イサコの母方のオバ。転生者だけど原作知識はなし。人間としては割とダメだけど、転生した人間としてはまずまずな性質。
コヨーテの歌
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「姉さん? 」
『───』
姉である幸子から電話があったとき、幸枝はペットマトンの修正パッチを試しているところだった。このペット、外に出た瞬間に良いように扱われて発禁扱いされたのだ。あまりにも可哀想である。こんなにもかわいらしい造形にそれらしい生態をつけたというのに。楽しい頭のユーザーの思い付きですぐに発売禁止だ。開発側のことも考えてほしい。
「もしもし? 姉さん? なにかあった? 」
「───。」
幸枝にわざわざ電話を寄越す姉、というのは珍しいことだった。いつもメールで連絡を寄越す姉からの電話。嫌な予感がしていた。告げられた言葉に会社を飛び出す。スニーカーを履いていてよかった。全力で走れる。「嘘だろう」と、心がそれだけを叫んでいる。幸枝がこの頃を思い出すとき、彼女の記憶は飛び飛びになっている。
信号機が赤でイライラする。待つ時間が異様に長く感じられた。病院の駐車場はいっぱいで車を止めるスペースがない。焦りで手元が汗ばむ。
病院の消毒液の匂い。暖色の蛍光灯。淡い色合いのカーテン。ベッドに横たわった、白い顔の義兄。傍らで泣き崩れる姉の姿。窓際で身を縮めている勇子と、手を繋いで泣いている信彦。何があったか詳しくは分からない。でも、結果は一目瞭然だった。
「姉さん…」
姉は、幸枝に電話をしたにも関わらず、幸枝の声に気がつかなかった。
義兄の手にすがりついて、布団にしわが寄っているのも気にしていない。髪は振り乱して、きっと目元は赤くはれ上がっているだろう。嗚咽に小さな悲鳴な時々混ざった。ぎゅうぎゅうと触れた手は、もう姉の温度しか残っていないのだろう。それほどに白い。
今、妹の幸枝は必要なかった。
「信彦、勇子。ちょっと外に出よう」
手招きすれば、2人は素直に寄ってくる。
姉には時間が必要だった。まだ2人の「母親」に戻るには時間がかかるだろう。それほどに姉の取り乱し方はすごかった。病室を出て扉を閉めても、かすかに嗚咽が聞こえるような気がする。
2人と手を繋いで、エレベーター前のホールまで歩く。信彦は父親が死んだことを理解しているのだろう。ぐずぐずと泣いていた。一方で勇子は「いつもと違う」ことは分かっていても、それがどうしてなのかは理解が追いついていないようだった。
幸枝はふたりの家族ではなかったけれど、何をしないといけないのか分かった。膝をついてぎゅうぎゅうと強くふたりを抱きしめた。目を丸くした勇子はぎゅっとしがみついてきて、信彦は堰を切ったように泣き出した。どれだけ大人びた子供でも、子供は子供だ。不安だったのだろう。姉はきっと、初めから取り乱していたのだろうと幸枝は思う。本当は幸枝もことの流れが気になってはいた。看護師に聞けばそれもわかるだろう。でも、ここで二人を放置するのはあまりにも違うのではないかと思ったのだ。手を引いて歩いて、この場で止まって二人の顔を見たときに、「そうしてよかった」と強く感じた。
何もわからなくても不安を感じていないはずがない。分かっているならそれ以上に、人の不安は伝播していくものだから。
「もうちょっと、姉さんが落ち着くまでここにいよう…」
痛いくらいに抱きしめて、落ち着くまで泣いたなら少しは先に進めるようになる。幸枝がそうだったように、姉が乗り越えてきたように。それを信じるしかなかった。信彦に釣られて泣き始めた勇子の背をさすって、幸枝はぼんやりとした不安が濃くなっていくのを感じる。耳の奥に姉の嗚咽がわんわんと響くようだった。あんなに取り乱した姿は、母親の葬儀以来だろうか。
姉はこれから大丈夫だろうか。天沢さんの死を乗り越えることができるのだろうか。姉は、もう姉だけではなく母になったから、だから大丈夫だろうか。父の葬儀では落ち着いた振る舞いが出来ていたから、手順や流れは身についているから大丈夫だろう。
「信彦、勇子…。姉さんの力になってあげてね」
大丈夫、とは口が裂けても言えなかった。だってどこから見ても大丈夫じゃない。落ち着いている幸枝にすら、これからが大変だということが分かる。取り乱している姉ならどれほど苦しいものか。幸枝には「正しい」家族が理解できないから、どうすればいいかわからない。それが一番になるのじゃないかと想像するしかなかった。
幸枝は手放した物が戻らないことを知っていた。でも、それだけだった。
・・・
・・
・
線香の匂いが満ちた空間に、黒い服を着た人が詰め込まれている。父も母も同じ空間で通夜を行ったことを思いだした。今日の喪主は姉だ。
