アネモネ 第三章


今でもあの男と初めて対峙した時の事を覚えている。

―――・・・母が語る御伽噺の中の王子様のようだ、と思った。


それはあながち間違ってはいなかったが、あの男は女のことしか考えていないような低俗な王子などではなかった。
初め見たとき見た目に惹かれたのは事実だ。だが、あの男の本質を知れば知るほど私は怖くなった。


あの男は正しく王子だった。だが、絶対的な王の卵でもあった。
私にとって、王というのは恐怖の存在だった。
・・・父が、そうであったように。
他に妹など沢山居る中で、あの男は私が幼い時分から執着していて、私はそれに酷く怯えたものだった。



それが違うのだと知ったのはあの男があの仮初の箱庭で私に跪いたとき。
愛しいのだと言ったその言葉に嘘は存在しないことに気づいたからだった。


あの男は自身に高い矜持を持っている。


誰がなんと言おうとあの男の信念は、あの男が曲げない限り誰も手折ることなどできなかった。

高い矜持と折れない精神、シュナイゼル・エル・ブリタニアとは、そういう男だった。


*****

血の色にも似た柔らかい絨毯の上を、ジェイル・ディ・ブリタニア第六皇子は走っていた。
窓から朝の光が燦々と降り注ぐ中、総督府で最も警備の行き届いた部屋の前にたどりつく。この部屋はジェイルにとっては“特別”で、彼はあの出来事から毎朝この部屋にやってくる。

大きな木製のドアの前で深呼吸を置いた彼を見て、新米従者ははにかむ。年をとったメイドが溜息を漏らすのも決まってこの時間で、走ってきたことなど中にいる人物に微塵も感じさせたくない彼の動向を見つめる。
襟首を正したジェイルは、大きく深呼吸をすると、肩の力を抜き木製のドアに向かって二つ、ノックを行った。


――――コンコン、


小鳥の囀る声に交じって聞こえる木製の音に、返事がないのは毎日のことである。
本日も落胆を含めた溜息を落としたジェイルを見て、従者が重い木製のドアを開いた。

途端に目に入り込んでくる光にジェイルは目を細めた。窓際の丸いテーブルの椅子に腰かけている女性にジェイルは声をかける。

「おはようございます、ルルーシュ。本日もいい天気ですね。」

言葉が返ってくることはない。ジェイルは苦笑してルルーシュに近づく。

「いい加減、俺を見てはくれませんか?」

ルルーシュは一瞥もくれてやることなく、租界を見下ろしている。眉をしかめたジェイルだが、ルルーシュが逃げられないことを知っていた。そろり、と足の方に視線をずらすとそこにはこの上品な絨毯にはおよそ不釣り合いなものが存在した。

ジャラ、と音を立てるそれはルルーシュの華奢な足をこの総督府に縛り付けるには十分であった。












薄暗い廊下に、騎士が佇む。
本日のブリタニアは雨だ。宮の外の空で走る稲妻にロイドはクッと口角を上げた。



「―――・・・やはり、動きましたね。」



言ったロイドは純白のマントを着たシュナイゼルを見やった。
「馬鹿な男だ。私を本気にさせるとはね。」
シュナイゼルは窓の外に広がる庭園をじっと見たまま答えた。ロイドがため息を吐く。
「それはそれは。エリア11にはお気の毒なことです、殿下。」
「お前の冗談は至極つまらない。」
「そぉですか?」
「本気にさせたのはジェイルだ。イレブンじゃない。」
「おお怖い!」
「騎士団と六家は?」
「今のところ指示は出していません。ルルーシュ様から連絡が入り次第動けるようにはしていますけど!」
「・・・連絡?」
「あぁ、殿下には言ってなかったですかねぇ?貴方がルルーシュ様に贈られたあの小さなダイヤモンド。実は僕の技術の粋を詰め込んでまして。通信機能とGPSが付いてるんです。すごいでしょう!」
「・・・馬鹿だろう。だが助かった。」
「向こうは見張りが付いているみたいですから、油断するまでは通信はできないとのルルーシュ様から言付かってます。・・・モールス信号で。」
「君たちは本当に何でもありだな。」
「結構苦労したんですよ、光発信。」
「・・・馬鹿だろう。」
呆れた声を出したシュナイゼルに、ロイドはゆっくりと跪いた。
「お前も、彼女だけだったな。」
やれやれ、と肩を透かしたシュナイゼルはロイドを見下ろす。
ロイドも、跪いた状態でシュナイゼルを見た。
「―――・・・騎士とは、こういう生き物ですから。」
「・・・前に“押しかけ”がつくだろう?まぁいい。そろそろ次の段階に行こうと思っていたところだ。」
「では私は日本に。」
「頼んだ、ロイド。」
「・・・了解です。」

