SS(呪夢)
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式の担当者との最終チェックを終えたその日、私は婚約破棄された。式まで残り1週間という時だった。なぜ。どうして。小さい頃からの付き合いだったのに。私のことが嫌だったのならもっとマシなタイミングがあったはず。
式場のパンフレットを捨ててようやく、私は泣いた。
そして混乱がおさまらない中1週間が経ち、今度はなぜかあの五条悟と顔合わせをしていた。すぐに新しい異性を受け入れられるはずもなく、悔しくて顔を見ることはなかった。顔合わせの後から会いに行くこともしなかった。親や家の人間は会いに行くよう言ってくるけれど、この家の人間があの五条家に入れるわけがないじゃない。そんなに格が高い家じゃないのだから、きっと親が勝手に申し込んでなんとか顔合わせに滑り込んだのだと思っていた。
1ヶ月ほどだろうか。その状況で放置していたら親から「五条様が婚約してくれると言ってくださっているのに」とものすごい剣幕で言われてしまった。私は望んでいないのに、婚約者にさせられてしまった。
望んでいないので、殊更に放置を決め込んでいた。そうすると私の元へ「五条悟が浮気をしている」という情報がぽつぽつと入ってくるようになった。初めは「そう」らしいという噂が使用人たちから。次に差出人不明の封筒から五条悟と知らない女性が親密そうにしている写真が。向こうが私に興味がないのならそれで構わなかった。そのまま消えてしまえばいいと思っていた。
「婚約者に捨てられて、挙句拾ってくれた方もねぇ……」
使用人が陰でそう言っているのを聞いて、それに反応をする気は起きなかった。その場にいられなくなって静かに立ち去る。きっと理由も分からず結ばれたこの縁は自分で断ち切らないといけないんだ。それくらいはどん底の女でもできるはず。伝えるのは「婚約破棄させてください」の一言。私が言われたことをそのまま返すだけだ。なけなしのプライドだけど、それくらい守りたかった。
気持ちを固めて五条悟の勤務先へ向かった。いつ、どこに行くかは前もって使用人たちに伝えている。もういい歳だけどこれは小さい頃から刷り込まれてきたことなので、ずっと続けていた。
敷地に1歩踏み入れると雰囲気が変わったのが私でも分かった。どこか暗く、空気がひんやりしているような気がする。気圧されながらも入口を目指した。
正面玄関と思しき場所にスーツ姿の人が立っている。私に気付くとこちらに駆け寄ってきた。「ミョウジさんですね」と確認され、頷くと「五条さんの所まで案内します」と言われる。古びた校舎内を移動していくと、開けた職員室のような場所に着いた。その一角、机とソファーが置かれただけのプライバシーが守られていなさそうな部分を手で示される。
「あそこで待っていてほしいとの伝言です」
「そうですか。案内、ありがとうございます」
この後も予定が詰まっているのか、私が礼を言うとすぐに早足で行ってしまった。全くといっていいほどのアウェーなので、ここは言われた通りに例のスペースで待つことにする。
到着して数分。視界の端に長い足が見えた。ひとまずは立って会釈を。
「お時間を取っていただきありがとうございます」
「え〜そんな畏まらなくていいんだよ? 僕の婚約者なんだしさ」
私の向かいに座ったのを見てから同じように腰を下ろす。ここは単刀直入に。持ってきた写真を間の机に並べる。
「婚約者というのなら、どうしてこのような事をされたのですか? 遊びたいのでしたら――」
初めて目が合った。サングラスから覗く青い目が細められる。
「ようやく僕のこと見てくれたね」