黒い喪服に真珠の首飾り。細い首が頼りなく何度も伏せられる。音は無い。記憶の中で、やつれた姉の眼差しが責めるように幸枝をのぞき込む。
写真の中の義兄は微笑むだけで何もしゃべらない。参列する人の唇だけがぱくぱくと、空気を求める金魚のように動いている。目元が見えない人、人、人。義兄の職場の人間も、親戚の人達も、見覚えのある人すら霞がかって顔が見えない。
坊主が経を読む。じゃらりと数珠が鳴る。耳に戻ってきた音が、器用に姉の声を拾った。「どうして」と。
白い菊の花が揺れている。風が無い式場の中でさやさやと、草原に揺れるようである。香が参列者の列を回る。きいきいと車輪を回して、縦横に動いている。足を止める度に新しい煙が上がる。読経が続く。頭上のスピーカーから音が広がっていた。
鯨幕に背を向けて、姉が参列に謝辞を述べている。
隣に並んだ信彦と勇子の顔色は優れない。姉は泣いていた。白いハンカチを握りしめて、マイクを持った手が震えている。彼女の言葉は不思議と頭の中に入らない。上滑りするように耳から耳に抜けていく。唇を噛みしめた信彦。何かを理解したような勇子。
波のように揺れ動く参列者の群れは黒く、顔だけが薄ぼんやりと明るい。話しを聞いているのかいないのか。幸枝にはその口が心無い言葉を吐いているように見えて目をそらした。
姉は立派に役割を果たした。
葬儀の準備も、当日の動きも。忙しかったために、子供たちの世話を全てはできなかったが、それは幸枝と天沢の親類とで十分だった。
姉はあの病室で以来、感情の振り幅を失ったようだった。いつでも悲しみと思い出の中を行き来しているような、不思議なバランスで呼吸をしていた。
事実、幸子の心情は実に複雑だった。心には常に悲しみが付きまとい、ふとした瞬間に夫との思い出が心に去来する。思い出している間はまだよく、一区切り着けば一際強く悲しみを呼び起こした。後日、彼女はこの時期のことを何ら覚えておらず、強すぎる感情が防衛するために記憶を薄れさせたのかもしれなかった。
世界はぐらぐらと煮立った鍋のように危うい。いつ吹きこぼれるか、温度を計るには手を浸さなくてはならない。誰がやるものか。
そうやって幾度も夜と朝が来た。信彦と勇子は少しずつ大人に近づいて、2人の姉妹は時が止まったどころか過去を見ている。
遺体が火にかけられる時。たくさんの花に埋もれた姿に、信彦はぎゅっと目を瞑って泣いた。棺の中にノートが一冊増えた。
棺のふたが閉められる時、幸枝に抱えられて勇子は泣いた。父親に会えないことを悟って手を伸ばした。
火葬炉の扉が閉じたとき。最後まで棺に触れていた幸子は泣いた。崩れ落ちる人というのを幸枝は初めて見た。母の葬儀より、父の葬儀よりひどい泣き方だった。赤ん坊よりも下手くそな泣き方だ。夫の名前を引きつる喉で呼んで、呼んで、諦めたように蹲って顔を覆って泣いた。 その背を義母がなだめるように、さすっていた。
悲しみとは、感情とは伝播するモノである。
母親の悲しみに勇子はぼろぼろと泣き出す。言語化できなくともわかるのだ。母親にすがれないこともよく分かっている。だから勇子は手を繋いでいたオバにすがる。信彦は勇子よりずっと年上で、ずっと色々なことが分かっている。だからつらくてつらくて、一番側にいたオバが妹を貼り付けて振り向いた時に「こういうときには目敏いな」と声を殺しながら思った。勇子と一緒に抱き寄せられて、声が漏れそうになって一際強く唇を噛みしめた。幸枝は何も言わず、ただ幸子のことを見つめていた。
ごう。炉に火が入る。温度が上がり、扉の近くにいた幸子は係員に促され、義母に手を引かれて立ち上がる。
じっと扉を見つめる。義母に促される。彼女はじっとそのまま。
じっと立ち尽くす。誰に言われても、幸子は火葬炉の前に立ち尽くしていた。
残された人達は。
粛々と場を引き上げていく。いるべき場所に、待つべき場所に。ぞろぞろと目の前の背中を追うように、人は列を成して出て行く。幸枝はふたりの手を引いて部屋を出た。姉はひとり、背を向けて立っているだけだった。その背中から読み取れるものは、なにひとつなかった。
古い畳の上。泣き疲れた勇子が幸枝の膝を枕に眠っている。鼻水がたまっているのか、ぷすぷすと呼吸のたびに音がする。なんともいえない平和な音だと幸枝は思う。
集まった親戚はおよそ15。さやさやと風に揺れるすすきのように落ち着きがない。なにせ、20分たっても幸子が戻ってこない。
「信彦、何を見てるの?」
部屋を移動して、涙が落ち着いた信彦は片隅で膝を抱えて、メガネで何かを見ているようだった。調べ物をしているのか、それとも好きなチャンネルでも覗いているのか。わずか数年で、彼は目端の利く使い手として成長していた。
「…別に。」
「そう、飽きたら外に出ても大丈夫なはずだよ」
