アネモネ 第三章


「妃殿下、お願いでございますから殿下と少しでもお話をしては下さいませんか。」



窓際の椅子に座ったルルーシュに、第六皇子殿下付きのメイドの中でも古参のメイドであるイルダ・ヴァイミシュタットはルルーシュのすぐ近くで跪き、そう懇願した。


彼女にとってジェイル・ディ・ブリタニア第六皇子殿下は可愛いご主人様であった。
彼が四つになるかならないかの時にイルダは彼の皇子付きのメイドに任命された。
 任命されて、初めて会ったジェイル殿下は、にっこりと笑って「よろしく頼みます。」とイルダに言ったのだった。
それはそれは愛すべき一言で、それまで仕えていた多くの皇族達の中で一番だった。イルダはそれまで皇族から言葉をもらったことなどなかったのである。
 だからこそこの愛すべきご主人さまの願いは叶えたいと思い、常にそれを考えて行動していた。しかしこの目の前の女性は一筋縄ではいかないらしかった。

宰相妃ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。
彼女はある意味、皇帝宮では有名な人物である。いや、今はどうかは知らないが彼女がエリア11に飛ばされる前まで、彼女を知らない後宮の女はいなかった。


―――マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアの娘。


現皇帝が唯一望んで手に入れた后妃の、その娘。第一皇子オデュッセウスを始め、百を超える数多の由緒正しい皇子・皇女がいる宮で、庶民出の妃から生まれたはずなのに第十七皇位継承権を取得した。
七つになる前にはすでに才能を発揮し、幼いながらシュナイゼル第二皇子殿下と共にエリア平定を行ったこともある才女。
 ある種結婚を諦めたコーネリアより次代皇帝の妻に相応しいと言われた彼女は、しかしマリアンヌ后妃暗殺でその地位を剥奪され、人質としてエリア11に遣られ、死亡したとの報告がなされた。・・・それは誤報ではあったのだが。
その美貌は母親譲り。
皇室にも稀なロイヤルアメジストを色濃く継承している。美しく、聡明な皇女。欲しがらない男がいないはずがない。
あの天下の第二皇子が妻に、と望んだ時点で彼女は世間一般から“次代皇帝の妻”として認められた。だからこそジェイル殿下に靡いてほしいのだ、とイルダは切に思う。
 彼女にジェイル殿下が愛されれば、シュナイゼルを亡き者にさえすればジェイル殿下が帝位に就けるのだから。彼女が“私が認めた”の一言で。


床に視線を落としてじっとルルーシュの言葉を待っていたイルダに、ルルーシュは彼女を見下ろして大きく溜め息を吐いた。

「イルダさん。顔をお上げになってください。貴方が頭を下げることはありません。」

凛とした声に、イルダは顔を素早く上げた。
もしかしたら・・・!
「では!」
「でも私は、あの男に利くべき口は持っていません。」
イルダはルルーシュの口から出た言葉に驚いた。
「妃殿下・・・!」
何故、どうしてだろう。確かに無理矢理攫ってきて、此処に鎖で繋いでしまったのは悪いとは思うが、殿下はあんなに素直でお優しいのに。鎖だって一言「やめて」と言えば、外して貰えるかもしれないというのに。
素直でお優しい殿下より、あの冷徹非道のシュナイゼルの方が良いとでも言うのだろうか。

怪訝な顔で見るイルダに気づいたルルーシュは、目を少しだけ細めた。

「ジェイル殿下にはジェイル殿下の、私には私の役目と、立場があるのです。
私は確かにシュナイゼルの庇護の中から此処に連れてこられましたが、それには全く何も感慨はございません。
それは此処の主人が、私を政治の道具として留めたことだと、理解しております。そしてそれ以外の理由はあってはならないのです。ですから私はジェイル皇子とは口を利きません。道具は、元からお喋りはしませんでしょう?そして鎖で繋がれた以上、私は人質です。それ以上でも、それ以下でもあってはならないのです。」
道理でしょう、何を聞くの。と言った風情で再び窓の外を見るルルーシュに、イルダは震撼した。
瞬間的に退いた体は誰にもとがめられないだろう。それだけの威圧を、ルルーシュはしてのけた。
ジャラ、という音がやけに大きく部屋に響く。イルダは目の前の女性に対して恐怖が湧き上がった。そして気づく。
神聖ブリタニア帝国は、競う国だということを。
イルダはさっと立ち上がってルルーシュの部屋を後にした。


