イサコの母方のオバ。転生者だけど原作知識はなし。人間としては割とダメだけど、転生した人間としてはまずまずな性質。
コヨーテの歌
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信彦の葬式の喪主は、天沢の義父母が行った。幸枝に出来ることはなかった。天沢の家からは義父母と、それから義兄の姉にあたる夫婦がやってきた。姉はまだ病院から出られる状況でなかったからだ。小さい葬儀とはいえ、やることはたくさんあった。忙しくやりとりをしている間は気が楽だった。
信彦の通夜には、信彦の友人だという小学生が何人かやってきた。クラスメイトやクラブで一緒だったという子ども。小学校の先生から話を聞いたという。
保護者に付き添われながら焼香をし、戸惑いながら涙ぐんでいるが見えた。信彦には通夜に来てくれる友人がいたらしい。退屈だろうに、子ども達は騒ぐこともなく通夜の最後までいてくれた。
通夜が終わって、人が帰る頃。その中でも年かさと思われる少年がひとり、幸枝に近づいてきた。
「あの、すいません。信彦の言っていた”オバさん”っていうのは、あなたですか?
信彦、あなたのことをよく離していて、相談したいことがあるって言ってたんですけど、話せましたか? 」
「モジョと、よくクラブで遊んでいたんです。教えればいろんな事を覚えていく電脳ペットで、面白くて・・・。みんなが遊んでるのを見て、”オバさんが開発したんだ”って言ってて」
真っ白になった頭で、どうにか返事をしたと思う。目の奥が痛んだ。燃えるように熱く、視界がぼんやりとにじむ。どうにもならない感情が腹の底から湧いてきて、それはいわゆる─後悔とか、憤りとかで─自分の感情が焼き切れてしまわないのが不思議な程だった。
「・・・ありがとう、話を聞かせてくれて」
「いいえ・・・、話しがまとまらなくてすいません。でも、信彦は本当にすごいやつで、おれの友達だったんです。だから・・・」
ほろほろと涙がこぼれていく。少年は「悲しい」と言った。信彦が生きていたことをこんなにも偲んでくれる。信彦はやさしくて、賢い子どもだった。それが死んでしまった今でも消えずに残っている。
葬儀の翌日、病院に行くと勇子はやはり眠っていた。数値的には問題がないというが、不安な気持ちは晴れない。白い顔で眠る勇子の手を握り、声をかける。
「勇子、今日は晴れてるよ。すごしやすいから、帽子をかぶらなくても遊びに行けそうだよ。モジョたちも勇子のことを待ってるよ。ねぇ勇子。早く一緒に遊びに行こう」
「・・・・・・」
返事はない。眠っているのだから当然だ。でもやらずにはいられなかった。ベッドの横に座って、勇子の手のひらの温度を感じる。生きているということが、こんなにも安心するだなんて幸枝は知らなかった。
「勇子、待ってるよ」
布団の中に手を戻して、幸枝は立ち上がる。幸枝にはまだやることがあった。
次に向かうのは、姉の幸子の病室だ。
ノックをして入った姉の病室は、勇子の病室と違って物々しい機械は多くない。検査の結果、何事もなく生活していたのが疑問なほど様々な数値が悪かったらしい。
「姉さん、今日はどう? 」
数日前は興奮して手がつけられないほどだったのに、気持ちが切れたのか一日の大半を眠って過ごしているそうだ。看護師から聞いた話なので確かだが、目覚めている時間帯がまばらなので話しをするのは難しい。無理に起こすのははばかれた。
運悪くというべきか、今日は眠っている。
うすく日の入る病室は気温が整っているのに、どこか肌寒く感じる。個室なので他人の気配もなく、切り取られたかのように不自然な沈黙があった。
「勇子はね、まだ眠ったままだよ。ふたりそろって寝てるなんて、親子だね・・・」
立ったまま話しかけても目覚めない。
幸枝が見たことがないくらい穏やかな顔で眠っている。思えば、幸子の人生は我慢と苦労の連続だったのかもしれない。眠っている今が一番幸せで、目覚めてしまえばまた苦しむばかりの現実に戻ってくるのかもしれない。でもそれは幸枝には分からないことだ。ひとつだけ確かなのは、幸枝が幸子が目覚めるのを待っていることだけ。
大きくため息をひとつ。幸枝は荷物を棚にしまっていく。起きた幸子が困らないように、使ったものはとりかえてしまう。やることはすぐになくなった。ここは看護師の手によって全て整えられていた。
そうやって繰り返した日が7日を超えた時、幸枝たちは1つの決断をする。
「小此木先生、電脳治療について教えてください」
・・・
・・
・
電脳治療は精神に傷を負った子どもたちに向けたものだという。電脳空間との兼ね合いから、大人はまだ実施できないのだとか。電脳仮想空間とでもいうべき領域をつくり、そこで箱庭生活をしてもらう。「安心できる生活」は精神を繋ぎなおすのに持って来いなのだという。
幸枝が覚えているのはこの程度だ。技術者として思うのはコイルスから引き継いだ知識は、メガマスに移行することでますます進歩している。今はまだ子どもしか適用できないが、これが大人にまで適用できるなら。可能性の樹形図があっという間に広がっていくことだろう。まだ試験段階といえ、それでも被験は進んでいるというし、子どもだからこそ言語化できない傷を癒せる場というのは貴重なのではないだろうか。小此木医師が当初に描いていた電脳治療というのが、たった数年でここまで形になっているのは純粋に驚きがあった。
天沢の義父母は安全性についてかなり質問をしていた。精神だけを電脳空間に接続する、なんて言われたところで信じられるものではない。電脳メガネすら満足に使っていない世代だ。幸枝ですら一言で信じるのは難しい。
だが、電脳メガネが今まで実現してきたのは、仮想空間に生まれたものを現実世界に映し出す技術だ。それなら、その逆もおかしくはない。電脳空間に人間が投影されるということだ。人間を物理的に電脳空間に映し出すのは不可能だ。データは3次元のものではないから。しかし、人間の思考は物理的なものではない。状況に合わせて現実世界にデータを投影していたのが電脳メガネ。電脳メガネは微弱な脳波のレシーブ機能によって成り立っている。それを拾い合わせて、電脳空間の中で自由な行動ができるようにすればいい。意志の取捨選択を、電脳空間の中で生きているように行う。悲しいことも苦しいこともない、そんな箱庭を勇子に準備しようという。
接続がうまくいけば成功率は高いという。なんにせよ、勇子の意識が一度も戻らないことに焦りを覚えていた幸枝たちには、電脳治療が蜘蛛の糸のように思えた。メガマスのせいで事故にあった勇子だが、その技術で救われるかもしれないというのはおかしなことだった。
電脳空間の汎用性の高さというのは、いったいどこまでいくものなのか。
病室で勇子の顔を眺めながら、自分の心根を恥じた。
