アネモネ 第二章

『美しき黒曜の乙女』


彼女はいつも一人で遊んでいた。小さな体をそのやわらかで広大な花畑に埋めて。
滑らかな漆黒の髪の毛が庭の中いつも目立っていた事を覚えている。
ころころと転げまわる様子はなんとも愛らしさに満ち溢れていて。
彼女の母親と、ただ少女の幸せを祈った。
――――少女が残酷な世界を知ってしまった後も。




シュナイゼルは「着いてきてくれ」と銀色の薔薇が刻印されたドアを開けた。
ミレイ・アッシュフォードや、エルモアが使っていた扉である。
コーネリアは、おおかたこれが“Elysion”に続く扉なのだということに気付いていた。
扉をくぐると、そこは狭い通路だった。・・・皇帝なら引っかかってしまうのではないか、というくらいの。
電気照明で光り輝いているその通路は、窓と言う窓が無く、壁が白い。驚くほど静かなそこに、コーネリアは知らず身震いした。彼女は、自分が今何処にいるのかがわからなかった。
急に黙り込んだ妹に、シュナイゼルは苦笑する。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。」
急に話しかけられたコーネリアは、少し上にある兄の顔を見上げた。
「お茶の時間が過ぎてしまったからねぇ。夕ご飯を食べていくといいよ・・・といっても、彼女が作るからコーネリアの宮お抱えのシェフには敵わないだろうけれど。」
少し示唆したシュナイゼルの言葉に、コーネリアは目を見開いた。
「・・・兄上、皇妃殿下自らお料理をなさるのですか?」
シュナイゼルは笑うと、髪を掻き上げた。
「私が、冷たい料理は飽きたねぇ、と言ってしまったものだから励んでくれてね。せめてこの宮の中だけでも、と。実に美味しいものだよ。」
「あ・・・・」
コーネリアは眉を歪めた。



皇室では日常的に権力争いが行われている。毒を盛ったり、盛られたり、寝首をかかれたりなどはよくある話だった。
特に宰相位に立つ前のシュナイゼルの周りはそれが顕著であった。
毒味のために何人毒味係が死んでしまったかわからない。
姑息な手段ではあるがその手口は絶対で、盛ったものも判明しにくいことからこの皇室では常套手段なのだ。
主犯を捕らえた後も、その毒味は続けられて、シュナイゼルは三年前までそのことに文句は言わなかったのだが、ある日出された料理を、ルルーシュの前で『あったかいのがいいなぁ』ともらしてしまったのだ。

そう、この『毒味』には多大な欠点があった。
自分の為にしてくれていることは十分わかっているし、それで実際何人か死んでいるのも知っている。だが、シュナイゼルだって人間だった。
毒味の欠点――――それは、毒味を何回か繰り返してもってこられた料理は温かくなく、冷めきって美味しさとは程遠いことだった。
シュナイゼルはそのときのことを思い出した。シュナイゼルの自室でのやり取りだ。


『温かい料理がたべたいなぁ』
とフォークを持ち上げて溜め息をついたシュナイゼルに、ルルーシュは目を見開き、首をかしげた。
『・・・お毒味、ですか?』
エルモアに粉ミルクを飲ませてやりながら言われた言葉に、シュナイゼルは再び溜め息をつくと、フォークを下ろした。
『エルはいいなぁ・・・温かいものが食べれて。でもお父様は温かいものは食べてはいけないんだって。』
んく、んく、と哺乳瓶に必死に吸い付くエルモアの頬をつつきながら吐かれた言葉にルルーシュは顔をしかめると、シュナイゼルがフォークに突き刺したままの魚を皿から拾い上げてパクリ、と口にした。
シュナイゼルは一瞬驚くも、咀嚼するルルーシュを見守る。
『・・・確かに、冷め切ってますね。』
コクリ、と飲み込んだ妻ののどを見ていたシュナイゼルはルルーシュの瞳を覗き込んだ。
『だろう?ここ7、8年は温かいものを食べてはいないよ。』
少し考え込むそぶりをしたルルーシュは、エルモアが飲み残したミルクの入った哺乳瓶を机に置いた。そしてエルモアを抱き上げて背中をとんとん、叩きながらシュナイゼルを見た。
『・・・今夜はこちらにお泊りになるのですか?』
見上げてきた妻の顔に、シュナイゼルの心拍数が少し上がる。
『いや。君のところに泊まるよ。すまない、エリアのことの相談にのってもらって』
苦笑したシュナイゼルに、ルルーシュは笑うと、『では、お待ちしています』と言ったのだった。

