誰も居なくなったあの子の隣




プラントの人工的な空を見上げて、透き通った緑の瞳を彼は輝かせながら物語を読みきかせるようにゆっくりとした呼吸で俺に話しかけた。

「ねぇイザーク俺はね、父上や母上のようにこのプラントを飛躍させる人になりたかったんだ。空調組織の技術者は俺の夢だった。」

父上が、地球のアメリカ大陸の出身でね。その実家に大きなオレンジの木があったんだって。でも地球の故郷にはもう戻れない。
だから、母上と結婚した時にディゼンベルの本家にもオレンジの木を植えたんだ。大きくなりますようにって。
でも、一本目に植えたオレンジの木は枯れてしまって、母上が品種改良して植えた二本目は、根が腐ってしまった。俺の生まれた年に植えた三本目だけが今本家の中庭にひっそり生えてるけど、花は咲いても実が付かないから母上は『プラントの空調システムがもっと地球に近づけば実がつくかしら』って言ってたんだ。だから俺は工学部に行ってそういう方面に進みたかった。植物を育てる土台を作り上げて、父上と母上を喜ばせたかったから。

ジュール邸の庭の長椅子に座ってアスランはそう続けた。痩せてしまった背中と、過去しか見れなくなった瞳は、独りで戦い続けた代償だった。

「母上のことはあまりよく覚えてないんだ。10歳の頃までの誕生日カードを見ると、綺麗な文字で俺の誕生日を祝う言葉が書かれてた。でも、撫でられた記憶も、抱きしめられた記憶も、通信の声もあやふやで。通信に関してはどこかに残ってやしないか探してみたけれど、先の大戦で父上が全て消していたよ。父上は母上の残像を見るの、辛かったんだと思う。俺は父上にも、母上にも孝行なんて出来なかった。」

孝行どころかお二人とは会えもしなかったんだろう。
ディゼンベルの本家の執事の話では、月の学校でキラ・ヤマトと離れてからは本当に一人であの広いだけの本家で勉学に励んでいたと聞いた。
友人と呼べる人間は居らず、有名過ぎる婚約者もこいつに会いにはいかなかった。
俺の母親でさえ顔を見に週に何回かは帰ってきてくれていたが、あのお二人は大切なアスランを犠牲にしてまでプラント独立のために奮闘していた。
ーーーーあの、血のバレンタインまで。


「デュランダル議長は優しい方だった。キラ達は彼の事を悪くいうけれど、俺にはとても優しかったよ。前の大戦で失効したプラントの市民権を特別に用意してくれたし、新しい機体も準備してくれた。
でもそんなものより一番嬉しかったのは俺に『よく頑張ったね』って、頭を撫でてくれたことだった。『心配いらないよ』って。『頼っていい』って。
大人の男の人に甘えてもいいなんて、子どもの頃みたいだった。・・・子どもの頃にだって誰かにそんな風に甘えてみたことなんてなかったけれど。」

それが嬉しくてあの議長を信じてしまった?

「だって誰もそんな風に俺を扱ってはくれなかった。初めてだった。とても優しかった。温かかったよ。
月でキラと離れてから初めて安心できたんだ。例え俺という駒を手にいれる為だと分かっていても。」

温もりがほしかった?

「ミーアは本当に普通の女の子だったよ。何も持ってない俺のことを『大好き』なんだって。
彼女といると俺は普通の人間なんだって思えた。なんでもないことで笑って、どうでもいいことを怒って。驚いて。でも俺がちゃんとしなかったせいであの嵐の日に彼女は彼女ではない何かになって、何処かへ行ってしまった。俺のせいだった。」

お前の責任じゃない。ラクス・クラインの替え玉を作らせたのは前議長だ。原因はラクス嬢にもある。お前の手を拒んだ彼女もお前も何も悪くない。

「カガリは一生懸命な人だったよ。オーブの為に努力する人だった。彼女のお父上の理念を守りたくて、でも情に厚くて犠牲を出せない性格だった。とても優しい人だった。
だから見離されてしまった。ZAFTに入った俺は要らないんだって。彼女は崇高なオーブを取った。当然だよな。国主は国益を第一に考える生き物なんだから。
死んでしまったセイランさんは俺に当たりが本当に強くて、恋愛脳だった俺は理解出来なかったけど今なら分かる。義理の娘になる予定の彼女に、オーブの国母になる人に、俺という爆弾がついているんだもの。でもそれを飲み込んでくれた。
俺が何処にも行けない事を知ってたから。殺したかっただろうけど、不運な事に俺は死ななかった。あの時は生きることが償いだったから。」

死ななかったなんて、そんな風に言うな。

「そうだな。死ぬ訳にはいかなかった。だって俺の命はニコルに庇われた命だから。」

アスランはそう話すと、プラントの人工的な空に向けていた瞳を地面に向けた。

「ニコルは弟みたいで可愛かった。キラとのことで迷う俺を最期まで気にかけてくれた。俺が迷ったせいで、俺がキラを殺せなかったせいで、代わりにニコルが死んでしまった。
ストライクのビームサーベルは高温で、骨も残らなくて。彼のご両親にどう謝罪しても足りないのに、ユーリ様は俺の為にジャスティスを作ってくれた。ーーーもう、燃料切れがない機体を。」

