イサコの母方のオバ。転生者だけど原作知識はなし。人間としては割とダメだけど、転生した人間としてはまずまずな性質。
コヨーテの歌
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夫が亡くなって、父親が死んだときほどではないにせよ手続きが膨大に現れた。あの時ほど子供達は小さくなく、やることもなんとなく見えていることで、幸子はなんとか処理を続けることができた。
時々、ひどく現実感が曖昧になって、しれず涙がとまらなくなることもあった。我が身に降り注いだ不幸を呪うこともあった。それは決まって一人の時で、幸子の心を苛んだ。それでも生活が崩れることはない。
幸枝の存在も大きい。何くれなく姉の様子をうかがって、子供達の注意を引きつけてくれる。会社も休みを取っているらしく、子供達が休んでいる間は家にいてくれるらしい。
近頃は今までよりも幸枝と話しているような気がしていた。おかしなことだ。幸せだったと胸を張っていえるような、父も母もいた頃よりも会話がある。会話がなくとも幸枝の気遣いを感じられた。
それは今夜もそうだった。
「姉さん、いま大丈夫? 」
「なあに? とくに忙しいこともないけど」
「いやあ、ね。最近飲んでないじゃない? 一緒にどうかと思って」
差し出されたワインは、盆と正月に好んで飲んでいたものだった。その辺りで買えるものだが、甘口で飲みやすく何本も飲んだものだった。
子供達が寝静まった夜。縁側にコップとワインだけが並んだ。つまみを買うのは忘れたと幸枝が苦笑いする。
星がきれいな夜だった。だから誘ったのだと笑うから、思わず釣られて笑ってしまった。自慢気にいうものだから。些細なことに気がついてくれるから。このどこかズレて、一生懸命に人を気遣ってくれる妹が嫌いじゃないのだと、ちゃんと分かっている。
「ねぇユキちゃん。私、もう大丈夫だからね」
囁くような会話の合間に、勢いに任せて言った。ずっと言わないといけないと思っていたことだ。曲がりなりにも姉として、幸枝の人生に傷をつけるのはまずいと思った。知らないなりにも、幸枝がどれだけ今の仕事を好きで、どれだけ向いているかは見ていれば分かる。
上手く笑えていただろうか。幸子は少しだけ不安だったが、意図して幸枝の顔を見なかった。ゆらゆらと揺れるコップの中、わずかに光る水面だけが彼女の視界にあった。
・・・
・・
・
じりり、じりり。
会社から電話がかかってきたとき、幸枝は勇子と信彦の勉強を見ていた。学校から教師がやってきて、休んでた間分の宿題だとかを置いていったのだ。
「ユキちゃーん! 電話鳴ってるよ! 」
「わかってるって! いいからほら、続きやってくれないと私も電話に出れないよ! 」
居間で勉強する様子を見ていた幸子は、微笑ましそうに笑いながら洗濯物をたたむ。葬式から数日だが、家の中の雰囲気は悪くない。表向きは元に戻りつつあった。
「はい、幸枝です」
『あー、幸枝ちゃん? いま電話大丈夫? 』
「大丈夫です。何かありましたか? 」
幸枝にかかってくる電話といえば、仕事関係か親族しかない。電話は松川からだった。困ったような申し訳なさそうな声がする。
幸子の前を通って、庭先に出れば子供達に声は届かない。突っかけを足に引っかけて家に背を向ける。
『ちょっと、おやすみのところ申し訳ないんだけどね…大規模な依頼が入っちゃったのよ。それも、あなたの大好きな分野で。ボスも、話した方が良いって言うから』
「アー、じゃあペットマトン系の依頼ですね。でも私、あと少し休む予定だったんですけど、それも待てないんですか? 」
『…そうなのよねぇ。あなたの家族が大変だってことは分かってるし、あとちょっとで休みが明けるっていうのに、それでもボスは声をかけろって言ってて…』