ロイドはさっと立ち上がると、踵を返した。
背中を見送ったシュナイゼルは口角を上げる。


「私からルルーシュを奪うとは、いい度胸だジェイル。」


外には相変わらず雨が降っている。



*****




「さよこさん、お母さまはいつになったらお戻りになられるの?」

大きな熊のぬいぐるみをズルズルと引きずって、メイドたちの住むフロアまでやってきたエルモアは、咲世子に出会うとそう問うた。
眼尻が赤く染まっており、歩き疲れたためかパジャマが少しくったりしている。
 相当迷ったのか体が寒さで小さく震えていた。

「まぁ、エルモアさま。」

篠崎咲世子は少し驚いたが(何せ時間が時間だ)それをおくびにも出さない優しい声でエルモアに自分が羽織っていたショールをかけてあげた。
目線を彼に合わせるために床に膝をつく。
「お一人でここまで来られたのですか?」
尋ねると、首が縦に振られる。
その様子を愛らしく思ったが、咲世子は気付かれないように眉を寄せた。

・・・ここは少し危険です。

周囲を見回して、誰の気配もないことに心の中で安堵する。
現在の“Elysion”は、半分に居住区が分けられており、南の半分はラクシャータやシャーリー、リヴァル、マオ、エルモアを中心に、今までの“Elysion”の住人が住んでいた。南にはルルーシュがいた時と変わらないように細心の注意が払われ、常に気を配られている。
その正反対の北の半分は、南の半分と明確な仕切りができており、住んでいるのは咲世子とロイド、そしてユーフェミア・リ・ブリタニアである。ロイドはともかく、ユーフェミアに見つかってしまえば幼いエルモアは良い攻撃対象だ。そんなことがあってはならない。
どうしたものか、と思案している咲世子にカツカツという聞きなれた音が耳に入った。

「―――ロイド伯。」

白い騎士服に身を包んだロイドは少し大きめのピンクの肩掛けを握りしめて、熊のぬいぐるみを連れたエルモアをびっくりしたように見た。

「・・・咲世子さん?」
「はい。」
「エルモア殿下、ですよね?」
「はい。」

歩く速度を速めてロイドは咲世子とエルモアに近寄った。すぐにかがんでエルモアと視線を合わせる。
「殿下、どうなさったのです・・・?」
「お母さまの夢を見たの。ロイドさん、お母さまはいつお戻りになるんですか?もしかして、もう、お戻りにならッ」
ひくりひくりと肩を震わせて声を殺して泣き始めたエルモアを見て、咲世子の眉がしっかりと寄せられた。
ロイドは幼く頼りない体をギュッと抱きしめた。

“もしかしたら、戻ってこないのかもしれない。”

エルモアはルルーシュに似て賢い子供だった。人の感情の機微を読み取るのが非常に上手い。そしてそれを今回は悲しいまでに発揮されてしまったのである。
何か月も戻ってこない母親を、彼はとても心配していた。それはあの式典での事件を目にしていれば尚更のこと。

片口の布をギュッと握ったエルモアの頭を、ロイドが撫でる。

「今夜はお父さまの宮に行きましょう。」
「・・・・。」
見上げる青い瞳が涙で潤んでいる。
「大丈夫。お母さまはご無事です。すぐ殿下のところに帰ってらっしゃいます。だから元気を出してください。」
「・・・本当?」
「ええ、本当です。」
そのまま立ち上がったロイドに、咲世子は一礼をした。
「咲世子さん、北のフロアを頼んだよ?」
「かしこまりました。」