胸焼けがしそうなくらい甘い声だった。笑顔を向けられているはずなのに、身体の芯がすうっと冷えていくような感覚。この男と一対一で話すべきじゃなかった。そう悟り、立ち上がろうとした時。
「五条さん! この前はありがとうございました」
言葉が出なかった。どうしてあなたがここに来ているの。私に気付いていないような振る舞いで、婚約者は五条悟に感謝を伝えている。
机を隔てて別の世界になっているような感覚で、会話する2人を見ていた。
「ごめん、今婚約者と話してる途中だから……そろそろ」
「あっ、そんな大切な時にすみません。失礼しました」
婚約者だと簡単に紹介された時、きっと向こうの視界に私は入っていたはず。けれどすぐに目を伏せてしまう。そんな彼に五条悟は耳打ちをした。みるみるうちに顔色が悪くなっていき、口を挟む間もなく早歩きで去っていく。伸ばした手は何も掴めない。
「あの人ね、新しく相手が見つかったらしいよ。まあナマエには関係ない話か」
「……ありますけど」
「へえ、関係あるんだ?」
「あ、あります」
「ナマエは強いねえ」
しみじみと感心したような言い方。また反論したい気持ちになってきたけれど、向こうのペースに乗せられてしまいそうで口を閉ざす。
「そうだ、僕も話したいことあったんだよね。ちゃんと話せる所あるから移動しない?」
「まだ私の話終わってませんが」
「多分それも関連することだからさ、行こうよ」
差し出される手のひら。思っていたよりも強引じゃない態度に私は動揺を隠せずにいた。腕を鷲掴みとか、抱えて移動とか、きっとそういった手段を持っているはず。けれどそれをしないのなら、まだ話し合う余地はあるのかもしれない。初めて触れた手はひんやりしていた。
手を引かれしばらく歩いていると扉が並んでいる廊下へと辿り着いた。個室……のようなものだろうか。その突き当たりまで来て、五条悟は角部屋のドアノブに手をかけた。
「入って」
穏やかな声で促されたけれど、すぐに踏み入れることはしなかった。見える範囲で部屋を観察する。……ベッドと机、あとは椅子だろうか。ここからだとそれくらいしか家具は見当たらない。いや、家具どうこうの前に密室になるなコレ。入ってもいい結果になりそうにない。でも断った時どうなるかも分からない。断るより入る方がマシな扱いになりそう。
「僕の部屋、ヤだった?」
掃除も換気もしてるよ? などと見当違いなことを言っている。なんとか怒らせずにやり過ごすことはできないだろうか。
「あの……入る前に約束してほしいことが2つあるんですけど」
「なんでも言いなよ」
「えっと、まずはこの話が終わったら家に帰してほしいのと、」
一旦言葉を切り、2つ目を言う前に向こうの顔色を伺う。まださっきと変わらないか。手に力が入る。
「あとはそんな事しないと思うんですけど、念の為言わせてください。乱暴なことをしないでください。……そんな人じゃないって思ってますよ、でも一応お願いというか」
「いいよ、怖いのによく言えたね」
即答の許可だった。とりあえずは身の安全を確保したはずなのに、まだ手が震えている。ずっと薄氷の上を歩いているような感じだからだろう。
部屋に入るとベッドに腰掛けるよう言われた。部屋の主は椅子へ。この部屋、本当に家具が少なすぎる。寝るためだけの部屋みたいだ。
「ナマエの話ね、訂正したいところがあるんだけど」
先に話題を出したのは五条悟だった。これまでとは違う真面目なトーンで来ているので思わず身構える。
「僕、浮気なんかしてないからね。あれはナマエの意識をこっちに向けるためのフリだから。あんまりしたくなかったけど負の感情を利用してさ。……怒らないの?」
そう聞かれても。怒る以前に言葉が見つからなかった。そこまでして私の気を引きたかった理由って何。……好意か。会ったことないはずなのに。