一瞬だったけれど、彼女は勇子を心配するより前に、技術者としての好奇心が前に出てしまった。見たことのないもの、新しいものは幸枝の心を強く引っ張る。けれど、それは今の状態ではふさわしくないだろう。幸枝はまた失敗してしまった。
心は鉛のように重い。心配もある。出口のないトンネルにいるようだ。会社ではミスが増えて、心配そうな顔で見られる。幸子のことも勇子のことも、幸枝に解決できることじゃない。だから時間に任せるしかないことは分かっているのだ。でも出来ない。これじゃだめだと思うのに、うまくいかない。
そうやって仕事や雑事に追われているうちに、信彦の四十九日が来た。諸々の手続きは天沢の家でやってくれた。幸枝は当日にじっと座っていることだけだ。坊主の経も、手続きも幸枝の心を引っ張らない。でも、信彦が死んでから49日もたったのだと思うと、何かがひっかかるような気がした。
四十九日に合わせて、信彦の骨は墓に収められることになった。幸子は天沢の家に嫁入りをしたから、信彦の骨も天沢家の墓に入る。坊主がつらつらとしゃべっていることはわかっても、内容にまでは気が向かなかった。ただ、幸枝の脳みそに深く刻みつけられたのは、真新しい大小の骨壺が並べて置かれたことだ。こんなに早く再会することはなかったんじゃないか、肩を震わせる義母を見て幸枝はそう思った。
傘をさすほどではない雨は、幸枝たちの肩を湿らせた。
ゆっくりと幸枝の生活は元に戻っていく。
新しい日課を含めて、幸枝の仕事でのミスは減って、気を揉むような焦燥も和らいでいく。時間はなによりも人の心をやわく癒していく。信彦がいなくなったことも変わらず、幸子も勇子も目覚めていないのに。それが当たり前になっていく。
家族がいなくなったとして、幸枝の生活に大きな変化はなかった。幸枝が幸子とマメに連絡を取ることはなかった。盆と正月しか面と向かって会話をすることもなかった。
メールで頻繁に意見を交換する相手はいても、生身で会う友人は少ない。職場にいるときの方が満ち足りているぐらいだ。仕事が終わって、病院に顔を出して、家に帰る。それの繰り返し。家の中には電脳空間に関する論文や雑誌が無数に転がっている。小さな音を立てているサーバは、一般人が手を出すには少しゴツイかもしれない。でもそれだけだ。
『電脳空間の構築に当たって、信彦くんのメガネからデータを抽出することはできますか? 』
思い返したのは小此木医師の言葉だ。
試験段階にある電脳空間の質を上げるために、信彦のデータが欲しいと言われた。どう扱うのかは分からないが、電脳メガネには確かに生前に取捨選択した全てが記録されている。それは人格といっても過言ではないくらいに。
事故の影響で破損していた電脳メガネは、幸枝の手によって全てのデータを抜き終わっている。抜き終わったデータは小此木医師の元へ届けた。勇子が精神を癒すために必要と言われれば、使うあてのない電脳メガネを役立てることの有効性はわかる。
後悔がないわけではなかった。
メガマスの怠慢で信彦が死んで、それでメガマスが勇子を救おうとしている。どうして、私がなにかをしなくてはならないのか。でも幸枝には一抹の悔しさがあった。信彦に「無理」といったことが、実際には叶えられてしまう現実。電脳空間という限られた場所であっても、データの積み重ねで故人が疑似的に蘇るなら。望む人はごまんといるだろう。勇子がそれを望んでいるように。電脳空間の中で、勇子は「望みの世界」で暮らしているらしい。勇子の願いとか意志とかに反応して、電脳空間が構築されていくのだとか。
ずきずきと痛む頭に手を添えて、明日の仕事について考える。そうだ、そろそろ小此木医師に発注されていたペットマトンが完成するのだ。完成したら小此木医師に届けて、それで。…サーバの中にしまったデータはバレないだろうか。バレたらどうしよう。
幸枝の意思が反映されない要求によって、意識が眠りに落ちていく。
幸枝の夢の中に出てくるのは、いつも彼女が存在しない天沢家の幸せな一日の様子だ。楽しそうに笑い声を上げる勇子。勇子に付き合ってくれる信彦。見守る夫婦の様子。
目覚めた幸枝が覚えているのは、寂しさだけだ。
・・・
・・
・
会社が終わり病院に向かう。前よりも混んだ道のりも、同僚と食べに行く夕ご飯もないけれど気にならなくなった。夕暮れの茜色の空というのは、いつの季節も同じような色をしている。影の角度が違うとか、そういうのは置いて。不思議と不安で、落ち着かない気持ちになるのが夕方だった。
夕日の差し込む病室の中、勇子は静かに眠っている。随分と穏やかな顔で眠るようになった。随分と時間がすぎた。それでもまだ眠りから覚めない。肉体的な損傷はもう癒えきったという。あとは勇子の心を待つしかない。
幸子も同じだ。じわじわと回復してきているというが、幸枝には詳しい状態がわからない。一日の大半を眠っているし、会話をしても反応がわからないときがある。でも、そんなときは決まって幸せそうに微笑んでいるのだ。
義父母と時々、義理の姉夫婦が一緒に見舞いに来る。時間帯が合うこともあれば、合わないこともあった。挨拶を交わして、簡単な身の回りの状況を話す程度だったが不安が和らぐような気がした。
ぼんやりと幸子の様子を視界に入れて、幸枝は数か月のことを思い返していた。代り映えのない日々だが、良くなることも悪くなることもない。小康状態というのがふさわしい言葉だろう。メガマス病院は丁寧に接してくれた。それが上層からの指示かはわからない。でも、それでも幸枝はそれがありがたかった。
病室にノックが響いたのはそんな時だった。
「こんにちは。ああよかった。幸子さんの病室でしたか」
「勇子ちゃんの病室に行ったらもういなかったから、ちょっと急いでしまいました」と言いながら、額に浮かんだ汗をぬぐうのは小此木医師だ。人の好さそうな顔を柔らかくしている。それに対して幸枝は焦る。なにせ受付で小此木医師に会いたい旨を告げたものの、場所は言わなかったからだ。小此木医師は新技術の開発も、現役医師としても必要とされる忙しい人なのだ。それに、これは患者の家族と医師ではなく──顧客と企業としての面があったから。
「すいません! ちゃんと時間と場所をちゃんと伝えておけば良かったですね…。申し訳ありません。
…本当ならきちんとアポを取ってお渡しするべきなんでしょうけど・・・、病院に来たらお会いできるかと思って。こちら、ご注文の品になります」
「ああ、ありがとうございます。きっと病院で会うことになってたでしょうからね、気になさらないでください」
「ご注文の通りにデータに、あそびがあるようにしてあります。ただ、条件のとおりにプログラムを組んだのですが、現在のサーバとの兼ね合いであまり大きな余分があるわけではないです。お気をつけください。うちのペットメモリアルサービスにも入っています。
それから…、その」
「?」
「お代は結構です。小此木先生には本当にお世話になっていますから。──これからも、勇子のことをどうかよろしくお願いします」
