誰も居なくなったあの子の隣
お口をあけるのよ、とても上手ね。
おいしい?これは好きかしら?
ちゃんとスプーンを持てて、えらいわ。全部食べることができたわね。
じゃあ『ごちそうさま』しましょう。
今日もよく食べてくれてありがとう。
…愛してるわ、私のイザーク。
イザークを育てていた時のことを思い出した。
離乳食に変わってから食べる時においしいです、ってお顔をするから愛らしくてたまらなかった。
ふくふくのほっぺたが食べ物で膨れるのも見ていて飽きなかった。
レノアが、アスランは手が掛からないから乳母に任せているって話を聞いたとき、信じられない気持ちだった。
子どもの成長は早くて、3日見ないだけでも悔しかったのに、レノアにはそれがないのだなと驚いた。
アスランは優秀だった。
でも、そうでなければいけなかった環境を思う。
アカデミーにいるときに思春期真っ只中のカリカリしたイザークから『何でも出来て嫌味な男だ』とよく聞いていた。
流石はザラの跡取り。
プラントの未来は明るいわね、とその時は思っていたけれど、アスランは優秀さ以外を求められた事がないのだと、イザークが壊れたアスランを連れてこの屋敷に戻って来たときに知ってしまった。
あの悲しい、何も映さない瞳。
繰り返される、生きていることへの懺悔。父と母への贖罪。
後輩に庇われたことから、死にたいと言うことさえ出来ない。
逃げ場のない感情は全て諦観で彩られ、他人の目を通じて自分を評価し、そして自分はやはり不要なのだと理性的に罵る。
物心ついた時からずっと自分を疑っているんだというディアッカの言葉が過った。
ザラの跡取りとして完璧を求められ、自分がすべきことを模索し続け、事を成し遂げても何の感慨もなく、出来て当然だとして、これを何度も繰り返す。
成功体験がないから、全て出来て当たり前の事柄として蓄積される。
そこに喜びは無い。
それもそうだ。小さな子どもが何か一つ出来るようになったとき、褒めて伸ばすのは親の役目だ。
それがどんなに小さなことでも、すごい、出来たねと褒めて、自信をつけさせる。
アスランにはこれがない。皆無。
だからアカデミーで主席をとっても『この程度』と言えてしまうのだ。
彼にとって、それは出来て当然のことであり、次席だったイザークがどんなに主席であることが誇らしいか、素晴らしいことかを説明したところで理解されなかったのは、当たり前のことだからだ。
息をして褒められることが無いように、アスランにとっては息をするように主席を取ることは当たり前だったからだ。
主席から1度でも転落していれば、少しは自分の心と向き合い、我が儘を言うことや、父親と話し合うこともあったかもしれないが、アスランが主席から転がり落ちたことはなかった。
人格形成時である幼児期に彼の周りに居たのは厳しい教師陣と、乳母と、家を取り仕切る執事、たくさんの使用人とキラ・ヤマトだけだ。
だからアスランはあんなに自分に厳しく、他人にことの他優しい性格になったのだ。
アスランと時間を多く共有していた教師は何でもないことを褒めることよりも、出来ない所を指導することが仕事だ。
組まれたカリキュラムで失敗した時にアスランを指導して、カリキュラムに添った優秀な成績を修めさせることが目的であり、それ以外は業務外だ。
母親代わりの筈の乳母はアスランの生活を管理する役だ。
食事のマナー等は教師から習得するので、彼女はバイタルサインや、栄養状態、生活態度なんかをパトリックに報告していた。
言わば子どもが悪さをしないための監視員に近い。そんな彼女がアスランと親しくなるメリットはない。
執事は家の采配で忙しく、使用人はそれに追随する。
キラ・ヤマトだけがアスランのメンタル面に触れていたが、それはアスランにとっていい状態とは言い難かった。
あの男は、弁が立つゆえにアスランに『折れたら楽になる』という方法を習得させてしまった。
レノアはキラ・ヤマトの母親、カリダにアスランの事を頼んでいた。
しかし彼女はキラ・ヤマトの母親なのだ。
二人に何かしらもめ事が起きた時に、カリダは二人に話を聞くだろうが、アスランの絶対的な味方とは言えない。
そんな中で育てば、『争うより折れる』方法の方がアスランにとってはメリットが大きい。
アスランはカリダに見捨てられれば終わりだ。自分の生活が脅かされ、父母に迷惑がかかる。
そんなアスランと違って、キラは見捨てられることは絶対ない。キラはカリダの息子なのだから。
更に言うとアスランは母親という存在がどういうものか解らない。
毎日気安げに話すキラとカリダを信じられない気持ちで見ていただろう。 こんな風にレノアと話が出来たら、と思った筈だ。
両親はなぜ自分の側にいないのかと、それをレノアやパトリックに言わなかったのは、『プラントの為』を掲げる彼らの足手まといにならないためと、彼らを失望させたくなかったからだ。
言ったところで『わかってほしい』『甘えるな』と両親から言われることを見越していたからかもしれない。
