短編・ネタ
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「飯を食え」
博多藤四郎の新しい記憶はそこから始まっている。光よりも様々な感覚よりもなお早く、その音は博多藤四郎の耳から脳をゆらした。
「くそくそくそ・・・・・・」
悪つきながら報告書を打ち込む女がひとり。顔色は悪く、ファンデーションで隠しきれないほどの隈が特徴的だ。キーボードをちらりとも見ずに大量の文字を埋めていく。この調子なら5分もせずに完成するだろう。
「・・・・・・なに? またやったの? 」
「しょんなか。今回は向こうが一枚上手やった」
「で、本人はああなってる、と」
女から離れた席で山姥切長義と博多藤四郎がひそひそと話している。あまり大きい声でしゃべっていると女の神経を逆なですることを分かっているのだ。むしろ同じ部屋で話さない方がいいのだが、女のぎりぎりを知っているだけに彼らはそういう行いを度々する。
女は政府の役員のひとりで、とくに検挙部隊(この場合は"討ち入り"のような実際的な部隊を指す)担当として働いている。調査部隊が「黒」と断定しなければ検挙部隊は動かないが、それでも時々うまくいかない。相手の方が政府の出方をわかっていたり、入念なごまかしがあれば覆ったりもする。力のある検挙部隊なら、調査部隊の調査内容をもとに本丸や付近を調査して証拠を突きつけることもある。強制的に武力で制圧することもあれば、巧みな話術で観念させる部隊もある。それぞれだ。
女は渉外的な対処が苦手だった。指示に従うのが得意だった。
証拠があがっているんだから大人しく縄に着けばいい。その方がどう考えても罪が軽くなる。悪いことをしているのはダメなのだから、悪いことをしたことを反省しなくてはいけない。そうやって親に習ってきたのだ。隠して、悪いことを続けたのならそれだけ罪は重たくなる。
思い返すのはぺらぺらと回る口。色が薄くなった唇。忙しなく動き回る視線、広がった瞳孔。あの人は自分が「悪い」と知っているのにそれを"延長"した。説明を聞いてそれに頷いたのは彼女自身だったので、どうしようもないことも分かっている。相手は政府職員が従うべき決まりに精通していたのだ。準備したのだろう。だからおめおめと帰るしかなかった。そのための始末書で報告書だ。
もうその作業にも随分と慣れた。とくに本丸を相手にした件で、彼女の検挙率は高くない。
最後のキーをたたき終わって、指定のフォルダにファイルを提出しておく。ばちり、部屋中に響くような音だ。政府はいまだに2000年代と同じ備品を事務作業用に使わせる。
人知を超えた怪異の討伐も、イベントの模擬参加も、歴史修正主義者の単独出没を蹴散らすのも難しくはない。けれど本丸を相手にした、否、人間を相手にした検挙は苦手だった。先輩の山姥切長義にも注意されているし、人間の上司も苦笑いだ。
積みあがった紙の資料を眺めてため息が漏れる。本当は無理に武力行使をしたってよかった。それだけの罪状はある。本丸を運営できるだけの霊力を持っていれば、彼女は隊を率いて制圧することができた。でも彼女はそれだけの霊力を持っていなかった。彼女が顕現できるのは博多藤四郎一振り。人間がどれだけ頑張っても、本丸を一つ落とすのは簡単なことではない。頭数がいなければなおのこと。きっと上司は結果を分かって使っている。それくらいは働いているうちにわかるようになった。それでもやっぱり「こなしたかった」と思うのは求めすぎだろうか。
再び口から漏れたため息は先ほどよりも深い。それを耳にして博多藤四郎も山姥切長義も良い気持ちにはならない。心なし二名とも心配そうな顔をしている。
ちょうどいい具合に終業のチャイムが鳴る。基本的に終業のチャイムで職員は帰宅することになっているが、それはまあ、よくある建前になりつつある。部署ごとに異なるが、検挙班は割合に時間通りに働けた。
「はあ~……、博多、帰ろうか。長義さんもお疲れ様です。お先に失礼します」
「はぁい、忘れ物はなか? 」
「ああ、おつかれさま名前」
身の回りの物を片付けていく。そう難しいこともなくすぐに終わって、なんらかの書類を整理したりしている長義をおいて部屋を出る。博多藤四郎は斜めかけの布バッグをひっかけて、それで終わりだ。
ダラダラと特徴のない廊下を歩いていく。政府の職員が働いている建物はあまり特徴的ではない。似たような廊下が長く続いているし、同じようなものの配置がされている。棟や階によって色が変わることはあるが、その程度しか違いがない。初めて来たときは困惑したし、何度か迷いそうになった。それも遠い昔のことである。
「博多ー、今日はなにがいい? 」
「カキフライ! 」
「あーいいね。近くの定食屋に行こうか」
革靴は床材と干渉してぱたぱたと音が鳴る。履きやすいように少し緩いサイズにしたのが問題なのか、長義にはあまり良い目では見られていない。でも楽だし、このまま討ち入りをしたとしても靴が脱げたことはないのでいいじゃないかと、そうやって名前は思っている。
決まった素材のスーツも、決められた革靴も、名前にはいささか面倒だった。悪くはない。正しい行いだ。規律に沿った生活。それは正しい。正しいのだからそれでいい。戦うことも好きだ。人間とは違うものと戦うのは悪くない。書類仕事も先輩に教えてもらった。山姥切長義という刀は、人よりもずっと丁寧に名前という人間に教育をした。書類のことも、政府の方針についても、付喪神のあり方についても。彼女の在り方は山姥切長義という刀が与えられる限りを与えた姿だった。
「主ぃ、定食屋に行くならそっちやなかばい! 」
「え、そうだっけ……? 」
いつも通りの西口から出ようと足を進めていた名前は、博多にすそを引かれたことで足を止める。そういえば西口の周りの定食屋にはカキフライを出している店はなかったかもしれない。
