鬼滅
朝日が差し込む邸宅の廊下の雨戸を開け放して空気の入れ替えを行う。
この屋敷には、九人の柱のうちの一人が住まわれている。
鬼との戦いは熾烈を極め、漸く勝鬨をあげたのは今から三年前だ。
あの鬼舞辻を倒しはしたものの、各所に鬼は残ってしまった。鬼舞辻の最期の足掻きだった。
鬼殺隊は満身創痍だったが、お館様の掛け合いでそのままの形で残ることになった。
鬼殺隊は革新が進む。あの戦いで亡くなった柱や、再起不能になった柱の人数を補充するために、新しく何人かの柱が立った。
日柱、竈門炭治郎様
このお人は、あの鬼舞辻無惨討伐の最後の一人であり、あの鬼の首を直に狩り取った方。
入隊したての俺のような隊士と違って大変立派な方で、現在の鬼殺隊の誇りであり、光だ。
まるで演舞をするかのような日の呼吸は、見ているだけで荘厳であり、その強さは折り紙付き。この方が鬼殺隊を背負って立つ人だと目されている。
炊事場の窓を開けて、炭で火を起こそうとしていた俺の後ろから可愛らしい声がかかる。
「おはようございます道隆さん。今日もお早いんですね。」
あたふたしていた俺はすぐさま振り返ってこの屋敷のもう一人の主に慌てて頭を下げた。
「おはようございます、明里さん。今来たところで、まだ戸を開けただけなんです。」
明里様。艶やかな黒髪を後ろに垂らして、黒目がちな瞳の大きい、いかにもな美人だ。
綺麗な着物にエプロンをかけた姿で立っている。近付くといい香りがする。
「あら、それならすぐに支度をしなきゃ!炊事場はもう少ししたら禰豆子さんが来るから大丈夫です。
道隆さんはそのまま道場を開けて、炭治郎さんを起こして来て下さいな。」
「日柱様の奥方に申し訳ない。すぐいたします!」
「大丈夫ですよ。」
炭治郎さんの内儀の明里さんはその名の通りとても明るい。
キラキラとした笑顔で指示を飛ばされ、自分が足りないところを補ってくれるとなんとも申し訳ない。とても出来た方だ。あとで謝ろう。
今日から柱稽古で柱の方直々に鬼との戦い方や呼吸の技を教えていただける。
この日屋敷邸は隊士が三番目に来るところだ。それに伴い大勢の隊士が一度に訪れることから今週は準備に追われていた。
道場が開くのは二週間後だが、炭治郎さんの指南の仕方が独特のため、こうして屋敷の者たち全員で段取りを組むことになったのだった。
道場を開けて空気の入れ替えをする。床を磨いて窓を拭くと心が洗われるようだ。
綺麗になったところで炭治郎さんがいる北の部屋へ向かった。
静まり返った廊下を進むと熟れた桃のような香りと、金木犀が混ざったような甘い香りがする。
この北の部屋の一角は、日屋敷邸のなかでも独立していて、『ある方』をお招きしている。
そしてこの一角は炭治郎さんと『ある方』と、嘴平伊之助・・・獣柱と、炭治郎さんの継子である俺しか入ることを許されていない。
そう、炭治郎さんの妻である明里さんだって入れないのだ。
コンコン、と障子を叩くと昨日の夜やっと遠方の任務から帰ってきた炭治郎さんではなく、この部屋の主ーーーー『ある方』がススッと静かに障子を開けた。
「ごめんね、あと少しだけ寝かせておいてくれないかなぁ?」
すまないね、と首をゆっくりと傾げてお願いをするこの人の名を、俺は知らない。『彼に名を聞かないように』と炭治郎さんから言い含められている。
黄金を削り取ったような艶やかな金髪を、滝のように垂らした長い髪。
琥珀色の瞳の美人。右足を少し引きずる、彼。
俺以外の屋敷の使用人も彼の名を聞いてはいけないと炭治郎さんからいわれているらしい。理由は解らない。
でも時々訪れる他の柱様がまるで旧知の仲のように「なる」と呼んでいるから、屋敷の使用人はこの人のことを『なるの方』と呼んでいる。
濃緑の着流しは似合ってはいるが、見慣れたその着流しは炭治郎さん所有のもので。
カッと顔が熱くなった俺はその意味を悟ってしまう。垂らした長い髪の毛のその隙間の首から目が離せなくなった。
赤い情交の跡があるからだ。
炭治郎さんとこの人は、昨日の夜から、
「ん、・・・?どこだ・・・?」
思考の海に沈みかけた俺の耳に、炭治郎さんの声が届く。手探りで目の前の彼を探しているのであろう、布団をスルスルと撫でる音がする。
呼ばれたであろう彼は少し焦った声で「いるよ」と返答する。
その場になんとも言えない空気が漂う。俺は大きくため息を吐いた。
「わかりました。明里さんに伝えておきます。」
サッと障子を閉める。こう言えば少しは炭治郎さんの奥方の明里さんに悪いと思ってくれたらいいのに。
彼は炭治郎さんの囲いものだ。
強く、優しい炭治郎さんの同情を買ってここに居付いている。
他の柱とも仲がよいけれど、特に炭治郎さんにはべったりだ。
部屋の外の何処かへ行くときは大抵抱えられているし、彼もそれを遠慮しない。
炭治郎さんには明里さんという奥様ががいるのにも関わらず、その奥様を居ない人のように扱って、炭治郎さんに明里さんを蔑ろにさせてまで共寝をおねだりする淫乱。
