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今日から私がマスター

 父が雇っていた榎本梓さんという女性は、本当に朗らかでよい人柄である。雇い主が代替わりする、という話しをしたときも「任せてください」の一言で話しは終わった。実際、彼女がホールの全てを回していて、常連さんの顔を覚えるまでの私には天からの使いにも等しかった。それに、とてもよく気がつく人だ。今までの私の失敗のうち、3割程度が梓さんのおかげで事なきを得た。大変ごちそうした。

 まあそんな梓さんなのだが、彼女も大学生で忙しいこともあるらしい。今のところ、梓さんには土日と忙しい時間帯にシフトに入ってもらっている。それ以外は私も接客を担当する。ちょっと忙しいというか、やる気がないというか。私は経営がしたいという気持ちはあるが、接客をしたいという気持ちはさほど強くない。

「マスターさん、これ、美味しいですね!」

「それはよかった。これならお客さんに出せそうですか?」

 首振り人形のように頷く梓さんは本当にかわいらしい。経営改善のために早速考えたのがメニューの強化だ。今までは割合と年かさの方々をターゲットにしていたが、やはり女性の方に興味を持ってもらえれば口コミなどで広がるのではないかと簡単に考えたのだ。そうなるとスタンダードな軽食と飲み物だけでなく、会話の邪魔にならないデザートや飲み物の幅があってもいいんじゃないか。そう考えての新メニューの考案だ。

「このパウンドケーキ、どっしりした感じで、それからなによりこのバター! まさに悪魔といって差し支えないカロリーを感じるおいしさです!」

「ふふふ。私はね、買うならバターたっぷりのケーキが好きなのでね。そのようにしてみました。見た目はまあこれが限界ですね。昨今はやりの"映え"というのはセンスがいりますねえ」

「十分おいしそうですよ?」

 3センチほどの厚さのパウンドケーキが2切れ。生クリームと彩りのミントと一緒に皿にのせた。色々な画像やらSNSを見たりもしたが、提供のペースや原価のことを考えるとこれが限界だ。焼き菓子は保存がきくし、いくらかバリエーションが作れそうだった。
「そう思ってもらえたらいいのですが・・・。さて、榎本さんはこちらのケーキ、いくらなら注文なさいますか?」

「ええ!?」

 首をひねりながら考える榎本さんだが、眉が下がってきていてなんだか答えにくそうな表情だ。

「えっと、その。500円くらい、その、私が気軽に買いたいと思うのもそれくらいなんですけれど。
 その、他の喫茶店なら飲み物とセットで900円とか、千円とかですよね」

「? その通りですよ? 」

「その~・・・・・・、でもこのパウンドケーキなら、もっと値段が上がりますよね?」

「本当にその通りです。流石です。差別化をはかるために手作りで、バターをたっぷり使っていますから。ですが、ポアロの軽食は800円から1,200円。お客さんはデザートだけを見る訳じゃありませんから、あんまり変な値段にもできませんね・・・・・・。コーヒーセット、ケーキ1と一緒で千円。単品2切れで800円くらいが妥当かな、と」

 幸いにもこのお店は暇なので、ケーキを仕込む時間には困らない。ただ、ケーキばかりがはけても困るのは確かである。そうなると飲み物で売り上げを伸ばせるようにすべきか。コーヒーの味すらよくわからないのに、紅茶までどうこうできる気がしない。
 うだうだと考えに夢中になって会話をおろそかにしてしまった。はっとして榎本さんを見ると、嬉しそうな顔をしていた。

「・・・・・・すいません。自分の考えに没頭してしまって」

「いいえ! いいんですよお。マスターは本当に色々考えてるんですね。あこがれます」

 はにかむように笑う顔があんまりにも愛らしかったので、残っていたケーキを包んであげた。とても喜んでもらえた。

 営業時間が終わって清掃も終わった。榎本さんはケーキを抱きしめて帰って行った。
 ひとり、閉じたポアロの中でこれからの手順について考える。バックヤードは雑多な雑貨や食材、消耗品のストックが並んでいる。父から引き継いだときに相当やりなおしたのだが、それでもまだ使いにくい。
 そんなことよりも手順だ。新メニューを入れるならメニュー表を変えないといけない。写真を撮って、提供の手順も共有できるようにしないといけない。メニュー、飲み物。いつの時期にするのか、でもメニュー表を何度も変えるのは面倒だ。あー、考えるのがイヤになってきた。きっと疲れているからだ、そうだ、そうにちがいない。明日の朝にもう一度進行表でもメモを作ろうと考えて、ぱちり。電気を消した。
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