短編
ガチャンと鈍い音が響いた。
まずい……とニアは思った。彼がそんな風に思うのはとても珍しいことだった。
床にはジェバンニがつい最近完成させたボトルシップが粉々になっていて、中にある帆船はマストが折れていた。
ジェバンニが作るものは、欧米で主流の、ボトルの中でマストを引き起こすタイプのものではない。一度製作した帆船を細かく分解し、再度ボトルの中で組み立てるというものだった。高度な技術が要求される。また、非常に手間のかかる代物だった。
この日、ニアはジェバンニの自宅に遊びに来ていた。ジェバンニは見せたいものがあると言ってニアをベッドルームへ案内した。部屋に入ってすぐにある、飾り棚に置いてあったボトルシップを指差し、「先週末に完成したんですよ」と嬉しそうに話してくれた。
ふたりは何をするということもなく、リビングでそれぞれのんびりと過ごしていた。
ジェバンニは次のモデルシップはどういうものにしようかと思案していた。彼はボトルの形にもとても拘りがあり、ラップトップのモニターとにらめっこをしていた。
ニアは持ち込んだ玩具と、ジェバンニの家に置いている玩具とを床に広げていた。
「今日持ってきた玩具は持って帰ってくださいね」
そう言うジェバンニの声は無視して、今日も玩具を置いて帰るつもりだ。
しばらくして、ジェバンニはお茶にしようとコーヒーを淹れに行った。ニアは先ほど紹介されたボトルシップを眺めにベッドルームへとこっそり向かった。
良くできているなとニアは思った。
大航海時代の船をモデルにしているのだろう。複数のマストを持ち、ロープも多く、組み立てるのは大変そうだった。珍しく感心したニアは、まじまじとそれを眺めていた。
ジェバンニはニアがベッドルームに入ることをあまり快く思っていないようだった。
ここには他にもボトルシップが置いてある。
以前、ニアが自分の玩具に欲しいと小型のボトルシップをねだった事があったが、壊されたら悲しいからと断られた。壊したりはしないと言ったが、「ニアはよく玩具を壊すでしょう」と返された。どうにも信用されていないらしい。ここの出入りは彼が許可した時だけになっていた。
仮にも恋人が時間をかけて作ったものを壊したりはしないのだが……そう言うのは何だか癪に感じられて、ニアはこっそりベッドルームに忍び込んでは、彼の作ったボトルシップを眺めていた。
そろそろコーヒーを用意したジェバンニがリビングに戻る頃だろう、そう思いニアが部屋を後にしようとした時だった。
ボトルシップはニアにとっては少し高い位置にあった。よく見ようと背伸びをしていたニアはバランスを崩した。勢いよく棚にぶつかり、ボトルシップを引っかけ落下させてしまったのだった。
ガチャンと鈍い音が響いた。
まずい……とニアは思った。彼がそんな風に思うのはとてと珍しいことだった。
ジェバンニは元々ベッドルームには勝手に入らないようにと言っていた。ボトルシップを壊されたくないからと。無論ニアにそんなつもりは無かったが、しかし今、現実にボトルシップは壊れてしまっている。
扉の外からぱたぱたと足音が聞こえてきた。
ニアはどうしたらいいのか分からなかった。心臓のどくどくという鼓動だけは感じられた。扉の方を見つめていると、ゆっくりと開いた。実際にはゆっくりではなかったかもしれないが、ニアにはその時間がとても長く感じられた。
「……大丈夫?」
ジェバンニは眉を寄せて部屋に入ってきた。床をちらりと確認したジェバンニはニアを見た。
「怪我はないですか?」
「……」
「ニア、大丈夫? もしかして怪我した?」
ジェバンニは心配そうにニアの方に近づいた。
「……すみません」ニアはか細い声で言った。
「割るつもりは無かったんです。体勢を崩して棚にぶつかって……それで……。壊してしまってすみません」
「……」
ニアは割れたボトルシップをじっと見つめていた。
今まで人とあまり関わって来なかったツケかもしれない。こういう時どんな顔で謝ればいいのかが分からない。捜査なら、間違えたとしても「ごめんなさい」で済む話だ……しかし心の触れあいである以上そうはいかない。悪意がなくとも許すかどうかは相手次第だ。きっとジェバンニはニアを許すだろうが、それでも約束を守らなかった事への失望や、壊された事への怒りは抱くだろう。
そう考えるとなんだか急に心細い気持ちになった。ニアは自分が思うよりもずっと、ジェバンニとの関係性を大事にしていたことに気がついた。
「怪我はなさそうですね」
ニアの手を取ってジェバンニが言った。ニアはジェバンニを見上げた。
「……怪我はしてません」
「なら良かった」ジェバンニは微笑んで言った。
「……怒ってないんですか?」
ニアは恐る恐るという風に言葉にした。ジェバンニはキョトンとしたがまたすぐ微笑んだ。
「別に怒ってはいませんよ。わざとじゃないのはニアの様子を見れば分かります。それに形があるものはいつかは壊れますよ」