「浮気の件は置いておきます。会ったことないのに――」
ひゅ、と喉から音が出る。目の前に座る男が真顔でいたからだ。「会ったことない」が彼に対する禁止ワードだったのか。これを呑気に捉えているが、ちゃんと危機は感じている。
私が言葉を選んでいる間、五条悟はおもむろに机の上に伏せて置かれていた写真立てを起こした。2人の子供が写っている。片方は短く白い髪なので五条悟で、その隣で不機嫌そうにしているのは私だった。
「思い出した?」
「いや……それが私だってことは分かるんですけど」
「そうだよね。写真撮ったあとすぐアイツにべったりだったから。覚えてないか」
ため息混じりに話しているのを聞きながらもう一度写真を見てみる。この私はよそ行きの服装をしているから、五条家の何かに参加していたことは読み取れる。でもそれ以上は分からないし、思い出すこともできない。
「その……ごめんなさい」
「いいよ。ちゃんと会ったのってこれだけだし。ここからずーっと好きなままの僕がおかしいんだから」
「ずっと……?」
「うん。この時にナマエを見て、そこから今まで。20年以上?」
ここまで胸が高鳴ることのない告白は初めてかもしれない。気持ちが上がるどころか血の気が引いていくような感覚さえある。
20年も同じ人を想い続けることは可能なのだろうか。良いように言っているだけな気もしてきた。
「僕の気持ちが信じられない?」
目を逸らせない距離に五条悟の顔がある。綺麗な顔の人にこうやって覗き込まれると恐怖を感じるのだと知った。否定も肯定もしないでいるとムッとした顔で離れていく。
戻ってきた五条悟は缶の入れ物を持っていた。それなりに年季の入っていそうなお菓子の缶だ。その蓋を開けてひっくり返すように中身を机の上へ出した。バサバサと音を立てて封筒が落ちてくる。勢い余って机に乗らなかった分を拾い、置こうとして宛名が見えた。私の住所だった。
「少ないけど、これナマエに出そうとしてた手紙ね。こっちは僕の11歳の誕生会の招待状で、あとこっちは……普通に書いたものだ。恥ずかしいけど読んでいいよ」
「全部、私宛ですか……?」
「そう。僕の誕生会の時と、あと気分が向いた時に書いてたね。ちょっと忙しい時もあったから書けてない年もあるけど……」
後半はなぜか申し訳なさそうな声のトーン。それと普通の感覚を持ってたらこれを少ないとは形容しないと思う。少なくとも年に2回以上は手紙を書いている計算になるのだから。その中身を読む気にはなれなかった。
「あの、なんで手紙を出せなかったんですか」
「家の奴らに止められてた。ナマエの家じゃ釣り合わないとか言ってさあ。それ以上なんかやって目つけられたら困るから黙ってたけど。諦める理由がなかったからずっと書いてたよ」
「そこの問題が……」
「あっ! 今はそんな事心配しないでいいからね。僕が当主だから。誰にも文句は言わせないよ」
身分違いの婚約に対して頼もしい言葉ではあるけれど、まとわりつく不安は消えない。多分五条悟が何を言っても無くならないものだと思う。私の要求を呑んでくれれば、なんて思うけれど。……いや、もうダメかもしれない。20年の気持ちを見せつけられて、それに押し潰されずにいられる人間はいないと思う。でもまた別の日なら目はあると信じたい。
「用は済んだ?」
「まだありますけど……また後日お話します。今日はここで帰ろうかと」
「そっか。車出すよ、家まで送るね」
五条悟はそう言うとスマホを取り出し操作を始める。割と話が通じている。今日を通して1番の違和感がこれだった。20年も好意を持ち続けたのなら何らかの強硬手段に出てもおかしくない。本当はそういう人じゃないのかな?