ちらり、目線を窓の外に向けて幸枝は口に出す。外といったところで広大な敷地に木々が生い茂っているだけだ。遊具の一つもない。だが、大人たちは座敷から出ることはほとんどないから、居心地はいいかもしれなかった。さきほどから、どうにも大人の視線があまりにも過ぎるような、気がしていた。
信彦はじっと幸枝の目をのぞき込んで、何かを考えるように時間をおいて首を横に振った。「勇子が起きるまではここにいるよ」と、そう言った。
それから少し。砂時計が1度ひっくり返るより短い時間で、幸子が部屋にやって来た。目は泣きはらして真っ赤だったが、落ち着いた表情だった。入り口で一度頭を下げ、幸枝たちがいる方に向かってくる。
ちらちらと視線が幸子を追っている。当然だ。最後に見た姿があれだったのだから。
幸枝の隣にとっすり、気が抜けたように座って幸子は勇子の頭を撫でた。
「…ごめん、ユキちゃん。迷惑かけたね」
「……迷惑じゃないよ」
どう返すべきか分からなくて、幸枝はそう返すのがやっとだった。幸子の顔を見ることができない。ざらざらと乾いた音を聞いて、幸枝はなんだか怖くてたまらなかった。膝の上にある、勇子の熱だけが頼りだった。そういう、不安になるような声で幸子はもう一度「ごめん」と言った。
幸枝はいたたまれなくて、勇子を幸子に譲った。眠気にわずかにぐずったが、幸子の膝のいいところを見つけたのがそれもすぐに収まる。勇子の頭を支えた手のひらの内側に、きつく握った爪の痕がいくつも見えた。誰にも見えないところで、幸子が苦しんで耐えた痕だ。幸枝はそれに触れることもできなかった。そっと顔をそらして、逸らした先にいた信彦をじっと見つめた。信彦は幸子がきたことに顔を上げていたが、それだけでじっと彼の母親を見つめるだけだった。表情が読み取れない。
「信彦…? 」
幸枝はそれをとても不思議に思った。彼も、彼だってさっきまで泣いていたのだから、母親のそばにいれば安心するのではないかと。安心するために側に近寄るかと思えばそうでもない。
幸枝はとりあえず立ち上がることにした。なにせ、勇子に膝を貸しっぱなしだったのだ。びりびりと足がしびれる。ため息ともつかない吐息が、幸枝の口から漏れた。正直なところ、相当な足のしびれで立つのはしんどい。だが、ここに尻を落ち着けてもいられないような気がしていた。
「姉さん、ちょっと外に出てくるから…ゆっくりしたらいいよ」
ゆっくりもなにも、と幸枝は心の中で思う。この中で一番忙しいのも、心に余裕がないのも幸子だ。だからきっと、幸枝は幸子の側で気持ちを分かち合うのがよかった。けれど、幸枝は幸枝でしかなかったので。足を伸ばすために、外に出る。姉を置いて。ひとりだけ、誰もいない外に行く。
幸子はひとつ頷いて、眠る勇子の頬を撫でた。
硬質なヒールが床を叩く。一歩進むごとに人のざわめきも小さくなっていく。そうやって歩くうち、知らずに入っていた肩の力が抜けていくのを幸枝は感じていた。肺から空気を抜ききるように、長いため息が口から漏れる。外へ行く道は遠いわけじゃない。それでも肩が落ちた。まるで瓶の中に閉じ込められたような気持ちだ。
そうやって玄関ホールまで歩いたとき、後ろから駆けてくる音がした。振り向けばそれは信彦だった。幸枝に追いついた信彦は彼女を見上げて言う。
「俺も一緒に行っていい? 」
賢い子供だ。幸枝は他の子供をよく知らないが、自分が同じ年頃の頃、こんなに賢かった覚えがない。信彦は優しく、賢い子供だった。幸枝が思うよりもずっと賢い子供なのだ。
「…いいよ」
だから幸枝がわずかに躊躇ったことも、不器用な笑顔になってしまったことも、信彦にはちゃんと伝わっているだろう。
信彦は幸枝の言葉にひとつ頷いて、軽い足音で外に向かう。一緒に、と言ったのは信彦なのに、先に歩くのは信彦で。なんだかそんなことを考えると、今までの息の詰まるような気持ちがどうだってよくなってしまった。幸枝は小さく笑う。子供よりも移り気な心情に、笑うしかなかった。
幸枝の笑いに気づいて信彦は振り返る。その顔があんまりにも不思議そうで、義兄に似ていてやっぱり笑いがこみ上げた。外はあいにくの曇り空だが、室内に比べれば明るい。外に一歩踏み出せば風を感じる。足の裏の感触も変わる。音がこもらないから、足音も衣擦れの音も大きく聞こえない。
別に、外に出たからといって何が出来るわけでは無い。公園のように遊具もないし、ベンチが所々にあるくらいだ。所々に吸い殻が落ちている。
ベンチにどっかり腰を下ろせば、身体に入っていた力が全て抜け落ちるようだった。知れず口からは息が長く漏れ出していく。目線を上げれば信彦と目線がかち合う。
ベンチの空いたところを手のひらで幾度か叩けば、意図を察した信彦はそこに座った。
