アネモネ 第三章
願っても叶えられないことがあるのだと、知ったのはもう随分前のことだった。
母が死んだとき。
逝かないで、と冷たい体を抱きしめて揺さぶっても、彼女が再び私に微笑むことは無かった。
自分が無力だと痛感したのは、日本との戦争の後だった。
ナナリーが死んでしまったとき。
私が守ると決めた、直後だった。どうして、と問いかけてももうナナリーはいなかった。
涙を失ったのは、スザクがユフィの騎士になってしまったとき。
そのとき私は悟った。
私のこの腕に抱えることができるのは楽しかった、幸せな思い出だけなのだと。
そう、知っていたはずだった。
*****
ピッピ、という電子音でルルーシュは目を覚ました。窓の外に目をやると外はもう随分と暗い。室内の明かりを落として枕もとの電球のみをつけた静かな空間は、『まるで揺り籠のようだな』と彼女に印象を持たせる。
麻酔が効いた体に、今のところ痛みは存在しない。上手く動かない体に、自分の体に何が起きたのかをルルーシュは悟り、そのことに深い悲しみを覚え、吐き出すように震える咽で呼吸した。
僅かに身じろぐルルーシュの肩と、頭に手が伸ばされ髪をかき上げられる。
気付いて、視線をそこにやると、電球の光に照らされた銀色の髪がチラついた。―――ロイドだった。
ロイドは泣きはらした目で哀しそうに笑うと、「お気づきになりました?」と問いながら再びルルーシュの髪をかき上げる。
汗で額に張り付いた前髪が解かされ、とても気持ちがいい。
ルルーシュは、大きな紫藍の瞳を見開くと、管に繋がれた手を持ち上げ、自身の騎士に向かって微笑んだ。
「―――・・・ロイド。」
途端に、ロイドの眉間に皺が寄って痛みを堪える表情に変わる。
ロイドは、持ち上げられたルルーシュの手をゆっくりと、でもしっかり握った。
それでも堪え切れなかった涙が一つだけロイドのアイスブルーの瞳から零れ、ルルーシュを包む真っ白なシーツの上にポタリ、と落ちた。
「お守りできず、申し訳ありません。」
くぐもった声で出されたその言葉に、ルルーシュはゆるやかに首を横に振った。
「お前は悪くない。」
あのラウンズナイツですら、ユーフェミアの行動を止めることができなかったのだ。自分がまだ生きているだけ、あの場合では最良だった。それだけ、皇族の権威争いは熾烈を極める。
解っている。今、自分が生きているだけマシなのだ。解っている。解っている、でも。
ルルーシュは腕をベッドに戻すと、ロイドから顔を背けた。
「・・・すまないが、しばらく一人にしてくれないだろうか。」
ロイドには、窓際を向いたルルーシュの肩が小さく震えているのが見えていた。だから沈痛な顔で受け止め、「わかりました」といって立ち上がった。
病室から出る前、ロイドはルルーシュのか細い声を聞いた。
すまない、と何度もうわ言のように謝るルルーシュの声を、ロイドは聞かなかったことにして病室を出た。
病室の外で待機していたシュナイゼルとカレンが、ロイドが出てくると同時に立ち上がる。
「ロイド、奥様は?!」
焦るカレンを見て、ロイドは首を横に振った。
「たった今、お目覚めになったよ。でも」
ロイドはカレンの隣にいるシュナイゼルに視線を合わせた。頭を下げる。
「行ってあげてください。僕では・・・騎士である僕には。奥様と同じ悲しみを分かち合うことができない。貴方だけだ。彼女は、僕に泣きつくことができなかった。」
シュナイゼルは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。ロイドの横を通り過ぎ、ルルーシュの病室に入る。
ロイドが拳を握り締めるのと、ソレはほぼ同時だった。
病室の外にまで聞こえる「ごめんなさい」の声と、「助けられなかった」「守れなかった」というルルーシュの、シュナイゼルに対する謝罪の言葉の悲痛な叫び。
カレンは、力なく床に座り込むと、瞳から涙を零した。
「何で・・・?何でよ!何でまたっ・・・!?」
どんなに床を殴りつけてもこのやるせなさは消えてくれない。
もう、彼女から奪われるものがあってはならなかったのに・・・!