「いや、はい。あのお心遣いは嬉しいんですけど、でもやっぱり、もう少し休みをいただきたいなって」
「ねぇ、ユキちゃん」
「えぇ? なに? 」
会話の途中で後ろから声がかかる。通話口に一言謝って振り返れば、幸子がおっとり微笑みながらそこにいる。
「ねぇユキちゃん。もう大丈夫だから、
…だからね、お仕事がんばって」
その言葉に、どことなく腑に落ちない感覚が幸枝にはあった。まだ葬式が終わって数日だ。母親が亡くなったときには、元の生活に戻るまでに大層時間がかかったように覚えている。父親が亡くなった後の処理の多さも聞いていた。だから、大丈夫なはずはないのだ。
それでも、夜にも今にも「大丈夫だ」と言われて、それが姉の気遣いであることが充分にわかる。それが強がりであっても。
「……いや、姉さんが気にすることじゃないよ。私が好きでやってたことだし」
「まーまー! 大丈夫って言ってるのに。天沢のお義母さんたちもいるし、何かあったら連絡するから。大丈夫。ユキちゃんにしか出来ないことなんでしょ? 」
「いや、そうなんだけど…、アー…姉さんには敵わないんだよな…わかったよ」
笑みを深めて「頑張ってね」と言う幸子に、幸枝は苦笑いを返す。通話口を近づけて一言謝れば明るい声で返される。松川のこの明るさには何度も救われている。
『いいえー、気にしないで。それより決まった? 』
「えぇ、決まりました。明日から仕事に戻ります」
『それは喜ばしいことだけど、…大丈夫だとは思うけど無理はしないようにね。ご家族も大変でしょうに…悪いわね…』
「いえ、気にしないでください。好きでやってる仕事ですし、姉も気にするなって言ってますから」
『申し訳ないわ…でも明日からよろしくね』そう言って一言二言会話をして電話を切った。仕事への興味とやる気が湧き上がると同時に、姉たち家族に対する後ろめたさもある。しかし、姉があれだけ強く言うのも珍しいことだ。
腹の底から長い息が漏れる。どっちにせよ選んだからには進むしかない。仕事が、それもとびきり面倒で面白そうな案件が待っている。きっと家に帰ってくるのも、そう簡単なことではなくなる。
(それでいいのか幸枝? )
自分の心に問いかけたところで答えなど決まっている。不安で、落ち着かない選択の結果ではあっても、幸枝は進むしかないのだ。
***
夕食はアジのフライとほうれん草の白和え、それからジャガイモの味噌汁だった。アジのフライの衣をつけるのは久しぶりで、にもかかわらず上手くいった事を信彦に自慢したら鼻で笑われた。勇子は褒めてくれた。幸子は相変わらずね、といった顔で配膳を指示した。
勇子が箸を配って、信彦がそれぞれのご飯をよそう。それぞれの席に全て揃ったら、みんなで「いただきます」だ。幸枝が子供の頃から変わらない習慣である。
普段から一緒にいるのに、食事をしていても会話は途切れない。勇子は箸の持ち方を注意されて不服そうだ。
「あー、皆さんにお知らせがあります! 」
「はい! 」
びっと手を上げた勇子を見て、「まあまあご飯は食べながら」と言いつつ、自分も味噌汁をかき混ぜる。
「わたくし、幸枝は明日からお仕事に復帰することにいたしました! 」
「ああそうなの? 」
「信彦つめたい! 」と返しながらも、対面に座る幸子の様子をちらりと見てしまう。誰の許しが必要なことではないのだけれども。
「なので、明日からしばらく来れないと思うんだけど…みんな元気でやってよな…。私がとても寂しい…」
「はーい」だとか「仕事頑張って」だとか「身体に気をつけて」と返答がくる。ほっとした反面、寂しさが強く感じられて若干落ち込む幸枝だった。
「そう落ち込まないで。ほら、ユキちゃんの好きなやつ、たくさんあるから」