そんな調子の考えを博多はわかっているのか、うんうんと頷きながら携帯端末を名前に見せてくる。腰をかがめてのぞき込めば、お店の評価とうまいカキフライについてのコメントが並んでいるサイトが映し出されていた。
「どうしぇ食べるなら美味かものがよか」
「たしかにねぇ」
「じゃあそっちに行こうか。……北ゲートの方? 」「そうばい」ぷらぷらと方向を変えた主従は前後を変えて廊下を進んでいく。博多は名前の左前方に、名前は博多の右後方に。然程距離をおかず、カキフライといえばどこのカキが美味いかについてしゃべる。それがいつもの光景だった。
*****
「さすがの博多さんッスわ。めちゃくちゃ美味しかったわ」
「そうやろう? 」
カキフライ定食はボリュームも味も最高だった。やや季節外れだったが、それを加味しても美味い。店の雰囲気も良かったし、家の近くにあったら足繋く通っていただろう。少し残念だ。
ふくふくした顔の博多は幸せそうだし、名前も美味い物を食って、腹がいっぱいになると幸福を感じる。スーツについた揚げ物の臭いすら、美味かった思い出を引っ張り出してくるのだから、これが幸せ以外のなにものでもないだろう。
夜目がきかないことを心配してか、博多は名前のすぐ前を歩いている。どんな日も一定以上の暗さになるとそうするので、博多なりに考えていることがあるのだと名前は思っている。
博多はやっぱり人にしては夜目がききすぎるし、物音にも敏感だ。それなりに剣の心得がある名前からしても、それはやっぱり過ぎているように感じた。
「主ー、今日はちゃんと湯船につかってから寝てくれん」
「えー……、しんどいな……」
「また寝れのうて困るんな主ばい」
そう言われてしまえば身を縮めるのは名前だ。名前はどうも睡眠障害をわずらっているようであった。軽い薬では効かなくなって、生活を変えてストレスを軽減するように医者には言われていた。そういわれても、名前は自分の生活にストレスを数えられなかった。多少の仕事のミスはあっても、それは他の人と変わらない。誰だって同じようなことはある。博多と一緒に暮らすようになって、こうやって幸せな気持ちを確認するようになった。それでも不眠は悪化するばかり。
「調べたんやが、サウナと冷水風呂がよかごたーけん、今度スパにでも行こうや」
「なんて? 」
「スパに! 行こうやって! 」
「スパ……え、博多監修で、サウナと冷水風呂に入るってこと? そんな、えっ」
「西ゲートん近くの大きな建物ば見らんかった? あれが新しゅうできたスパなんばい。水着で一緒に入るーらしい」
「心臓に悪そうだけど、本当に効くの? 」なんて小さな反論は、参考にした記事と思いやりを語られて封じられる。博多は前向きに不眠への対処を考えてきた。彼自身は病とは無縁であるけれど、人間の病に詳しい。いや、主が主であるだけに調べてきたからか。それは"博多藤四郎"という刀特有のものではなく、この博多藤四郎固有の知識だった。
そういう面を見る度に、名前の眉はへんにゃりと下がる。嬉しいような、悔しいような、言い表すのは難しいけれど、博多藤四郎が相棒で良かったと思うのだ。
だから、彼女は博多藤四郎の意思を十分に尊重した上で、いつも言うのだ。
「ありがとう」と。
*****
さて、刀剣男士とはかくも魅力的な存在である。見目麗しい人型であり、それぞれは有名な刀を所持している。彼らは分霊でありながら個性──長じては性格──といわれるものを得る。人とは違う強い体と、神に属する性格は好きモノに言わせれば「金をいくら積んでも手に入れたい」ものであるらしい。
だから欲に塗れた人間がわんさと湧く。
それは審神者であるし、政府職員であるし、もしくは縁に連なる誰かである。欲に貴賤はない。
夢みたいに静かな夜のことである。提灯から火は消えて、通りに人通りはほとんど無い。限られた店に明かりが灯り、客を迎えたりそうでなかったり。
さわさわと壁をはさんだ向こう側に、人の気配がある。ひとり、ふたり、さんにんだろうか。じっと息を潜ませて名前は気配を伺う。いい値段の料亭にしては、ずいぶんと静かなようだった。
なめらかな木の廊下には、彼女以外の人はいない。かろうじて足下が見えるほどの明かりがついているので、それはよくわかった。
──では、室内に増えた一つの気配はどこから現れたのか。
ざわざわと室内の雰囲気が変わった。今までのどこか緊張したものが一気に興奮に変わる。人か、それとも人ではないものか。目に見えなくともわかるのだ。
彼らはそれを待っていたこと。彼らが悪いことをしていること。彼らを──斬ってもかまわないこと。
「ご用、改めである 」
室内に踏み入った名前の目に入るのは、料理の乗った卓と人間っぽい見た目のものが4体。そのうち2体は資料に載っていた写真と同じ顔をしている。あとの2体は見たことがない。
特徴の無い体がそれぞれ慌てたように動き出す。入り口は名前が入ってきたし、他に出られるとしたら窓しかない。だが、ここは2階だ。そう簡単に飛び降りたいと思える高さではない。
彼らは口々に何かを喚きながら、薄暗い印象のある男の周りに集まる。が、男はいつの間にか抜刀し、名前に向かって斬りかかってきた。
一振り、二振り。ぎりと流しながら、鍔迫り合いにならないように気をつけ、避け、振り下ろす。
残念なことにこの男、隙が無い。
名前の得物は長さにすれば脇差しと打刀の中間程度のものだ。長く使われて名があるわけでなく、名匠が打ったわけでもなく。ただ使い勝手がよく、名前の手に合ういい刃物だった。
対して男が持つのは打刀。それも有名どころの、考えなくとも付喪の宿ったものであるのは感じられた。
なにせオーラが違う。
にんまりと笑う男には喜色ばかりが感じられた。彼は怖れていない。死ぬことも、痛みもきっと。ただ、剣を振ることに喜びを抱いている。