唇を噛み締めるカレンに、立ったままのロイドが口を開いた。
「・・・奥様を、」
「ロイド・・・?」
「奥様を泣かせることって、万死に値すると、思わない?」
笑うロイドの目が濁っている。カレンは常に無い同僚の様子に、背筋に冷たいものが走った。
「思うよね、勿論。」
見ていたくなくて、視線を下げると、ロイドの拳が手のひらに食い込んで血が流れていた。
それを見たカレンは再びロイドの目を見る。
「正攻法で攻めましょう。・・・奥様の、耳に入らないように。」
ロイドは口角だけ上げて笑う。
「あっは、君ならそういってくれると思ったよ。」
「で?どうするの?」
ロイドは少しだけ考えるそぶりを見せ、思いついたようにポン、と手を叩いた。
「そんなに入りたいなら、あの女を住まわせればいいんじゃない?」
「・・・何処に?」
「“Elysion”に、だよカレン君。」
後に、“銀色の死神”と名が冠されるロイドの非情さは、このときから発揮されることになる。
ロイドはクッと口角を上げて微笑んだ。
「“Elysion”に住まわせるって・・・でもあの宮はルルーシュの。」
ロイドはカレンを見てにっこりと笑った。その笑い方にカレンの背筋を冷たいものが走る。
「そう、奥様のためだけに造られれた宮だ。でもね、裏を返せばそれだけの宮じゃない。」
カレンは首を傾げた。
「どういうこと?」
「人間はね、誰しも表裏を混在させて生きてる。奥様も、今はとっても穏やかにお過ごしだけれどね、ちょっと前までは修羅の道をお人で歩いていた。
―――・・・カレン、君だってそうだ。同じように、シュナイゼル殿下も相当二面性があるお方でいらっしゃる。・・・まぁ、あの人の場合白と黒が明確だけれど。」
「それと宮と、どう関係があるの?」
「“Eysion”は確かに奥様をお守りするためだけに造られた宮だ。何人も奥様を傷つけることを許さない、絶対不可侵の城。絶対の城壁。彼女を守る人間を選んで抱え込み、まるで真綿で包むように奥様を守る。彼女のためだけに整えられた環境。でもこれは表の顔に過ぎない。」
言いながら歩き出したロイドの背にカレンは従った。
「表の顔、ってことは裏の顔も存在する。シュナイゼル殿下は『万が一』の可能性のために、あの宮に保険をかけてたのさ。気づかなかったかい?」
「あの宮の裏の顔・・・?いいえ、気付かなかったわ。」
カレンは立ち止まった。ロイドも歩みを止める。
「考えてみて?どうして“Elysion”は出入り口が一つしかなくて、しかもその入り口が直接殿下の執務室なのか。・・・まるで何かをあの中から逃がしたくないみたいじゃない?」
「・・・っ!」
カレンはハッとして口元を押さえた。ロイドはゆっくりと振り返る。
「お二人が幸せなご結婚をされた今となっちゃ不要な保険なんだけれどね。」
「不要な保険・・・」
「そう。シュナイゼル殿下が“Elysion”にかけた保険、つまるところの“Elysion”の裏の顔。それは、『一旦中に入ってしまうと、そう簡単に出られない』ということにある。シュナイゼル殿下は例え『万が一』のことが起こったとしても、確実に奥様をお手元に置いておく為の準備を怠らなかったんだ。・・・本ト、抜かりない人だよね。」
「・・・『万が一』?」
「うん、『万が一』本当にくだらないことだよ。そう例えば、奥様があの時殿下の手を取らずに枢木卿を待つと言って、殿下の手を振り払った場合・・・とかね。」
カレンは目を見開いた。
「ど?殿下ってこわーい人でしょ。でももうそんなものはいらないんだ。だって奥様は殿下の手をお取りになったし、二人はこっちが恥ずかしくなるぐらいの仲良しさん!実質上“Elysion”の裏の顔は奥様に対して要らないんだ。不要なんだよ。
―――・・・でも、起きてしまったのが今回の事件だ。あの女だけは僕は許せない。」
カレンは溜め息を吐いた。
「それで“Elysion”に住まわせる、になるのね。」
ロイドは一つ頷いた。
「そうだよ、カレン君。精神的に脆弱なユーフェミアが、奥様の為だけに造られた宮に入る。勿論、彼女に付き従うものは誰一人としていやしないだろうよ。
人々が溢れる宮に、あの女は入ることはできても溶け込めない。空気のように扱われて、誰も自分を人としてみない宮の中、外にも出られずに、来もしないシュナイゼル殿下を待つ―――・・・考えただけでも気が狂いそうだね。しかも、あの女は宰相妃に手を出したんだから、流石に貴族も母親も体裁が悪くてもう庇い立てはしない。唯一守ってくれそうな姉はー――・・・その気もなさそうだ。」