ひうひうと二人の間に風が吹く。それほど寒くない日だった。足下には吸い殻が散らばっている。数種類の吸い殻だ。それがやたらと目に入った。
「メガネにさ、」
ぼんやりと眺めていれば、どこか尖った声で信彦が言った。目の前の空間に指を走らせているところからすると、電脳空間にアクセスしているようだった。
「死んだ人のメモリーを組み込んだらさ、電脳ペットみたいに形に出来ないの」
「ああ…」
食いしばった歯の奥からうめき声が漏れた。
幸枝は思わず天を仰いだ。そうだ、そうだとも。信彦は幸枝の仕事を側で見ていたのだ。賢い子供だ。だからそんな発想も当然のことだ。幸枝たちの会社ですら案が出たくらいだ。
信彦は幸枝を見ない。メガネの向こうに集中している。それがフリかどうかはわからない。でも、幸枝はこれが彼にとって大事な質問であるとよくわかった。彼女自身にも覚えがあった。
「今はできないよ。人間は複雑すぎてデータに変えるには膨大すぎる」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
(間違ったな)と幸枝は思う。
振り向いて幸枝を見た信彦の目が黒々と、涙でにじんでいるのが分かったからだ。
どんなに強い感情も、人は永遠に保つことは出来ない。だから思い出せるように写真を撮り、言葉を綴り、映像に残してきた。でも、思い出すのだ。何度でも、忘れたと思っても。
「お父さん…」
目の縁にたまった涙が、表面張力を超えてこぼれ落ちる。泣き出した子供を前に、幸枝はまた思う「間違った」と。幸枝と信彦は違う人だから、それを考えなくちゃいけなかった。でも幸枝はそれ以外ができなかった。
わんわんと泣き出した子供を前に、彼女は抱き寄せることしか出来なかった。泣いて、時間がたてば人はそれを「思い出」に変えることが出来る。だからそれまで、どうかこの子供が頑張れるようにと、幸枝は祈った。
・・・
・・
・
手持ちぶさたな時間を過ごして、ついに骨が焼き上がったと知らせが来る。
ぞろぞろと黒い人並みが列を作って進む。炉の前に人が集まりきれば、係の人間が扉を開けた。むっと熱い空気が部屋に満ちた。汗ばむほど熱い。顔がひりひりと陽を浴びているようだ。
「ご親族の皆様がた…」
はじめは幸子の仕事だった。
長い箸が器用に骨を拾い上げる。ゆらゆらと揺れながら他の骨を押しのけながら、その骨をつまみ出して納めた。
幸子も三度目の葬式である。骨上げも三度目だ。慣れたものだ。
説明が耳を通り抜けていくのを感じながら、親族と連れ立って骨を納めていく。足元から頭に向かって、一つひとつ箸で拾っていく。若かったからか、それとも別の理由からか。同じ男であった父親に比べて骨が多いような気がした。
一番始めに幸子から。冷め切っていない熱を感じさせないほどに青白い指先だ。伏せたまぶたから読み取れるものは無いが、彼女が一番始めに拾った骨は人差し指ほども大きさは無かった。拾うのに酷く難儀したようで、そっと差し込まれた箸がゆらゆらとかたかたと揺れていた。摘まめばそれで1つ。かつり、桐の箱に骨が落ちる音がした。
後に続いて天沢の父と母が、信彦と勇子の手を引きながら骨を拾う。後に後に、何度も何周も。桐の箱が満ちるまで。時に大きな骨を砕き、箸で拾うのが難しい骨を拾い。頭に向かって1つずつ拾っていく。何度も繰り返す内に"作業"になり、人が死んだことが段々と腑に落ちていく。なんとも思わなくなるのだ。これが果たして人であったのか、それすらあやふやになってしまう。心が凪いでいるのがわかる。
「ああ、立派なのど仏ですね」
「生前に立派な行いをした人はのど仏が立派なんですよ」と、係が言ったのは何周した頃だったか。ついに首元まで来たのだ。それを別の骨壺に納めなくてはならない。指し示された骨を、幸子はゆっくりと箸で拾い上げた。小さな骨壺に、それは軽やかな音を立てて落ちたのだった。
家に入る前に、塩で身体を清める。
小袋に入った塩を身体にかけながら、勇子は不思議そうに問いかける。
「ねぇ、どうしてお塩をかけると清められるの? 」
「確かに、なんで塩なんだろう」
上手く出来ない勇子を手伝いながら幸子は頷く。その様子を見ながら、手早く終えた幸枝はぼんやりとしていた。問いかけの内容の解答を幸枝は持っていたけど、なんとなく話す気がなかった。でも、その解答は意外なところから発せられる。
「塩ってさ盛り塩とかに使うでしょ。神様がケガれを祓うために海水で身体を洗ったのが由来らしいよ」
「えー! そうなの? お兄ちゃんすごいね、物知りだね」
きらきらとした顔で信彦を見上げる勇子。「ユキちゃんみたいだね」と幸子を振り返る勇子。得意げな信彦の顔。
いつか、前に見たような家庭の様子に、幸枝はどこか安心していた。「これなら大丈夫だろう」きっと、姉も前と同じように前を向いていられると、なんの保証もなく思った。
