私がこの世界からいなくなろうとも。
「……うん。絶対思い出すよ。ちゃんと全部、覚えてるから。」
ここでしてもらった数々を噛みしめるように空を見上げた。大丈夫。きっとまだ時間はある。せめて大切な人達と別れを惜しむくらいの時間は。
溢れてきそうな涙を堪えて星の瞬きに耳を澄ました。