まるで部屋全体の空気に責められるようだった。廊下に出た彼女は、ようやっと空気の存在を知る。


「すみません殿下。・・・あの方は」
まるで獅子だ。残虐で用心深い。
むしろ、彼女こそ女帝として君臨してしまいそうなほどの。

「恐ろしい人だわ。」

体の震えはまだ止まらない。イルダはルルーシュのあの瞳を振り切ろうと、首を横に振った。



イエリア・ヴィルヴィスティエの最近の悩みの種は専ら宰相妃のことについてだった。
「あの方は、相当な頑固だな。」
溜め息を吐いていると、メイドのイルダがお茶を運んできて頷いた。
「恐ろしいお方でした。視線一つで人が殺せそうな迫力があって、あのような方でなければブリタニア皇后にはなれないのでしょうね。」
「ブリタニアは弱きを悪としているからな。私としてはもっとたおやかな方かと思っていたんだが。」
「ええ、殿下の前では全くお話にならないんですのよ。」
「私の前でもだ。・・・嫌われたものだな。しかし、シャルル皇帝が認めた才女であることは確かだ。」
イエリアは運ばれてきた紅茶に口をつけた。そしてテーブルの上に置かれたルルーシュの調書を視線で辿る。
「エリア23、ですか?」
イルダはめくられた調書の太字を見て首を傾げる。
「あそこは確か、」
「シュナイゼルが平定した地区だな。しかし、探れば面白いことが出てきた。」
「面白いこと、とは。」
「“美しき黒艶の乙女”が“白色の死神”を率いてやってきたそうだ。」
はくしょく、とイルダは呟いた。
「と、申しますと?」
「シュナイゼルの直属の部隊にブリタニア軍特別派遣嚮導技術局というものが存在する。アスブルンド伯が率いている技術局だが、ここの目玉は、第七世代ナイトメアフレーム“Lancelot”の開発だ。」
「ではそれがエリア23に現れたと?」
「ああ。しかも当時ランスロットを駆っていた枢木卿はまだユーフェミア皇女のもとに、エリア11に居た。―――アスブルンド伯の学会でのデータではあの機体は極限られた身体能力者しか動かせないそうだ。シンクロ率がどうとか資料には書かれてあったが、とにかく、誰でもおいそれと動かせる機体じゃない。なら、誰が動かしたのか。」
「それで“美しき黒艶の乙女”ですのね?」
「―――そうだ。そのころシュナイゼルは多忙だった。まぁ政務に飽きた皇帝に代わって内政外交そのたもろもろ肩代わりしていたからな。大体、この話もシュナイゼルを失墜させようとした誰かの陰謀だろう。だがあの男はダミーをエリア23に送ったのだよ。」
「それがルルーシュ皇女、ということですの?」
「あぁ。・・・元からエリア23というのは内戦が多く続いていた地区なんだ。今の方がエリアは落ち着いていて、経済も発展している。エリア23のナンバーズに話を聞けば、反ブリタニア思想はほとんどない。ナンバーズの多くは黒い髪の皇女に救われた、と答える。後宮広しと言えど、私は宰相妃を除いてシュナイゼルが信用できそうな黒髪の皇女など思いつかない。」
「では。」
「ルルーシュ殿下と、シュナイゼルの騎士であるカレン・シュタットフェルトがエリア23を平定したとみて間違いはない。」


「えぇ!そうなのですか?・・・確かに、妃殿下は、エリア23にいらっしゃったと言うのは存じておりますが、まさかシュナイゼル第二皇子殿下の名でエリアを平定されていたとは。」
普通なら、ご自分の名前を出しますわよ。と言ったイルダに、イエリアは頷いた。
「そこなんだ。宰相妃は自分の名前を絶対に出さない。あくまでシュナイゼルの名代なのだ。・・・いやだからこそ皇后にふさわしい、か。」
「あのお方にそんな可愛らしいことができるとは到底思えませんが。」
「―――ならばシュナイゼルがそうさせたんだろう。あの男のことだ。女に言うことをきかせるなど他愛もないだろう。」
「そうですわね。」
だが、とイエリアは考え込んだ。
ルルーシュが連れてこられて何日か経ったが、宰相府から何も言われていないのだ。女ひとりいくらどうとでもなる、と言っていても、相手はあの冷血無血の宰相。しかもその相手が絶対無二を公言した相手である。イエリアは、今の状態がとても悪い方向に向かっているようにしか思えなかった。
まるで台風の前の静けさのようで。
「帝都純血派はもうこのエリア11にしか残っていない。早いところユーフェミアも探し出さなくては。」
イエリアは焦ったように冷めた紅茶を呷った。






「咲世子、ロイド伯はどこへ行ったのですか?」
昨日の夜から姿を見せない科学者の行方を尋ねるために、ユーフェミアは咲世子を捕まえた。
「さぁ、私にも分かりません。ルルーシュさま。申し訳ないのですが、忙しいのでまたあとでお伺いいたしますわ。」
咲世子は心中で「独りでいろよ」と思ったが、口には出さなかった。シュナイゼルの言いつけがある。
昨日、エルモアをシュナイゼルの元に送ったあとで嘆願しに行ったが、現在の主である彼は「ストレスをかけてしまうが、もう少し頑張ってくれないか?」と苦笑して言われてしまった。やはりルルーシュとは兄妹だなとこんな時に思ってしまう。苦笑しながら言われる“お願い”に弱いのはこのElysionの住民の特徴でもあった。主に発揮されるのはルルーシュに対して、だが。
お辞儀をして去ろうとすると、またユーフェミアに止められる。
「何でございましょう。」
「あの・・・えっと、今日はお茶を一緒に飲みませんか?」
自分大事なお姫様は視線を行ったり来たりさせながらしどろもどろに答えた。
だから咲世子は心中で大きくため息をついた。誰のせいで今ここに奥様がいらっしゃらないのかこの女は全く分かっていない。
「申し訳ありませんが、午後からは買出しに行かなくてはなりませんので。失礼いたします。」
深々と頭を下げ、踵を返した咲世子にユーフェミアは落胆した。また今日も一人か、と。
「そうですか。解りました。」
咲世子はユーフェミアのその様子にさえ腹立たしくなって、さっさと歩いてキッチンに入った。

「こんな時はパン作りに限るわ。」

むしゃくしゃした気持のまま小麦粉を大きなボールにこれでもかと入れて、量る前に卵を割った。塩をくわえてバターも好きなように入れる。不味くったってかまわない。どうせ自分は食べないのだから。
生地を練りながら水を加えてさらに捏ね、それをまとめてまな板に叩きつける。この際順序なんて関係ない。少し粘ってひっつくようなら小麦粉をまた足せばいいのだ。

「ストレス手当、出るんでしょうね。」

咲世子は給料で何を買うかを考えながら料理に没頭していった。

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