校舎を出ると来た時には無かった黒い車が停められていた。これで帰してもらえるらしい。その後部に乗り込み、また今度と言いかけた所で五条悟も車内へやってくる。
「ご両親に挨拶したいからさ」
「ああ、そうですか……」
それは今日じゃないとダメなのだろうか。……その言葉をご機嫌な相手に言えるはずもなく、車は動きだす。
移動中も何か起きることはなかった。隣に座っているけれど、距離は保たれている。あまり見るのもよくないと思って家に着くまでの時間のほとんどは窓の外に視線を向けていた。
「え、なに……」
家の前には異様な光景が広がっていた。トラックが停められており、業者や使用人が荷物を運び出している。よくよく見てみると私の物だということに気付く。
私たちが到着した事が伝わったのか、家から親が出てきた。やはり私は放置で五条悟の元へ直行。そして何やら書類を渡している。娘をお願いしますとかそんな言葉まで聞こえてきた。書類は婚姻届だった。証人の欄を私の親が埋めている。
「荷物の積み込み終わったみたいだね」
「……何が起きてるんですか」
「ナマエを送り出す準備じゃない?」
発車するトラックを見送りつつ、どこか他人事のように五条悟は答える。
私はどこで選択を誤った? 立ち尽くす私の肩に手が置かれる。
「帰ろっか。僕たちの家に」
式場のパンフレットを捨ててようやく、私は泣いた。
そして混乱がおさまらない中1週間が経ち、今度はなぜかあの五条悟と顔合わせをしていた。すぐに新しい異性を受け入れられるはずもなく、悔しくて顔を見ることはなかった。顔合わせの後から会いに行くこともしなかった。親や家の人間は会いに行くよう言ってくるけれど、この家の人間があの五条家に入れるわけがないじゃない。そんなに格が高い家じゃないのだから、きっと親が勝手に申し込んでなんとか顔合わせに滑り込んだのだと思っていた。
1ヶ月ほどだろうか。その状況で放置していたら親から「五条様が婚約してくれると言ってくださっているのに」とものすごい剣幕で言われてしまった。私は望んでいないのに、婚約者にさせられてしまった。
望んでいないので、殊更に放置を決め込んでいた。そうすると私の元へ「五条悟が浮気をしている」という情報がぽつぽつと入ってくるようになった。初めは「そう」らしいという噂が使用人たちから。次に差出人不明の封筒から五条悟と知らない女性が親密そうにしている写真が。向こうが私に興味がないのならそれで構わなかった。そのまま消えてしまえばいいと思っていた。
「婚約者に捨てられて、挙句拾ってくれた方もねぇ……」
使用人が陰でそう言っているのを聞いて、それに反応をする気は起きなかった。その場にいられなくなって静かに立ち去る。きっと理由も分からず結ばれたこの縁は自分で断ち切らないといけないんだ。それくらいはどん底の女でもできるはず。伝えるのは「婚約破棄させてください」の一言。私が言われたことをそのまま返すだけだ。なけなしのプライドだけど、それくらい守りたかった。
気持ちを固めて五条悟の勤務先へ向かった。いつ、どこに行くかは前もって使用人たちに伝えている。もういい歳だけどこれは小さい頃から刷り込まれてきたことなので、ずっと続けていた。
敷地に1歩踏み入れると雰囲気が変わったのが私でも分かった。どこか暗く、空気がひんやりしているような気がする。気圧されながらも入口を目指した。
正面玄関と思しき場所にスーツ姿の人が立っている。私に気付くとこちらに駆け寄ってきた。「ミョウジさんですね」と確認され、頷くと「五条さんの所まで案内します」と言われる。古びた校舎内を移動していくと、開けた職員室のような場所に着いた。その一角、机とソファーが置かれただけのプライバシーが守られていなさそうな部分を手で示される。
「あそこで待っていてほしいとの伝言です」
「そうですか。案内、ありがとうございます」
この後も予定が詰まっているのか、私が礼を言うとすぐに早足で行ってしまった。全くといっていいほどのアウェーなので、ここは言われた通りに例のスペースで待つことにする。
到着して数分。視界の端に長い足が見えた。ひとまずは立って会釈を。
「お時間を取っていただきありがとうございます」
「え〜そんな畏まらなくていいんだよ? 僕の婚約者なんだしさ」
私の向かいに座ったのを見てから同じように腰を下ろす。ここは単刀直入に。持ってきた写真を間の机に並べる。
「婚約者というのなら、どうしてこのような事をされたのですか? 遊びたいのでしたら――」