勢いよく頭を下げた。
幸枝の言葉に、小此木医師は表情を少しだけ固くした。
電脳ペットは安いものではない。それも特注品になれば値はそこそこ張る。幸枝にはその金額を支払うのに困らないだけの貯蓄があり、そうするだけの理由があると思っていた。メガマス社を信頼することは難しいが、小此木医師のことは信頼できると思った。だから、これはある意味では保険で必要なことだ。
小此木医師は幸枝の考えなど分からないだろうに、思うところがあるようであった。
「──いいえ、そういうわけにはいきません。勇子ちゃんは私の患者ですから、ちゃんとやります。でもね、幸枝さん。これはね、この電脳ペットは孫娘のプレゼントにするつもりなんです。だからね、私はちゃんとお金を払いたいんですよ」
「ですが、」
「ねぇ幸枝さん。幸枝さんはね、大変よく頑張っています」
「え、はい…? ありがとうございます…」
突然の話題の転換についていけない幸枝をよそに、小此木医師は顔を一度撫でて、うんうんと頷く。それから両手に電脳ペットの情報が入ったデータチップを持ち直して、じっと幸枝の目を見つめた。
「勇子ちゃんは、誰がそばにいても信彦くんのことを察して眠りについたでしょうし、幸子さんも体がそもそも限界だった。これはあなたにどうしようもできないことです。
どうしようもできないことをね、頑張るっていうのは若さの象徴みたいなもんですけど。あんまり頑張りすぎると疲れてしまうね。幸枝さん、なんでもかんでも自分のせいにする必要はない」
背中に冷や水が流れたかと思った。それと同時に脳みそが沸騰しそうなほど熱い。「どうして」と頭の中でぐるぐると回っている。幸枝はこれまでの人生で、こんなにも内心の思いを突くような言葉を受けたことがない。いつもみんな、幸枝がしっかりしていると言った。楽しいことがあって幸せね、と言った。どうしようもないから夢中でいることに腐心してきた。知らせるつもりもなかった。
「幸枝さんの気持ちは嬉しいし、分かるつもりだよ。だけどね、せっかくの孫娘のプレゼントだから代金はちゃんと支払いますからね」
「ありがとう」と小此木医師は何度も幸枝にそう言ったけれど、ありがとうと言いたいのは幸枝の方だった。幸枝はやっぱりまだまだ"若者"だった。小此木医師の経験には勝てない。小此木医師の言おうとしていることは分かる。でも、必要と思ってやったことが「無意味」になってしまい、それはそれで落ち着けなかった。でも確かに、心が少しだけ軽くなったような気がした。
勇子の今の状況についても簡単に教えてくれた。この調子でいけば秋頃には目覚められるようになりそうだと。先が見えてくると、不思議と気力が湧いてくるようだった。出口のない長いトンネルに、ようやく光が差してきた。幸枝にできるのは待つことだけだったけど、それも上手くできるような気がしてきた。
・・・
・・
・
夏が終わり、秋がやってきた。暑さは随分と落ち着いて、過ごしやすい日々が続いてる。小此木医師は言葉の通りに、「もうすぐ勇子ちゃんは目覚めるでしょう」という話をしていた。
土曜日、久しぶりに病院で天沢の義父母と義姉夫婦と顔を会わせた。予定を合わせたのではなく、偶然にも同じ時間帯に居合わせたのである。
「あらー、幸枝ちゃん。久しぶりねぇ。元気にしてた? 」
「お久しぶりです。元気でしたよ、お義母さんたちはどうでしたか? 」
勇子の病室に入って、あまりの人口密度に圧迫感すら感じた。こんなに人がいるのは珍しい。
義父母は穏やかな顔で椅子に座っていたし、義姉夫婦は窓から外を眺めていた。
「最近はねぇ足が悪くなってきたものだから、調子がいい時とこの子たちの都合のいい時にしか来てなくてねぇ。幸枝さんは毎日来てるんでしょう。悪いわねぇ」
「気になさらないでください。好きでやってることですから」
病院に見舞いに来たとして、やるべきことはない。時折目覚める幸子とは違い、目覚めない勇子にはできることは本当にない。普段の幸枝なら、そばに座って今日あったこととか、季節の様子を話す。しかし、今日は自分以外の人間がいるからそうするのも恥ずかしい。
迷った幸枝は勇子の体調について話すことにする。
「小此木先生から聞きましたか? 勇子、もうすぐ目覚めるかもしれないって」
「聞いたわ。嬉しいわね…、でも少し不安だわ」
「そうですよね…」
信彦が死んだことを知って、眠り続けるほどに傷ついた勇子だ。眠りの中で心の傷が癒されて、それで目覚めてどうやって説明したらいいものか。
幸枝や天沢の家は、長い時間をかけて信彦の死を受け入れた。勇子はどうだろうか。受け入れられるだろうか。
過ぎた時間は戻らない。置いていかれたことを認められるだろうか。どうやって接したらいいだろうか。それに、幸子はまだ母親に戻れない。しらず握りしめた手に力が入る。
「幸枝ちゃん。勇子が目覚めたらね、うちで引き取ろうと思うの」
病室の中に驚きの声はなかった。天沢の家ではもう十分に話し合われた話題であるらしかった。だからこそ幸枝は居心地が悪い。考えないといけないことではあったけれど、幸枝が意図して考えてこなかったことでもあった。幸枝は勇子のことが好きだったけど、一緒に生活することを想像することが難しかった。でも、天沢の家に任せてしまうのも違う気はしていた。
「…えぇ、」
「幸子さんはまだ、退院できるような状況じゃないし、あなたも子どもの面倒をみるのは難しいでしょう? うちならこの人もいるし、曲がりなりにも経験はしているから、ね」
「大丈夫よ」と言いながら微笑む義母に、情けないことに幸枝は安堵した。肩に入った力が自然と抜けて、うまく頭が回らない。なにかがこみあげて、目の奥が熱く痛んだ。不必要な言葉が出そうで、幸枝はただ口を引き結んで小さく頷くだけだった。それが精一杯。
「……すいません」
小さく口の中で囁くように言った言葉は、義母に届いたようだった。困ったように眉を下げて「気にしなくていいの、あなたは若いんだから」とそう言って、義父と頷き合った顔には小此木医師と同じように、重ねてきた経験が見えた。
ノックが響いたのはその時。
滑るように扉が開いて、穏やかな表情の小此木医師が入ってきた。
「ああ、皆さんお集まりでよかった。すこし、お話ししたいことがあります」
今までこの手の切り出し方で「良い話」が出た覚えがない。その勘は当たって、小此木医師のはなしはいい話ではなかった。この場にいる人間の中でもっとも理解しているのは幸枝だろう。義父母も義姉夫婦もぱっとした顔ではなかった。
「今までの感触からすると、そろそろ勇子ちゃんは目覚める準備ができるはずでした。しかし、なんらかのアクシデントで精神状況が悪化しています。…解析の結果だと外部からの不正なアクセスがあったようでして、本当に申し訳ありません。こちらの不手際です。