「・・・じゃあ、“Elysion”にユーフェミアをいれるのって、」
「精神的に追い詰めるため。・・・他に理由ある?」
カレンは乾いた笑いをした。
「ですよね~。」
「と、言うことは奥様には日本に行っていただかないと。」
言うロイドに、カレンは笑った。
「連絡、つけてくるわ。」
「早々にね!」
前に駆け出したロイドを見て、カレンは笑った。
*****
暗い病室で、シュナイゼルは目の前の愛しい妻を力強く抱き締めた。
「君は、日本に行ったほうがいい。」
シュナイゼルの声にルルーシュは潤んだ瞳のまま顔を上げた。
「・・・私がいると、迷惑ですか?」
シュナイゼルはその言葉に眉を寄せ、悲しく首を横に振った。
ルルーシュを抱きしめた腕に力を入れる。
「・・・お願いだから、そんなことは考えないで欲しい。君は、私の唯一の妻だ。迷惑など、誰が思うのだい?私が?ありえない。
ありえないよ、ルルーシュ。君を日本に、と考えたのは帝都純血派―――リ家の後見人の貴族やユーフェミア派の者達が君を害するかもしれない、という情報を掴んだからだ。皇宮は危険だ。彼らは、なんとしてもユーフェミアを私の妃にしたいらしいからね。」
ルルーシュは俯く。シュナイゼルは、彼女の小柄な背中をゆうるりと撫でた。
「解ってくれ。・・・私は、君まで喪ってしまうわけには行かないのだよ。」
そうだ。あの後一つでも順序を間違えば、今腕の中にいる存在すら喪いかねなかった。ルルーシュが目覚めるまで、シュナイゼルは時間の流れという地獄を、嫌と言うほど味わったのだ。
―――・・・もし、彼女がこのまま目覚めなければ?
―――・・・もし、このまま息が止まってしまったら?
―――・・・もし、彼女の声を永遠に聞けなくなってしまったら?
もし、もし、もし、
―――・・・彼女が死んでしまったら?
シュナイゼルは身震いした。そんなのは悪夢だけで充分だ。だからこれもきっと夢に違いない、と。
シュナイゼルは早く自分の目が覚めることを唯祈った。
だから、今ルルーシュが生きていて、触れることができるのがとても嬉しい。
「・・・君が生きてくれていて、良かった。」
ほう、と安堵の溜め息を漏らしたシュナイゼルにルルーシュは気付いて静かにその頭を抱いて、そして目を閉じた。
ルルーシュが眠ったのを確認してシュナイゼルは病室を出た。
ドアが開いた先でロイドがニヒルな笑みを浮かべている。
シュナイゼルは呆れたように溜め息をついた。
「―――時折お前がそうやって私の思考を読むのが恐ろしく感じる。」
溜め息の後クッと口角を上げたシュナイゼルにロイドは寄り掛かっていた壁から背中を離した。
「別に、読んでるつもりはございませんよ。今回は。」
「ならいつもは読んでいるということだろう。・・・喰えないやつだ。」
「前にも言いましたが、“美味しくいただかれては困ります”よ、シュナイゼル殿下。・・・多分貴方が考えていることと、僕の意見は一緒だと思うのですが、どうでしょう?」
シュナイゼルは話が早い、と嗤った。
「ユーフェミアは帝都純血派が動く前に“Abyss”へ。」
「御意。奥様のエリア11行きに付き従う者はこちらで選別しても?」
シュナイゼルは頷く。
「あぁ、お前に一任する。大方の傷の処置が終わり次第に日本へ。それまではラクシャータに任せたい。お前から彼女に伝えてくれ。」
ルルーシュを思ったのか、少し悲しげに笑ったシュナイゼルにロイドは片眉を吊り上げた。
「・・・貴方にそんなお顔をされると少々気味が悪いです。」
「お前が私に気を遣う方が気色悪い―――ロイド、ルルーシュを頼む。」
「解ってます殿下。・・・それから、」
ロイドは胸に手を当てるとその場に跪いた。
「お子様に哀悼を捧げます。
お二人のお子様です、きっととてもお美しくてお優しくて、優秀な方だったに違いありません。ですから神が愛しすぎたのです、殿下。きっと今は神のお膝元で安らかになさっていることでしょう。」
その言葉を聞いたシュナイゼルは、ロイドに背を向けた。
「―――ありがとう、ロイド。」
ロイドに背を向けたシュナイゼルは、礼を言い、静かに頬を濡らす。
ロイドはそのことを知っていたけれど、敢えて知らない振りをした。