Aquarion


『欲しかったもの』



何も入っていない腹を撫で、頭翅は嘆息した。この腹が膨れることは未来永劫無いのだと知っている。
だが、自分の存在意義を思うとそれは酷く不自然で受け入れられない事であり、思うのは、どうして今生きているのかだった。
見失ってしまったと言っていい。



欲しかったものはただひとつだけだった。



愛する男の子ども。
産み、育て、慈しんで次代の翅に。彼に愛されて眠る日はよもやこんな日が来るとは思えぬほど・・・そのことを当然のことと受け止めていた。だって自分はそのために作られたのだ。
あの熱い肌を、張った筋肉の感触を忘れられない。
―――愚かにも一万と二千年経った今でも。
もし、もし、戻ってきてくれたなら全てを水に流そう。一から関係を始めて、今度こそ彼を自分しか見ないようにして。そうすれば自分は幸せになれる。あの腕に抱かれて、悠久の孤独から離れ、安心を得ることができる。愛する彼を殺さずに、戦わずに、済む。
今度こそ、今度こそ・・・いや。



断ち切るように首を横に振って、頭翅は再び腹をゆっくりと撫でた。



「今戻ってきたところで、それはもう君じゃない。・・・ねぇ、つばさ。あの時間に還りたいとずっと願う私は、お前にとっては『不要なモノ』のひとつなのだろうね。」



全ては過去と成り果てた。

END


*****

『愛してると、言った。』


月が出ていた。
膝の上に重みを感じながらそっと目を閉じる。周囲は風が木々をゆらす音しかしない。
冷たくなった風が頭翅の羽根を揺らした。
ギュッと手を握り締めて頭翅は溜め息を吐く。

―――…いつから自分は戦場に居るのだろう。

もう、ずっと前のような気がする。アポロニアスが隣にいた時はもう遠い過去のような気がする。
昔はもっと、綺麗な手をしていた。ケルビムを操ることもなく、剣を握ることの無い手は華奢で白く、柔らかかった。
その手は子供を慈しむためだけにあった。
次世代の翅を求められた、謂わば政略的な婚約だと知っていたが、しかし彼の子供をと望んだし、様々な世界に連れて行ってくれる彼を真実・・・愛していた。
盲目的な愛だった。いや、こうなってしまっては全て間違っていたのだろう。

彼が人間の元へ、翅を千切って去って行った日、自分も女であるということを捨てた。
アトランディアは混乱していた。一族の中で最も優秀で最強の天翅が翅無しに寝返ったのだから。
同時にそれは脅威だった。
アトランディアにはアポロニアスという天を守る守護天翅に敵う程の天翅が、聖天翅たる自分の他に居なかったということもある。
だからアポロニアスがアトランディアを裏切ったその責は、彼が去るのを止められなかった婚約者に回ってきた。



『アポロニアスを殺せ』と命令された時、自分も死んでしまおうと考えた。



自分たちは同等の力の持ち主であるから、刺し違えれば・・・彼に殺され、自分も彼を殺せば、あの翅無しの女は彼とは共に逝けないだろうと考えた。
婚約式の日、神殿で誓ったように、彼の最期が欲しかった。そして私の最期にも彼が欲しかった。―――…それがあの翅無しの女に対する唯一の嫌がらせだった。


体を男性体に変え、本来であれば最深部で守られる筈の聖天翅が戦争の最前線へ。聖天翅を守護する筈の天翅と直接戦う。
握り締めた剣は重く、ただ彼と刺し違えることだけを求め、考えた。
お陰でどこもかしこも男の体で、本来の機能を果たせない自分の女性としての機能は使われないまま、沈黙している。この腹が膨れることは、もう無い。

ふと、太ももの上を見る。乗せられた頭に愛しくてたまらないあの日を思い出す。
彼は急ぎでもないのに自分の所まで飛んで来て、膝の上にある本を頭の上に広げて日除けにした後で『しばらく借りる』と寝入ってしまったのだった。
彼の疲れを癒す場になれていた、二人での幸せな記憶。
あの頃はこんなゴツゴツした太ももではなかった。どこもかしこも愛される為に柔らかい体をしていた。身長も今より一回り小さくて。
アポロニアスの髪の毛を傷一つ無い指で梳くと、決まって彼は私の頭を撫でてくれた。穏やかな午後だった。


もう、あの頃には戻れない。



筋肉で覆われたゴツゴツした太ももの上には、目を閉じた彼の頭だけが乗っかっている。彼の長い髪の毛は首から下が切り落とされ、あの日の午後のことが頭をよぎる。情事の最中はこの髪を何度も掻き上げた。

周囲は血が流れていて、池が出来ている。
遠くから女の怨嗟の声が聞こえた。

ねぇ、つばさ。覚えているかな?


