なぎれお

 潔は練習で手応えが得られたとき、つい風呂に行くのが遅くなる。

 着替えを抱えて脱衣所を歩く間も、思考はピッチの上にあった。そのせいで、目の前にあった水たまりを見逃してしまった。

「うおっ」

 滑って転びそうになる潔を、誰かが受け止める。男子高校生一人分の体重がかかるが、そいつは片腕で易々と受け切った。

「おっと、あぶねー。よく見て歩けよ」
「玲王!」

 呆れた声は、玲王のものだ。普段から自分より体格のいい凪をおんぶしたりする玲王なら、潔くらいは軽いものだろう。
 親切にも、玲王は潔が落とした着替えやらタオルやらを集めるのにも手を貸してくれた。
 
「玲王って、凪以外にも世話焼くんだな」
「ちげーよ。これの犯人が、あいつだから」

 あいつ、というのは十中八九凪のことだ。どうせ身体を拭かずに脱衣所の中ををうろうろしたのだろう。

「片付けにきたら、鈍臭いやつが滑って転びそうになってたから助けてやったんだよ」
「そんなん凪に片付けさせればいいのに」
「いや、俺もそう言ったんだけどさ、寝ちまったんだもん。しょうがねえだろ」
「しょうがなくはねえよ。甘やかしすぎ」
「うっせー。余計なお世話だ」

 潔と話しながら、腕まくりをした玲王がてきぱきと水たまりを片付けていく。凪にやらせたら10倍くらい時間がかかりそうだ。こういうところで金持ちっぽさがないのも玲王らしい。

 道具まで片付け終わって手が空いた玲王が、潔のほうを見てくる。

「まだなんか用?」
「やー、こうして見るとちっせえな、お前」
「はぁ? お前らがデカすぎるんだよ」

 ただでさえデカいやつが多い監獄の中でも、凪は特に体格に恵まれている。190cmの凪と並ぶと目立たないが、玲王だって185cmもあるのだ。決して潔が小さいわけではない。

「キレんなって。ほら、体重も軽いし」
「おい」

 玲王が潔の脇に手を入れて、重そうな素振りひとつ見せずにすっと持ち上げる。凪を背負って歩けるくらいだから当たり前なのだが、それはそうとて腹は立つ。

「あのな。凪と比べたら大抵の人類は軽いんだってば」
「ハハッ、言えてるわ」

 潔を地面に下ろしながら、玲王がけらけらと笑った。
 いつかの亡霊のような姿を思えば、随分と覇気が戻っている。いいことだが、調子に乗って人をおちょくるのはやめてほしい。


 そのとき脱衣所の扉が開いて、ちょうど話題になっていた凪が入ってきた。玲王を探すように脱衣所の中をきょろきょろと見渡している。

 凪の目が玲王と潔を捉えた。
 ぽわぽわした雰囲気が一変し、凪が鋭い目つきで潔を睨みつけてくる。

「潔、なにしてんのお前」

 凪が目を見開いたまま、相手を威嚇するように唸った。
 大股で、足音を立てることも厭わずにこちらに向かってくるさまは、気圧されるほどの迫力がある。

「ふざけんなよ」

 凪は瞳をぎらつかせたまま、潔の胸ぐらを掴んだ。力任せに持ち上げられて、潔の身体が宙に浮く。
 すぐそばでは玲王が、状況が理解できずに目を丸くしていた。

「おい凪!?」

 殺意すらこもった視線を受けて、潔は必死になって凪がなににキレているのかを分析した。凪はすでに拳を握り込んでおり、少しでも判断が遅れればあれが潔のほうに飛んでくる。