その次の日、シュナイゼルが“Elysion”の食堂に着き、料理を待っていたら朝食をルルーシュが運んできたのだ。
久しぶりに出された温かい朝食に
目を白黒させていると、『毒は入っていません、私が作りました』とルルーシュが微笑んだのだ。

・・・あの日のことは永遠に忘れないと思う。






しばし行った廊下で突然クツクツ、と笑い始めたシュナイゼルにコーネリアは怪訝な顔をしたが、あまりに楽しそうな兄を見て、何だかばかばかしくなり緊張を緩めた。

「ここが、“Elysion”への入り口だ。」
たどり着いたそこは、二つ目の扉だった。“Elysion”と刻まれた、またしても薔薇の刻印の扉。
銀色に輝くそれは、でも開かずに手を差し込む作りになっている。
シュナイゼルは扉に手を入れると、扉はギギ、と重い音を立てて開いた。開けたそこは、小さなガラスの温室だった。コーネリアが一歩を踏み出すと、扉は再び重い音をたててひとりでに閉まった。
小さな玄関を抜けると、そこはみごとな庭園だった。
宮へとまっすぐに続く道は白く、整備されており、花畑が広がっている。
視線を少しずらすと、青々と茂った森、目の前とは違う色の、でも不自然ではない様子で、また花が咲いているのが見える。
何センチかの正方形の防弾ガラスがタイルのように積み上げられた鳥かごのような設計は、でも窮屈さを感じない。
視線を戻し再び前を見据えると、緩やかに波打つ湖面が白い宮の周りをぐるり、と一周しており、ガラスによって緩められた太陽の陽の下でまばゆく輝いている。


きょろきょろしては、さらに先を急ぐシュナイゼルの後ろをコーネリアは急いでついていく。
「兄上。『彼女』とは、どんな方なのですか?」
公爵・伯爵・男爵の地位を持つものたちが後ろ立てに就いていると聞いた。
だが、それにしては護衛兵の数があまりにも少なすぎる。コーネリアは首を傾げた。
現に彼女は未だ護衛兵を見掛けていない。
不安げに吊り上げられた片眉をみて、シュナイゼルは笑うと、「シィ、」と唇に人差し指を当てた。
「逢えばわかるよ。」
悪戯っぽく笑ったシュナイゼルに、コーネリアはさらに深く首を傾げたが、付いていくしかなかったので兄に従った。
宮の中に入り、さらにズンズン進み、たどり着いたのは奥まった部屋で、やはり薔薇の刻印の施された・・・今度は木製の扉に出会った。
先ほどとは違って、木製のその扉の前には先ほどの赤い髪の女――――シュナイゼルの騎士が立っていた。


「護衛ご苦労、カレン。」
呼ばれた騎士はカレンという名前らしい。黒い騎士服を着た彼女は、柔らかな深紅の絨毯の上に、優雅に膝をついた。
「お帰りなさいませ、我が君。」
シュナイゼルは、数歩カレンに近づいた。
「彼女は?」
カレンは緩やかに顔を上げる。見上げた瞳が空色なのを見て、コーネリアはつい見入ってしまう。シュナイゼルの顔を見上げたカレンはきつく答えた。
「奥様はまだ眠っていらっしゃいます。近頃はこのように眠ってしまわれることが多くて・・・ご病気ではないのですが。」
考え込んだカレンにシュナイゼルは笑った。
「それで、私のところにエルモアが来たんだね?」
カレンは再び顔を下げた。
「申し訳ありません。」
シュナイゼルは、顔を下げたカレンを見て「気にしなくていい。」と朗らかに笑った後、木製の扉を見た。
「・・・悪いけれど、そこの扉を開けてくれるかい?」
カレンはバッと顔を上げると「しかし!」と声を荒げた。視線はコーネリアを向いている。
「大丈夫だ、あけなさい。」
静かな口調で言ったシュナイゼルが、カレンを見下ろす。
「―――失礼しました。」
カレンは立ち上がると、扉の取っ手を引き、開いた。