「うん…ありがとう姉さん。…それで白和え作ってくれたの? 」
「そうよ、ちょっとしたものだけどね」
「ユキちゃんこれ好きなの? あげる! 」
「勇子はー、ほうれん草が嫌いなだけでしょ-、自分で食べて」
「やたら多いと思ってたけどそういうことなんだ」
そういうことで、仕事前夜は明るく楽しく過ぎていった。勇子も信彦も惜しみはするものの、正月と盆には必ず会える幸枝のことだ。そう強い気持ちになるわけもない。最後になる実家の味を味わって一日が終わる。ジャガイモの味噌汁は食べるのが難しく、箸でつつき回し、溶けて消えてしまったのが幸枝の心残りであった。
朝が来る。
久しぶりの仕事は、実家からの出発だ。普段よりも早く起きて、早く身支度をして、箪笥に眠っていたスラックスを履いて仕事への気持ちを上げる。化粧はほぼなし。強めのリップとフェイスパウダーが幸枝の戦闘服だ。
普段は全く見ない幸枝の格好に、朝早くから起きていた子供達は少しだけ驚く。すっぴんで少年みたいな格好でうろついているオバが"きちんとした"格好をしているのだ。
「ユキちゃん、いつもその格好でお仕事いくの? かっこいー」
「えーありがとう勇子-! お仕事100倍頑張れそう~! 信彦は? なんか感想ないの? 」
「…普段からそういう格好をしてたらいいと思う」
ハッハと笑いながら信彦を小突いた幸枝は、朝食を作る幸子の手伝いに入る。今日の朝ご飯はパンらしい。牛乳にヨーグルト、紅茶にサラダ。メインのパンは近所のお店のクロワッサン。幸枝のお気に入りだ。
「まだゆっくりしててもいいのに」
「最後の日も一緒にやりたいよ? 」
「そお? じゃあトマトを切ってくれる? 」
頷いてエプロンも着けずにトマトを切る。刃を滑らすようにしてやれば、中の種がぐちゃぐちゃになることもない。昔はよくぐちゃぐちゃにしたことを思い出した。
冷蔵庫を覗けばリンゴが入っている。姉が汁物を混ぜているのをいいことにこっそり切ってしまう。
「あ、ユキちゃん。冷蔵庫の……」
「リンゴは切っちゃったわ」
良かった怒られなかった-、と言いながら皮を剥いていく。昔と同じようにリンゴも切って良かったらしい。鼻歌でCMで流れていた曲を歌う。幸子は呆れたような顔をしたものの、朝食の準備に戻った。配膳をして、カトラリーは全てテーブルの中央に。個人の皿の上には、リンゴとサラダと目玉焼きが準備された。
「ご飯食べるよ! 」
幸子の号令で全員が席に着く。朝ご飯はいつもなら好きなタイミングで食べるものだが、今日はみんなで会わせてくれるらしい。幸枝はなんだからそわそわしてしまって、席についてもなんだか落ち着かなかった。
だいたい揃ったらそれぞれが「いただきます」をして食べていく。牛乳を飲み、ヨーグルトを食べ、サラダを混ぜて、クロワッサンをかじる。相変わらずクロワッサンは美味しいし、しばらくはこんなに手の込んだ朝ご飯は食べられない。なので幸枝は、ちょっとびっくりするぐらい、朝ご飯を食べた。
「ごちそうさまでした」
空になった皿を前に、手を合わせて幸子に礼をする。それにぶんぶんと手を振りながら、「大げさね」と笑った。
「片付けはやっておくから、遅れないように仕事に行っておいで」
「えっ、ええー…まだなんとかなるけど…、お言葉に甘えるね。ありがとう姉さん」
まだ席についたままの幸子と子供達を置いて、幸枝は身支度を最後までととのえる。歯を磨いてリップを塗り直す。鞄の中身を見直せば、いつもの通りに入っているのは手帳が数冊と筆記用具だけ。問題は何もなかった。
「じゃあ、行ってくるわ。信彦と勇子は姉さんのことをよろしくね。姉さんは身体に気をつけて無理をしないようにね」
「はいはい。ユキちゃんも無理をしないで、また帰ってきてね」