俺は、この人が大嫌いだ。
******
炭治郎の継子が消えた障子を見て、肩の力を抜く。
あの瞳が好きになれない。
どうしても警戒してしまう。
彼が北の部屋の廊下から去った音がして、知らず知らずのうちにため息を吐いていた。
「はぁ。」
「どうした、善逸。」
のそりと床の上で寝返りを打った己の番に思わず苦笑する。
「あの新米隊士でお前の継子の道隆くんに俺、嫌われてるんだよねぇ。」
炭治郎からこいこい、と手招きをされて四つん這いにて腕の中に収まる。
こいつってば、柱に就任してから男らしさが更に増して今や鬼殺隊憧れの人No.1よ。
優しい音にときめきながら、その厚くなった胸にすり寄る。
ああ、いいにおい。
たまらない。
理性とびそ。
「また体重が落ちたな。」
無防備な腰を太い腕で引き寄せられ、途端に身体中の力が抜けてしまう。絶対的な安心感は怖い。依存してしまう。
「仕方ないよこの時期は。むしろ安定した方だってアオイちゃんが言ってただろ?」
今やあの美しく、壮絶な覚悟を持っていた蝶屋敷の主の、その跡を継いだ女性を思い浮かべる。
テキパキサバサバとした感じで『貴方の体は最早限界なんです!長生きしたかったら私の言うことを聞きなさい!』と言われた事が昨日の事のように思い出される。
「俺がお前の食事に付き合えたらいいんだが」
「無理無理。俺のことより鬼退治。最初に決めたことだろ?
それに、最大限気を使ってもらってるから大丈夫。炭治郎が間に合わないときは戸に鍵をかけて水と薬で乗り切るから。」
「こら。」
「だって炭治郎が間に合わなかったら吐くしかないもの。料理がもったいない。作ってくれた人にも申し訳ないし。」
「必ず明後日の夜には迎えに行けるようにする。甲種がいないここは危険だ。宇髄さんや、義勇さん、不死川さんにもあらかじめ手紙でお願いしてるし、明日には伊之助が北陸から帰ってくる。伊之助が居れば善逸は安全だ。」
「それは心強いけど、いいの?」
「いい、とは?」
「他の甲種の匂いがつくよ?炭治郎は凄く嫌がるじゃない。」
「・・・好きではないが、お前の世話を一人に任せて、その男の匂いが善逸に染み付くよりはましだ。
全員に声をかけてお互いで制御してもらって、かつお前を守ってもらう方が気が楽だし。これなら誰か一人の匂いがお前から濃く香るなんてことはないさ。」
「うわお。」
「俺も俺の番を取られまいと必死なんだ。解ってくれ。」
「炭治郎、」
「ん?」
「好きよ。必ず俺のとこに帰ってきておくれね?」
「わかった。俺も善逸だけだ必ずお前の元に帰ってくるさ。それはともかく、道隆に嫌われているとは?」
抱きしめられた体制で炭治郎の唇をねだりながら、「そうなんだよ」と少し息を吐く。
熱い掌が後頭部を掴んで炭治郎の肉厚な唇で唇を塞がれ、数秒して離される。
再度の口付けで口の中を舌で優しく蹂躙されると、炭治郎の唾液を甘く感じる。
あぁ、そろそろかな。
「会うとなんだこいつ的な目で見られるし、音なんて凄いんよ。酷い酷い。」
「なら早いところ準備をしなくては。宇髄さんに引き取りに来てもらおう。俺も朝を食べたら東京に出立だ。お館様のお供だから、今からだと道隆に言い含めようとも時間が無い。次の機会に説明しておく。
道隆は丙種だが腕が立つ。今のお前は道隆に力では勝てないし、危害を加えられるかもしれない。」
「そこまではないでしょ。俺は日柱邸の住人だし、彼は仮にも炭治郎の継子なんだから。」
「いいや、我慢ならん。間違いが起こってからでは遅い。善逸、何度も云うが解ってくれ。俺はお前を害されたら、」
『この世の全てが許せなくなる。』
この世の中には甲種、丙種と乙種が存在する。
甲種は、成人すると肉体的にも精神的にも知能的にも他の二つの種よりも抜きん出た、優秀な人物となり得る。
例外は存在せず女性であっても丙種の女性や、乙種の男性、女性を孕ませることができる。
人格者が多く見目も整い、知的で筋肉質な甲種はおよそ他の種から見ても上位種と言える。およそ五百人に一人存在し、その成り立ちのメカニズムは分かっていない。政治家、医者や貴族に多く全てにおいて成功する種族と言えば、皆「甲種だ」と口を揃える。
丙種は甲種に劣るが、その数は甲種、乙種を除いた種の人々の総称である。これといって特筆すべき点はない、甲種でも乙種でもない種族のことを指す。
昔は甲種からの劣等感や、乙種への嫉妬心で乙種を差別する感情を持っていたが、乙種が丙種による差別での迫害、その数を劇的に減らし壊滅したことから、その感情も失われて久しい。世間一般の人はこれにあたる。
乙種はその昔、丙種からの迫害によりその数が絶滅の一途を辿った種である。現在では生ける伝説扱いとなった。
迫害されていた当初、乙種狩りで生き残った乙種は己を丙種の中に紛れ込ませる生活をしていた。しかしその恐怖と戦うよりは、と山奥や秘境に隠れ独り暮らす者が多くなった。