ひゅんひゅんと室内で風切り音が鳴る。目線を外せばあっというまに斬られてしまうだろう。室内で上手く扱うのだ。これまでに何度も経験しているに違いない。
どうにか入り口を背後に戦いたいが、それを簡単に許してくれるような腕前ではない。冷や汗がにじむような感覚がする。
そうやって、ほんの少しだけ男から意識をそらした瞬間に、眼前には光が差し迫っていた。男が深く踏み込み刃を振るったのだ。瞬間に体を引いて距離をとる。ともすればアゴを切り落としたかもしれない。ひぅんひぅんと空気を斬る音が続けざまに繰り返され、そのたびに名前は体をひねり、避け、扉から距離を置いていく。見事な腕前だった。それに確実に人を殺す意気込みがある。冗長に付き合っていれば、名前はその反動ですぐに動けなくなっただろう。
視界の端では3人の男共がもつれ合うように入り口から出ようとしている。その姿の不格好さといえば、5歳児よりもひどい。名前ひとりであっても、3人を余裕で扱えただろう。この男さえいなければ。
ぎらぎらと闇に光る目は、陳腐な表現であるが殺気と欲に満ちている。上段に構えた刃には目立った刃こぼれもなく、大切に扱われていることがわかる。刀の主として申し分ないだろう。ただ、今の時代でその性質は、所業は許されない。
ひどく静かに、次の瞬間はやってきた。名前と男の視線が合ったとき、計ったように同時に動き始めた。
男はかまえた腕を下に振り下ろし、名前は下から振り上げる。不思議なことに、ふたりは相手の獲物を見ることなく、ただ互いの目を見つめていた。まるで目線を外せばそれだけで死ぬと思っているように。
鋼が交わって、片方だけがすっぱりと折れた。瞠目して、体が固まった男はそのままに名前の一刀のもとに倒れる。
鈍い音が響く。血しぶきがびしゃびしゃと飛び散って、まるで映画のような見てくれだったけれど、名前はそんな光景には見慣れていたし、男にとっても同じだったろう。男にとってはいつもと違う角度だっただろうが。
「さて、これで終わり」
簡単に血をぬぐって鞘にしまう。出口から逃げた男共は博多に捕まっただろう。博多から逃げられる人間はそういない。人を簡単に斬れない存在だから、この役割分担は当然だ。そうでなくとも、人の罪を裁くのは人でなくては。
倒れた男も、運が良ければ命は助かるだろう。生き残ったところで、残りの命を暗がりで暮らすことになる。この男にとってどちらが幸いなのかは、火を見るより明らかだ。
「なに。なにがおかしい」
「・・・・・・この時代で、こんな生き方ができたことが、幸せでね・・・・・・」
「酔狂だな。お前の雇い主は? 」
「・・・・・・知らん」
血の海で、にんまりと口の端をひんまげて男は笑っている。科学により安全が約束されたこの国で、血みどろの生活を想像する人間の方がまれだ。暴力や貧困は、もはやフィクションと記録の中にしか存在しない。世界が穏便になるにしたがって、突発的に暴力にはしる人間も生まれた。ネットでは彼らを「原始的な人」と揶揄している。
「そうか。私は確保が役割で、情報を得るのが仕事ではないけど忠告しておくよ。──知っていることは、できるだけ早く吐いたほうがいい。それがラクになるコツだ」
「そりゃあ、ありがたい・・・・・・」
暗がりの中で奇妙な沈黙が広がった。視線を交わすふたりには、不思議な連帯感があった。剣を握る者同士、勝った者と負けた者、分かれたとしても似ている部分がある。それをふたりとも分かっていて、それが奇妙に落ち着きのある空間を作っていた。
建物の廊下の奥から人の気配がする。撤収するのも遠くないだろう。
男の手元には、未だに折れた刀が一振り。これも証拠品として押収されるだろう。暗がりの中では、その刀がどの付喪神なのかはわからない。ここ数年で付喪神を手にした人間の凶行は増えた。審神者が投入される度、審神者の敷居が下がるごとに事件が増えているのだ。
名前はそれがむしろ「歴史修正」のせいなのではないかと思う。けして人に話すことはないけれど。布のほつれを丁寧に閉じたとして、元の布地には戻らない。それと同じようなことが起きているのだ。ほつれが大きいほど、周囲の布は引っ張られる。この男も、自分ですらも終わりのない螺旋の中にいる。
*******
生き物を斬った後はひどく体が怠くなる。「それは良い性質だ」と、人ではない山姥切長義は言っていた。彼らは清廉な性質を好むから。
こういう職場だから、そういう日は物忌みだといって休むことにしている。何度やっても体が慣れる気配はなかった。
布団にくるまってなんとも表現しづらいだるさを味わう。こんな日は寝ているのに限るのだが、気が立っているのかいつもと同じ時間に目覚めてしまった。そもそも名前は不眠の"ケ"があるので、まどろみのようなものを味わっているうちに朝が来てしまう。頭は常に鈍い痛みを感じ、目の奥は不機嫌に重い。
朝焼けを浴びながら窓際でまんじりともせず過ごしていれば、台所からがたごとと音がする。博多が起きたのだろう。あれは早起きだ。時間を無駄にしない。それとも持ち主の習慣にならっているのかもしれない。
時間がたつにつれ、様々な匂いがしてくる。出汁、タンパク質の焼ける匂い、それから米をあたためただろう電子音も。でも、腹が減ってくる感覚はない。感覚がすり切れたように鈍感だ。
地平線が白んで、目に刺すような明るさになった頃、鈍く痛む頭にノックの音が響いた。
「主? 起きとる? 」
扉から顔を出して、うかがうような小声で問うたのはやっぱり博多だ。彼は人に近い情動を得ていると思う。
「起きとるんやったら、返事しい」
「・・・・・・ごめ、ん? 」
ざらざらとした声が出た。仁王立ちの博多は大仰に頷いて、「ほら、」と名前の手を引く。重い腰を上げて、ベッドから降りて、布をずるずる引きずって。博多の導くままに、狭い部屋の中を歩く。
目的地はすぐそこだ。自室の部屋を出て、すぐにリビングである。ダイニングと分かれるような、しゃれた作りはしていない。