それと、これからの対処についてですが…、このまま電脳空間から勇子ちゃんが出てこないようであれば、どうにかして解決します。こちらは現状の資料になります。詳しくは、そちらの資料を追いながら…」
・・・
・・
・
秋の冷えた寒空の下、他人の葬式に参列した。自分の身内以外での葬式は初めてで、義姉夫婦と一緒なのは心強いような気まずいような心持ちだ。粛々と進む告別式に、黒い服の人々。何を考えているか分からない横顔。それにしても、随分と規模の大きな葬式だと思った。すし詰め状態で、それでも入りきらない人たちのために廊下が開けられた。
小此木医師が亡くなった。惜しむべき人だった。
喪主は小此木医師の奥方ということで、人が引ききらない中を縫って一言だけ挨拶をした。義父母は体調がすぐれないのためか、今回の葬儀には参加をしなかった。
小此木医師は言葉のとおりに、勇子を現実に連れ戻して、その結果に命を落とした。電脳空間に意識をやった勇子を現実まで連れ戻すには、意識をそこまで連れて行かなければならない。しかし人間の意識だけを電脳空間に運ぶのは難しいことだ。コイルスの研究中の技術にあったものの応用のようだが、子どもの精神ともしくは強いイマーゴ体質の人間にしか適用されない。では小此木医師がそれを強行すればどうなるか。勇子を迎えに行った意識は、そのまま体に戻ることなく衰弱死だ。小此木医師はひとつの命を救って、それで命を落としたのだ。
何とも言えない、胃が重くなるような気持ちだった。小此木医師の奥方は、こちらを責めるような言葉を言わなかったけれども、責めてくれた方が気持ちが楽だったかもしれない。
小此木医師は優れた医師でありながら、技術者としても素晴らしい人だった。人としても堅実で豊かな経験を感じさせる人だった。惜しい人だった。幸枝のことをきちんと認めてくれる人だった。家族じゃないのに、家族以上に気づかってもらった。本当に感謝の言葉が足りないくらいに。
勇子は目を覚ました。
眠っていた時間を忘れてしまったように、起きてからはずっと信彦に会いたいと言っている。リハビリで体を動かしながら、少しずつ日常を取り戻す予定になっている。事故で失った時間は短くはない。それを取り戻さなくてはならない。小此木医師が亡くなる二日前に目を覚まして、少しずつ今を取り戻している。
引き継いだ医師は精神状況を鑑みて「信彦は意識を失っている」ということにすることを提案した。誰もそれに反対しなかった。それくらいに勇子の必死さは強烈だった。──この世の全てを捨てても信彦と会いたがっている。それは幸枝が感じたものであるが、他の人たちもそう変わらない印象を受けたように思う。丸い瞳に疑問だけを乗せて
「お兄ちゃんは? 」
と聞かれた義父母が答えに苦しんだのだ。答えの間に不安になって、何度も何度も繰り返して聞き返す。記憶が欠如していると判断するのに時間はかからなかった。
あまりに、あまりな結末だと思った。勇子の精神は落ち着いてはいるが、それは「信彦の死がなかったこと」になっているからだ。あの時に苦しんで心を閉じたのは「信彦が死んだから」なのに。それではどうして、小此木医師が死んでまで勇子を連れ帰って来たのか分からないではないか。いいや、勇子が死んでしまっていいというわけではない。そうではない。でも、現実はあんまりにも非情だった。
それから、それから。
時間は止まることなく進んでいく。勇子は感情を取り戻す。事故以前よりずっと控えめではあったけれど、言葉をつくして要求を伝えるようになった。彼女が一番はじめに欲しがったのは「電脳メガネ」。その時に、幸枝は言語にしがたい感覚を味わった。虚無感のような寂しさのような、怒りのように苛烈ではないが悲しみではない。
病院に何度も見舞いに行った。看護師とは顔見知りになった。勇子は幸枝を慕ってくれる。でも、幸枝はそれを続けることが難しくなってきた。どうしたらいいのかが分からなくなってきたのだ。正しいか、正しくないか。幸枝の行動原理がエラーを吐き始めた。
*****
『…現在、お呼び出しできない状態にあるか、通信圏外にいる可能性があります。音声ガイダンスに従って──』
「アー、もしもし勇子? 元気にしてる? 天沢のおばあちゃんから引っ越したって聞いたけど、引っ越しは無事に終わった?
・・・
・・
・
…大黒市に来るんだってね。時間があったらご飯でも食べに行かない? ──姉さんの調子は相変わらずだよ。もうちょっと時間がかかるみたい。時間があったら…、アー、連絡待ってるよ。勇子の声が聞きたいな。またね』
電話の留守番電話サービスに入っているのは聞き慣れた声だ。幼少期から、それこそ生まれた頃から聞いてきた声。母親方のオバの幸枝は、いつまでたっても電話やメールをやめない。勇子がどれだけ冷たく当たっても、返事を返さなくてもずっと諦めない。いい加減にすればいいと思う反面、どこかで声を聞くと安心する。そういう複雑な気持ちを抱くのが地村幸枝という人物だった。
天沢の祖母に引き取られてから、オバは勇子に会う時間を少しずつ減らしていった。もちろん距離的なことを考えると難しいことだったかもしれないけれど、でもそれに勇子は落胆した。
電脳メガネを始めてもらったのも、2台目をくれたのもオバだったから。勇子の考えを応援してくれると思っていたのに。小さい頃からなんだって教えてくれたのはオバだった。母とお兄ちゃんとお父さん、それに時々だけどオバが加わってそれが嬉しかったのに。勇子の心にはオバに裏切られた気持ちがあった。
勇子は何もできない少女じゃない。ひとりでなんだって出来るつもりはないが、かなりのことは出来るようになったと自負している。実際に彼女はひとりで戦えるだけの力はもっていた。兄が生前に教えてくれた方法。それに、オバが少しだけくれた、兄のメガネのデータ。ひとりで習得しきるのは難しかったが、ネットをうまく使えるようになってからは早かった。似たような人間を見つければ、そこを皮切りに色々と知ることが出来た。実際に会うまで親しくする人間は多くはなかったが、それでも猫目という人間に会えたのは大きかった。
早く知りたかった。勇子は、電脳空間にいるはずの兄に会う方法が知りたかった。必要な準備を整える必要があった。
天沢勇子にはどうしても叶えたい願いがあった。どれだけ無茶をしても叶えたいものがあった。そのためならなんだって出来る。
信彦の通夜には、信彦の友人だという小学生が何人かやってきた。クラスメイトやクラブで一緒だったという子ども。小学校の先生から話を聞いたという。
保護者に付き添われながら焼香をし、戸惑いながら涙ぐんでいるが見えた。信彦には通夜に来てくれる友人がいたらしい。退屈だろうに、子ども達は騒ぐこともなく通夜の最後までいてくれた。
通夜が終わって、人が帰る頃。その中でも年かさと思われる少年がひとり、幸枝に近づいてきた。
「あの、すいません。信彦の言っていた”オバさん”っていうのは、あなたですか?