その為にせっかく乙種狩りで生き残った乙種も、結果的に血を継ぐ者が減りに減り、現在で乙種は数百万人に一人、居れば良いとされる超貴重種となった。
乙種は美しくたおやかな容姿に、優しい性格をしており争いごとを嫌う。
その血は遺伝で乙種たらしめるということが分かっているが、その血は失われて久しい。
甲種との間には不思議な絆があり、甲乙種はこれを番関係と呼ぶ。
乙種は男女共に孕まされる種であり、彼らの一番の特徴は、三ヶ月に一度来る『発情期』と呼ばれる生理現象にある。
この期間、乙種は甲種を誘い、情交のことしか考えられなくなる。その為に長い歴史の中で、乙種は常に他種族から下にみられる下等種族という札がついてまわっていた。
『発情期』の期間の乙種の人体から出される体臭、香の作用により甲種は激しく情欲を掻き立てられる。拒絶は難しく、ほとんどの甲種が彼らの意図と反して契ってしまう。
プライドの高い甲種は自身より劣っている筈の乙種に抗えないのが耐えられず、また丙種も自身より劣っている乙種が、己の意中の甲種に病的なまでに大切にされていることを憎み、若しくは甲種と共に下に見下して、乙種は二つの種から迫害された。江戸時代中期から後期にかけて乙種狩りもあった。
特に甲種との番契約は、発情期間中に甲種が乙種の項を噛むことによって、番として結ばれる。
二人は唯一無二の存在となり互いが互いに縛られることになる。
番関係が成り立つと乙種は番である甲種にのみ発情するようになり、このときに出される香も番である甲種しか感じ取れなくなる。
乙種の発情期には様々な症例がある。代表的なものでは、番や意中の甲種の持ち物を病的に集め巣と呼ばれる鳥の巣に似た形状のコロニーを作ったり、発情期間中、若しくは発情期前後は番や意中の甲種から離れるのを嫌い、体を密着させたがる。
番関係を構築した執着が強い甲種の番となった乙種は、給餌がないと食事や睡眠、発声もできなくなる。
乙種の発情期間中は番の甲種も同様に似たような症状があり、番の発情期間中は精神的に落ち着かなくなり、いかに温厚な甲種でも苛立ちや怒気を隠せなくなる。
また番の乙種に対しての深い執着から、発情期前後と発情期間中は乙種から離れず、他の甲種が近づくことを嫌い、物理的に守ろうとする。
これは一種の番本能と呼ばれ、一時的だが発情期間中はどんな乙種であっても無防備になるため、それを強い甲種である番が補う動作と考えられる。
また、甲種は自身の番が自分の持ち物で作った巣を見ると強くなることも分かっている。
健康上や、身体的な理由も当てはまるが、この甲種が巣を見て乙種を誉めるという動作は後の愛の行動に深く関わって来ており、番同士の信頼関係が深まり、共に寿命が伸びたり、多くの子宝に恵まれることが分かっている。
また、乙種からねだられる給餌行為を甲種が拒否することはほぼ無い。これらは愛情表現の一種だからだ。
メカニズムは不明だが、乙種が生む子どもの九割が甲種として生まれてくることから、乙種は名家や甲種の跡継ぎを望む者達から狙われるようになった。
今まで虐げてきたのに、勝手な話である。
更にその絶対的な数の少なさにより、乙種を欲する甲種同士が乙種を取り合う事例も出てきた。
しかし、甲種は乙種を共有できない。
乙種もまた甲種の番は一人だけという認識であり、どちらか一人が亡くなってしまった場合、遺された方も後を追うように長生きはしない。自然と寿命が短くなることが分かっている。
このことから、甲種同士での争いは熾烈を極め、殺し合いに発展することも少なくなく、この場合は乙種に番関係の主導権が握られる。
また乙種はその特異な香により鬼を引き付ける場合もある。鬼にとって乙種の体は稀血と変わらない作用があるのだ。
竈門炭治郎と我妻善逸が番関係になったのはかれこれ二年前になる。
鬼舞辻無惨を倒した後、再度鬼殺隊が結成されるまでの三ヶ月間は鬼殺隊のメンバーにとっては束の間の休息、蜜月と言えた。
炭治郎や善逸にもそれが当てはまり、これで鬼殺は終わったと信じ、これからの道を決めるのに先ずは体の疲れや怪我をゆっくり癒やそうと、蝶屋敷の世話になっている時だった。
善逸の異変に初めに気づいたのは炭治郎だった。
それまで共に任務をこなしていた善逸から僅かだが甘い香りがすることを不思議に思った程度だった。
『善逸お前、蝶屋敷の果物を食べたのか?』
言われた善逸はその頃かの上弦の陸に負わされた怪我で顔がひび割れており、愈史郎の血鬼止めを使って治療している最中で。
口があまり開かないからまだ食べ物はドロドロとした重湯しか食べられない日々で。
『たんじろ、俺まだ果物なんて食べれんよ?動こうにもアオイちゃんから怒られちゃうしなー。』
としどろもどろに不思議そうに答えたのだった。
それが二人にとっての試練の始まりだった。
日に日に良い匂いがする善逸を見ると落ち着かなくなる炭治郎。