バルコニーに繋がる窓はカーテンが開けられて、随分と明るく開放的だ。折りたたみのローテーブルの上に、湯気をたてた朝ご飯が準備されている。
音と匂いから想像していたとおりの和食。ごはんとお味噌汁と、それとシャケの焼いたのとキュウリの漬け物だ。シンプルでベーシックな日本の朝ご飯である。
背中を伸ばすのにも、だるくて箸を持つ気にもならない。パックご飯の匂いも、味噌汁の匂いも食欲を刺激しない。ただ胃が重くなるような感覚がある。気持ち悪い。
せっかく博多が作ってくれたご飯なのに。そう思うものの、のろのろと伸ばした指先に箸が触れればそこで止まってしまう。
見かねたのか、博多は名前の隣に腰を下ろして彼女をじっと見る。
「主。主は人やけん、飯ば食わんとならん」
はじめに発した言葉は、少しだけためらいがあった。でも視線がぶれることはない。彼自身が話すことを決めたのだ。ただ、難しさを少しだけ感じているのが、声に現れたのだった。
「何度も言っとるから、主は分かっとるよね。人ば斬っても、人生は続く。それは徳にならんけれどお仕事だけん」
「主、人であってよ。
人なこつば忘れないで。はじめに呼んでくれたときみたいに、美味い飯ば食いに行こう、主」
神さま達は、どうしてこんなにも優しいのかと名前は思う。ぱちぱちと瞬くと博多が不思議とクリアに目に入った。朝日に照らされてきらきらとしている。いっぺんの陰りなく人を信じている輝きだ。
名前にはできないことだ。もうずっと前に忘れたことだ。自分よりもずっと年を経たものが、こんなにも純粋でいいのかと心配にもなる。
透き通った海の青は、底まで見通せそうなほど深い。そこには確かに慈愛の色がある。博多藤四郎は主が沈みそうになる度、短い腕を伸ばして掴み上げるのだ。人でないのに、人のことを良く分かっていた。あるいはそれは、人でないからわかるのかもしれない。
「主、飯ば食い」
まるで夢から覚めたような気持ちだった。促されたままに、箸を握って味噌汁をすする。口にするのに少しの不安があったが、吐き気がくることはなくてほっとした。腹の底にじんわりと熱が溜まっていく感覚がする。味噌の塩気といつもの出汁の味だ。
「ねぇ博多。人が人でなくなることはできるの? 」
まぬけな質問だ。
当然みたいな顔で言う博多に、不思議に思っていたのだ。講習や先輩達から聞いた覚えはない。付喪の神々が話しているところも覚えが無かった。
でも、博多はその質問に無機質な視線を寄越してきた。
「できる。人が望みつづけるかぎり、それにちかづく。だから願ってはいけん」
「そうなんだ」
もしかしたら、今まで斬ってきた人たちは「人に似たなにか」だったのかもしれない。そう名前はふと思った。
強い望みで動いていた人たち。ブレーキを無くしてしまったような人たち。名前の知っている彼らはすべて、人の思いを乗せる刀剣を所持していた。刃として使う者も、懐に隠した者もそれぞれだ。人の形に顕現させている者はまれだが、いないわけでもない。人の形がなくとも、付喪の力は顕在なのだろう。
米を噛み、魚を口に入れ。
味噌汁をすすり、つけものをかじる。
最後に出された茶をすすれば、腹は満ちて手足はぬくもった。最近ではご無沙汰の眠気までやってきたようだ。体があまりにも重たい。神経のとおっていないずだ袋になってしまったよう。せめて皿ぐらいは片付けたいのに。そんな私を見て博多は笑う。大丈夫だから、眠りなさいと。
床に倒れた感覚さえ曖昧な中、博多とまっすぐに目が合った気がした。
芋虫のように眠る私は夢を見る。
青い水の中をぐいぐいと泳ぐ。潮の流れは明確でぬくい。肺をとおった水は尾の先にまで満ちていく。光差す明るい水面に、さざ波が立っているのがわかる。太陽はコインのようにまるく、輝き続ける。明確なゴールはない。住み処もない。私は死ぬまで泳ぎ続ける魚。
--きっとそれも、悪くない。
【蛇足】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
職員の勤務時間の半分程は修練にあてられる。体力作り、素振り、連携訓練など。もちろん刀剣男士との連携があるため、それなりの速度を求められる。緊急時における救援の出し方や、検非違使への対応、審神者怪我時の対応など求められることが多くて結構大変。
刀剣男子と通常的に手合わせをする人たちが多いため、訓練所のすぐ隣には治療ブースが設けられている。普通に骨折するので、医療費がうなぎのぼりだが、仕方ないこととして予算に計上されている。なお、その分の成果はあげている。
職員は腕っ節の強さが(人間の割に)あるので、刀剣男子からの信頼をある程度もぎとっている。そのため本丸での捜査に乗り出しやすく、おとり捜査などで協力を仰いだときも威圧をもらうくらいで済む。努力と結果が出ているから神さま達はあんまり強く出られないのだ!
本丸内での死傷は「不慮の事故でーす! 」でなんとかなるが、職員による不慮の事故は始末書ものだし減給ものだしで大変。人のことは人が解決するべきなので、刀剣は手伝いをしてくれるけど、元凶が人の場合は斬れません。それは契約違反。神格に影響してしまうからね。仕方ないね。殺さなくてももちろんいいのですが戦いの性質上、死んでしまうことももちろんあるし、名前がお話しの中で戦った男は、収容途中で舌を噛んで死にました。すごいね。名前がすっごい落ち込んでいるのはそのためだよ。仕方ないけど気持ちはどうしようもないからね! みんな違ってみんな死ぬ。
博多は解体された本丸からやってきた一振。政府の職員は、というより生きている人間は短刀の一振を顕現・維持できるくらいの力は持ってる。もっているんだよ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。蛇足を書いている時の方が打鍵スピードが速いね!