コーネリアは開かれた扉の先の、白い大きなソファーに、黒い髪を見た。
部屋の中に入っていくシュナイゼルを慌てて追う。
そしてコーネリアは、驚きに目を見開いた。


「・・・マ、マリアンヌ様?」


コーネリアは震撼する。
ウソだ、だって彼女が生きているはずが無い。公衆の面前、それも白昼堂々かのアリエスの離宮で凶悪な銃弾に倒れたではないか。
葬儀にも、自分はちゃんと出席した。・・・彼女が、あの『閃光』と謳われた彼女が、無慈悲に埋められていくのをクロヴィスと共に泣きながら見送った筈だ。
コーネリアは、ソファーに眠る存在を凝視する。

顔は伏していて見えないが、ゆるやかな漆黒の髪は金色のバレッタでまとめられている。
繊細な体を強調する白のドレスは華美では無いのだが、しかし最高と呼ばずにはいられないような美を演出している。
シュナイゼルは眠るルルーシュに近づくと、優しく肩をゆすった。

「・・・ん」

悩ましげな声が唇から漏れ、コーネリアは眠る女性が生きていることを今更ながらに確信した。
ルルーシュはゆうるりと起き上がると、その紫藍の瞳を開けた。
出てきた瞳の色に、コーネリアはハッと息を呑んだ。
「起きたかい?エルが起きてくれない、と寂しそうにしていたよ。」

コーネリアが声をかける前にルルーシュは微笑んだ。
「・・・申し訳ありません、殿下。このところ、体調が思わしくなくて。」
その言葉に、シュナイゼルの眉間に皺が寄る。
「咲世子が、近頃あまり食べていないと言っていた。どこか悪いのかい?今度、ラクシャータに診るよう言うからね?」
「・・・申し訳ありません。」
たおやかに傾けられた首が細く、色が白い。
コーネリアは彼女から視線を逸らさずに言葉を飲み込んだ。
・・・彼女が誰だか、分かったからだ。
コーネリアはあまりの懐かしさに体を震わせた。



声など、出なかった。



――――死んだ、と聞かされたときは、自分の無力さをひたすら嘆き、憎んだ。
そしてそんな危うい情勢のところに彼女達を送った自国の王に激しい憤りを感じた。
喪が明けて思ったことは、優しく、暖かい彼女達の幼い命を奪った国に断罪と報復を誓う事だった。
自分が将として名を上げ始めたのはこの頃からだ。

まずは彼女達を奪った愚かな非道の国に侵略を。
新兵器ナイトメアフレームを駆り、完膚なきまで叩き潰す。あの国の人間には少しの情けも掛けてはやらなかった。
弱い、幼い彼女達の命を否応なく奪ったのだ。白旗を揚げ投降してくる者もいたが、容赦はしなかった。
そうして手に入れた国は、名前・歴史・存在・誇りを奪った。


当然だと、思った。


刃向かった者は皆殺し、投降してくる者も皆殺しに。『魔女』二つ名を貰っても、自分には関係なかった。
ただ、彼女達の最期を考えるたびに、自分を責めた。
痛くは無かっただろうか。
二人一緒だったのだろうか。
寒くは無かっただろうか。

安らかに、逝けたのだろうか。

私達に助けを求めただろうに。
こんなところに来たくは無かっただろうに。
私にもっと力があれば彼女達を救ってあげられたかもしれない。
許されるのならば、もし神がいるのであれば、もう一度・・・もう一度「お姉さま」と呼ぶあの声が聞きたい。
何度思ったか分からない。だが、失われてしまったのだと。永遠に永久に彼女達に「お姉さま」と呼ばれることはないのだと。
失ったのだ。自分は確かにあの時失ったのだ。失ったと、思っていた。


シュナイゼルは、ゆっくりと振り返ると、ルルーシュの肩を叩いてコーネリアを見た。
コーネリアの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。

失った、と思っていた。

「・・・ルルーシュ。」
やっと出せた声は、あまりに拙かった。かすれて、上手く妹の名前を紡げたか分からなかった。
でも、それでも白いソファーの上の乙女は、朗らかに笑うと、立ち上がって深々と礼をした。

「お久しぶりです、コーネリアお姉様。」

コーネリアは次々とあふれ出る涙を拭うこともせずに、ルルーシュに近寄ると彼女の体を確かめるように強く抱きしめた。
「よく、よく無事だった。もう、生きてはいないのだと・・・生きてはいないのだと、言われたのだ。良かった!お帰り、ルル。ルルーシュ。」
細身の体が、ほんのりと温かい。生きている。とコーネリアは泣きながら破顔した。