善逸は善逸で近くにいる何か得体の知れないモノに威圧され眠れない日々が続き、伊之助が善逸から香る甘い匂いに気付いた時には、善逸は一ヶ月以上の間、微熱に悩まされていた。
炭治郎は早々に退院したが、善逸がそのような感じであるので、なぜだか保護欲が芽生え日々付き添いをしていた。
しかし微熱のまま一月を過ぎた辺りから善逸は炭治郎から差し出される食事しか食べなくなった。炭治郎がいるときは食べるし、笑うが、いないときに食事の時間が来ると食べはするが、その後吐き出すようになってしまった。
終いには会話がおぼつかなくなり、炭治郎が居ないときは表情が出なくなってしまった。
自分と離れて何処かへ行く炭治郎を極端に嫌う善逸を、流石におかしいと思った炭治郎が蝶屋敷を切り盛りしていたアオイに相談した。
『まさか、そんな。この症状は・・・』
アオイにびっくりしたような顔をされ、その状態から緊急性ありと判断。直ぐ様善逸は一人だけ別病棟に隔離されてしまった。
そうなると今度は善逸から離された炭治郎の方が落ち着かなくなる。
始終側にいた善逸が気掛かりでたまらなくなり、イライラして常は温厚な人であるのに、苛立ちや怒気を隠さなくなった。
そこでアオイに詰め寄った炭治郎に、アオイからはとんでもない言葉が掛けられる。
『善逸さんは信じられないかもしれませんが、乙種です。今の彼は正常とは言い難い。発情期と呼ばれる時期で、とにかく、彼の意識が普通に戻るまでは、甲種の方は何方とも面会禁止です。』
二人で病室にいた際に番関係を結んで居れば拗れなかったかもしれないが、善逸は乙種であるということを徹底して隠しており、また炭治郎は自分が甲種だと知らなかった為に二人はタイミングを逃し、離れ離れになってしまった。
鬼舞辻無惨討伐から2ヶ月と半月が過ぎた時だった。
到底信じられない情報がもたらされる。
“鬼がまだ存在する”“浅草で獣に食べられたようなバラバラの死体が見つかった”
情報が錯綜する中、すぐに動けるようになっていた炭治郎と伊之助が向かった。
結局、鬼は『自分以外にもいる』こと、『鬼狩りを憎んでいる』こと、無惨が散ったことにより出没範囲が限定的だった鬼が全国に散ったことを宣言し、『ざまあみろ!』と言いながら伊之助に斬られた。
情報は直ぐに産屋敷家へと伝えられた。ここにきて鬼殺隊は再度の結成を余儀なくされた。
問題は山積みだった。
当主が幼いため、その補助に元音柱の宇髄が立ち、鬼殺隊として動く際は煉獄家当主が控えた。
柱は、先の無惨討伐の折から7人減り、風柱と水柱のみ存命だったが、二人とも重症で、とても戦える状態ではなかった。これにより、新たな柱を擁立しようという動きとなった。
幼いお館様は当時、柱としての実力を既に持っていた炭治郎、伊之助、善逸、カナヲを柱として任命した。9人にはあと5人足りないが、上弦の月ほど強い鬼がまだ出ないことと、その後2ヶ月療養して体の機能の殆どを取り戻した風柱の不死川を入れ、柱5人体制で新たに鬼殺隊を率いることになったのだ。
炭治郎と善逸に転機が訪れたのは、藤の家が懇意にしている名家の当主がおかしいという噂を聞き付けたことだった。
その名家は百年続く庄屋の家で、事業に成功して富を得たことから、伯爵位のお嬢様を嫁にもらって貴族の名乗りを上げた家だった。
だが、愛妻家だった当主が妻を流行り病で亡くすと、妾を多く家に連れ帰るようになった。しかもその妾は家に入れば最後、出てきた者を見た者はいないという。
どうにもおかしいのでまさかとは思うが見て欲しい。また、当主はプライドが高い甲種であるから、地位の高いものが伺ってくれ。
丁度他の柱が全国に散っており、関東に残っていたのは炭治郎と善逸だけだった。その炭治郎は浅草の件が尾を引いており東京へ出ており。担当を任されたのは発情期がやっと終わったばかりの善逸だった。
蝶屋敷のアオイが心配する中、善逸は丙の隊士と共に伯爵位を貰った家を訪れた。
遠目から見た当主は見たことのない美しい金髪の善逸を初めは胡散臭そうにしていたが、善逸が当主のいる部屋に入った途端に様子が一変する。
『これは西洋から取り寄せたものだ』『泊まっていかないか?腕を振るうよ』
『君と親しくなりたいんだ』
『なんて愛らしく、美しい。』
『刀なんて置いて。君らしくないよ』
本人の美しく笑った顔とは正反対の、心の声にぞっとした善逸は、なんとか真相を聞き出そうとし、苦戦するも、一緒に来ていた丙の位の隊士が『こんな贅沢のチャンスは二度とない』と言わんばかりの勢いで泊まることを承諾してしまった。
なんとかして当主の家を出ようとするも留められ、彼の雀に『炭治郎帰れないかも。捕まった。』『ヤバイ』と手紙を託したのを最後の便りに、善逸は当主に囚われてしまったのだった。
一夜明けてみれば窓のない地下牢にいて。逃げようとすれば丙の隊士は殺してあげると笑顔で宣言されてしまった。