「博多ぁ~、今晩は水炊きとかどう~?」
「よかね~」
「家でやろうかと思ってるんだけど」
「えいね~」なんて会話をしながら訓練場でがっちがちと音を鳴らしながら、体を動かすふたつの影。そこかしこで動いている影があるが、休憩中らしき人々はふたりの様子を見ている。
片や短刀で身のこなしたるや人ではなく、片や打刀で蹴るも殴るもしながら早さに食らいつく。博多は指南の一環であるが、木刀はともすれば声を上げそうなほどに痛い。
周りの人は「あの早さに食いつくなんて流石だなぁ」とか「まだまだ筋肉が足りない」とか言っている。
刀剣のそれぞれは「なかなか頑張るな」とか「博多が指南するなんてめっずらしー」なんて言っている。
彼らの日常は、いつもその程度のことなのだ。
博多藤四郎の新しい記憶はそこから始まっている。光よりも様々な感覚よりもなお早く、その音は博多藤四郎の耳から脳をゆらした。
「くそくそくそ・・・・・・」
悪つきながら報告書を打ち込む女がひとり。顔色は悪く、ファンデーションで隠しきれないほどの隈が特徴的だ。キーボードをちらりとも見ずに大量の文字を埋めていく。この調子なら5分もせずに完成するだろう。
「・・・・・・なに? またやったの? 」
「しょんなか。今回は向こうが一枚上手やった」
「で、本人はああなってる、と」
女から離れた席で山姥切長義と博多藤四郎がひそひそと話している。あまり大きい声でしゃべっていると女の神経を逆なですることを分かっているのだ。むしろ同じ部屋で話さない方がいいのだが、女のぎりぎりを知っているだけに彼らはそういう行いを度々する。
女は政府の役員のひとりで、とくに検挙部隊(この場合は"討ち入り"のような実際的な部隊を指す)担当として働いている。調査部隊が「黒」と断定しなければ検挙部隊は動かないが、それでも時々うまくいかない。相手の方が政府の出方をわかっていたり、入念なごまかしがあれば覆ったりもする。力のある検挙部隊なら、調査部隊の調査内容をもとに本丸や付近を調査して証拠を突きつけることもある。強制的に武力で制圧することもあれば、巧みな話術で観念させる部隊もある。それぞれだ。
女は渉外的な対処が苦手だった。指示に従うのが得意だった。
証拠があがっているんだから大人しく縄に着けばいい。その方がどう考えても罪が軽くなる。悪いことをしているのはダメなのだから、悪いことをしたことを反省しなくてはいけない。そうやって親に習ってきたのだ。隠して、悪いことを続けたのならそれだけ罪は重たくなる。
思い返すのはぺらぺらと回る口。色が薄くなった唇。忙しなく動き回る視線、広がった瞳孔。あの人は自分が「悪い」と知っているのにそれを"延長"した。説明を聞いてそれに頷いたのは彼女自身だったので、どうしようもないことも分かっている。相手は政府職員が従うべき決まりに精通していたのだ。準備したのだろう。だからおめおめと帰るしかなかった。そのための始末書で報告書だ。
もうその作業にも随分と慣れた。とくに本丸を相手にした件で、彼女の検挙率は高くない。
最後のキーをたたき終わって、指定のフォルダにファイルを提出しておく。ばちり、部屋中に響くような音だ。政府はいまだに2000年代と同じ備品を事務作業用に使わせる。
人知を超えた怪異の討伐も、イベントの模擬参加も、歴史修正主義者の単独出没を蹴散らすのも難しくはない。けれど本丸を相手にした、否、人間を相手にした検挙は苦手だった。先輩の山姥切長義にも注意されているし、人間の上司も苦笑いだ。
積みあがった紙の資料を眺めてため息が漏れる。本当は無理に武力行使をしたってよかった。それだけの罪状はある。本丸を運営できるだけの霊力を持っていれば、彼女は隊を率いて制圧することができた。でも彼女はそれだけの霊力を持っていなかった。彼女が顕現できるのは博多藤四郎一振り。人間がどれだけ頑張っても、本丸を一つ落とすのは簡単なことではない。頭数がいなければなおのこと。きっと上司は結果を分かって使っている。それくらいは働いているうちにわかるようになった。それでもやっぱり「こなしたかった」と思うのは求めすぎだろうか。
再び口から漏れたため息は先ほどよりも深い。それを耳にして博多藤四郎も山姥切長義も良い気持ちにはならない。心なし二名とも心配そうな顔をしている。
ちょうどいい具合に終業のチャイムが鳴る。基本的に終業のチャイムで職員は帰宅することになっているが、それはまあ、よくある建前になりつつある。部署ごとに異なるが、検挙班は割合に時間通りに働けた。
「はあ~……、博多、帰ろうか。長義さんもお疲れ様です。お先に失礼します」
「はぁい、忘れ物はなか? 」
「ああ、おつかれさま名前」
身の回りの物を片付けていく。そう難しいこともなくすぐに終わって、なんらかの書類を整理したりしている長義をおいて部屋を出る。博多藤四郎は斜めかけの布バッグをひっかけて、それで終わりだ。
ダラダラと特徴のない廊下を歩いていく。政府の職員が働いている建物はあまり特徴的ではない。似たような廊下が長く続いているし、同じようなものの配置がされている。棟や階によって色が変わることはあるが、その程度しか違いがない。初めて来たときは困惑したし、何度か迷いそうになった。それも遠い昔のことである。
「博多ー、今日はなにがいい? 」
「カキフライ! 」
「あーいいね。近くの定食屋に行こうか」
革靴は床材と干渉してぱたぱたと音が鳴る。履きやすいように少し緩いサイズにしたのが問題なのか、長義にはあまり良い目では見られていない。でも楽だし、このまま討ち入りをしたとしても靴が脱げたことはないのでいいじゃないかと、そうやって名前は思っている。
決まった素材のスーツも、決められた革靴も、名前にはいささか面倒だった。悪くはない。正しい行いだ。規律に沿った生活。それは正しい。正しいのだからそれでいい。戦うことも好きだ。人間とは違うものと戦うのは悪くない。書類仕事も先輩に教えてもらった。山姥切長義という刀は、人よりもずっと丁寧に名前という人間に教育をした。書類のことも、政府の方針についても、付喪神のあり方についても。彼女の在り方は山姥切長義という刀が与えられる限りを与えた姿だった。
「主ぃ、定食屋に行くならそっちやなかばい! 」