「……」
「また作ればいいんです」
そう言うジェバンニの声は優しかったが、ニアはかえって居心地が悪く感じられた。
「……気に入っていたんでしょう。同じものは二度は作れませんよ」
「次はこれよりもっといいものが作れるかもしれませんよ?」
「……」
ニアは俯いた。申し訳ない気持ちが込み上げてきたが、ニアにはそれをどう伝えればいいかの分からなかった。
「ニア、僕はニアが怪我をしてなくて良かったと思ってるよ。確かに時間がかかったものだから残念じゃないと言えば嘘になるけど……」
「……」
「ニアが時々この部屋に忍び込んでボトルシップを見てたのは気づいてましたよ。だから、壊そうと思っての事じゃないことはちゃんと分かってるし……。こうなる事だって考えられたのに、ずっと何も言わなかったのだから僕の責任だよ」
「ジェバンニ……」
「次から見たい時は一声かけてください。高いところにあるのは下ろしますよ」ジェバンニはからかうように言った。
ニアは少しむくれた顔をして「そうします」とだけ答えた。
「そういえば、前にニアが欲しいと言っていたボトルシップがあるでしょう」ジェバンニが思い出した様に言った。
「?」
「あれは僕が小さい頃に父と作った――つまり、ほとんど父が作ったんだけど――そういう訳であれはあげられないんだ」
「……そうだったんですね」
なるほど、思い出の品だから壊れてしまうのを心配したのか。確かにあれ以降、あのボトルシップは仕舞われてしまっていた。
「せっかく贈るなら僕が作ったものを贈りたくて……それで、さっき見てた新しいボトルは完成したらニアに贈ろうと思ってたんだ。本当はこっそり作るつもりだったんだけど、ニアの好みはまだイマイチ分からなくて……一緒に選んでもらってもいいですか?」
ジェバンニの言葉にニアは少し照れ臭く感じたが、彼の表情はいつものまま変わらなかったので、ジェバンニがその事を知ることはなかった。こくんと頷いたニアに「ありがとう」とジェバンニは笑った。
「……帆船のデザインの好みも聞いてもらえますか?」
ニアは伺うようにジェバンニを見つめた。
「もちろん」
一際優しい声だった。
「さ、ここは後で片付けますから、まずはコーヒータイムにしましょう。冷めたら勿体ないですからね」
そう言うとジェバンニはニアの手を引いて部屋をで出て行った。
まずい……とニアは思った。彼がそんな風に思うのはとても珍しいことだった。
床にはジェバンニがつい最近完成させたボトルシップが粉々になっていて、中にある帆船はマストが折れていた。
ジェバンニが作るものは、欧米で主流の、ボトルの中でマストを引き起こすタイプのものではない。一度製作した帆船を細かく分解し、再度ボトルの中で組み立てるというものだった。高度な技術が要求される。また、非常に手間のかかる代物だった。
この日、ニアはジェバンニの自宅に遊びに来ていた。ジェバンニは見せたいものがあると言ってニアをベッドルームへ案内した。部屋に入ってすぐにある、飾り棚に置いてあったボトルシップを指差し、「先週末に完成したんですよ」と嬉しそうに話してくれた。
ふたりは何をするということもなく、リビングでそれぞれのんびりと過ごしていた。
ジェバンニは次のモデルシップはどういうものにしようかと思案していた。彼はボトルの形にもとても拘りがあり、ラップトップのモニターとにらめっこをしていた。
ニアは持ち込んだ玩具と、ジェバンニの家に置いている玩具とを床に広げていた。
「今日持ってきた玩具は持って帰ってくださいね」
そう言うジェバンニの声は無視して、今日も玩具を置いて帰るつもりだ。
しばらくして、ジェバンニはお茶にしようとコーヒーを淹れに行った。ニアは先ほど紹介されたボトルシップを眺めにベッドルームへとこっそり向かった。
良くできているなとニアは思った。
大航海時代の船をモデルにしているのだろう。複数のマストを持ち、ロープも多く、組み立てるのは大変そうだった。珍しく感心したニアは、まじまじとそれを眺めていた。
ジェバンニはニアがベッドルームに入ることをあまり快く思っていないようだった。
ここには他にもボトルシップが置いてある。
以前、ニアが自分の玩具に欲しいと小型のボトルシップをねだった事があったが、壊されたら悲しいからと断られた。壊したりはしないと言ったが、「ニアはよく玩具を壊すでしょう」と返された。どうにも信用されていないらしい。ここの出入りは彼が許可した時だけになっていた。
仮にも恋人が時間をかけて作ったものを壊したりはしないのだが……そう言うのは何だか癪に感じられて、ニアはこっそりベッドルームに忍び込んでは、彼の作ったボトルシップを眺めていた。
そろそろコーヒーを用意したジェバンニがリビングに戻る頃だろう、そう思いニアが部屋を後にしようとした時だった。