信彦、あなたのことをよく離していて、相談したいことがあるって言ってたんですけど、話せましたか? 」
「モジョと、よくクラブで遊んでいたんです。教えればいろんな事を覚えていく電脳ペットで、面白くて・・・。みんなが遊んでるのを見て、”オバさんが開発したんだ”って言ってて」
真っ白になった頭で、どうにか返事をしたと思う。目の奥が痛んだ。燃えるように熱く、視界がぼんやりとにじむ。どうにもならない感情が腹の底から湧いてきて、それはいわゆる─後悔とか、憤りとかで─自分の感情が焼き切れてしまわないのが不思議な程だった。
「・・・ありがとう、話を聞かせてくれて」
「いいえ・・・、話しがまとまらなくてすいません。でも、信彦は本当にすごいやつで、おれの友達だったんです。だから・・・」
ほろほろと涙がこぼれていく。少年は「悲しい」と言った。信彦が生きていたことをこんなにも偲んでくれる。信彦はやさしくて、賢い子どもだった。それが死んでしまった今でも消えずに残っている。
葬儀の翌日、病院に行くと勇子はやはり眠っていた。数値的には問題がないというが、不安な気持ちは晴れない。白い顔で眠る勇子の手を握り、声をかける。
「勇子、今日は晴れてるよ。すごしやすいから、帽子をかぶらなくても遊びに行けそうだよ。モジョたちも勇子のことを待ってるよ。ねぇ勇子。早く一緒に遊びに行こう」
「・・・・・・」
返事はない。眠っているのだから当然だ。でもやらずにはいられなかった。ベッドの横に座って、勇子の手のひらの温度を感じる。生きているということが、こんなにも安心するだなんて幸枝は知らなかった。
「勇子、待ってるよ」
布団の中に手を戻して、幸枝は立ち上がる。幸枝にはまだやることがあった。
次に向かうのは、姉の幸子の病室だ。
ノックをして入った姉の病室は、勇子の病室と違って物々しい機械は多くない。検査の結果、何事もなく生活していたのが疑問なほど様々な数値が悪かったらしい。
「姉さん、今日はどう? 」
数日前は興奮して手がつけられないほどだったのに、気持ちが切れたのか一日の大半を眠って過ごしているそうだ。看護師から聞いた話なので確かだが、目覚めている時間帯がまばらなので話しをするのは難しい。無理に起こすのははばかれた。
運悪くというべきか、今日は眠っている。
うすく日の入る病室は気温が整っているのに、どこか肌寒く感じる。個室なので他人の気配もなく、切り取られたかのように不自然な沈黙があった。
「勇子はね、まだ眠ったままだよ。ふたりそろって寝てるなんて、親子だね・・・」
立ったまま話しかけても目覚めない。
幸枝が見たことがないくらい穏やかな顔で眠っている。思えば、幸子の人生は我慢と苦労の連続だったのかもしれない。眠っている今が一番幸せで、目覚めてしまえばまた苦しむばかりの現実に戻ってくるのかもしれない。でもそれは幸枝には分からないことだ。ひとつだけ確かなのは、幸枝が幸子が目覚めるのを待っていることだけ。
大きくため息をひとつ。幸枝は荷物を棚にしまっていく。起きた幸子が困らないように、使ったものはとりかえてしまう。やることはすぐになくなった。ここは看護師の手によって全て整えられていた。
そうやって繰り返した日が7日を超えた時、幸枝たちは1つの決断をする。
「小此木先生、電脳治療について教えてください」
・・・
・・
・
電脳治療は精神に傷を負った子どもたちに向けたものだという。電脳空間との兼ね合いから、大人はまだ実施できないのだとか。電脳仮想空間とでもいうべき領域をつくり、そこで箱庭生活をしてもらう。「安心できる生活」は精神を繋ぎなおすのに持って来いなのだという。
幸枝が覚えているのはこの程度だ。技術者として思うのはコイルスから引き継いだ知識は、メガマスに移行することでますます進歩している。今はまだ子どもしか適用できないが、これが大人にまで適用できるなら。可能性の樹形図があっという間に広がっていくことだろう。まだ試験段階といえ、それでも被験は進んでいるというし、子どもだからこそ言語化できない傷を癒せる場というのは貴重なのではないだろうか。小此木医師が当初に描いていた電脳治療というのが、たった数年でここまで形になっているのは純粋に驚きがあった。
天沢の義父母は安全性についてかなり質問をしていた。精神だけを電脳空間に接続する、なんて言われたところで信じられるものではない。電脳メガネすら満足に使っていない世代だ。幸枝ですら一言で信じるのは難しい。
だが、電脳メガネが今まで実現してきたのは、仮想空間に生まれたものを現実世界に映し出す技術だ。それなら、その逆もおかしくはない。電脳空間に人間が投影されるということだ。人間を物理的に電脳空間に映し出すのは不可能だ。データは3次元のものではないから。しかし、人間の思考は物理的なものではない。状況に合わせて現実世界にデータを投影していたのが電脳メガネ。電脳メガネは微弱な脳波のレシーブ機能によって成り立っている。それを拾い合わせて、電脳空間の中で自由な行動ができるようにすればいい。意志の取捨選択を、電脳空間の中で生きているように行う。悲しいことも苦しいこともない、そんな箱庭を勇子に準備しようという。
接続がうまくいけば成功率は高いという。なんにせよ、勇子の意識が一度も戻らないことに焦りを覚えていた幸枝たちには、電脳治療が蜘蛛の糸のように思えた。メガマスのせいで事故にあった勇子だが、その技術で救われるかもしれないというのはおかしなことだった。
電脳空間の汎用性の高さというのは、いったいどこまでいくものなのか。
病室で勇子の顔を眺めながら、自分の心根を恥じた。
一瞬だったけれど、彼女は勇子を心配するより前に、技術者としての好奇心が前に出てしまった。見たことのないもの、新しいものは幸枝の心を強く引っ張る。けれど、それは今の状態ではふさわしくないだろう。幸枝はまた失敗してしまった。
心は鉛のように重い。心配もある。出口のないトンネルにいるようだ。会社ではミスが増えて、心配そうな顔で見られる。幸子のことも勇子のことも、幸枝に解決できることじゃない。だから時間に任せるしかないことは分かっているのだ。でも出来ない。これじゃだめだと思うのに、うまくいかない。
そうやって仕事や雑事に追われているうちに、信彦の四十九日が来た。諸々の手続きは天沢の家でやってくれた。幸枝は当日にじっと座っていることだけだ。坊主の経も、手続きも幸枝の心を引っ張らない。でも、信彦が死んでから49日もたったのだと思うと、何かがひっかかるような気がした。