何故と聞く善逸に、当主は『君は乙種で、甲種たる私に添うのが正しい在り方。私はずっと乙種を探していたんだ』と何故か善逸が乙種であることを知っていた。
『乙種でも、自分は孤児だ。貴方の嫌う下等なのに何故?』
『君は、下等などではない。既に内藤家の養子の筈だ。内藤家は旧貴族の一つで、藤の家の旧家。あちらの当主も喜んでいたよ。君という、乙種の息子を持てて。』
ここで善逸は自分の預り知らぬ間に、藤の家が自分を養子としたこと。しかもこの男に嫁がせるために結託していることを知った。そして、
『あの丙の位の隊士も、』
『私の甥にあたる。』
藤の家から言われたこと、鬼の話は自分を誘き寄せるための、つまりは全て嘘。
自身の身の危険が高まる中、善逸は部屋の中を呼吸を使いながら逃げ回った。
炭治郎にその知らせが来たのは善逸が囚われて一夜明けた次の日の正午だった。ずっと隔離されていた彼が任務についていることに驚き、うこぎの話からどうやら嵌められたようだということが推測できた。浅草の任務を終えたその足で、炭治郎は件の伯爵位を貰った家に駆けつけた。
屋敷には誰もおらず、地下から善逸の良い香りがするため急いで階段を降りる。
突き当たりの部屋から激しく争う音が聞こえるため、急いでそのドアを突き破って見たのは、自身が大切にしている善逸に馬乗りになって彼を手籠めにしようとする『何か』だった。
善逸の服は半分剥ぎ取られており、肌が所々見える。善逸が炭治郎を認め、『助けて、』とちいさな声を出したのを聞くや否や炭治郎は善逸に乗り上げている『何か』にひたすら拳を振るっていた。
我を忘れて拳を振るう炭治郎を止めに入ったのは、新たに駆け付けた花柱のカナヲだった。
彼女が蝶屋敷にちょうど帰って来た際に炭治郎の鎹烏がこの貴族の屋敷のことを伝えて来たので、柱二人に危機ありと考え、すぐさま出向いた。
屋敷に来る直前に善逸のチュン太郎ことうこぎとも出会い、事は自分が思う以上に急を要すると判断。
うこぎの案内で地下へ行くと、意識の無い男に穏和で有るはずの炭治郎が拳を振るっているのを見つけた。
かなり驚いたが、一度声での静止を試みるも、猛烈な拳は我を忘れており、日柱である彼の腕を女の細腕では止められず、これでは話し合いにならぬとカナヲは元々、重症患者向けに用意していた麻酔針を炭治郎に打ち込んだ。
とたんに静かになった炭治郎は床に崩れ昏倒。
部屋の隅で震える隊士も炭治郎の拳の跡があることから共犯と見なし、足から血を流して倒れている意識の無い善逸が一番重症と捉え、直ぐに産屋敷へと烏を飛ばした。
隠と、元音柱の宇髄が到着するまで善逸の様子を事細かに書き留め、彼の雀に蝶屋敷まで文を飛ばした。
震える隊士は仕切りに『こんな筈ではなかった』と繰り返したため、仔細を聞くが埒があかない。
こちらも詰問の構えを行ったところで、宇髄が到着した。
彼は眉間に思いっきり皺を寄せて炭治郎を抱えたあと、自分には善逸を抱えることが出来ない、もうすぐ到着する隠の者に必ず複数人で運ぶようにとカナヲに指示した。
宇髄自身は炭治郎を抱えたまま、急いで柱合会議の準備を行うと言葉を残すと産屋敷へと向かった。
首を傾げつつ言われた通りカナヲは善逸を四人の隠に運搬を任せ、同じように関係者と見られるこの貴族屋敷の男と、共犯と見られる隊士を縛って産屋敷邸へと向かった。そこで柱合会議が急遽開かれることとなった。
カナヲは丙種であり、この地下室に立ち込めた善逸の糖蜜よりも甘い薫りが解らなかったことと、色濃く残された炭治郎の威嚇の薫りも解らなかったからこそ踏み込めたのだということを後程蝶屋敷でアオイに聞かされるまでこの時の宇髄の判断を不思議に思っていたが、直ちに集められた柱と、件の貴族と平隊士、そして苦い顔をしながら書状を見つめる幼いお館様と、いかにもいやらしそうな顔つきの藤の家の当主が現れ、柱合会議が開始した。
炭治郎は不在。善逸ももちろん不在。当事者不在の中、今いるのは、重症から床上げしたばかりの水柱と、任務終了から直ぐに召集された風柱と、花柱の三人のみ。元音柱の宇髄と、元炎柱の槇寿郎もおり、蝶屋敷の主となったアオイが部屋の敷居を跨ぐと、いち早くお館様に藤の家の当主が声をあげた。
『此度は、我が家の鳴柱が粗相をして申し訳ない。縁組みの予定であちらへ向かったのです。鬼は関係ございません。』
ニヤニヤと笑いながら述べた口上に、宇髄がダンッと膝を立てて怒った。
『姑息に戸籍まで変えてさぞや乙種が欲しかった様子だな!派手に人の所業とは思えん!当人の気持ちを丸無視するとは物扱いも良いところだ!』
その言葉を聞いて目を丸くしたのは、冨岡と不死川だ。彼らは甲種で、今の今まで共に戦ってきた善逸が乙種であるということを知らなかったのだった。
宇髄ですらこの事態が起きるまで善逸が乙種であるということは知らなかった。知っていたのは、蝶屋敷の主となったアオイと、善逸と、炭治郎と幼いお館様だけだった。そのはずだった。