ひとしきり抱き合ったあと、コーネリアはルルーシュを離した。
黒の騎士服を着た女・・・カレンがお茶を運んでくる。
今まで蚊帳の外だったシュナイゼルが複雑そうな顔つきで言った。
「かけがえの無い姉妹とは言え、妬けるなぁ。」
シュナイゼルは片眉を器用に上げると、ルルーシュが眠っていたソファーに座った。
その向かい側にコーネリアが腰掛けると、ルルーシュはその前・・・シュナイゼルが座っている隣に腰掛けた。
ルルーシュが座ったことを確認するとコーネリアはシュナイゼルを見、深く頷いた。
「事の次第は呑み込めました、兄上。」
コーネリアは強い瞳でそう言った。

純粋に、ただ純粋に宮に相応しくない者が入らないために、この厳重さは絶対に必要だと、コーネリアは確信した。
―――故マリアンヌ妃の悲劇を繰り返さないために。

シュナイゼルは運ばれたお茶を飲むと、朗らかに笑った。
「彼女はエリア11で見つけたのだ。・・・死んだ、とはどうも思えなくてね。やはり、アッシュフォードが後生大切に隠していた。あ、彼らには非は無いからね。エリア11平定の折に、ルルーシュは父君から酷い目に遭わされたから、彼らは皇帝宮に帰したくない一心だったのだよ。」
「・・・それは分かります。私でもきっとそうしていたでしょう。・・・彼らの」
「そう、爵位返上の中にはこのことも含まれているよ。・・・彼ら、特にルーベンはいらないと言ったのだけれど、私はどうしても彼女を妻にしたかった。他に奪われる前に私のものにしたかった。」
「・・・」
「連れて行こうとしたときは、ミレイ嬢に“何故そんなに求めるのか”と尋問されたくらいだよ。
けれど、形振りなど構っていられない。何と引き換えにしても彼女が欲しい。だから半ば無理やりにでもここへ連れてきてしまった。
アッシュフォードは、私の願いをかなえてくれたのだよ。」
シュナイゼルが言い終わると、隣でクスクスとルルーシュが笑った。
シュナイゼルは溜め息を吐くとルルーシュに顔を向ける。
「何も笑うことは無いのではないかな。あの時は本当に、君がいなくなる前に、と必死だったのだよ?」
ころころと笑うルルーシュは、「でも」と続けた。
「あのときの殿下は、常の殿下らしくなくて。・・・迅速な行動ではありましたが」
「褒めているようには聞こえないよ、ルルーシュ。」
「・・・失礼しました。」
笑ったルルーシュの顔に、コーネリアは目を見開いた。
がっくりと項垂れるシュナイゼルを見たのも初めてだが、こんなに朗らかに笑うルルーシュを見たのも初めてだからだ。
シュナイゼルは大きな溜め息を吐くと、コーネリアを見た。真剣な眼差しに、その場の空気がガラリと変わる。
「彼女は今、私の唯一の妃としてここにいる。」
シュナイゼルの言葉にコーネリアはコクリ、と息を呑んだ。
そう、この“Elysion”の主はただ一人だと、先ほどシュナイゼルはコーネリア・・・いや、ユーフェミアに言った。その人物のためだけに造られ、その人物のためだけに機能し、その人物のためだけを守る宮だと。
暴言とも取れる言葉でシュナイゼルは言った。
数多の皇后・皇妃たちが華やかに、醜悪に競い合う皇帝宮の奥・・・後宮とは全く意味の違う、実質上シュナイゼルの後宮“Elysion”
その主は、ルルーシュ。
「私は本当に彼女しか要らないし、第二・第三皇妃を持つつもりは無い。ユフィには、ユーフェミアには、君からよく言っていて聞かせてくれ。あの子も、つまらぬ政略の被害者だから。」
真摯に頼み込む兄に、コーネリアはルルーシュを思った。
今まで父に、国に捨て置かれた哀れな姫。出来るなら、自分も守ってやりたい。いや、自分にも今はその力がある。
そして、今までの分も幸せになって欲しい。

朗らかに微笑むルルーシュを見て、コーネリアは『あぁ、やっと幸せになることが出来たのだな』と安堵した。
この幸せが“つかの間”であってはならないのだ。・・・もう二度と。
「分かりました、兄上。ユフィには私から言っておきます。」
力強い返答に、シュナイゼルはあからさまに肩の力を抜く。

・・・この兄でも緊張はするのだな、とコーネリアは笑った。

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