四十九日に合わせて、信彦の骨は墓に収められることになった。幸子は天沢の家に嫁入りをしたから、信彦の骨も天沢家の墓に入る。坊主がつらつらとしゃべっていることはわかっても、内容にまでは気が向かなかった。ただ、幸枝の脳みそに深く刻みつけられたのは、真新しい大小の骨壺が並べて置かれたことだ。こんなに早く再会することはなかったんじゃないか、肩を震わせる義母を見て幸枝はそう思った。
傘をさすほどではない雨は、幸枝たちの肩を湿らせた。
ゆっくりと幸枝の生活は元に戻っていく。
新しい日課を含めて、幸枝の仕事でのミスは減って、気を揉むような焦燥も和らいでいく。時間はなによりも人の心をやわく癒していく。信彦がいなくなったことも変わらず、幸子も勇子も目覚めていないのに。それが当たり前になっていく。
家族がいなくなったとして、幸枝の生活に大きな変化はなかった。幸枝が幸子とマメに連絡を取ることはなかった。盆と正月しか面と向かって会話をすることもなかった。
メールで頻繁に意見を交換する相手はいても、生身で会う友人は少ない。職場にいるときの方が満ち足りているぐらいだ。仕事が終わって、病院に顔を出して、家に帰る。それの繰り返し。家の中には電脳空間に関する論文や雑誌が無数に転がっている。小さな音を立てているサーバは、一般人が手を出すには少しゴツイかもしれない。でもそれだけだ。
『電脳空間の構築に当たって、信彦くんのメガネからデータを抽出することはできますか? 』
思い返したのは小此木医師の言葉だ。
試験段階にある電脳空間の質を上げるために、信彦のデータが欲しいと言われた。どう扱うのかは分からないが、電脳メガネには確かに生前に取捨選択した全てが記録されている。それは人格といっても過言ではないくらいに。
事故の影響で破損していた電脳メガネは、幸枝の手によって全てのデータを抜き終わっている。抜き終わったデータは小此木医師の元へ届けた。勇子が精神を癒すために必要と言われれば、使うあてのない電脳メガネを役立てることの有効性はわかる。
後悔がないわけではなかった。
メガマスの怠慢で信彦が死んで、それでメガマスが勇子を救おうとしている。どうして、私がなにかをしなくてはならないのか。でも幸枝には一抹の悔しさがあった。信彦に「無理」といったことが、実際には叶えられてしまう現実。電脳空間という限られた場所であっても、データの積み重ねで故人が疑似的に蘇るなら。望む人はごまんといるだろう。勇子がそれを望んでいるように。電脳空間の中で、勇子は「望みの世界」で暮らしているらしい。勇子の願いとか意志とかに反応して、電脳空間が構築されていくのだとか。
ずきずきと痛む頭に手を添えて、明日の仕事について考える。そうだ、そろそろ小此木医師に発注されていたペットマトンが完成するのだ。完成したら小此木医師に届けて、それで。…サーバの中にしまったデータはバレないだろうか。バレたらどうしよう。
幸枝の意思が反映されない要求によって、意識が眠りに落ちていく。
幸枝の夢の中に出てくるのは、いつも彼女が存在しない天沢家の幸せな一日の様子だ。楽しそうに笑い声を上げる勇子。勇子に付き合ってくれる信彦。見守る夫婦の様子。
目覚めた幸枝が覚えているのは、寂しさだけだ。
・・・
・・
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会社が終わり病院に向かう。前よりも混んだ道のりも、同僚と食べに行く夕ご飯もないけれど気にならなくなった。夕暮れの茜色の空というのは、いつの季節も同じような色をしている。影の角度が違うとか、そういうのは置いて。不思議と不安で、落ち着かない気持ちになるのが夕方だった。
夕日の差し込む病室の中、勇子は静かに眠っている。随分と穏やかな顔で眠るようになった。随分と時間がすぎた。それでもまだ眠りから覚めない。肉体的な損傷はもう癒えきったという。あとは勇子の心を待つしかない。
幸子も同じだ。じわじわと回復してきているというが、幸枝には詳しい状態がわからない。一日の大半を眠っているし、会話をしても反応がわからないときがある。でも、そんなときは決まって幸せそうに微笑んでいるのだ。
義父母と時々、義理の姉夫婦が一緒に見舞いに来る。時間帯が合うこともあれば、合わないこともあった。挨拶を交わして、簡単な身の回りの状況を話す程度だったが不安が和らぐような気がした。
ぼんやりと幸子の様子を視界に入れて、幸枝は数か月のことを思い返していた。代り映えのない日々だが、良くなることも悪くなることもない。小康状態というのがふさわしい言葉だろう。メガマス病院は丁寧に接してくれた。それが上層からの指示かはわからない。でも、それでも幸枝はそれがありがたかった。
病室にノックが響いたのはそんな時だった。
「こんにちは。ああよかった。幸子さんの病室でしたか」
「勇子ちゃんの病室に行ったらもういなかったから、ちょっと急いでしまいました」と言いながら、額に浮かんだ汗をぬぐうのは小此木医師だ。人の好さそうな顔を柔らかくしている。それに対して幸枝は焦る。なにせ受付で小此木医師に会いたい旨を告げたものの、場所は言わなかったからだ。小此木医師は新技術の開発も、現役医師としても必要とされる忙しい人なのだ。それに、これは患者の家族と医師ではなく──顧客と企業としての面があったから。
「すいません! ちゃんと時間と場所をちゃんと伝えておけば良かったですね…。申し訳ありません。
…本当ならきちんとアポを取ってお渡しするべきなんでしょうけど・・・、病院に来たらお会いできるかと思って。こちら、ご注文の品になります」
「ああ、ありがとうございます。きっと病院で会うことになってたでしょうからね、気になさらないでください」
「ご注文の通りにデータに、あそびがあるようにしてあります。ただ、条件のとおりにプログラムを組んだのですが、現在のサーバとの兼ね合いであまり大きな余分があるわけではないです。お気をつけください。うちのペットメモリアルサービスにも入っています。
それから…、その」
「?」
「お代は結構です。小此木先生には本当にお世話になっていますから。──これからも、勇子のことをどうかよろしくお願いします」
勢いよく頭を下げた。
幸枝の言葉に、小此木医師は表情を少しだけ固くした。
電脳ペットは安いものではない。それも特注品になれば値はそこそこ張る。幸枝にはその金額を支払うのに困らないだけの貯蓄があり、そうするだけの理由があると思っていた。メガマス社を信頼することは難しいが、小此木医師のことは信頼できると思った。だから、これはある意味では保険で必要なことだ。