初めて目が合った。サングラスから覗く青い目が細められる。
「ようやく僕のこと見てくれたね」
胸焼けがしそうなくらい甘い声だった。笑顔を向けられているはずなのに、身体の芯がすうっと冷えていくような感覚。この男と一対一で話すべきじゃなかった。そう悟り、立ち上がろうとした時。
「五条さん! この前はありがとうございました」
言葉が出なかった。どうしてあなたがここに来ているの。私に気付いていないような振る舞いで、婚約者は五条悟に感謝を伝えている。
机を隔てて別の世界になっているような感覚で、会話する2人を見ていた。
「ごめん、今婚約者と話してる途中だから……そろそろ」
「あっ、そんな大切な時にすみません。失礼しました」
婚約者だと簡単に紹介された時、きっと向こうの視界に私は入っていたはず。けれどすぐに目を伏せてしまう。そんな彼に五条悟は耳打ちをした。みるみるうちに顔色が悪くなっていき、口を挟む間もなく早歩きで去っていく。伸ばした手は何も掴めない。
「あの人ね、新しく相手が見つかったらしいよ。まあナマエには関係ない話か」
「……ありますけど」
「へえ、関係あるんだ?」
「あ、あります」
「ナマエは強いねえ」
しみじみと感心したような言い方。また反論したい気持ちになってきたけれど、向こうのペースに乗せられてしまいそうで口を閉ざす。
「そうだ、僕も話したいことあったんだよね。ちゃんと話せる所あるから移動しない?」
「まだ私の話終わってませんが」
「多分それも関連することだからさ、行こうよ」
差し出される手のひら。思っていたよりも強引じゃない態度に私は動揺を隠せずにいた。腕を鷲掴みとか、抱えて移動とか、きっとそういった手段を持っているはず。けれどそれをしないのなら、まだ話し合う余地はあるのかもしれない。初めて触れた手はひんやりしていた。
手を引かれしばらく歩いていると扉が並んでいる廊下へと辿り着いた。個室……のようなものだろうか。その突き当たりまで来て、五条悟は角部屋のドアノブに手をかけた。
「入って」
穏やかな声で促されたけれど、すぐに踏み入れることはしなかった。見える範囲で部屋を観察する。……ベッドと机、あとは椅子だろうか。ここからだとそれくらいしか家具は見当たらない。いや、家具どうこうの前に密室になるなコレ。入ってもいい結果になりそうにない。でも断った時どうなるかも分からない。断るより入る方がマシな扱いになりそう。
「僕の部屋、ヤだった?」
掃除も換気もしてるよ? などと見当違いなことを言っている。なんとか怒らせずにやり過ごすことはできないだろうか。
「あの……入る前に約束してほしいことが2つあるんですけど」
「なんでも言いなよ」
「えっと、まずはこの話が終わったら家に帰してほしいのと、」
一旦言葉を切り、2つ目を言う前に向こうの顔色を伺う。まださっきと変わらないか。手に力が入る。
「あとはそんな事しないと思うんですけど、念の為言わせてください。乱暴なことをしないでください。……そんな人じゃないって思ってますよ、でも一応お願いというか」
「いいよ、怖いのによく言えたね」
即答の許可だった。とりあえずは身の安全を確保したはずなのに、まだ手が震えている。ずっと薄氷の上を歩いているような感じだからだろう。
部屋に入るとベッドに腰掛けるよう言われた。部屋の主は椅子へ。この部屋、本当に家具が少なすぎる。寝るためだけの部屋みたいだ。
「ナマエの話ね、訂正したいところがあるんだけど」
先に話題を出したのは五条悟だった。これまでとは違う真面目なトーンで来ているので思わず身構える。
「僕、浮気なんかしてないからね。あれはナマエの意識をこっちに向けるためのフリだから。あんまりしたくなかったけど負の感情を利用してさ。……怒らないの?」
そう聞かれても。怒る以前に言葉が見つからなかった。そこまでして私の気を引きたかった理由って何。……好意か。会ったことないはずなのに。
「浮気の件は置いておきます。会ったことないのに――」
ひゅ、と喉から音が出る。目の前に座る男が真顔でいたからだ。「会ったことない」が彼に対する禁止ワードだったのか。これを呑気に捉えているが、ちゃんと危機は感じている。
私が言葉を選んでいる間、五条悟はおもむろに机の上に伏せて置かれていた写真立てを起こした。2人の子供が写っている。片方は短く白い髪なので五条悟で、その隣で不機嫌そうにしているのは私だった。
「思い出した?」