「また来てね! 」
「事故んないようにね」
「はーい! 出来るだけ顔を出せるように頑張るからね、またね! 」
玄関先で見送ってくれる三人に声をかけて。そうして幸枝は車に乗り込んだ。
時々、ひどく現実感が曖昧になって、しれず涙がとまらなくなることもあった。我が身に降り注いだ不幸を呪うこともあった。それは決まって一人の時で、幸子の心を苛んだ。それでも生活が崩れることはない。
幸枝の存在も大きい。何くれなく姉の様子をうかがって、子供達の注意を引きつけてくれる。会社も休みを取っているらしく、子供達が休んでいる間は家にいてくれるらしい。
近頃は今までよりも幸枝と話しているような気がしていた。おかしなことだ。幸せだったと胸を張っていえるような、父も母もいた頃よりも会話がある。会話がなくとも幸枝の気遣いを感じられた。
それは今夜もそうだった。
「姉さん、いま大丈夫? 」
「なあに? とくに忙しいこともないけど」
「いやあ、ね。最近飲んでないじゃない? 一緒にどうかと思って」
差し出されたワインは、盆と正月に好んで飲んでいたものだった。その辺りで買えるものだが、甘口で飲みやすく何本も飲んだものだった。
子供達が寝静まった夜。縁側にコップとワインだけが並んだ。つまみを買うのは忘れたと幸枝が苦笑いする。
星がきれいな夜だった。だから誘ったのだと笑うから、思わず釣られて笑ってしまった。自慢気にいうものだから。些細なことに気がついてくれるから。このどこかズレて、一生懸命に人を気遣ってくれる妹が嫌いじゃないのだと、ちゃんと分かっている。
「ねぇユキちゃん。私、もう大丈夫だからね」
囁くような会話の合間に、勢いに任せて言った。ずっと言わないといけないと思っていたことだ。曲がりなりにも姉として、幸枝の人生に傷をつけるのはまずいと思った。知らないなりにも、幸枝がどれだけ今の仕事を好きで、どれだけ向いているかは見ていれば分かる。
上手く笑えていただろうか。幸子は少しだけ不安だったが、意図して幸枝の顔を見なかった。ゆらゆらと揺れるコップの中、わずかに光る水面だけが彼女の視界にあった。
・・・
・・
・
じりり、じりり。
会社から電話がかかってきたとき、幸枝は勇子と信彦の勉強を見ていた。学校から教師がやってきて、休んでた間分の宿題だとかを置いていったのだ。
「ユキちゃーん! 電話鳴ってるよ! 」
「わかってるって! いいからほら、続きやってくれないと私も電話に出れないよ! 」
居間で勉強する様子を見ていた幸子は、微笑ましそうに笑いながら洗濯物をたたむ。葬式から数日だが、家の中の雰囲気は悪くない。表向きは元に戻りつつあった。
「はい、幸枝です」
『あー、幸枝ちゃん? いま電話大丈夫? 』
「大丈夫です。何かありましたか? 」
幸枝にかかってくる電話といえば、仕事関係か親族しかない。電話は松川からだった。困ったような申し訳なさそうな声がする。
幸子の前を通って、庭先に出れば子供達に声は届かない。突っかけを足に引っかけて家に背を向ける。
『ちょっと、おやすみのところ申し訳ないんだけどね…大規模な依頼が入っちゃったのよ。それも、あなたの大好きな分野で。ボスも、話した方が良いって言うから』
「アー、じゃあペットマトン系の依頼ですね。でも私、あと少し休む予定だったんですけど、それも待てないんですか? 」
『…そうなのよねぇ。あなたの家族が大変だってことは分かってるし、あとちょっとで休みが明けるっていうのに、それでもボスは声をかけろって言ってて…』
「いや、はい。あのお心遣いは嬉しいんですけど、でもやっぱり、もう少し休みをいただきたいなって」
「ねぇ、ユキちゃん」
「えぇ? なに? 」