「え、そうだっけ……? 」
いつも通りの西口から出ようと足を進めていた名前は、博多にすそを引かれたことで足を止める。そういえば西口の周りの定食屋にはカキフライを出している店はなかったかもしれない。
そんな調子の考えを博多はわかっているのか、うんうんと頷きながら携帯端末を名前に見せてくる。腰をかがめてのぞき込めば、お店の評価とうまいカキフライについてのコメントが並んでいるサイトが映し出されていた。
「どうしぇ食べるなら美味かものがよか」
「たしかにねぇ」
「じゃあそっちに行こうか。……北ゲートの方? 」「そうばい」ぷらぷらと方向を変えた主従は前後を変えて廊下を進んでいく。博多は名前の左前方に、名前は博多の右後方に。然程距離をおかず、カキフライといえばどこのカキが美味いかについてしゃべる。それがいつもの光景だった。
*****
「さすがの博多さんッスわ。めちゃくちゃ美味しかったわ」
「そうやろう? 」
カキフライ定食はボリュームも味も最高だった。やや季節外れだったが、それを加味しても美味い。店の雰囲気も良かったし、家の近くにあったら足繋く通っていただろう。少し残念だ。
ふくふくした顔の博多は幸せそうだし、名前も美味い物を食って、腹がいっぱいになると幸福を感じる。スーツについた揚げ物の臭いすら、美味かった思い出を引っ張り出してくるのだから、これが幸せ以外のなにものでもないだろう。
夜目がきかないことを心配してか、博多は名前のすぐ前を歩いている。どんな日も一定以上の暗さになるとそうするので、博多なりに考えていることがあるのだと名前は思っている。
博多はやっぱり人にしては夜目がききすぎるし、物音にも敏感だ。それなりに剣の心得がある名前からしても、それはやっぱり過ぎているように感じた。
「主ー、今日はちゃんと湯船につかってから寝てくれん」
「えー……、しんどいな……」
「また寝れのうて困るんな主ばい」
そう言われてしまえば身を縮めるのは名前だ。名前はどうも睡眠障害をわずらっているようであった。軽い薬では効かなくなって、生活を変えてストレスを軽減するように医者には言われていた。そういわれても、名前は自分の生活にストレスを数えられなかった。多少の仕事のミスはあっても、それは他の人と変わらない。誰だって同じようなことはある。博多と一緒に暮らすようになって、こうやって幸せな気持ちを確認するようになった。それでも不眠は悪化するばかり。
「調べたんやが、サウナと冷水風呂がよかごたーけん、今度スパにでも行こうや」
「なんて? 」
「スパに! 行こうやって! 」
「スパ……え、博多監修で、サウナと冷水風呂に入るってこと? そんな、えっ」
「西ゲートん近くの大きな建物ば見らんかった? あれが新しゅうできたスパなんばい。水着で一緒に入るーらしい」
「心臓に悪そうだけど、本当に効くの? 」なんて小さな反論は、参考にした記事と思いやりを語られて封じられる。博多は前向きに不眠への対処を考えてきた。彼自身は病とは無縁であるけれど、人間の病に詳しい。いや、主が主であるだけに調べてきたからか。それは"博多藤四郎"という刀特有のものではなく、この博多藤四郎固有の知識だった。
そういう面を見る度に、名前の眉はへんにゃりと下がる。嬉しいような、悔しいような、言い表すのは難しいけれど、博多藤四郎が相棒で良かったと思うのだ。
だから、彼女は博多藤四郎の意思を十分に尊重した上で、いつも言うのだ。
「ありがとう」と。
*****
さて、刀剣男士とはかくも魅力的な存在である。見目麗しい人型であり、それぞれは有名な刀を所持している。彼らは分霊でありながら個性──長じては性格──といわれるものを得る。人とは違う強い体と、神に属する性格は好きモノに言わせれば「金をいくら積んでも手に入れたい」ものであるらしい。
だから欲に塗れた人間がわんさと湧く。
それは審神者であるし、政府職員であるし、もしくは縁に連なる誰かである。欲に貴賤はない。
夢みたいに静かな夜のことである。提灯から火は消えて、通りに人通りはほとんど無い。限られた店に明かりが灯り、客を迎えたりそうでなかったり。
さわさわと壁をはさんだ向こう側に、人の気配がある。ひとり、ふたり、さんにんだろうか。じっと息を潜ませて名前は気配を伺う。いい値段の料亭にしては、ずいぶんと静かなようだった。
なめらかな木の廊下には、彼女以外の人はいない。かろうじて足下が見えるほどの明かりがついているので、それはよくわかった。
──では、室内に増えた一つの気配はどこから現れたのか。
ざわざわと室内の雰囲気が変わった。今までのどこか緊張したものが一気に興奮に変わる。人か、それとも人ではないものか。目に見えなくともわかるのだ。
彼らはそれを待っていたこと。彼らが悪いことをしていること。彼らを──斬ってもかまわないこと。
「ご用、改めである 」
室内に踏み入った名前の目に入るのは、料理の乗った卓と人間っぽい見た目のものが4体。そのうち2体は資料に載っていた写真と同じ顔をしている。あとの2体は見たことがない。
特徴の無い体がそれぞれ慌てたように動き出す。入り口は名前が入ってきたし、他に出られるとしたら窓しかない。だが、ここは2階だ。そう簡単に飛び降りたいと思える高さではない。
彼らは口々に何かを喚きながら、薄暗い印象のある男の周りに集まる。が、男はいつの間にか抜刀し、名前に向かって斬りかかってきた。
一振り、二振り。ぎりと流しながら、鍔迫り合いにならないように気をつけ、避け、振り下ろす。
残念なことにこの男、隙が無い。
名前の得物は長さにすれば脇差しと打刀の中間程度のものだ。長く使われて名があるわけでなく、名匠が打ったわけでもなく。ただ使い勝手がよく、名前の手に合ういい刃物だった。
対して男が持つのは打刀。それも有名どころの、考えなくとも付喪の宿ったものであるのは感じられた。
なにせオーラが違う。
にんまりと笑う男には喜色ばかりが感じられた。彼は怖れていない。死ぬことも、痛みもきっと。ただ、剣を振ることに喜びを抱いている。
ひゅんひゅんと室内で風切り音が鳴る。目線を外せばあっというまに斬られてしまうだろう。室内で上手く扱うのだ。これまでに何度も経験しているに違いない。