『───』
姉である幸子から電話があったとき、幸枝はペットマトンの修正パッチを試しているところだった。このペット、外に出た瞬間に良いように扱われて発禁扱いされたのだ。あまりにも可哀想である。こんなにもかわいらしい造形にそれらしい生態をつけたというのに。楽しい頭のユーザーの思い付きですぐに発売禁止だ。開発側のことも考えてほしい。
「もしもし? 姉さん? なにかあった? 」
「───。」
幸枝にわざわざ電話を寄越す姉、というのは珍しいことだった。いつもメールで連絡を寄越す姉からの電話。嫌な予感がしていた。告げられた言葉に会社を飛び出す。スニーカーを履いていてよかった。全力で走れる。「嘘だろう」と、心がそれだけを叫んでいる。幸枝がこの頃を思い出すとき、彼女の記憶は飛び飛びになっている。
信号機が赤でイライラする。待つ時間が異様に長く感じられた。病院の駐車場はいっぱいで車を止めるスペースがない。焦りで手元が汗ばむ。
病院の消毒液の匂い。暖色の蛍光灯。淡い色合いのカーテン。ベッドに横たわった、白い顔の義兄。傍らで泣き崩れる姉の姿。窓際で身を縮めている勇子と、手を繋いで泣いている信彦。何があったか詳しくは分からない。でも、結果は一目瞭然だった。
「姉さん…」
姉は、幸枝に電話をしたにも関わらず、幸枝の声に気がつかなかった。
義兄の手にすがりついて、布団にしわが寄っているのも気にしていない。髪は振り乱して、きっと目元は赤くはれ上がっているだろう。嗚咽に小さな悲鳴な時々混ざった。ぎゅうぎゅうと触れた手は、もう姉の温度しか残っていないのだろう。それほどに白い。
今、妹の幸枝は必要なかった。
「信彦、勇子。ちょっと外に出よう」
手招きすれば、2人は素直に寄ってくる。
姉には時間が必要だった。まだ2人の「母親」に戻るには時間がかかるだろう。それほどに姉の取り乱し方はすごかった。病室を出て扉を閉めても、かすかに嗚咽が聞こえるような気がする。
2人と手を繋いで、エレベーター前のホールまで歩く。信彦は父親が死んだことを理解しているのだろう。ぐずぐずと泣いていた。一方で勇子は「いつもと違う」ことは分かっていても、それがどうしてなのかは理解が追いついていないようだった。
幸枝はふたりの家族ではなかったけれど、何をしないといけないのか分かった。膝をついてぎゅうぎゅうと強くふたりを抱きしめた。目を丸くした勇子はぎゅっとしがみついてきて、信彦は堰を切ったように泣き出した。どれだけ大人びた子供でも、子供は子供だ。不安だったのだろう。姉はきっと、初めから取り乱していたのだろうと幸枝は思う。本当は幸枝もことの流れが気になってはいた。看護師に聞けばそれもわかるだろう。でも、ここで二人を放置するのはあまりにも違うのではないかと思ったのだ。手を引いて歩いて、この場で止まって二人の顔を見たときに、「そうしてよかった」と強く感じた。
何もわからなくても不安を感じていないはずがない。分かっているならそれ以上に、人の不安は伝播していくものだから。
「もうちょっと、姉さんが落ち着くまでここにいよう…」
痛いくらいに抱きしめて、落ち着くまで泣いたなら少しは先に進めるようになる。幸枝がそうだったように、姉が乗り越えてきたように。それを信じるしかなかった。信彦に釣られて泣き始めた勇子の背をさすって、幸枝はぼんやりとした不安が濃くなっていくのを感じる。耳の奥に姉の嗚咽がわんわんと響くようだった。あんなに取り乱した姿は、母親の葬儀以来だろうか。
姉はこれから大丈夫だろうか。天沢さんの死を乗り越えることができるのだろうか。姉は、もう姉だけではなく母になったから、だから大丈夫だろうか。父の葬儀では落ち着いた振る舞いが出来ていたから、手順や流れは身についているから大丈夫だろう。
「信彦、勇子…。姉さんの力になってあげてね」
大丈夫、とは口が裂けても言えなかった。だってどこから見ても大丈夫じゃない。落ち着いている幸枝にすら、これからが大変だということが分かる。取り乱している姉ならどれほど苦しいものか。幸枝には「正しい」家族が理解できないから、どうすればいいかわからない。それが一番になるのじゃないかと想像するしかなかった。
幸枝は手放した物が戻らないことを知っていた。でも、それだけだった。
・・・
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線香の匂いが満ちた空間に、黒い服を着た人が詰め込まれている。父も母も同じ空間で通夜を行ったことを思いだした。今日の喪主は姉だ。
黒い喪服に真珠の首飾り。細い首が頼りなく何度も伏せられる。音は無い。記憶の中で、やつれた姉の眼差しが責めるように幸枝をのぞき込む。