「アスラン」

「彼のご両親に報いるべきだったんだ。そうすれば父上も死ななかったし、シンの大切な家族も今も生きててオーブで暮らしていたかもしれない。ちゃんと戦争を終わらせていたら。
皆が納得する形での終戦だったなら、あのユニウスセブンが地球に落ちることもなかった。
粉々に砕かなくても良かったんだ。
でもあの時はそうするしかなかった。罪もなく亡くなったユニウスセブンの核の被害者たちを、今度は加害者に、汚名を着せる訳にはいかなかったから。母上たちを、人殺しにするわけにはいかなかったから。
・・・キラについては今でも考えるよ。
俺がキラを殺しておけば、ラクスがキラを助けてシーゲル様と父上が仲違いをする事もなかったし、俺がニコルの死を無駄にして父上と決別することもなかった。
父上があんなに暴走することもなかったと思う。思ってしまう。そうしたら父上は今も生きていて、親孝行も出来たかもしれない。そして母に似た俺を見て笑ってくれたかもしれない。『よくやったな』って、頭を撫でて抱きしめてくれて・・・あの日のデュランダル議長のように。」

父親に撃たれた右肩を手で抑えた。
彼の父親からの形見は右肩の、その傷跡だけになってしまった。
平和へと戦い続け、理解されない苦しみに耐え抜いて、そうしてやっと見たのは裏切りと、絶望だ。

「死にたかったけど、死ねなかった。
俺が生きてるのさえ人には迷惑なことだって分かってるよ。
だけど俺の命はニコルが、15歳だったニコルが庇ってくれた命だったから、ニコルの死を無駄には出来なかった。
だから世界を平和に導くためにへいきにならなきゃいけなかった。何もかも壊すときは正義の名の元でなければならない。」

15歳の、父親の愛情を欲しただけの、何も知らない少年だった彼がたった3年で己が戦士でしかない事を突きつけられる。
平和への絶対的な力、それしか生きる方法が無いと言わんばかりだ。

「ラクスは俺に正しくあれと言った。今シンと戦っているキラが死んでしまったら、今度こそ世界は戦いの道を止めることが出来なくなるって。あの時俺は満身創痍で内臓から出血していて、でも、人類の希望のキラを助けなきゃいけなかった。出撃の後、ラクスはとても喜んでいたよ。キラを助けることが出来たから。その時俺はへいきにならないといけないことを知った。同時に確信したんだ。
『ラクスの創る平和の世界に俺は必要ないんだ』って。」

後ろのサンルームから「それは違いますわ!」と声が聞こえる。それに同調する声も同時に。アスランにはその声は聞こえてない様子だった。
毎日の懺悔。生きてきた事への謝罪。
アスランはジュール邸の庭に出る時はいつもこの独り言を続ける。

「クルーゼ隊長も、俺に戦士であれと言った。でも、あの人は俺が人間であることも認めてくれていた。駒であるならいいと。
キラを諦めたらどうか。諦めなくてもいい。先に目を向けてはどうか。過去も大切だよ。好きに迷えばいい。迷わなくなったらお前は人間じゃない何かになりそうだがねって。
今ならクルーゼ隊長が何を言わせたかったかわかるよ。未来が無い隊長は、未来がある俺に未来を見て欲しかったんだって。あの時キラを諦めていたら、父上も、ニコルも、もしかしたらラクスも俺の隣に居てくれたかもしれない。キラを殺したという傷が俺に深く残っても、他の人は俺の側に…。」

俺は独り言を重ねるアスランの座る長椅子の隣に座った。

「キラとラクスのことは戦局が進むとよくわからなくなった。
一緒にいて話もしたけど、『よく考えて』って言われると全てが分からなくなっていった。俺なりの答えは必要無いみたいだった。でも最後に居場所を作ってくれたのもあの二人だった。俺が俺として戦える場所を作ってくれたのも。」

そのときには既に自分のことをジャスティスの一部と認識していたのだろう。
プラントに害なす大量殺戮兵器を壊して回って人々を救い。そうして称賛される自分以外の人間を見ながら、誰からも感謝もされずに切り捨てられる自分を『己はへいきだから』と言い聞かせた。
骨が浮いた背中で、傷つき過ぎてもうどこが痛いのかわからなくなった心で。

「俺はね、イザーク。誰かに愛情を持って触られたことなんて本当に片手に余るくらいしかないんだ。
いつも誰かの二の次で、それが当たり前で。俺を一番にしてくれそうな人はいつも俺を置いて目の前で死んでしまう。
早く彼らの元へ逝きたいけど、綺麗な彼らと同じ場所へは行けない。
俺はへいきじゃないといけない。
だからここに、ジュール邸に置いて貰って、毎日を穏やかに過ごせて、俺は凄く嬉しいけれどでも同時に凄く怖い。」