まさかの乙種の登場に混乱の最中、声を発したのは水柱冨岡。
『我妻が乙種であるなら、もっと早くに発覚していた筈だ。彼らの周期は特に分かりやすいと聞いている。』
『それでも甲種である俺らが解らなかったんなら、番が近くに居た筈だァ。長いこと一緒にいたことと、今回のこの状況からして、竈門が番筆頭だろォよ。なのに何で藤の家とお貴族様がしゃしゃり出てくんのか、不思議だァなぁ。』
『説明してくれ。』
柱二人に冷静に突っ込まれた藤の家の主は一度咳払いをしたのち、座り直した。
『このたび、雷一門から鬼が出てから、天涯孤独となった鳴柱の吾妻善一は我が家でお世話をする次第となりました。我が内藤家に入ることは本人にも承諾しておりますよ。その善一が、たまたま乙種だっただけのこと。しかるべき甲種と目合わせたいと考えるのが親心と云うものです。皆様方が、なぜこのように我が家のことについて目くじらたてるのかが不思議ですなぁ。』
ほっほっほ、と嗤う藤の家の主に、宇髄が『本人が承諾したとはとても思えねぇ!』と怒声を上げた。
『そうだね。でなこれば鳴柱があのように逃げ回ることなんてしないよ。』
報告を聞いている幼いお館様は、善逸の体に何があったのかを知っている。
強制発情の香を焚き染められた部屋に入れられて、藤の家の主の言うところの番候補の貴族と、その甥から一晩中逃げ回った。飛び道具で射掛けられて右足を負傷。そのまま馬乗りにされて、顔と腹部に暴力を加えられている。とても危ない状態だったが、それでも肉体関係への一線は越えなかった。
炭治郎が間に合ったからだ。
これが彼自身が承諾した相手であるならそもそも逃げていない。
『少々お転婆がすぎたのでしょう。』
藤の家の主はそう話した。
カッと目を開いて飛び道具を投げようとした宇髄を制したのは、幼いお館様だった。
『でも、この戸籍は間違っている。正確には鳴柱はまだ内藤家の戸籍にはなっていないということになるね。』
いきなりの爆弾発言に、その急展開についていけない一同が小さなお館様の方を向いた。
すっかり善逸を自身の駒と考えて、横柄に構えていた内藤家当主は途端に青い顔をしながら手を擦り合わせ、『そんなはずは』とごちた。
『何も不具合は無かったかと。名前なども善一自身に書かせたものですし、』
今までのにやけ顔から一転した態度に、お館様の手元にある紙を見た。
宇髄は産屋敷当主が持つ戸籍を礼をして手にとって吹き出した。
『こりゃ、嘘っぱちだな。』
元音柱は出鱈目な戸籍を見てその紙を不死川に見ろという具合に押し付けた。
押し付けられた不死川は冨岡と一緒にその紙切れを覗きこみ、不死川は鼻で笑い、冨岡は。
『どうして名字も名前も鳴柱と違うんだ?別人じゃあないのか?』
頭に?マークが見えるほど首を傾げた。
『おい義勇、言ってやるな。善に騙されてんだ、こいつら。』
傾げた首を軽くコツンと叩いた不死川はつい最近任務を終えたばかりの善逸を思った。
彼自身は凄く優しい性分で、竈門炭治郎と同様に見えるが、彼の性分と違うのは我妻善逸という男はなかなか懐かない猫と同じだったなぁ、と。
鬼殺隊員で、犬っころのように誰にでも好意を示す炭治郎と違って、ある特定の限られた人には警戒心を抱かない様子だった。しかし初めて話す人には必ず炭治郎の後ろに隠れて『この人だれ?』と聞いてくる。
今では彼らの先輩である村田には何かとじゃれついているが、最初会ったときからのことを村田が『もう本当、警戒心の強い猫よ。近づくと逃げ回るし、離れると寄ってきて守ってくれと!マジわからん!俺が柱を守れるかイ!』と怒りながら意識の無い義勇の病室でぐちぐち話していたのは隊の中では有名な話だ。
それはさておき。
そんな警戒心が強い彼は警戒心が強いわりには優しい性分で、耳もとび抜けていいもんだから内藤家の当主が嫌な音を立てているのにも関わらず、『家族になりましょうよ』と言った言葉が嬉しい反面、炭治郎が居ない席で誘われることを不可解に思いながらも何度も誘われると断りきれなくなって、嘘の名前を書いた。
これが正解だな、と不死川は紙切れを内藤家に投げた。
戸籍には
【吾妻善一】と書かれていた。
騙されていた事に憤慨していた内藤家の者はしかし、不死川に言わせれば自分で巻いた種であり、自業自得だと考えるし、身を守ろうとした我妻のは真っ当だと思う。
しかも危害を加えた相手が一隊士ならともかく、鬼殺隊の柱とあらば話は尚更だ。
鬼殺隊は、何でもありな鬼連中に只人の体で真剣勝負をし、毎夜毎夜命のやり取りをする。それは世間一般様のために。
自分達と同じ思いをする人を少なくするべく、鬼に脅かされない人々の生活を守りたくて志願した優しい隊士がほとんどだ。
さらに柱は、その彼らを精神的に支え、切り札たる人材。
鬼ならば遺憾なく発揮される呼吸の技は、人間相手なら斬って捨てることはできない。
しかも我妻は折り紙付きの優しい性格だ。逃げるしか手がない状況で、対する相手は彼を仕留める道具を準備していたとは如何なものか。邪な計画性もある。