写真の中の義兄は微笑むだけで何もしゃべらない。参列する人の唇だけがぱくぱくと、空気を求める金魚のように動いている。目元が見えない人、人、人。義兄の職場の人間も、親戚の人達も、見覚えのある人すら霞がかって顔が見えない。
坊主が経を読む。じゃらりと数珠が鳴る。耳に戻ってきた音が、器用に姉の声を拾った。「どうして」と。
白い菊の花が揺れている。風が無い式場の中でさやさやと、草原に揺れるようである。香が参列者の列を回る。きいきいと車輪を回して、縦横に動いている。足を止める度に新しい煙が上がる。読経が続く。頭上のスピーカーから音が広がっていた。
鯨幕に背を向けて、姉が参列に謝辞を述べている。
隣に並んだ信彦と勇子の顔色は優れない。姉は泣いていた。白いハンカチを握りしめて、マイクを持った手が震えている。彼女の言葉は不思議と頭の中に入らない。上滑りするように耳から耳に抜けていく。唇を噛みしめた信彦。何かを理解したような勇子。
波のように揺れ動く参列者の群れは黒く、顔だけが薄ぼんやりと明るい。話しを聞いているのかいないのか。幸枝にはその口が心無い言葉を吐いているように見えて目をそらした。
姉は立派に役割を果たした。
葬儀の準備も、当日の動きも。忙しかったために、子供たちの世話を全てはできなかったが、それは幸枝と天沢の親類とで十分だった。
姉はあの病室で以来、感情の振り幅を失ったようだった。いつでも悲しみと思い出の中を行き来しているような、不思議なバランスで呼吸をしていた。
事実、幸子の心情は実に複雑だった。心には常に悲しみが付きまとい、ふとした瞬間に夫との思い出が心に去来する。思い出している間はまだよく、一区切り着けば一際強く悲しみを呼び起こした。後日、彼女はこの時期のことを何ら覚えておらず、強すぎる感情が防衛するために記憶を薄れさせたのかもしれなかった。
世界はぐらぐらと煮立った鍋のように危うい。いつ吹きこぼれるか、温度を計るには手を浸さなくてはならない。誰がやるものか。
そうやって幾度も夜と朝が来た。信彦と勇子は少しずつ大人に近づいて、2人の姉妹は時が止まったどころか過去を見ている。
遺体が火にかけられる時。たくさんの花に埋もれた姿に、信彦はぎゅっと目を瞑って泣いた。棺の中にノートが一冊増えた。
棺のふたが閉められる時、幸枝に抱えられて勇子は泣いた。父親に会えないことを悟って手を伸ばした。
火葬炉の扉が閉じたとき。最後まで棺に触れていた幸子は泣いた。崩れ落ちる人というのを幸枝は初めて見た。母の葬儀より、父の葬儀よりひどい泣き方だった。赤ん坊よりも下手くそな泣き方だ。夫の名前を引きつる喉で呼んで、呼んで、諦めたように蹲って顔を覆って泣いた。 その背を義母がなだめるように、さすっていた。
悲しみとは、感情とは伝播するモノである。
母親の悲しみに勇子はぼろぼろと泣き出す。言語化できなくともわかるのだ。母親にすがれないこともよく分かっている。だから勇子は手を繋いでいたオバにすがる。信彦は勇子よりずっと年上で、ずっと色々なことが分かっている。だからつらくてつらくて、一番側にいたオバが妹を貼り付けて振り向いた時に「こういうときには目敏いな」と声を殺しながら思った。勇子と一緒に抱き寄せられて、声が漏れそうになって一際強く唇を噛みしめた。幸枝は何も言わず、ただ幸子のことを見つめていた。
ごう。炉に火が入る。温度が上がり、扉の近くにいた幸子は係員に促され、義母に手を引かれて立ち上がる。
じっと扉を見つめる。義母に促される。彼女はじっとそのまま。
じっと立ち尽くす。誰に言われても、幸子は火葬炉の前に立ち尽くしていた。
残された人達は。
粛々と場を引き上げていく。いるべき場所に、待つべき場所に。ぞろぞろと目の前の背中を追うように、人は列を成して出て行く。幸枝はふたりの手を引いて部屋を出た。姉はひとり、背を向けて立っているだけだった。その背中から読み取れるものは、なにひとつなかった。
古い畳の上。泣き疲れた勇子が幸枝の膝を枕に眠っている。鼻水がたまっているのか、ぷすぷすと呼吸のたびに音がする。なんともいえない平和な音だと幸枝は思う。
集まった親戚はおよそ15。さやさやと風に揺れるすすきのように落ち着きがない。なにせ、20分たっても幸子が戻ってこない。
「信彦、何を見てるの?」
部屋を移動して、涙が落ち着いた信彦は片隅で膝を抱えて、メガネで何かを見ているようだった。調べ物をしているのか、それとも好きなチャンネルでも覗いているのか。わずか数年で、彼は目端の利く使い手として成長していた。
「…別に。」
「そう、飽きたら外に出ても大丈夫なはずだよ」