「君は私に、あの月を見て“月のように美しいな”と、そう言って頬を紅に染めたのだよ。」

そしてその後、『愛している』とも。
あぁ、もう返事すら聞くことも出来ない。
私を殺し損ねるとはまったくもって君らしくない。
君に殺されて、君だけのモノになりたかったのに。

振り下ろされる女の槍をそのまま受け入れる。
目を閉じたらそのままわからなくなった。笑いたいような、泣き出したいような、そんな複雑な気持ち。
さぁ、これでやっと君の所へ逝くことができる。
これでも僕らは夫婦なのだからね。
例え君に望まれていなくとも、そうあるべきだ。そのために私は作られたのだから。




『昔、貴方は私に“愛してる”とそう言った。』




遠くで音翅の声を聞いた。
願わくば助けないでほしい。ずっと彼と共にいたい。
それしか自分には許されないのだから。

END

******

『甘い悲鳴』



月の光が差し込む回廊を大急ぎで駆け、二人だけの庭へと急ぐ。
今夜は満月で、ソウイウコトをするには体の条件が打って付けで。“早く行け”と長からお許しが出たのは、つい先ほどのことだった。

『頭翅』

庭について、許嫁の名を呼ぶとその相手は朗らかに笑いながらこちらへとやってきた。思わず、愛好を崩す。
 この許嫁とコウイウコトをするのは、ずいぶん久しぶりである。その生まれのせいなのか、貴重な天翅であるからなのか、天翅全員から守られ、庇護されている彼との仲は、許嫁となったその日から邪魔されて久しい。今日が満月の日でなかったら今も夜翅にとどめられていたことだろう。
気配からして笑った相手を腕の中に囲い込む。華奢な体はほんのりといつもより温かい。
『そんなことをしなくても私はどこにも行かないよ、つばさ。』
腕の中で身じろぐ存在が愛おしい。腕を首に回されて心拍数が上がる。


『花の香がする。』

銀色の髪に顔を埋めてそう呟くと、頭翅はクスリ、と自分の咽喉もとで笑った。
『―――・・・今日、良い香りのする花が手に入ったのだと、音翅が湯の中に入れてくれたんだ。自分では気付かなかったけれど、そんなに薫るかい?』
『あぁ。とても、良い香りがする。』
『よかった。』
『それにしても、あの音楽翅と仲が良いんだな。―――少し、妬ける。』
体をさらに抱き寄せると、驚いたように頭翅が顔をあげた。
『―――おや珍しい。君が妬いてくれるなんてね。嫉妬は私の専売特許だと思っていたよ。』
『こちらは気を引こうと必死なんだ。お前ときたら一般の者の前では聖天翅であるのに、古参の連中の前では一気に警戒心だとかそういうのが抜け落ちるんだからな。―――今日はもう何も無いんだろう?』
『あったら、湯につかった体でここにいない。―――それに、今日は満月だからね。』


二人しかいない夜の庭に、柔らかな月の光が差し込む。夜は静けさと大胆さを伴って二人を抱きこんだ。月を見上げた頭翅に、アポロニアスは苦笑する。
『他に・・・目を奪われるのはやはり、惜しい。』
『何がだい?』
キョトンと見上げる顔を見つめて、眉に皺を寄せる。そしてその小柄な体を強靭な腕で抱き上げた。
『―――そろそろ、私を見てはくれないか?“麗しき月”。』
今度は上から見下げることになったアポロニアスの顔を頭翅はじっと見ることができずに、薄紫色の瞳を少しだけ伏せた。


『―――もとから、君しか目に入っていないよ、“太陽の翼”。』


重なった唇からは、熱い吐息だけが吐き出された。





白いシーツの上に散った翅を掻き上げながら、乱れた息を漏らす頭翅を、アポロニアスは強く抱き寄せた。二人の距離はもうゼロに近い。繋がっている箇所に手を這わせて確認しながらアポロニアスは律動を深く、強くする。
薄紫色の綺麗な瞳を最大限に潤ませて、頭翅は自分を組み敷く男を更に求めるためにその肩に爪を立てた。
シュッと日に焼けた肌に甘やかな爪を立てられて、アポロニアスは相手の更に奥に己を喰い入れた。上がる、声。



甘い悲鳴


それはまるで中毒症状のように。


END

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