しかも乙種の弱味、発情期を狙うなど我妻を欲した甲種は甲種の風上にも置けない。
鬼殺隊が再度取りまとめられてから、一番年上の彼が柱全体としての決定を委ねられている。
常ならば竈門炭治郎が他の柱を取り纏め不死川に伺いを立てに来るが、彼は渦中の人だ。
さて、どうするかと考えていると蝶屋敷の看護の担い手の一人がアオイを呼びにやって来た。
「アオイさん…!」
「なほ」
慌てた様子の彼女に一時お館様と宇髄、内藤の話し合いという名のけなし合いが一端止まる。
「鳴柱様が先ほど目覚められたんですが、酷く混乱していて…!無い、無いって落ち着かなくて、病室から出ようとされるし、もう、もう、私たちじゃ、それに甘い匂いが外に漏れてしまって、病室前に男の人が来そうで…!いま、今は関西から帰って来た伊之助さんが見張っててくれてるけど、あのままじゃ、」
瞳に涙を溜めて訴える彼女にアオイはしっかりと頷いた。
「わかりました。行きます。」
アオイが立ち上がろうとした時、内藤家の当主が声を荒げた。
「乙種は一人が囲い込みをするべきじゃない!皆で共用してはどうだ!えぇ!?小娘、私を連れて行け!」
「この、」
宇髄が内藤家の当主に掴みかかろうとしたが、義勇の言葉で止まった。
「それならば俺もいかないとだな。」
あっけに捕らわれたが、笑う義勇にそれもそうかと相槌して不死川も立ち上がる。
内藤家の当主は目に見えて動揺した。
「ならば俺もだ。おい、神崎。隊士で甲種のものは全員呼んでおけ。」
「ですが、」
内藤家の当主が焦ったように俺を見た。
「俺もこいつも甲種だ。なら、行くべきだろぉ?なにせ、我妻が誰を番にするかを決めるんなら、なァ?
どんなに共用云々言った所で、乙種と甲種との番関係で拗れた時は、古くから甲種側ではなく乙種側が伴侶を選ぶのは決まりきった話だァ。外野がどんなにキャンキャンギャーギャー吠えても乙種の番は一人だけ。応じる甲種も一人だ。そうだろォ?」
「な、な、な、」
「それはいい考えだね。今回の件は後々揉め事を起こさないためにも全員が参加すべきだ。」
うん、と頷いたお館様は「従来の仕来たり通りに、鳴柱の番を立てるための儀式を彼自身にしてもらう。異論は認めない。甲種の隊士は例外なく一つと半刻後に蝶屋敷へ集合とする。鎹烏にもその旨届けさせよう。いいね。」
お館様の一言で仔細は決まり、時を置いて蝶屋敷へ集まることとなった。
『してやったり、』ムフフと笑う義勇に、「お前にしちゃ上出来」の意味を込めて頭を撫でると「俺もやるときはやる」と腑抜けたドヤ顔が返ってきた。
時を置いて集まった隊士は十余名。
産屋敷の一番広い広間に、我こそはという甲種が整然と並ぶ。
比較的近隣の藤の家紋の家の内藤は、冷や汗を垂らしながら臍を噛んだ。
集まった甲種は、柱や元柱、育手や甲の階級の者が多く、体格も人望も私有財産も腐るほどある連中だ。
筆頭は妻と当代の炎柱である息子を亡くし、やや歳かさではあるが、男盛りの元炎柱煉獄槇寿郎や、怪我で引退せざるを得なかったとはいえ、現在の産屋敷家を支えるキレ者の元音柱、宇髄天元。
あの無惨戦に見事勝利し、生き残った柱、風柱不死川実弥と水柱冨岡義勇は居るだけでその存在感が骨を焼くようだ。
内藤は心中穏やかではいられなかった。自分が推していたあの貴族の存在感の無さに。
命のやり取りをして人の為に尽くしてきた鬼殺隊の、その上層部のなんと凄みのあることか。
『聞いてないぞ…!』と苦々しく拳を握った。甲種として、いや、人としての格があまりにも違いすぎる。
当の槇寿郎は幼いお館様の頼みとあって参上した。
数会わせにじじいも参加させるとは、御年も十に満たないのに当代も先代同様に策士だなと感心する。
頂いた秘蔵の酒瓶を傾けながら『まぁ、茶番だな』とため息をついた。
宇髄、不死川、冨岡の三人から、醸される威圧はあれど、闘気を感じない。それもそのはず。
乙種と知られてはいなかったが、任務中であれ、療養中であれ、我妻善逸は、“竈門炭治郎が食事を与えると素直に食べる”ということは全員が知っている。
ならばこの後どうなるかなど火を見るより明らかだ。馬鹿馬鹿しい。
隊の中の他の甲種も真面目くさって座してはいるが、口の端が上がっているのを見ると、単なる冷やかしであるのはすぐに分かる。
大方、正気に戻った際の我妻隊士をからかうためだろう。
アレをからかって遊ぶのはたまらないのだと豪快に笑いながら言っていたのは音柱だ。
内藤には気の毒だが、これは乙種を汚い手段で取り込もうとした罰。
高飛車な貴族の甲種にお灸を据えるのもよいと思いながら、ピリリと舌が痺れるほどの辛口の酒を煽った。
後ろの襖が開けられて、此方を睨み付けるようにして竈門炭治郎…この間日柱になったばかりの男が座した。
目が勇ましく、恐ろしげな男だ。
隣にいる花柱はお目付け役であろう。
