誰も居なくなったあの子の隣
真っ直ぐに伸びる銀糸の髪を掻き上げて、イザーク・ジュールは目を細めて彼のパートナーになった目の前の男をシーツごと抱き寄せて、ベッドに押し倒した。
時間は深夜2時を少し回っている。
静寂に満ちている筈の寝室に、イザークではない呼吸音を感じて目を覚ましたら、シーツに潜り込もうとしているアスランと目が合ったので、コレを捕獲した形だ。
申し訳なさそうに伏せられる魅力的な緑の瞳の美しさに我慢できず、イザークは笑いながら彼の瞼にキスを贈ったのだった。
あの庭での一件からたどたどしくも意志疎通がとれるようになったアスランは、最近はこうしてイザークの近くに居たがるようになった。
メディア曰く『悲劇の英雄』は、連日の報道とは裏腹に、彼が今まで経験したことがないほど構われ、大切にされて穏やかに日々を過ごしている。
特にイザークの母であるエザリアとの関係は良好で・・・というか、エザリアが謎のテンションでアスランをぶんぶん振り回しており、ジュール邸は一気に華やかになった。
エザリアは母親の話などめったに聞かないイザークよりも、なんでもよく頷きながら話を聞いてくれるアスランが可愛いらしく、リビングや庭で軽食をとりながら構い倒している。
アスランはアスランで、母親という未知の存在を少噛みしめながら、自分が描く母親像との解離に驚きながらも楽しそうにしている。
エザリアとは血が繋がらないが、まるで血の繋がった息子のように心配されたり、あれこれ構われたり、小言を言われる事が新鮮なようだった。
母親から何でもないことで言葉を掛けられたり、誉められるときに頭を撫でられたりすると、慣れないアスランはすぐに頬を赤く染めて照れてしまう。
エザリアとの距離は、キラ・ヤマトの母親ともアスランの母親とも全く違う距離感だったようで、驚いたアスランに、いつもこうなのか?と真顔で聞かれた時には彼の寂しさの原点が解った気がした。
めったに話すことがない実の母親とは距離があり、キラ・ヤマトの母親は親友の子どもというスタンスで、アスランが優秀なことも手伝ってお客様対応だったのだろう。
とは言え、エザリアがイザークに言うのと同じ感覚でアスランに接するのは、今のアスランにとってはとても良いことだった。
やれ買い物だの、お茶会だの、ショッピングに行くから欲しいものを言えだの、料理の味見係だの、何でもないことや特別ではない日常に、アスランは戸惑いながらも少しずつ笑うようになったのだ。
その様子はイザークがアスランに与えたかった普通の生活そのものだったので、ジュール邸に連れてきて大正解たったなと再確認した。
そして母親であるエザリアの手腕に少しの焼きもちと、感謝の毎日となったのだ。
プラント政府にアスランとのパートナー申請を堂々と出して、クライン派から遺伝子統制の何たるか、地位のある男子のプラントへの貢献についての私見が送られて来たがそんなものは無視した。
腹いせに、遺伝子統制の相手をストレスでここまで弱らせてきたことと、更に過剰にコーディネートされ先行きに不安のあるラクス嬢と、キラ・ヤマトの遺伝子統制のパーセンテージがいくつだったのか、もちろんラクス嬢とアスランの遺伝子統制は100%に限りなく近かったのだから、キラ・ヤマトがアスランよりパーセンテージが上な事を世間に公表するべきだと、メディアと裁判所経由でクライン派に送り付けてやった。
今ごろはさぞや藪蛇だったと思っていることだろう。
アスランのことに関してはクライン派とは徹底交戦だと自分もディアッカも息巻いているが、アスラン自身からは距離を取りたいと話された。
・・・つまり、今後ラクス嬢たちとの接触を断つということだ。
オーブやクライン派がジャスティスとフリーダムの修復と新型兵器開発していたことと、キラ・ヤマトが何の功績もなく白を着ていたことは、アスランの中でも思うところがあるようだった。