どうにか入り口を背後に戦いたいが、それを簡単に許してくれるような腕前ではない。冷や汗がにじむような感覚がする。
そうやって、ほんの少しだけ男から意識をそらした瞬間に、眼前には光が差し迫っていた。男が深く踏み込み刃を振るったのだ。瞬間に体を引いて距離をとる。ともすればアゴを切り落としたかもしれない。ひぅんひぅんと空気を斬る音が続けざまに繰り返され、そのたびに名前は体をひねり、避け、扉から距離を置いていく。見事な腕前だった。それに確実に人を殺す意気込みがある。冗長に付き合っていれば、名前はその反動ですぐに動けなくなっただろう。
視界の端では3人の男共がもつれ合うように入り口から出ようとしている。その姿の不格好さといえば、5歳児よりもひどい。名前ひとりであっても、3人を余裕で扱えただろう。この男さえいなければ。
ぎらぎらと闇に光る目は、陳腐な表現であるが殺気と欲に満ちている。上段に構えた刃には目立った刃こぼれもなく、大切に扱われていることがわかる。刀の主として申し分ないだろう。ただ、今の時代でその性質は、所業は許されない。
ひどく静かに、次の瞬間はやってきた。名前と男の視線が合ったとき、計ったように同時に動き始めた。
男はかまえた腕を下に振り下ろし、名前は下から振り上げる。不思議なことに、ふたりは相手の獲物を見ることなく、ただ互いの目を見つめていた。まるで目線を外せばそれだけで死ぬと思っているように。
鋼が交わって、片方だけがすっぱりと折れた。瞠目して、体が固まった男はそのままに名前の一刀のもとに倒れる。
鈍い音が響く。血しぶきがびしゃびしゃと飛び散って、まるで映画のような見てくれだったけれど、名前はそんな光景には見慣れていたし、男にとっても同じだったろう。男にとってはいつもと違う角度だっただろうが。
「さて、これで終わり」
簡単に血をぬぐって鞘にしまう。出口から逃げた男共は博多に捕まっただろう。博多から逃げられる人間はそういない。人を簡単に斬れない存在だから、この役割分担は当然だ。そうでなくとも、人の罪を裁くのは人でなくては。
倒れた男も、運が良ければ命は助かるだろう。生き残ったところで、残りの命を暗がりで暮らすことになる。この男にとってどちらが幸いなのかは、火を見るより明らかだ。
「なに。なにがおかしい」
「・・・・・・この時代で、こんな生き方ができたことが、幸せでね・・・・・・」
「酔狂だな。お前の雇い主は? 」
「・・・・・・知らん」
血の海で、にんまりと口の端をひんまげて男は笑っている。科学により安全が約束されたこの国で、血みどろの生活を想像する人間の方がまれだ。暴力や貧困は、もはやフィクションと記録の中にしか存在しない。世界が穏便になるにしたがって、突発的に暴力にはしる人間も生まれた。ネットでは彼らを「原始的な人」と揶揄している。
「そうか。私は確保が役割で、情報を得るのが仕事ではないけど忠告しておくよ。──知っていることは、できるだけ早く吐いたほうがいい。それがラクになるコツだ」
「そりゃあ、ありがたい・・・・・・」
暗がりの中で奇妙な沈黙が広がった。視線を交わすふたりには、不思議な連帯感があった。剣を握る者同士、勝った者と負けた者、分かれたとしても似ている部分がある。それをふたりとも分かっていて、それが奇妙に落ち着きのある空間を作っていた。
建物の廊下の奥から人の気配がする。撤収するのも遠くないだろう。
男の手元には、未だに折れた刀が一振り。これも証拠品として押収されるだろう。暗がりの中では、その刀がどの付喪神なのかはわからない。ここ数年で付喪神を手にした人間の凶行は増えた。審神者が投入される度、審神者の敷居が下がるごとに事件が増えているのだ。
名前はそれがむしろ「歴史修正」のせいなのではないかと思う。けして人に話すことはないけれど。布のほつれを丁寧に閉じたとして、元の布地には戻らない。それと同じようなことが起きているのだ。ほつれが大きいほど、周囲の布は引っ張られる。この男も、自分ですらも終わりのない螺旋の中にいる。
*******
生き物を斬った後はひどく体が怠くなる。「それは良い性質だ」と、人ではない山姥切長義は言っていた。彼らは清廉な性質を好むから。
こういう職場だから、そういう日は物忌みだといって休むことにしている。何度やっても体が慣れる気配はなかった。
布団にくるまってなんとも表現しづらいだるさを味わう。こんな日は寝ているのに限るのだが、気が立っているのかいつもと同じ時間に目覚めてしまった。そもそも名前は不眠の"ケ"があるので、まどろみのようなものを味わっているうちに朝が来てしまう。頭は常に鈍い痛みを感じ、目の奥は不機嫌に重い。
朝焼けを浴びながら窓際でまんじりともせず過ごしていれば、台所からがたごとと音がする。博多が起きたのだろう。あれは早起きだ。時間を無駄にしない。それとも持ち主の習慣にならっているのかもしれない。
時間がたつにつれ、様々な匂いがしてくる。出汁、タンパク質の焼ける匂い、それから米をあたためただろう電子音も。でも、腹が減ってくる感覚はない。感覚がすり切れたように鈍感だ。
地平線が白んで、目に刺すような明るさになった頃、鈍く痛む頭にノックの音が響いた。
「主? 起きとる? 」
扉から顔を出して、うかがうような小声で問うたのはやっぱり博多だ。彼は人に近い情動を得ていると思う。
「起きとるんやったら、返事しい」
「・・・・・・ごめ、ん? 」
ざらざらとした声が出た。仁王立ちの博多は大仰に頷いて、「ほら、」と名前の手を引く。重い腰を上げて、ベッドから降りて、布をずるずる引きずって。博多の導くままに、狭い部屋の中を歩く。
目的地はすぐそこだ。自室の部屋を出て、すぐにリビングである。ダイニングと分かれるような、しゃれた作りはしていない。
バルコニーに繋がる窓はカーテンが開けられて、随分と明るく開放的だ。折りたたみのローテーブルの上に、湯気をたてた朝ご飯が準備されている。
音と匂いから想像していたとおりの和食。ごはんとお味噌汁と、それとシャケの焼いたのとキュウリの漬け物だ。シンプルでベーシックな日本の朝ご飯である。