ちらり、目線を窓の外に向けて幸枝は口に出す。外といったところで広大な敷地に木々が生い茂っているだけだ。遊具の一つもない。だが、大人たちは座敷から出ることはほとんどないから、居心地はいいかもしれなかった。さきほどから、どうにも大人の視線があまりにも過ぎるような、気がしていた。
信彦はじっと幸枝の目をのぞき込んで、何かを考えるように時間をおいて首を横に振った。「勇子が起きるまではここにいるよ」と、そう言った。
それから少し。砂時計が1度ひっくり返るより短い時間で、幸子が部屋にやって来た。目は泣きはらして真っ赤だったが、落ち着いた表情だった。入り口で一度頭を下げ、幸枝たちがいる方に向かってくる。
ちらちらと視線が幸子を追っている。当然だ。最後に見た姿があれだったのだから。
幸枝の隣にとっすり、気が抜けたように座って幸子は勇子の頭を撫でた。
「…ごめん、ユキちゃん。迷惑かけたね」
「……迷惑じゃないよ」
どう返すべきか分からなくて、幸枝はそう返すのがやっとだった。幸子の顔を見ることができない。ざらざらと乾いた音を聞いて、幸枝はなんだか怖くてたまらなかった。膝の上にある、勇子の熱だけが頼りだった。そういう、不安になるような声で幸子はもう一度「ごめん」と言った。
幸枝はいたたまれなくて、勇子を幸子に譲った。眠気にわずかにぐずったが、幸子の膝のいいところを見つけたのがそれもすぐに収まる。勇子の頭を支えた手のひらの内側に、きつく握った爪の痕がいくつも見えた。誰にも見えないところで、幸子が苦しんで耐えた痕だ。幸枝はそれに触れることもできなかった。そっと顔をそらして、逸らした先にいた信彦をじっと見つめた。信彦は幸子がきたことに顔を上げていたが、それだけでじっと彼の母親を見つめるだけだった。表情が読み取れない。
「信彦…? 」
幸枝はそれをとても不思議に思った。彼も、彼だってさっきまで泣いていたのだから、母親のそばにいれば安心するのではないかと。安心するために側に近寄るかと思えばそうでもない。
幸枝はとりあえず立ち上がることにした。なにせ、勇子に膝を貸しっぱなしだったのだ。びりびりと足がしびれる。ため息ともつかない吐息が、幸枝の口から漏れた。正直なところ、相当な足のしびれで立つのはしんどい。だが、ここに尻を落ち着けてもいられないような気がしていた。
「姉さん、ちょっと外に出てくるから…ゆっくりしたらいいよ」
ゆっくりもなにも、と幸枝は心の中で思う。この中で一番忙しいのも、心に余裕がないのも幸子だ。だからきっと、幸枝は幸子の側で気持ちを分かち合うのがよかった。けれど、幸枝は幸枝でしかなかったので。足を伸ばすために、外に出る。姉を置いて。ひとりだけ、誰もいない外に行く。
幸子はひとつ頷いて、眠る勇子の頬を撫でた。
硬質なヒールが床を叩く。一歩進むごとに人のざわめきも小さくなっていく。そうやって歩くうち、知らずに入っていた肩の力が抜けていくのを幸枝は感じていた。肺から空気を抜ききるように、長いため息が口から漏れる。外へ行く道は遠いわけじゃない。それでも肩が落ちた。まるで瓶の中に閉じ込められたような気持ちだ。
そうやって玄関ホールまで歩いたとき、後ろから駆けてくる音がした。振り向けばそれは信彦だった。幸枝に追いついた信彦は彼女を見上げて言う。
「俺も一緒に行っていい? 」
賢い子供だ。幸枝は他の子供をよく知らないが、自分が同じ年頃の頃、こんなに賢かった覚えがない。信彦は優しく、賢い子供だった。幸枝が思うよりもずっと賢い子供なのだ。
「…いいよ」
だから幸枝がわずかに躊躇ったことも、不器用な笑顔になってしまったことも、信彦にはちゃんと伝わっているだろう。
信彦は幸枝の言葉にひとつ頷いて、軽い足音で外に向かう。一緒に、と言ったのは信彦なのに、先に歩くのは信彦で。なんだかそんなことを考えると、今までの息の詰まるような気持ちがどうだってよくなってしまった。幸枝は小さく笑う。子供よりも移り気な心情に、笑うしかなかった。
幸枝の笑いに気づいて信彦は振り返る。その顔があんまりにも不思議そうで、義兄に似ていてやっぱり笑いがこみ上げた。外はあいにくの曇り空だが、室内に比べれば明るい。外に一歩踏み出せば風を感じる。足の裏の感触も変わる。音がこもらないから、足音も衣擦れの音も大きく聞こえない。
別に、外に出たからといって何が出来るわけでは無い。公園のように遊具もないし、ベンチが所々にあるくらいだ。所々に吸い殻が落ちている。
ベンチにどっかり腰を下ろせば、身体に入っていた力が全て抜け落ちるようだった。知れず口からは息が長く漏れ出していく。目線を上げれば信彦と目線がかち合う。
ベンチの空いたところを手のひらで幾度か叩けば、意図を察した信彦はそこに座った。
ひうひうと二人の間に風が吹く。それほど寒くない日だった。足下には吸い殻が散らばっている。数種類の吸い殻だ。それがやたらと目に入った。