『もう会いたくないんだ』と、苦いものを飲み込むような顔をして言ったときは、やっと奴らの呪いから解放されたなと嬉し過ぎて、遅い判断だったと泣きそうなアスランを抱き締めた。
アスランが自分で決断した答えに、遅いも早いも無いと俺は説き伏せた。
アスラン自身が身内だと感じている人は少ない。
その数少ない中からラクス嬢を含めアークエンジェルやエターナルの連中、キラ・ヤマトの縁者、オーブの関係者を排除する覚悟ができたのは、やはり核への憎悪が鍵だった。
正気に戻ったアスランは、遊びに来たディアッカと世間話をよくしており、その中で『平和のために』という理由でどんどん造られたら適わんね、とディアッカが漏らしたことを気にしていたのだ。
実際に、あの核が原動力の2機が再び修復されているという話を聞き、製作者で特許持ちのユーリ・アマルフィ氏に単独で渡りをつけ、ラクスからあの2機を取り上げようとしている。
あれはプラントのものであって、ラクス嬢のモノではないからだ。
ストレスや絶食により痩せて体力はなくなったが、明晰な頭脳は健在で、アスランはやはり優秀なザフトレッドだと再確認した。
そして、アスランの中でプラントを一番に据えるのは、大戦前から彼の譲れない一線であるということもだ。
俺達としてもラクス嬢たちと接触しないのであれば、アスランの平穏は当面守られることになるので大歓迎と言える。
今は、申し訳なさそうな顔で俺の軍服を少しだけ摘まみ「帰って来いよ」と我儘とも言えないような我儘を言えるようになっただけ大進歩なのだ。
少しでもこの平穏が長く続くように願って何が悪い。
アスランは充分に戦ってきた。アスランはもう、安穏と生活して良い筈だ。
議会からはアスランに証言させたい新ザラ派から何度も嘆願書が送られてくるが、アスランがこれに取り合うことはない。
今いるザラ派は新旧に分かれており、新ザラ派はアスランの父親であるパトリック氏をクライン派と一緒にこき下ろした者たちの集まりだからだ。
ザラ派と名乗ってはいるが、クライン派が気に入らない一派というだけでザラの名を使っている胸糞悪い連中だ。
これと変わって旧ザラ派はエザリアを筆頭に、議会の証言台へアスランを立たせることに反対している。
アスランの平穏な生活を望んでいるのだ。
第一次の大戦後の流れで、プラントの為とは言え、たった16歳だったアスランを生贄に連合と停戦協定を結んだことや、その後のアスランの人生を狂わせたことを後悔し、恥じているのが大きな理由だった。
傷ついてやっとプラントに帰ってきたアスランを、「今度こそ守るために戦うのだ。今度こそ彼の笑った顔を見るのよ。」と眠っているアスランに泣きながらカナーバ様は話していた。
もちろん、母であるエザリアも同様だ。
ユーリ様に至ってはクライン派、ひいてはラクス嬢に一泡吹かせるためにディアッカと共謀している風でさえある。
クライン派から守る為だとしてアスランには今こそ後ろ盾が必要ではないかと、ザフトへの復隊を促す旧ザラ派も無いとは言えない。
とても弱った宗主の息子。
それも、大戦後に守らなければいけなかったアスランに、彼らは結果守られた形だ。
だからザラ派の手元に置いて守りたいのだ。
ラクス嬢が評議会議長を務めているから、『後ろ盾無くば戦火に巻き込まれるかもしれないのではないか』という思いからザフトにさえ所属していれば旧ザラ派が守れると主張している。
そうでなくとも、アスランにはその優秀さで、ザフトの高官や、指揮官、アカデミーの教官として、はてまたアドバイザーとして来てほしいとのオファーが次々と来ている。
しかしながらアスランの軍への復隊は無しになった。
旧ザラ派は強固だが、ザフトは最高評議会の命令を遵守する法律があるということと、アスランが一般市民として療養中だとした方が、重圧を負わずに済むということをザラ派の会合で母上が指摘したからだ。
更にもう一つ。これが一番大きな要因だが、アスランがザフトへの復隊を拒否した為だ。
そもそもがあまり歩けないほど体が弱っている。