地面からその翡翠の瞳を俺に向けた。視線を合わせるこの動作は昨日までの彼にはなかったことだ。美しい瞳にアスランの意思が宿るのを見るのは。


「お前に大切にされているんだって、勘違いしてしまいそう。」


そんなこと、あるわけないのにね。

諦めたように笑う彼の肩をたまらなくなって抱き寄せる。点滴が刺さった右腕に負担をかけないようにそっと。
アスランの後ろの植木の向こうにいるシホの目が涙で真っ赤になっているのが見える。その隣のディアッカは唇を噛み締め拳を握り、アスランから視線を僅かに逸らした。
自分の為に泣くことも出来なくなった男は、「どうした?」と俺の瞳を不思議そうに覗き込む。
病衣のゆったりとした襟の隙間から肋の浮いた胸が見える。大小様々な傷で覆われた肌。
大戦後とは比べようもなく薄くなった体。歩いて、庭に出るのがやっとの。
艶を失った髪の毛を撫でると、猫のように目を細めた。頬がひんやりと冷たい。

「勘違いじゃないぞ、アスラン。俺や、俺の家族はお前を大切に思ってる。」
「でももう俺は戦えないと思うぞ?」
よほど撫でられるのが嬉しかったのか俺の体にアスランは寄りかかった。
「体重が増えなくなったんだ。」
アスランの体重が増えなくなったのは食べられなくなったからだ。
この一年、重湯や点滴やゼリー食でどうやって太れというのか。
食べられないことを不思議と思っていないのが悲しい。きっと好きだった食べ物さえ今の彼は忘れている。
「体重が増えないと、ジャスティスには乗れない。あれ、でも俺は例外でへいきなんだっけ?」
こういうときにラクス嬢の罪深さを知る。『アスランは大丈夫ですわよね』容易に聞こえてきそうな声。
「ジャスティスには乗らなくていい。」
「どうして?」
「お前に死んで欲しくない。」
「なぜ?面白いことを言うんだな?」
アスランの瞳が不安で揺れた。
こいつは、ジャスティスに乗れない自分には価値がないと、本気で思っている。
不要になったら廃棄処分だと、その口から聞いたこともある。だから解らせてやるつもりで、今日をセッティングした。アスランの意思が戻るとは思ってなかったが。キラ・ヤマトやラクス嬢に、英雄だと囃し立てられるあいつらの罪を見せつけてやりたかった。

「お前を愛しているからだ。」

背中と膝に手を回して抱き上げる。
アスランは目を大きい瞳を更に大きく開いてびっくりした様子で足をゆらゆらと揺らした。
こいつに今、暴れるだけの体力は無い。
「イザーク、」
「俺が何の見返りも無くお前をここに留め置いたかと思ったか。残念だったな。貰えるものは有り難く貰う。それが俺だ。有り難くお前を頂戴するさ。」
「どうして、」
「一緒にいるのが怖いか?」
問うと、大きな瞳が更に見開かれ、そのままぎゅっと閉じられた。アスランは俺の首に腕を回して抱きついた。震える声で「怖い、怖い、いなくならないで、」と小さな声が耳元に聞こえる。
頼りない背中を自分の体で抱き込む。少し冷たい体を外側から温めてやるようにアスランの背中を擦った。
「ずっと一緒にいて、そして俺が死んだらお前も直ぐに道連れだ。」
顔を上げて、ぶつかった視線に言い聞かせると、そこでアスランは真剣な目で問うた。
「道連れ?置いていかない?」
こいつは多くの大切だった人達に『置き去り』にされてきた。
大戦後、精神が耐えられなくなったからか、アスランは世界の全てを拒絶した。優しい、自分だけの世界へ。
「ああ、直ぐに道連れにしてやる。」
「でも俺は人殺しで、イザークと同じところには行けないよ?」
「お前はバカか。お前が人殺しなら俺もディアッカもキラ・ヤマトもそうだろ。」
「そうなのか?」
「何を当たり前の事を。お前が大切なのだと、解れ。レノア様と、パトリック様の墓だって俺がなんとかしてやる。お前はもう少し我が儘を覚えろ。」
「イザークも?」
「俺もお前も母上も、その墓に入る予定だ。・・・こんなことしか出来ない俺に幻滅するか?」
アスランはくしゃりと顔を歪めると、その顔を両手で覆った。
「ああ、ありがとうイザーク。嬉しい。嬉しいよ。」
「それで?アスラン、俺のものになるつもりはあるか?」

誰もよすがの無いアスラン、どうか俺を命綱にしてくれ。頼むから。

腕の中のアスランをゆらゆらと赤子にするように優しく揺する。
目をとろんとさせたアスランは力を抜いて俺の胸に顔を埋めた。
「イザークが俺なんかを欲しいって言うなら、」

いいよ、あげる。

言葉は聞き取れなかったが、意識を落としたアスランの弱い握力で握られたシャツが返事のようだった。




へいき=兵器、平気
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