会話の途中で後ろから声がかかる。通話口に一言謝って振り返れば、幸子がおっとり微笑みながらそこにいる。
「ねぇユキちゃん。もう大丈夫だから、
…だからね、お仕事がんばって」
その言葉に、どことなく腑に落ちない感覚が幸枝にはあった。まだ葬式が終わって数日だ。母親が亡くなったときには、元の生活に戻るまでに大層時間がかかったように覚えている。父親が亡くなった後の処理の多さも聞いていた。だから、大丈夫なはずはないのだ。
それでも、夜にも今にも「大丈夫だ」と言われて、それが姉の気遣いであることが充分にわかる。それが強がりであっても。
「……いや、姉さんが気にすることじゃないよ。私が好きでやってたことだし」
「まーまー! 大丈夫って言ってるのに。天沢のお義母さんたちもいるし、何かあったら連絡するから。大丈夫。ユキちゃんにしか出来ないことなんでしょ? 」
「いや、そうなんだけど…、アー…姉さんには敵わないんだよな…わかったよ」
笑みを深めて「頑張ってね」と言う幸子に、幸枝は苦笑いを返す。通話口を近づけて一言謝れば明るい声で返される。松川のこの明るさには何度も救われている。
『いいえー、気にしないで。それより決まった? 』
「えぇ、決まりました。明日から仕事に戻ります」
『それは喜ばしいことだけど、…大丈夫だとは思うけど無理はしないようにね。ご家族も大変でしょうに…悪いわね…』
「いえ、気にしないでください。好きでやってる仕事ですし、姉も気にするなって言ってますから」
『申し訳ないわ…でも明日からよろしくね』そう言って一言二言会話をして電話を切った。仕事への興味とやる気が湧き上がると同時に、姉たち家族に対する後ろめたさもある。しかし、姉があれだけ強く言うのも珍しいことだ。
腹の底から長い息が漏れる。どっちにせよ選んだからには進むしかない。仕事が、それもとびきり面倒で面白そうな案件が待っている。きっと家に帰ってくるのも、そう簡単なことではなくなる。
(それでいいのか幸枝? )
自分の心に問いかけたところで答えなど決まっている。不安で、落ち着かない選択の結果ではあっても、幸枝は進むしかないのだ。
***
夕食はアジのフライとほうれん草の白和え、それからジャガイモの味噌汁だった。アジのフライの衣をつけるのは久しぶりで、にもかかわらず上手くいった事を信彦に自慢したら鼻で笑われた。勇子は褒めてくれた。幸子は相変わらずね、といった顔で配膳を指示した。
勇子が箸を配って、信彦がそれぞれのご飯をよそう。それぞれの席に全て揃ったら、みんなで「いただきます」だ。幸枝が子供の頃から変わらない習慣である。
普段から一緒にいるのに、食事をしていても会話は途切れない。勇子は箸の持ち方を注意されて不服そうだ。
「あー、皆さんにお知らせがあります! 」
「はい! 」
びっと手を上げた勇子を見て、「まあまあご飯は食べながら」と言いつつ、自分も味噌汁をかき混ぜる。
「わたくし、幸枝は明日からお仕事に復帰することにいたしました! 」
「ああそうなの? 」
「信彦つめたい! 」と返しながらも、対面に座る幸子の様子をちらりと見てしまう。誰の許しが必要なことではないのだけれども。
「なので、明日からしばらく来れないと思うんだけど…みんな元気でやってよな…。私がとても寂しい…」
「はーい」だとか「仕事頑張って」だとか「身体に気をつけて」と返答がくる。ほっとした反面、寂しさが強く感じられて若干落ち込む幸枝だった。
「そう落ち込まないで。ほら、ユキちゃんの好きなやつ、たくさんあるから」
「うん…ありがとう姉さん。…それで白和え作ってくれたの? 」
「そうよ、ちょっとしたものだけどね」
「ユキちゃんこれ好きなの? あげる! 」
「勇子はー、ほうれん草が嫌いなだけでしょ-、自分で食べて」
