旧懐
オレンジ色の光が窓枠のシルエットを黒く染めている。知らぬ間に雨が上がっていたようだ。「小説家」の栄光を唯一残す万年筆を机上に放り投げると、キャップの外れた胴体はゴロゴロと無機質な音を立てながら白紙の上を転がり、横積みになった本にぶつかった。「担当編集」は後何回ここにやってくるのだろう。初めこそ良いネタになると機嫌良くしていたものの、今はごくまれに様子を見に来るだけだ。アパートの下の方から子供たちの笑い声とまばらな足音が聞こえる。はやく、はやく。置いていっちゃうよ、と。こんな夕方に、そんなに急いで、行き先はどこだろう。おそらく、もう私にはわからない。
私の過去は私の手の届かなくなったところに存在する。子供時代と呼ばれるものだってあるのだろうが、周りの人間も私のことをよく知らないらしい。子供の頃から私は一人だったのだろうか?それとも、親しい人がいたのだろうか。いずれにせよ、今の私を気にかけるような変わり者はいない。もしいるとすれば、その人物は既にずっと遠いところにいるようだ。しかし今もそんな人がいるのなら、その人は幸せであることを願う。私はあなたを忘れてしまったのだ。あなたも私を忘れて前へとずんずん進んでいくのがよいだろう。
斜陽の微細な温度が眠気を誘う。どうやら、存在しない人物に祈りを捧げる程度の想像力はいまだ残っているらしかった。流石は小説家の新星である。………
*
大人が口にする天気の話題などは、私たちは一切気にかけることがなかった。そのようなことを気にする暇はなかったのだ。あの頃私たちはいつも忙しくしていた、いつも何かとても重要なことを追って、ところかまわず駈けていたものだ。
濃い草の匂いが充満している。下草をかき分けて、無心で、といっても、地面にころがった石につまずかないようにしながら、走った。この現実的で思い出深い夢の中でだけ、前を往く彼女の存在を感じられる。私の幼少期は全く孤独ではなかったのだ。彼女の笑い声が聞こえる。手を繋ぎたいと思い、精一杯伸ばしてみるものの、それは叶わなかった。ならばひきとめようと考え、彼女の名前を呼ぼうとするが、これもまた失敗に終わった。彼女の笑い声は幻聴で、私は彼女の名前すら知らなかった。実際には夢は無音だった。私の願いを具現化したものに過ぎなかったのだ。光の残像のようにまぶたの裏を駈けるその真白い人影は、瞬く間にしてかき消えていった。
部屋は既に暗くなっていた。テーブルランプを点けると、黄ばんだカーテンがボンヤリと浮かび上がる。量産品のそれは森閑とした雨の冷気を貫通させていた。どうやら小説家オルフェウスというのは本当に孤独な男であったようだ。私にはもう過去も未来もない。
―しかし、ああ、そうだ。あの日はその後すぐ雷雨で、流石に叱られたのだった。さやかにこんな思考が浮かんできた。何の事だかは分からないが、今はとにかくあの編集を落胆させない策を練らなければいけない。
私の過去は私の手の届かなくなったところに存在する。子供時代と呼ばれるものだってあるのだろうが、周りの人間も私のことをよく知らないらしい。子供の頃から私は一人だったのだろうか?それとも、親しい人がいたのだろうか。いずれにせよ、今の私を気にかけるような変わり者はいない。もしいるとすれば、その人物は既にずっと遠いところにいるようだ。しかし今もそんな人がいるのなら、その人は幸せであることを願う。私はあなたを忘れてしまったのだ。あなたも私を忘れて前へとずんずん進んでいくのがよいだろう。
斜陽の微細な温度が眠気を誘う。どうやら、存在しない人物に祈りを捧げる程度の想像力はいまだ残っているらしかった。流石は小説家の新星である。………
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大人が口にする天気の話題などは、私たちは一切気にかけることがなかった。そのようなことを気にする暇はなかったのだ。あの頃私たちはいつも忙しくしていた、いつも何かとても重要なことを追って、ところかまわず駈けていたものだ。
濃い草の匂いが充満している。下草をかき分けて、無心で、といっても、地面にころがった石につまずかないようにしながら、走った。この現実的で思い出深い夢の中でだけ、前を往く彼女の存在を感じられる。私の幼少期は全く孤独ではなかったのだ。彼女の笑い声が聞こえる。手を繋ぎたいと思い、精一杯伸ばしてみるものの、それは叶わなかった。ならばひきとめようと考え、彼女の名前を呼ぼうとするが、これもまた失敗に終わった。彼女の笑い声は幻聴で、私は彼女の名前すら知らなかった。実際には夢は無音だった。私の願いを具現化したものに過ぎなかったのだ。光の残像のようにまぶたの裏を駈けるその真白い人影は、瞬く間にしてかき消えていった。
部屋は既に暗くなっていた。テーブルランプを点けると、黄ばんだカーテンがボンヤリと浮かび上がる。量産品のそれは森閑とした雨の冷気を貫通させていた。どうやら小説家オルフェウスというのは本当に孤独な男であったようだ。私にはもう過去も未来もない。
―しかし、ああ、そうだ。あの日はその後すぐ雷雨で、流石に叱られたのだった。さやかにこんな思考が浮かんできた。何の事だかは分からないが、今はとにかくあの編集を落胆させない策を練らなければいけない。
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