背中を伸ばすのにも、だるくて箸を持つ気にもならない。パックご飯の匂いも、味噌汁の匂いも食欲を刺激しない。ただ胃が重くなるような感覚がある。気持ち悪い。
せっかく博多が作ってくれたご飯なのに。そう思うものの、のろのろと伸ばした指先に箸が触れればそこで止まってしまう。
見かねたのか、博多は名前の隣に腰を下ろして彼女をじっと見る。
「主。主は人やけん、飯ば食わんとならん」
はじめに発した言葉は、少しだけためらいがあった。でも視線がぶれることはない。彼自身が話すことを決めたのだ。ただ、難しさを少しだけ感じているのが、声に現れたのだった。
「何度も言っとるから、主は分かっとるよね。人ば斬っても、人生は続く。それは徳にならんけれどお仕事だけん」
「主、人であってよ。
人なこつば忘れないで。はじめに呼んでくれたときみたいに、美味い飯ば食いに行こう、主」
神さま達は、どうしてこんなにも優しいのかと名前は思う。ぱちぱちと瞬くと博多が不思議とクリアに目に入った。朝日に照らされてきらきらとしている。いっぺんの陰りなく人を信じている輝きだ。
名前にはできないことだ。もうずっと前に忘れたことだ。自分よりもずっと年を経たものが、こんなにも純粋でいいのかと心配にもなる。
透き通った海の青は、底まで見通せそうなほど深い。そこには確かに慈愛の色がある。博多藤四郎は主が沈みそうになる度、短い腕を伸ばして掴み上げるのだ。人でないのに、人のことを良く分かっていた。あるいはそれは、人でないからわかるのかもしれない。
「主、飯ば食い」
まるで夢から覚めたような気持ちだった。促されたままに、箸を握って味噌汁をすする。口にするのに少しの不安があったが、吐き気がくることはなくてほっとした。腹の底にじんわりと熱が溜まっていく感覚がする。味噌の塩気といつもの出汁の味だ。
「ねぇ博多。人が人でなくなることはできるの? 」
まぬけな質問だ。
当然みたいな顔で言う博多に、不思議に思っていたのだ。講習や先輩達から聞いた覚えはない。付喪の神々が話しているところも覚えが無かった。
でも、博多はその質問に無機質な視線を寄越してきた。
「できる。人が望みつづけるかぎり、それにちかづく。だから願ってはいけん」
「そうなんだ」
もしかしたら、今まで斬ってきた人たちは「人に似たなにか」だったのかもしれない。そう名前はふと思った。
強い望みで動いていた人たち。ブレーキを無くしてしまったような人たち。名前の知っている彼らはすべて、人の思いを乗せる刀剣を所持していた。刃として使う者も、懐に隠した者もそれぞれだ。人の形に顕現させている者はまれだが、いないわけでもない。人の形がなくとも、付喪の力は顕在なのだろう。
米を噛み、魚を口に入れ。
味噌汁をすすり、つけものをかじる。
最後に出された茶をすすれば、腹は満ちて手足はぬくもった。最近ではご無沙汰の眠気までやってきたようだ。体があまりにも重たい。神経のとおっていないずだ袋になってしまったよう。せめて皿ぐらいは片付けたいのに。そんな私を見て博多は笑う。大丈夫だから、眠りなさいと。
床に倒れた感覚さえ曖昧な中、博多とまっすぐに目が合った気がした。
芋虫のように眠る私は夢を見る。
青い水の中をぐいぐいと泳ぐ。潮の流れは明確でぬくい。肺をとおった水は尾の先にまで満ちていく。光差す明るい水面に、さざ波が立っているのがわかる。太陽はコインのようにまるく、輝き続ける。明確なゴールはない。住み処もない。私は死ぬまで泳ぎ続ける魚。
--きっとそれも、悪くない。
【蛇足】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
職員の勤務時間の半分程は修練にあてられる。体力作り、素振り、連携訓練など。もちろん刀剣男士との連携があるため、それなりの速度を求められる。緊急時における救援の出し方や、検非違使への対応、審神者怪我時の対応など求められることが多くて結構大変。
刀剣男子と通常的に手合わせをする人たちが多いため、訓練所のすぐ隣には治療ブースが設けられている。普通に骨折するので、医療費がうなぎのぼりだが、仕方ないこととして予算に計上されている。なお、その分の成果はあげている。
職員は腕っ節の強さが(人間の割に)あるので、刀剣男子からの信頼をある程度もぎとっている。そのため本丸での捜査に乗り出しやすく、おとり捜査などで協力を仰いだときも威圧をもらうくらいで済む。努力と結果が出ているから神さま達はあんまり強く出られないのだ!
本丸内での死傷は「不慮の事故でーす! 」でなんとかなるが、職員による不慮の事故は始末書ものだし減給ものだしで大変。人のことは人が解決するべきなので、刀剣は手伝いをしてくれるけど、元凶が人の場合は斬れません。それは契約違反。神格に影響してしまうからね。仕方ないね。殺さなくてももちろんいいのですが戦いの性質上、死んでしまうことももちろんあるし、名前がお話しの中で戦った男は、収容途中で舌を噛んで死にました。すごいね。名前がすっごい落ち込んでいるのはそのためだよ。仕方ないけど気持ちはどうしようもないからね! みんな違ってみんな死ぬ。
博多は解体された本丸からやってきた一振。政府の職員は、というより生きている人間は短刀の一振を顕現・維持できるくらいの力は持ってる。もっているんだよ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。蛇足を書いている時の方が打鍵スピードが速いね!
「博多ぁ~、今晩は水炊きとかどう~?」
「よかね~」
「家でやろうかと思ってるんだけど」
「えいね~」なんて会話をしながら訓練場でがっちがちと音を鳴らしながら、体を動かすふたつの影。そこかしこで動いている影があるが、休憩中らしき人々はふたりの様子を見ている。
片や短刀で身のこなしたるや人ではなく、片や打刀で蹴るも殴るもしながら早さに食らいつく。博多は指南の一環であるが、木刀はともすれば声を上げそうなほどに痛い。
周りの人は「あの早さに食いつくなんて流石だなぁ」とか「まだまだ筋肉が足りない」とか言っている。
刀剣のそれぞれは「なかなか頑張るな」とか「博多が指南するなんてめっずらしー」なんて言っている。
彼らの日常は、いつもその程度のことなのだ。
3/3ページ