「やたら多いと思ってたけどそういうことなんだ」
そういうことで、仕事前夜は明るく楽しく過ぎていった。勇子も信彦も惜しみはするものの、正月と盆には必ず会える幸枝のことだ。そう強い気持ちになるわけもない。最後になる実家の味を味わって一日が終わる。ジャガイモの味噌汁は食べるのが難しく、箸でつつき回し、溶けて消えてしまったのが幸枝の心残りであった。
朝が来る。
久しぶりの仕事は、実家からの出発だ。普段よりも早く起きて、早く身支度をして、箪笥に眠っていたスラックスを履いて仕事への気持ちを上げる。化粧はほぼなし。強めのリップとフェイスパウダーが幸枝の戦闘服だ。
普段は全く見ない幸枝の格好に、朝早くから起きていた子供達は少しだけ驚く。すっぴんで少年みたいな格好でうろついているオバが"きちんとした"格好をしているのだ。
「ユキちゃん、いつもその格好でお仕事いくの? かっこいー」
「えーありがとう勇子-! お仕事100倍頑張れそう~! 信彦は? なんか感想ないの? 」
「…普段からそういう格好をしてたらいいと思う」
ハッハと笑いながら信彦を小突いた幸枝は、朝食を作る幸子の手伝いに入る。今日の朝ご飯はパンらしい。牛乳にヨーグルト、紅茶にサラダ。メインのパンは近所のお店のクロワッサン。幸枝のお気に入りだ。
「まだゆっくりしててもいいのに」
「最後の日も一緒にやりたいよ? 」
「そお? じゃあトマトを切ってくれる? 」
頷いてエプロンも着けずにトマトを切る。刃を滑らすようにしてやれば、中の種がぐちゃぐちゃになることもない。昔はよくぐちゃぐちゃにしたことを思い出した。
冷蔵庫を覗けばリンゴが入っている。姉が汁物を混ぜているのをいいことにこっそり切ってしまう。
「あ、ユキちゃん。冷蔵庫の……」
「リンゴは切っちゃったわ」
良かった怒られなかった-、と言いながら皮を剥いていく。昔と同じようにリンゴも切って良かったらしい。鼻歌でCMで流れていた曲を歌う。幸子は呆れたような顔をしたものの、朝食の準備に戻った。配膳をして、カトラリーは全てテーブルの中央に。個人の皿の上には、リンゴとサラダと目玉焼きが準備された。
「ご飯食べるよ! 」
幸子の号令で全員が席に着く。朝ご飯はいつもなら好きなタイミングで食べるものだが、今日はみんなで会わせてくれるらしい。幸枝はなんだからそわそわしてしまって、席についてもなんだか落ち着かなかった。
だいたい揃ったらそれぞれが「いただきます」をして食べていく。牛乳を飲み、ヨーグルトを食べ、サラダを混ぜて、クロワッサンをかじる。相変わらずクロワッサンは美味しいし、しばらくはこんなに手の込んだ朝ご飯は食べられない。なので幸枝は、ちょっとびっくりするぐらい、朝ご飯を食べた。
「ごちそうさまでした」
空になった皿を前に、手を合わせて幸子に礼をする。それにぶんぶんと手を振りながら、「大げさね」と笑った。
「片付けはやっておくから、遅れないように仕事に行っておいで」
「えっ、ええー…まだなんとかなるけど…、お言葉に甘えるね。ありがとう姉さん」
まだ席についたままの幸子と子供達を置いて、幸枝は身支度を最後までととのえる。歯を磨いてリップを塗り直す。鞄の中身を見直せば、いつもの通りに入っているのは手帳が数冊と筆記用具だけ。問題は何もなかった。
「じゃあ、行ってくるわ。信彦と勇子は姉さんのことをよろしくね。姉さんは身体に気をつけて無理をしないようにね」
「はいはい。ユキちゃんも無理をしないで、また帰ってきてね」
「また来てね! 」
「事故んないようにね」
「はーい! 出来るだけ顔を出せるように頑張るからね、またね! 」
玄関先で見送ってくれる三人に声をかけて。そうして幸枝は車に乗り込んだ。