「……待て待て誤解だって! 俺が玲王に手ぇ出すわけねえって、このバカ!」
「……違うの?」

 潔の出した答えは正解だったらしい。
 玲王の手が潔の身体を抱きしめているようにでも見えたのだろう。凪にしては珍しい、思い込みによる勘違いだ。

 胸ぐらを掴んでいた手から解放される。気が抜けたのか、凪がその場でへたりこんだ。
 凪の顔にはいつものおっとりした表情が戻ってきたが、額には冷や汗をかいている。

「よかった……」
「どんな勘違いだよ、ったく」
「潔に玲王を取られたら、恨むとこだった」

 それは凪が言う台詞ではないのではと思ったが、余計なことは言わないでおく。変に刺激して話を長引かせたくない。

「はぁ……恨むどころじゃなかったけどな。殺されるかと思ったわ。目がマジだった」

 フィールド外で殺意を向けるのは、心臓に悪いので本当に勘弁してもらいたい。
 凪の誤解を防ぐために潔から距離を置きながら、玲王が深くため息を吐いた。案の定、複雑そうな顔をしている。

「取られたらってなんだよ。俺はお前のもんじゃねーんだけど?」
「それとこれとは話が別」
「つーか、潔にお前を取られたのは俺のほうだし」
「それは、仕方なかったことじゃん」
「仕方なくても、俺はヤだったの」
「玲王しつこい。めんどくさい」
「言ったなお前」

 売り言葉に買い言葉で文句を言っているが、玲王のほうはまんざらでもなさそうだ。そういうところが良くないのだろうが、それも飲み込んでおいた。
 2人がうまくいっているなら、それでいい。ただ、チームメイトのそういう場面は見ていてキツいものがある。

「あの、そういうのは2人だけでやってもらえる? 俺まだいるんだけど」

 潔の指摘に2人がお互いから気まずそうに目を逸らすので、余計居た堪れなくなった。

「あ、悪い」
「ごめん潔。殴ろうとして」
「いいよ、もう気にしてないから」

 これ以上1秒でも長くこの場にとどまりたくなくて、潔は爆速で服を脱いで脱衣所を離れた。

「じゃあ、俺風呂行くわ」
「いってらー」



 潔がいなくなった脱衣所に、玲王と凪が残された。気まずい沈黙の間、風呂場からは水の流れる音が聞こえてくる。

 凪がスマホを探すためにジャージのポケットに手を突っ込んだが、残念ながらは空っぽだった。たぶん部屋に忘れてきたのだろう。

 緊張の糸が途切れ、玲王は頭を抱えてしゃがみこむ。凪からは表情が見えなくなるが、首の後ろと耳の先が赤いのだけはわかった。

「……マジでなにやってんだよ、お前」
「だって、夜中の脱衣所で、2人きりで、くっついてなにしてんのかなって思うでしょ」
「なんもしてねえよ」
「そうだね。俺の勘違い。はずい」

 玲王がなかなか立ち上がらないので、凪のほうが合わせるつもりで、玲王の隣に並んでしゃがんだ。広い脱衣所の片隅で大の男が2人、膝を抱えて縮こまっている。
 腕に隠されていた玲王の顔は、耳まで真っ赤になっていた。覗き込まれたことに気づいた玲王が観念して、凪の方を向く。

「……お前も嫉妬とかすんのな」
「するみたい。俺も知らなかったけど」
「そっか」
「うん」

 お互い言葉が見つからず、再び沈黙する。
 しばらく沈黙が続いたあとに、凪が膝を抱えてしゃがんだまま、玲王に手を伸ばす。

「玲王、あのさ。俺……」

 玲王が顔を上げかけたとき。

「だああああ!! 出られねーんだよ! 空気読んでたらのぼせて死ぬわ!」

 風呂場に続くガラス戸が勢いよく開いた。

「潔!?」
「2人でってのは部屋でやれっつったんだよ! この青春バカ野郎どもが!」

 のぼせかけの赤い顔で怒った潔が、試合中の姿に迫るほどの剣幕で、凪と玲王を脱衣所から追い出した。

 潔に蹴飛ばされるお互いの姿が滑稽で、2人はやっと自然に笑い合うことができたのだが、散々迷惑をかけられた潔にとっては知りたくもないことだろう。
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