「いや……それが私だってことは分かるんですけど」
「そうだよね。写真撮ったあとすぐアイツにべったりだったから。覚えてないか」
ため息混じりに話しているのを聞きながらもう一度写真を見てみる。この私はよそ行きの服装をしているから、五条家の何かに参加していたことは読み取れる。でもそれ以上は分からないし、思い出すこともできない。
「その……ごめんなさい」
「いいよ。ちゃんと会ったのってこれだけだし。ここからずーっと好きなままの僕がおかしいんだから」
「ずっと……?」
「うん。この時にナマエを見て、そこから今まで。20年以上?」
ここまで胸が高鳴ることのない告白は初めてかもしれない。気持ちが上がるどころか血の気が引いていくような感覚さえある。
20年も同じ人を想い続けることは可能なのだろうか。良いように言っているだけな気もしてきた。
「僕の気持ちが信じられない?」
目を逸らせない距離に五条悟の顔がある。綺麗な顔の人にこうやって覗き込まれると恐怖を感じるのだと知った。否定も肯定もしないでいるとムッとした顔で離れていく。
戻ってきた五条悟は缶の入れ物を持っていた。それなりに年季の入っていそうなお菓子の缶だ。その蓋を開けてひっくり返すように中身を机の上へ出した。バサバサと音を立てて封筒が落ちてくる。勢い余って机に乗らなかった分を拾い、置こうとして宛名が見えた。私の住所だった。
「少ないけど、これナマエに出そうとしてた手紙ね。こっちは僕の11歳の誕生会の招待状で、あとこっちは……普通に書いたものだ。恥ずかしいけど読んでいいよ」
「全部、私宛ですか……?」
「そう。僕の誕生会の時と、あと気分が向いた時に書いてたね。ちょっと忙しい時もあったから書けてない年もあるけど……」
後半はなぜか申し訳なさそうな声のトーン。それと普通の感覚を持ってたらこれを少ないとは形容しないと思う。少なくとも年に2回以上は手紙を書いている計算になるのだから。その中身を読む気にはなれなかった。
「あの、なんで手紙を出せなかったんですか」
「家の奴らに止められてた。ナマエの家じゃ釣り合わないとか言ってさあ。それ以上なんかやって目つけられたら困るから黙ってたけど。諦める理由がなかったからずっと書いてたよ」
「そこの問題が……」
「あっ! 今はそんな事心配しないでいいからね。僕が当主だから。誰にも文句は言わせないよ」
身分違いの婚約に対して頼もしい言葉ではあるけれど、まとわりつく不安は消えない。多分五条悟が何を言っても無くならないものだと思う。私の要求を呑んでくれれば、なんて思うけれど。……いや、もうダメかもしれない。20年の気持ちを見せつけられて、それに押し潰されずにいられる人間はいないと思う。でもまた別の日なら目はあると信じたい。
「用は済んだ?」
「まだありますけど……また後日お話します。今日はここで帰ろうかと」
「そっか。車出すよ、家まで送るね」
五条悟はそう言うとスマホを取り出し操作を始める。割と話が通じている。今日を通して1番の違和感がこれだった。20年も好意を持ち続けたのなら何らかの強硬手段に出てもおかしくない。本当はそういう人じゃないのかな?
校舎を出ると来た時には無かった黒い車が停められていた。これで帰してもらえるらしい。その後部に乗り込み、また今度と言いかけた所で五条悟も車内へやってくる。
「ご両親に挨拶したいからさ」
「ああ、そうですか……」
それは今日じゃないとダメなのだろうか。……その言葉をご機嫌な相手に言えるはずもなく、車は動きだす。
移動中も何か起きることはなかった。隣に座っているけれど、距離は保たれている。あまり見るのもよくないと思って家に着くまでの時間のほとんどは窓の外に視線を向けていた。
「え、なに……」
家の前には異様な光景が広がっていた。トラックが停められており、業者や使用人が荷物を運び出している。よくよく見てみると私の物だということに気付く。
私たちが到着した事が伝わったのか、家から親が出てきた。やはり私は放置で五条悟の元へ直行。そして何やら書類を渡している。娘をお願いしますとかそんな言葉まで聞こえてきた。書類は婚姻届だった。証人の欄を私の親が埋めている。
「荷物の積み込み終わったみたいだね」
「……何が起きてるんですか」
「ナマエを送り出す準備じゃない?」
発車するトラックを見送りつつ、どこか他人事のように五条悟は答える。
私はどこで選択を誤った? 立ち尽くす私の肩に手が置かれる。
「帰ろっか。僕たちの家に」