手に縄を掛けられた状態の、自分と懇意にしている貴族は、猪面の男が自分の隣に乱暴に引きずってきた。
一層強くなる威圧感に座り直して、正面の産屋敷当主を見ると、使いの者が何やら耳打ちしている様子だった。
「皆揃ったので、善逸を呼ぶね。」
当主の横から、蝶屋敷の主人につれられて歩いてきたのは、自分が一泡食わされた、鳴柱我妻だ。
纏められていた髪の毛は今は背中に流されて、落ち着かない様子でキョロキョロと回りを見回す。
こいつめ、やってくれたなと苦々しく思いながら、何かご当主からお話があるのかと待っていたら、我妻は一番下座にいた日柱を見つけると、蝶屋敷の主人の静止を振り切って一直線に跳んだ。
八畳分の距離をいとも容易く跳んだ我妻は、驚きつつも目を見開いて手を広げる日柱に抱きついた。
意義ありと声を上げて立ち上がろうとするとすかさずご当主が声を上げた。
「動かないよう。」
日柱に抱きついた我妻は、すすり泣きをしながら、日柱の羽織をぎゅっと握った。日柱も、文字通りとんできた我妻をゆっくりと抱き込んで背中を撫でた。
自分とは反対側に座し酒を煽っていた煉獄殿は、我妻の一連の動作を見た後で酒瓶を横に置き、ご当主に対して一礼した。
「この度はおめでたい席にお呼び頂き、この上ない僥幸。今はもう無いものとなっていた乙種の番選びに選ばれたのは、日柱竈門炭治郎に相違無かろう。
他の甲種を代表して、一番年嵩の自分が産屋敷家ご当主様にお祝いと、乙種我妻善逸の番からの辞退を申し上げる。皆もそれで良いな。」
と後ろを振り返った。
意義を唱えようにも、甲種の隊士がご当主に一礼し、立ち上がり、日柱と我妻の頭を撫でてから部屋を次々辞するのを見て、タイミングを逸した。
元柱さえ、この後の祝杯の話で盛り上がり取りつくこともできない。
肝心の貴族は隣で「こんなはずではない」とぶつぶつ繰り返すだけだ。情けない。
ご当主は自分を見て、「善逸は、炭治郎が良いみたいだ。番は、古の決定通り、炭治郎に決まりだね」とにっこりと笑った。
喰えない笑いに、背筋が冷えたが童のする事として家に帰れば、内藤家の一人娘である妻から離縁を申し付けられ、何がなんだか分からぬ内に放逐された。
職探しに奔走している折り、あの貴族も没落した噂を聞き、なるほど、アレは薮蛇だったのだなと思ったが後の祭りだったのだ。
この一件で、竈門炭治郎と我妻善逸は皆に認められて番になった。
しかしながら、このような馬鹿は後を立たない。
乙種を狙う者は多く、番である炭治郎を害そうとするものや、炭治郎を手に入れるべく、善逸を害するものは次から次から沸いて出るようになる。
日柱邸が出来た頃も、間者や人さらいの類いなどがわんさかと出て来て、これにキレた禰豆子が二人が一緒にいられるように善逸を北の部屋に隠すことでなんとか落ち着いたのだ。
内藤家の話から乙種我妻善逸の名は関東関西に広がってしまった為に、善逸は名前も名乗れなくなってしまった。
炭治郎も善逸が名前を言ったその瞬間から付け狙われることに危機感を覚えた。
苦渋の選択として家のなかでさえ二人の時以外は通称で呼びあおうという、決まりを作ったのだった。
あだ名に関しては、日屋敷に一番に来た元音柱の宇髄天元が発案。『なる』は、鳴柱のなる、からとったのだった。
愛しい男の腕の中の安心感と言ったら。無惨討伐からの二年は自分にとってはマジで勘弁してよ、の連続だった。
そうかなとは思って居たけれども、まずもって乙種だったことだ。
いや、無いわー。しかも追いかけ回されるし。名乗ったら『神から使わされた運命だ』とか、『俺は特別なんだ』とか。分かる。分かるよ。
神からの運命ってあれだろ、思い込みと、ちょっと夢見すぎで、お花畑にお住まいですもんね。
特別ったって、特別に痛いってことだよな。
うん、知ってる。貴方のことなんか知りたくなかったけど!
俺がどんどん追い詰められるから、炭治郎がどんどん過保護になってしまって。
最終的にはヤバい奴手前だよね。
炭治郎からもらった髪紐が無くなるだけで自分も情緒不安定になるとか思わなかった。あの貴族め。
暖炉で燃やされた時は、本当に、身体中の血が引く思いがした。
本当に悲しかったのだ。炭治郎があの後同じ髪紐を買ってくれなかったらきっと立ち上がれなかった。
ぎゅっと抱きつくと、髪の毛を撫でられる。番の特権だよね。
「そろそろ起きるれか?」
瞼に唇が落とされると、それだけで幸せな気持ちになる。
俺の旦那は優しくて強くてもうメロメロなのよ。
お分かりいただけるだろえか。
「炭治郎好きよ。お土産はいいから、安全に帰って来ておくれよ。」
溜め息をついて起き上がると、頭を撫でられた。
「わかってる、善逸。」
右足をすいーっと撫でられてくふくふ笑う。
「本当に、離れがたいなぁ。」
大きな溜め息に今度こそ笑ってしまった。
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