アスランは体力面での不安に加え、精神面にも不安要素があり、本人も『難しい』とカナーバ様に話していた。
アスランは・・・銃声を画面越しに聞くだけでパニック状態になるのだ。
とても深刻だと言える。
俺は職務上一緒にいられないことが多いので、必然的にそういう場面に出くわすのは母上だ。
聞けば聞くほどそれはもう酷い有様で、耳をふさいで蹲り、手足が震えながら無意識に武器を探すらしい。
一度タッド様と母上が一緒にいた時に発作を起こしたらしく、その場でタッド様に診察してもらったが、見解は穏やかではなかった。
頭は戦え、守れ、という信号を送りつけるのに、体は出来ないと拒絶するから厄介らしい。
フラッシュバックを起こす本能が生きる為に武器を取ろうとするが、理性が“ここは戦場ではない”と訂正を入れる。
それが瞬時に絶えず切り替わるから酷く疲弊してしまい、心拍数が上がり、呼吸が乱れる。
周りの音が聞こえなくなり、大量の汗をかき、状態が良ければそこで意識が切れるが、悪ければ自分の腕を血が出る程握りしめ、精神は制御できない闇へ沈んでしまう。
『できない』『ごめんなさい』『へいきです』『大丈夫』を繰り返す。
・・・あの、庭の時のように。
苦いものを飲み込んでアスランに点滴を打つタッド様は、アスランのこれからの診察を申し出てくれた。
アスランの経歴故に、多くの医者に診査を断られ、今までの主治医はヴォルテールの軍医の診察だけだったからだ。
ヴォルテールの軍医は旧ザラ派で、アスランを診察する度に『奥歯が欠けそうです隊長。こんなに酷いことって、世の中あるんですね。天使のような顔したあの女は悪魔だ。聖女なんかじゃない、魔女だ』とラクス嬢への憎悪を滾らせいたので、心配していたから丁度良かった。
それに彼の話では精神面でのケアは不安が残るから、専門医に見せてほしいとの打診もあった。
・・・まぁ引き受けてくれる医者がいなかったのだが。
そんな弱った状態のアスランが、ザフトに行けばどうなるかなど火を見るより明らかだ。
本人も口ではヴォルテールに乗りたがるがジュールの家からは一歩も外に出ようとしない。
辛うじて出る庭さえ、俺か母上、タッド氏かディアッカがいる時だけだ。
アスランは静かにジュール邸の蔵書を食いつぶす勢いで読書している。
本人は今、太陽光の熱源を使った防御システムの開発プランを少しずつ作っている。
工学はアスランが好きな事の一つなので自由にさせている。
藍色の髪の毛をかき上げて、俺はその柔らかな唇に口づけを落とした。
「・・・まさかお前から夜這いを受けるとは思っていなかったぞ、アスラン。」
「・・・気づくとは思わなかったんだ。」
現役軍人を舐めないでいただきたい。
他人の気配がする寝室で相手を野放しにしていたら隊長にはなっていないだろう。
「それで?」
「・・・。」
顔を赤くして体を密着させるアスランに機嫌を良くして、そのまま抱き込んだ。
「今日はこのままここで寝ろ。」
緑の瞳は不満そうだ。
「・・・どうした?」
「手を、だしてほしい。」
びっくりして瞳をのぞきこむ。
「・・・出さないのか?」
不安に揺れる瞳はこれで可愛いが、そこまで性格は悪くない、筈だ。
「いいぞ。だが、あとお前が10キロ太ったらな。」
内臓はジュール邸に来たときよりは機能しているし、安定もしている。
が、性交渉は控えるようにタッド氏からもディアッカからも言われている。
「俺は気が長いからな。お前を太らせてから頭から食べるつもりだ。」
わざとらしく口角を上げると、アスランは首に口付けてから目を伏せた。
「・・・物を」
「ああ。」
「食べないと、だな。」
ため息混じりに言われた言葉に苦笑してアスランの髪の毛をかき混ぜた。
「一緒に食べよう。」
クスっと笑ったアスランに、まだ夜中だぞとアカデミーの頃のように声をかけると、「もう少し」と可愛い声が返ってきた。
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