小此木医師は幸枝の考えなど分からないだろうに、思うところがあるようであった。
「──いいえ、そういうわけにはいきません。勇子ちゃんは私の患者ですから、ちゃんとやります。でもね、幸枝さん。これはね、この電脳ペットは孫娘のプレゼントにするつもりなんです。だからね、私はちゃんとお金を払いたいんですよ」
「ですが、」
「ねぇ幸枝さん。幸枝さんはね、大変よく頑張っています」
「え、はい…? ありがとうございます…」
突然の話題の転換についていけない幸枝をよそに、小此木医師は顔を一度撫でて、うんうんと頷く。それから両手に電脳ペットの情報が入ったデータチップを持ち直して、じっと幸枝の目を見つめた。
「勇子ちゃんは、誰がそばにいても信彦くんのことを察して眠りについたでしょうし、幸子さんも体がそもそも限界だった。これはあなたにどうしようもできないことです。
どうしようもできないことをね、頑張るっていうのは若さの象徴みたいなもんですけど。あんまり頑張りすぎると疲れてしまうね。幸枝さん、なんでもかんでも自分のせいにする必要はない」
背中に冷や水が流れたかと思った。それと同時に脳みそが沸騰しそうなほど熱い。「どうして」と頭の中でぐるぐると回っている。幸枝はこれまでの人生で、こんなにも内心の思いを突くような言葉を受けたことがない。いつもみんな、幸枝がしっかりしていると言った。楽しいことがあって幸せね、と言った。どうしようもないから夢中でいることに腐心してきた。知らせるつもりもなかった。
「幸枝さんの気持ちは嬉しいし、分かるつもりだよ。だけどね、せっかくの孫娘のプレゼントだから代金はちゃんと支払いますからね」
「ありがとう」と小此木医師は何度も幸枝にそう言ったけれど、ありがとうと言いたいのは幸枝の方だった。幸枝はやっぱりまだまだ"若者"だった。小此木医師の経験には勝てない。小此木医師の言おうとしていることは分かる。でも、必要と思ってやったことが「無意味」になってしまい、それはそれで落ち着けなかった。でも確かに、心が少しだけ軽くなったような気がした。
勇子の今の状況についても簡単に教えてくれた。この調子でいけば秋頃には目覚められるようになりそうだと。先が見えてくると、不思議と気力が湧いてくるようだった。出口のない長いトンネルに、ようやく光が差してきた。幸枝にできるのは待つことだけだったけど、それも上手くできるような気がしてきた。
・・・
・・
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夏が終わり、秋がやってきた。暑さは随分と落ち着いて、過ごしやすい日々が続いてる。小此木医師は言葉の通りに、「もうすぐ勇子ちゃんは目覚めるでしょう」という話をしていた。
土曜日、久しぶりに病院で天沢の義父母と義姉夫婦と顔を会わせた。予定を合わせたのではなく、偶然にも同じ時間帯に居合わせたのである。
「あらー、幸枝ちゃん。久しぶりねぇ。元気にしてた? 」
「お久しぶりです。元気でしたよ、お義母さんたちはどうでしたか? 」
勇子の病室に入って、あまりの人口密度に圧迫感すら感じた。こんなに人がいるのは珍しい。
義父母は穏やかな顔で椅子に座っていたし、義姉夫婦は窓から外を眺めていた。
「最近はねぇ足が悪くなってきたものだから、調子がいい時とこの子たちの都合のいい時にしか来てなくてねぇ。幸枝さんは毎日来てるんでしょう。悪いわねぇ」
「気になさらないでください。好きでやってることですから」
病院に見舞いに来たとして、やるべきことはない。時折目覚める幸子とは違い、目覚めない勇子にはできることは本当にない。普段の幸枝なら、そばに座って今日あったこととか、季節の様子を話す。しかし、今日は自分以外の人間がいるからそうするのも恥ずかしい。
迷った幸枝は勇子の体調について話すことにする。
「小此木先生から聞きましたか? 勇子、もうすぐ目覚めるかもしれないって」
「聞いたわ。嬉しいわね…、でも少し不安だわ」
「そうですよね…」
信彦が死んだことを知って、眠り続けるほどに傷ついた勇子だ。眠りの中で心の傷が癒されて、それで目覚めてどうやって説明したらいいものか。
幸枝や天沢の家は、長い時間をかけて信彦の死を受け入れた。勇子はどうだろうか。受け入れられるだろうか。
過ぎた時間は戻らない。置いていかれたことを認められるだろうか。どうやって接したらいいだろうか。それに、幸子はまだ母親に戻れない。しらず握りしめた手に力が入る。
「幸枝ちゃん。勇子が目覚めたらね、うちで引き取ろうと思うの」
病室の中に驚きの声はなかった。天沢の家ではもう十分に話し合われた話題であるらしかった。だからこそ幸枝は居心地が悪い。考えないといけないことではあったけれど、幸枝が意図して考えてこなかったことでもあった。幸枝は勇子のことが好きだったけど、一緒に生活することを想像することが難しかった。でも、天沢の家に任せてしまうのも違う気はしていた。
「…えぇ、」
「幸子さんはまだ、退院できるような状況じゃないし、あなたも子どもの面倒をみるのは難しいでしょう? うちならこの人もいるし、曲がりなりにも経験はしているから、ね」
「大丈夫よ」と言いながら微笑む義母に、情けないことに幸枝は安堵した。肩に入った力が自然と抜けて、うまく頭が回らない。なにかがこみあげて、目の奥が熱く痛んだ。不必要な言葉が出そうで、幸枝はただ口を引き結んで小さく頷くだけだった。それが精一杯。
「……すいません」
小さく口の中で囁くように言った言葉は、義母に届いたようだった。困ったように眉を下げて「気にしなくていいの、あなたは若いんだから」とそう言って、義父と頷き合った顔には小此木医師と同じように、重ねてきた経験が見えた。
ノックが響いたのはその時。
滑るように扉が開いて、穏やかな表情の小此木医師が入ってきた。
「ああ、皆さんお集まりでよかった。すこし、お話ししたいことがあります」
今までこの手の切り出し方で「良い話」が出た覚えがない。その勘は当たって、小此木医師のはなしはいい話ではなかった。この場にいる人間の中でもっとも理解しているのは幸枝だろう。義父母も義姉夫婦もぱっとした顔ではなかった。
「今までの感触からすると、そろそろ勇子ちゃんは目覚める準備ができるはずでした。しかし、なんらかのアクシデントで精神状況が悪化しています。…解析の結果だと外部からの不正なアクセスがあったようでして、本当に申し訳ありません。こちらの不手際です。