甘えた事さえないアスランの甘えたいという求めを、彼らが仕事を投げうってまで叶えてくれるとも思えない。
それでもパトリックとレノアが取りあっていた通信量に対し、両親とアスランとの通信量は少ない。
両親から『アスランよりもプラントが大切なのだ』と、決定的な一言を言わせない為に通信もとらなかったのだろうと今なら思える。
自分が自由になんの恐れもなく会話が出来るのはマイクロユニットだけ。
人格形成時に愛情に餓えて育った子ども、それがアスランだった。
アスランは優秀で穏やかな性格だ。
でも彼は大人に怯えるときがある。
既知である私や、ディアッカの父親のタッド、ニコルの父親であるユーリには特に。
怯えていることを上手く隠しているようだが、私達が身動ぎをする度に逃げ道の窓や扉の位置を何度も目で確認するのだ。
…虐待された子どもと同じ反応だ。
大人しかいないディゼンベルの屋敷で何があったのかはあの屋敷に勤めた者しか解らない。
解らない、が。ろくでもない環境だったのは目に見える。
衣食住が整えられればよいとの使用人の感覚には反吐が出る。
両親が手元に置かない跡取りなどお荷物との考えだ。
使用人たちは無関心を徹底していた。アスランは欠陥品に見えたのだろう。
これは我が家のコック、以前ザラ邸で勤めていた男の話から割れている事実だ。それなのに今彼が優秀なのは自分たちのお陰と豪語しているらしい。
信じられない程クズだ。
更にアスランの家庭教師は大学院の教鞭を取るほど優秀な学者たちだった。
一線を退いた後にアスランの家庭教師をパトリックが依頼したのだ。
プライドが高い彼らが幼いアスランに物を教えるとき、子どもへの配慮が出来るとは到底思えない。
過剰なほど『教育』されたことは確かだし、乳母もアスランの話し相手にはなれなかった。乳母がアスランを疎んじたからだ。
彼女はアスランの優秀さを詰っていた。
"気持ち悪い子ども""子どもらしくない子ども"として。
乳母は無理でも、家庭教師の誰かがアスランの気持ちを汲んでいれば、一言でもアスランを認めて、年相応に褒めていたら。
アスランは緊張したまま切れそうな糸の上に1人で立ち続け、両親に話しかけることすらできない幼少期を過ごさずに済んだと思うと堪らない気持ちになる。
乳母と家庭教師との間にも歪さを感じる。
家庭教師はアスランに早く大人になるように教育し、乳母はアスランが子どもらしくないことを忌避していた。
子どもらしさを否定され、子どもらしくないと否定される。
あべこべな大人の態度にアスランが傷付かなかった筈がないのだ。
アスランの異常さは食事面で現れる。
人生の楽しみの大多数を占める食事に対して、彼は本当に興味がないのだ。
はっきり言ってペースト食をまるで高級ディナーのように如才なく食べられる感覚はおかしい。
ペースト食。
アレは皆が嫌がる筈の、出来れば食べたくない栄養食なのだから。
色々と食べずに栄養が取れて楽だと、聞いた時は信じられなかった。
イザークからは、栄養タブレットじゃなくてペーストになっただけまだマシなのだと聞いたときはこいつマジかと思ってしまった。
アスランの好き嫌いがないのは喜ばしい意味ではなく、全てが同じ味に感じているからなのではないかと私は疑っている。
憶測だが、どれを食べても同じ味だから文句も言わないし、食べたいものもないのだ。
・・・味がしないものを長時間食べ続ける苦痛より、効率的な栄養補給ができる食べ物を食べた方が楽なのだ。
アスランにとって、食事は学習の範囲であり、食料は教材だからだ。
美しく食べる反面、美味しいかどうかは怖くて聞けずにいる。
一人だと絶対に物を口にしない。
水は飲むが、お菓子の類いや、アルコール類、お茶などの嗜好品などは自分からは口にしない。
贅沢を禁じている風ですらある。
テーブルに着いて食べる時も、イザークに勧められれば食べるが、そもそもが食べるという行為自体が好きでは無いことを私は知っている。
食後にスイーツを勧めた時に『なぜ?』という顔をされたことがある。
『今、食べ終わりましたよ?』みたいな顔だ。喜んで食べるイザークとの比較がおかしかったが、そういうことなのだ。
食事がトラウマになっているのか、静かな空間でお皿とカトラリーが触れあう音を聞くだけで酷く緊張するらしかった。
食事中は会話がなく、好きな食べ物を言うことさえない。
アスランの笑顔が見たくて、あの子が好きだったとレノアから聞いていた桃のゼリーを食べさせた時。
自分が好物を言ったから母上は農業プラントに行ってしまったのだ、父上ごめんなさいと言わせてしまった時は全てが憎くなった。
連合や核や戦争はもちろん、レノアもパトリックも、お前のせいだと刷り込んだであろう大人も、支えられなかった我が身も、こんなに寂しいアスランを捨てた女どもも、全てが許せなかった。
子どもが両親に好きな食べ物を言って罪悪感を覚えるなんて、なんてこと…!