抱えられて、連れられて行くエルモアに、咲世子はユーフェミアが一層憎くなった。
いくらしっかりしているとは言え、まだ4歳である。母親に一番甘えたいだろうに、皆を困らせないためか、いい子であろうとして無理をしている。今日だってきっとぎりぎりまで我慢したに違いなかった。
ギリッと手を握り締めて、咲世子は視線を床に落とした。







ユーフェミアの“Elysion”での生活は、まったくもって退屈極まりなかった。
 メイドである篠崎咲世子は、常に忙しそうに行ったり来たりを繰り返し、楽しいお喋りに興じるはずのお茶の時間にさえ現れない。そして他のメイドを誘おうにも咲世子以外のメイドはいまだ見たことがない。
 伯爵位にあるはずのロイド・アスプルンドは極たまに“Elysion”にやってくるが、ユーフェミアのことを常に「ルルーシュ様」と呼び、本を薦めてくるが、本の内容が『帝王学』だの『心理学』だの『哲学』だの、読む気もしないものばかりである。
しかも図書室があると聞いて寛ごうと思って本を探してもユーフェミアの好きな恋愛小説など一冊も置いていないのである。
更に待っても待っても愛しのお兄様は一向に現れない。

日中も夜も、毎日毎日話をする相手もいないまま、月日は経って五か月。
ユーフェミアはいい加減誰かと話をしたかった。

「・・・まるで、鳥籠のようだわ。」

今日も今日とて独りでお茶を飲む。最近では自分がここに居るのかどうかも怪しくなってきた。

「きっとお兄様も忙しいのよ。」

きっとそう、と自分に言い聞かせてみるがそれが五か月も経てばいい加減“おかしい”とユーフェミア思い始めていた。
それでもユーフェミアの言葉を聞く者はいない。
ポツン、と一人だけテラスで飲むお茶は味気なく、また寂しい。
お姉さまと飲んだお茶は美味しかったわ、とユーフェミアはまた一口、お茶を飲んだ。




咲世子とロイドはそのユーフェミアの姿を見ていた。今日のお茶に、咲世子はぶっちゃけ何か仕込みたかったがそれをロイドが死ぬ気で止めた。まだシュナイゼルからGOサインが出ていないからである。
悔しがった咲世子に、その気持ちが解らないでもないロイドは呆れたが、でもやっぱりやりきれない。紅茶が少し渋くなっってしまったのはまだ許容範囲だろう。

「・・・奥様に早くお帰り願いたいです。」
「・・・同感だね。」
「GOサインが出ましたら直ぐにでも第六皇子を抹殺に行きますのに。」
「・・・それも同感だぁ。」

「それに、もう切れちゃったからねぇあの人。」
ロイドの言葉に咲世子が笑った。
「あら、あの方だけじゃなくてロイド伯もでしょう?ミレイお嬢様がぷりぷりしておられましたよ。」
「あー…勢いに任せてミレイ君の気に入ってたティーカップ割っちゃったんだよね。すんごい怒られた。」
「ルルちゃんが選んだものだったのよ、と。」
「大概この宮の住人は奥様大好きだからねぇ。リヴァル君なんかこの時間帯は絶対に庭に出ないし、シャーリーちゃんなんて凄い徹底ぶりだ。」
「太ももにナイフを持つのはいただけませんが。」
「彼女、エルモア殿下まで被害者にしたくないらしいよ。もしもの時は刺し違えてでも殿下をお守りするって。」
「・・・頼もしい。」
「ね?」
「ですがそろそろ・・・」


二人で合図をし、ロイドは咲世子をじっと見つめた。

「僕は今日、エリア11に飛ぶから。宮のこと頼んだよ。」
「解りました・・・。お気をつけて。ルルーシュ殿下をよろしくお願い致します。」
「うん、そこは大丈夫。」
「私はこの鳥籠の鍵をずっと閉めていますわ。奥様がお帰りになる頃には・・・

悪は根絶やしにしておきます。」


凄絶に笑った咲世子に、ロイドは背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
「・・・ほどほどにね。」
言った言葉は果たしてどれくらいの効力があるのだろうか。
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