それと、これからの対処についてですが…、このまま電脳空間から勇子ちゃんが出てこないようであれば、どうにかして解決します。こちらは現状の資料になります。詳しくは、そちらの資料を追いながら…」
・・・
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秋の冷えた寒空の下、他人の葬式に参列した。自分の身内以外での葬式は初めてで、義姉夫婦と一緒なのは心強いような気まずいような心持ちだ。粛々と進む告別式に、黒い服の人々。何を考えているか分からない横顔。それにしても、随分と規模の大きな葬式だと思った。すし詰め状態で、それでも入りきらない人たちのために廊下が開けられた。
小此木医師が亡くなった。惜しむべき人だった。
喪主は小此木医師の奥方ということで、人が引ききらない中を縫って一言だけ挨拶をした。義父母は体調がすぐれないのためか、今回の葬儀には参加をしなかった。
小此木医師は言葉のとおりに、勇子を現実に連れ戻して、その結果に命を落とした。電脳空間に意識をやった勇子を現実まで連れ戻すには、意識をそこまで連れて行かなければならない。しかし人間の意識だけを電脳空間に運ぶのは難しいことだ。コイルスの研究中の技術にあったものの応用のようだが、子どもの精神ともしくは強いイマーゴ体質の人間にしか適用されない。では小此木医師がそれを強行すればどうなるか。勇子を迎えに行った意識は、そのまま体に戻ることなく衰弱死だ。小此木医師はひとつの命を救って、それで命を落としたのだ。
何とも言えない、胃が重くなるような気持ちだった。小此木医師の奥方は、こちらを責めるような言葉を言わなかったけれども、責めてくれた方が気持ちが楽だったかもしれない。
小此木医師は優れた医師でありながら、技術者としても素晴らしい人だった。人としても堅実で豊かな経験を感じさせる人だった。惜しい人だった。幸枝のことをきちんと認めてくれる人だった。家族じゃないのに、家族以上に気づかってもらった。本当に感謝の言葉が足りないくらいに。
勇子は目を覚ました。
眠っていた時間を忘れてしまったように、起きてからはずっと信彦に会いたいと言っている。リハビリで体を動かしながら、少しずつ日常を取り戻す予定になっている。事故で失った時間は短くはない。それを取り戻さなくてはならない。小此木医師が亡くなる二日前に目を覚まして、少しずつ今を取り戻している。
引き継いだ医師は精神状況を鑑みて「信彦は意識を失っている」ということにすることを提案した。誰もそれに反対しなかった。それくらいに勇子の必死さは強烈だった。──この世の全てを捨てても信彦と会いたがっている。それは幸枝が感じたものであるが、他の人たちもそう変わらない印象を受けたように思う。丸い瞳に疑問だけを乗せて
「お兄ちゃんは? 」
と聞かれた義父母が答えに苦しんだのだ。答えの間に不安になって、何度も何度も繰り返して聞き返す。記憶が欠如していると判断するのに時間はかからなかった。
あまりに、あまりな結末だと思った。勇子の精神は落ち着いてはいるが、それは「信彦の死がなかったこと」になっているからだ。あの時に苦しんで心を閉じたのは「信彦が死んだから」なのに。それではどうして、小此木医師が死んでまで勇子を連れ帰って来たのか分からないではないか。いいや、勇子が死んでしまっていいというわけではない。そうではない。でも、現実はあんまりにも非情だった。
それから、それから。
時間は止まることなく進んでいく。勇子は感情を取り戻す。事故以前よりずっと控えめではあったけれど、言葉をつくして要求を伝えるようになった。彼女が一番はじめに欲しがったのは「電脳メガネ」。その時に、幸枝は言語にしがたい感覚を味わった。虚無感のような寂しさのような、怒りのように苛烈ではないが悲しみではない。
病院に何度も見舞いに行った。看護師とは顔見知りになった。勇子は幸枝を慕ってくれる。でも、幸枝はそれを続けることが難しくなってきた。どうしたらいいのかが分からなくなってきたのだ。正しいか、正しくないか。幸枝の行動原理がエラーを吐き始めた。
*****
『…現在、お呼び出しできない状態にあるか、通信圏外にいる可能性があります。音声ガイダンスに従って──』
「アー、もしもし勇子? 元気にしてる? 天沢のおばあちゃんから引っ越したって聞いたけど、引っ越しは無事に終わった?
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…大黒市に来るんだってね。時間があったらご飯でも食べに行かない? ──姉さんの調子は相変わらずだよ。もうちょっと時間がかかるみたい。時間があったら…、アー、連絡待ってるよ。勇子の声が聞きたいな。またね』
電話の留守番電話サービスに入っているのは聞き慣れた声だ。幼少期から、それこそ生まれた頃から聞いてきた声。母親方のオバの幸枝は、いつまでたっても電話やメールをやめない。勇子がどれだけ冷たく当たっても、返事を返さなくてもずっと諦めない。いい加減にすればいいと思う反面、どこかで声を聞くと安心する。そういう複雑な気持ちを抱くのが地村幸枝という人物だった。
天沢の祖母に引き取られてから、オバは勇子に会う時間を少しずつ減らしていった。もちろん距離的なことを考えると難しいことだったかもしれないけれど、でもそれに勇子は落胆した。
電脳メガネを始めてもらったのも、2台目をくれたのもオバだったから。勇子の考えを応援してくれると思っていたのに。小さい頃からなんだって教えてくれたのはオバだった。母とお兄ちゃんとお父さん、それに時々だけどオバが加わってそれが嬉しかったのに。勇子の心にはオバに裏切られた気持ちがあった。
勇子は何もできない少女じゃない。ひとりでなんだって出来るつもりはないが、かなりのことは出来るようになったと自負している。実際に彼女はひとりで戦えるだけの力はもっていた。兄が生前に教えてくれた方法。それに、オバが少しだけくれた、兄のメガネのデータ。ひとりで習得しきるのは難しかったが、ネットをうまく使えるようになってからは早かった。似たような人間を見つければ、そこを皮切りに色々と知ることが出来た。実際に会うまで親しくする人間は多くはなかったが、それでも猫目という人間に会えたのは大きかった。
早く知りたかった。勇子は、電脳空間にいるはずの兄に会う方法が知りたかった。必要な準備を整える必要があった。
天沢勇子にはどうしても叶えたい願いがあった。どれだけ無茶をしても叶えたいものがあった。そのためならなんだって出来る。