「メガネにさ、」
ぼんやりと眺めていれば、どこか尖った声で信彦が言った。目の前の空間に指を走らせているところからすると、電脳空間にアクセスしているようだった。
「死んだ人のメモリーを組み込んだらさ、電脳ペットみたいに形に出来ないの」
「ああ…」
食いしばった歯の奥からうめき声が漏れた。
幸枝は思わず天を仰いだ。そうだ、そうだとも。信彦は幸枝の仕事を側で見ていたのだ。賢い子供だ。だからそんな発想も当然のことだ。幸枝たちの会社ですら案が出たくらいだ。
信彦は幸枝を見ない。メガネの向こうに集中している。それがフリかどうかはわからない。でも、幸枝はこれが彼にとって大事な質問であるとよくわかった。彼女自身にも覚えがあった。
「今はできないよ。人間は複雑すぎてデータに変えるには膨大すぎる」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
(間違ったな)と幸枝は思う。
振り向いて幸枝を見た信彦の目が黒々と、涙でにじんでいるのが分かったからだ。
どんなに強い感情も、人は永遠に保つことは出来ない。だから思い出せるように写真を撮り、言葉を綴り、映像に残してきた。でも、思い出すのだ。何度でも、忘れたと思っても。
「お父さん…」
目の縁にたまった涙が、表面張力を超えてこぼれ落ちる。泣き出した子供を前に、幸枝はまた思う「間違った」と。幸枝と信彦は違う人だから、それを考えなくちゃいけなかった。でも幸枝はそれ以外ができなかった。
わんわんと泣き出した子供を前に、彼女は抱き寄せることしか出来なかった。泣いて、時間がたてば人はそれを「思い出」に変えることが出来る。だからそれまで、どうかこの子供が頑張れるようにと、幸枝は祈った。
・・・
・・
・
手持ちぶさたな時間を過ごして、ついに骨が焼き上がったと知らせが来る。
ぞろぞろと黒い人並みが列を作って進む。炉の前に人が集まりきれば、係の人間が扉を開けた。むっと熱い空気が部屋に満ちた。汗ばむほど熱い。顔がひりひりと陽を浴びているようだ。
「ご親族の皆様がた…」
はじめは幸子の仕事だった。
長い箸が器用に骨を拾い上げる。ゆらゆらと揺れながら他の骨を押しのけながら、その骨をつまみ出して納めた。
幸子も三度目の葬式である。骨上げも三度目だ。慣れたものだ。
説明が耳を通り抜けていくのを感じながら、親族と連れ立って骨を納めていく。足元から頭に向かって、一つひとつ箸で拾っていく。若かったからか、それとも別の理由からか。同じ男であった父親に比べて骨が多いような気がした。
一番始めに幸子から。冷め切っていない熱を感じさせないほどに青白い指先だ。伏せたまぶたから読み取れるものは無いが、彼女が一番始めに拾った骨は人差し指ほども大きさは無かった。拾うのに酷く難儀したようで、そっと差し込まれた箸がゆらゆらとかたかたと揺れていた。摘まめばそれで1つ。かつり、桐の箱に骨が落ちる音がした。
後に続いて天沢の父と母が、信彦と勇子の手を引きながら骨を拾う。後に後に、何度も何周も。桐の箱が満ちるまで。時に大きな骨を砕き、箸で拾うのが難しい骨を拾い。頭に向かって1つずつ拾っていく。何度も繰り返す内に"作業"になり、人が死んだことが段々と腑に落ちていく。なんとも思わなくなるのだ。これが果たして人であったのか、それすらあやふやになってしまう。心が凪いでいるのがわかる。
「ああ、立派なのど仏ですね」
「生前に立派な行いをした人はのど仏が立派なんですよ」と、係が言ったのは何周した頃だったか。ついに首元まで来たのだ。それを別の骨壺に納めなくてはならない。指し示された骨を、幸子はゆっくりと箸で拾い上げた。小さな骨壺に、それは軽やかな音を立てて落ちたのだった。
家に入る前に、塩で身体を清める。
小袋に入った塩を身体にかけながら、勇子は不思議そうに問いかける。
「ねぇ、どうしてお塩をかけると清められるの? 」
「確かに、なんで塩なんだろう」
上手く出来ない勇子を手伝いながら幸子は頷く。その様子を見ながら、手早く終えた幸枝はぼんやりとしていた。問いかけの内容の解答を幸枝は持っていたけど、なんとなく話す気がなかった。でも、その解答は意外なところから発せられる。
「塩ってさ盛り塩とかに使うでしょ。神様がケガれを祓うために海水で身体を洗ったのが由来らしいよ」
「えー! そうなの? お兄ちゃんすごいね、物知りだね」
きらきらとした顔で信彦を見上げる勇子。「ユキちゃんみたいだね」と幸子を振り返る勇子。得意げな信彦の顔。
いつか、前に見たような家庭の様子に、幸枝はどこか安心していた。「これなら大丈夫だろう」きっと、姉も前と同じように前を向いていられると、なんの保証もなく思った。