ボトルシップはニアにとっては少し高い位置にあった。よく見ようと背伸びをしていたニアはバランスを崩した。勢いよく棚にぶつかり、ボトルシップを引っかけ落下させてしまったのだった。
ガチャンと鈍い音が響いた。
まずい……とニアは思った。彼がそんな風に思うのはとてと珍しいことだった。
ジェバンニは元々ベッドルームには勝手に入らないようにと言っていた。ボトルシップを壊されたくないからと。無論ニアにそんなつもりは無かったが、しかし今、現実にボトルシップは壊れてしまっている。
扉の外からぱたぱたと足音が聞こえてきた。
ニアはどうしたらいいのか分からなかった。心臓のどくどくという鼓動だけは感じられた。扉の方を見つめていると、ゆっくりと開いた。実際にはゆっくりではなかったかもしれないが、ニアにはその時間がとても長く感じられた。
「……大丈夫?」
ジェバンニは眉を寄せて部屋に入ってきた。床をちらりと確認したジェバンニはニアを見た。
「怪我はないですか?」
「……」
「ニア、大丈夫? もしかして怪我した?」
ジェバンニは心配そうにニアの方に近づいた。
「……すみません」ニアはか細い声で言った。
「割るつもりは無かったんです。体勢を崩して棚にぶつかって……それで……。壊してしまってすみません」
「……」
ニアは割れたボトルシップをじっと見つめていた。
今まで人とあまり関わって来なかったツケかもしれない。こういう時どんな顔で謝ればいいのかが分からない。捜査なら、間違えたとしても「ごめんなさい」で済む話だ……しかし心の触れあいである以上そうはいかない。悪意がなくとも許すかどうかは相手次第だ。きっとジェバンニはニアを許すだろうが、それでも約束を守らなかった事への失望や、壊された事への怒りは抱くだろう。
そう考えるとなんだか急に心細い気持ちになった。ニアは自分が思うよりもずっと、ジェバンニとの関係性を大事にしていたことに気がついた。
「怪我はなさそうですね」
ニアの手を取ってジェバンニが言った。ニアはジェバンニを見上げた。
「……怪我はしてません」
「なら良かった」ジェバンニは微笑んで言った。
「……怒ってないんですか?」
ニアは恐る恐るという風に言葉にした。ジェバンニはキョトンとしたがまたすぐ微笑んだ。
「別に怒ってはいませんよ。わざとじゃないのはニアの様子を見れば分かります。それに形があるものはいつかは壊れますよ」
「……」
「また作ればいいんです」
そう言うジェバンニの声は優しかったが、ニアはかえって居心地が悪く感じられた。
「……気に入っていたんでしょう。同じものは二度は作れませんよ」
「次はこれよりもっといいものが作れるかもしれませんよ?」
「……」
ニアは俯いた。申し訳ない気持ちが込み上げてきたが、ニアにはそれをどう伝えればいいかの分からなかった。
「ニア、僕はニアが怪我をしてなくて良かったと思ってるよ。確かに時間がかかったものだから残念じゃないと言えば嘘になるけど……」
「……」
「ニアが時々この部屋に忍び込んでボトルシップを見てたのは気づいてましたよ。だから、壊そうと思っての事じゃないことはちゃんと分かってるし……。こうなる事だって考えられたのに、ずっと何も言わなかったのだから僕の責任だよ」
「ジェバンニ……」
「次から見たい時は一声かけてください。高いところにあるのは下ろしますよ」ジェバンニはからかうように言った。
ニアは少しむくれた顔をして「そうします」とだけ答えた。
「そういえば、前にニアが欲しいと言っていたボトルシップがあるでしょう」ジェバンニが思い出した様に言った。
「?」
「あれは僕が小さい頃に父と作った――つまり、ほとんど父が作ったんだけど――そういう訳であれはあげられないんだ」
「……そうだったんですね」
なるほど、思い出の品だから壊れてしまうのを心配したのか。確かにあれ以降、あのボトルシップは仕舞われてしまっていた。
「せっかく贈るなら僕が作ったものを贈りたくて……それで、さっき見てた新しいボトルは完成したらニアに贈ろうと思ってたんだ。本当はこっそり作るつもりだったんだけど、ニアの好みはまだイマイチ分からなくて……一緒に選んでもらってもいいですか?」
ジェバンニの言葉にニアは少し照れ臭く感じたが、彼の表情はいつものまま変わらなかったので、ジェバンニがその事を知ることはなかった。こくんと頷いたニアに「ありがとう」とジェバンニは笑った。
「……帆船のデザインの好みも聞いてもらえますか?」
ニアは伺うようにジェバンニを見つめた。
「もちろん」
一際優しい声だった。
「さ、ここは後で片付けますから、まずはコーヒータイムにしましょう。冷めたら勿体ないですからね」
そう言うとジェバンニはニアの手を引いて部屋をで出て行った。
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