好物を言うだけで母親が死ぬ要因を作ってしまったというあの子に掛ける言葉はついぞ出て来ないまま、取り乱した私をイザークは宥めてくれた。
なんて素敵な男に育ったの!素敵!
育てたのは、この私だが!
それでも家族全員での食事を私が諦めきれない。
アスランの好物も知りたい。笑った顔も見たい。欲張りかしら?
だってコックが言ったのだ。『十人座れるザラ邸の豪奢なテーブルについて、教師を背に一人で食事をするアスランが可哀想だった』と。
家族との温かな時間も、団らんも、この子は知らないのだ。
こんなことになるなら、レノアに言って私がアスランの面倒を見れば良かった。
こんな可愛い子を、なぜ放っておけたのかあの二人に聞きたいくらいだ。
『本当にお前たちは、アスランよりプラントが大切だったのか?』
きっとアスランもずっと二人に聞きたかった事だ。
アスランは、『お前が一番大切なんだ』という言葉を永遠に待っている。
一番になりたかったと言ってしまうのは承認欲求だ。
自分1人を愛してくれる相手を、ずっと探していたのだ。
そしてその1人を見つける度に、その相手を目の前で亡くすということが繰り返されてきた。
パトリックも、ミーア嬢も、デュランダルも、ラウ・ル・クルーゼも。
一癖も二癖もある連中だが皆プラントを守って死んでいった。
アスランが病的にプラントを守ろうとするのも彼らとの繋がりがもうプラント防衛しかないからだ。
特に両親との繋がりは希薄で、だからこそアスランは殊更プラントの防衛に拘るのだ。
大戦の報奨に希望はないかと聞いたときに、あの子の口から笑顔で
『プラントさえ無事ならどうなったっていいんです』
と答えられた時は返答に窮したが、守れなかった、死なせてしまった者達の代わりがプラントであり、両親への孝行がプラントの防衛なのだ。
だってもうそれしか彼らとの絆が残されてないのだから。
プラントと自分しかないアスランの世界にイザークが食い込めたことは奇跡としか言いようがない。
私の息子、控えめに言って最高。
前回、痛い目を見た桃のゼリーの失敗から今日こそはと、とっておきを用意してみた。
我が家のコックに、パトリックが好んで食べていた料理を出すように頼んだ。コックの彼はとても優秀で、2つ返事で作業にかかった。
木の実のタルトを見たときは『確かに3時はコレを議長の執務室で食べていたな』と思い出し、とても懐かしかった。
アスランの好きな食べ物は、彼の傷口を抉ってしまうので、それは彼が食べたいというまで待つつもりだ。
先ずは、食事が楽しくて、美味しいというところから始めなくては。
やっとテーブルにつけるようになったのだ。私に萎縮しないように、イザークの左隣に席をつくり、カトラリーは仕方ないにしても皿は音が鳴らないセラミックに交換した。準備は万端だ。
少量ずつ出される、パトリックの好物を、解説して好感度を上げる。
そしていつかはお義母様と呼ばれてみせる…!
「母上。」
「どうかしたか、イザーク。」
「にやけた顔が気持ち悪いです。あと、アスランを見てよだれを垂らすのを止めてください。」
不思議な顔で固まったアスランを見て、よだれをハンカチで拭く。
「ごめんなさい、私ちょっと個性的なの。驚かないでちょうだい。」
焦りすぎて冷たい口調になってしまった。溜め息を吐いたイザークを見たあと、恐る恐るアスランを見ると、アスランはゆっくりと口角をあげるのが見えた。
イザークはフォークを皿に置いてアスランを凝視した。
「ご飯、美味しいですよ、エザリア様。」
笑った顔がレノアにそっくり!
なんて可愛いの!天使!?天使なの!?
パニックに陥った私は、『それはよかった。』と上品に笑えずフォークをテーブルクロスの上に置いて
「お義母様と呼んでちょうだい!」
と、叫んだのだった。
執事もメイドもイザークも、目を大きく開いたけれど、(なんなら執事は茶器を床に落としたわ)アスランだけは顔を真っ赤にして、小さな声で「お義母様」と恥ずかしそうに呼んでくれた。
やってしまった、とイザークに助け船を求めるとイザークは机に顔を押し当てて大爆笑していたのだった。
いいこと!?
アスランは今日から家の子よ。
いじめる輩はこの、エザリア・ジュールが許さなくてよ!