イサコの母方のオバ。転生者だけど原作知識はなし。人間としては割とダメだけど、転生した人間としてはまずまずな性質。
コヨーテの歌
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病院に駆けつけたとき、姉は錯乱状態で眠らされ、甥と姪は緊急手術の最中だった。その場には天沢の親類もいた。
「ど、ういう状況なんでしょうか…! 」
息せき切って看護師に聞けば、難しいところだという。事故による身体の損傷は子供の体力を当てにするしかないと。
それも、信彦が多くの傷を負って勇子をかばった様子があるという。
心の中を暴風のような焦燥が暴れ回っていた。きつく食いしばっていなければ今にも不安を叫んでしまいそうだった。たまらなく情けなくて、怖くて、見えない相手に許しを請いたかった。
足早に去って行く看護師に礼も告げず、幸枝は備え付けの椅子に崩れるように腰を下ろした。自然と項垂れる頭に、震える両手で顔を覆った。
姉は別室で鎮静剤で眠っていた。ひどい取り乱し方だったと看護師は同情していた。
病室で姉は死んだように眠っていた。青ざめた肌、落ち窪んだ目。前に会ったとき───家を出た日が最後だという事に気がつき、幸枝は胃の中に氷が落ちてきたような思いだった。───あの時は、もっと健康的な顔つきだったのに。
側のイスに腰掛けて、幸枝は悔いた。情けなくて涙が出た。悲しくて、何も出来なくて自分を哀れんだ。だって、幸枝はなにもしなかったのだ。
ぎゅうぎゅうと手のひらを握ったって戻らない。痛みが罰にはなり得ない。時間が戻ることはありえない。黒い淀が心の底にたまっていくようだった。重たく粘ついたそれが、幸枝の今までの時間を否定する。「どうしてお前は気が付かなかった」と。「お前が楽しいとき、姉が苦しんでいることがわからなかったのか」と。
夕暮れの最後の光が差し込む廊下に、手術のランプが緑に光っている。じりじりと時間が妙に遅い。神に祈る気持ちがよく分かった。
天沢の親族は──信彦と勇子の祖父母にあたる人達──、難しい顔で座っている。姉のベッドの横に、本当は幸枝がいた方がいいのかもしれない。でも、幸枝が立ち上がるには疲れ切っていた。
「幸枝さん、幸枝さん」
悄然と項垂れる幸枝に声をかけたのは義母だ。その表情は疲れが見えた。それで「隣に座っていいか」と声をかける。頷く幸枝を確認して、彼女は座った。
「ねぇ、つらいねぇ」
「そうですね」
「もうちょっと頑張ろうねぇ。信彦と勇子が頑張ってるからね」
「はい……」
そう言って、幸枝と目を合わせてかすかに笑ったようだった。やさしい人なのだろう。ほとんど顔を合わせたことのない幸枝にも気を遣ってくれる。
だけれど、不安は消えない。焦燥は和らがない。他人を意識するようになった分、気持ちが割かれてどうしたらいいのか分からなくなった。
幸枝は、幸子の妹として彼女の元に行くべきなのか、ここで待つべきなのか。このままこの人と話すべきなのか、黙していいのか。ぐるぐると頭の中が回る。
ばつり。
手術中のライトが消えた。
それに反応するのは廊下にいた3人。立ち上がり医師が来るのを待つ。不安が強い。心臓が強く動いているのが分かる。リノリウムの床に曖昧な影が伸びているのを見た。
スリッパの音がばたばたと近寄ってくる。ドアが開いて、グリーンの手術着を着た医師がどこか疲れた様子で幸枝たちを見ていた。
「天沢、信彦くんと勇子ちゃんのご家族ですか? 今回担当をした桜田と申します」
自然に頭が下がる。重力に引きずられるような下げ方だった。
それも当然だと思う。医師の暗い声のトーンは、それだけで幸枝たちに結果の一つを想像させた。
「大変申し訳ありません。私たちの力不足で信彦くんを助けることはかないませんでした……。
勇子ちゃんは今、かなり危ないところですが命を繋げている状況です。これについては、私より専門の者から別室で説明をさせていただきます」
凍り付いたように、とはこういうことを表現するのだと幸枝は知った。視界に入る天沢の義父母は表情が固まり、桜田医師の言葉を理解しきれていないようだった。かくいう幸枝もそうで、表情筋がうまく動かずやたらと喉が渇いた。それで声を出すのもつらい。
想像よりは幾分良かったのかも知れない。でも、それを「良かった」と表現するのは人間として間違っているし、それに理解が追いつかない。言葉の意味はわかるのに現実を受け入れがたくて怖くて、もうそれはどうにもならない事実であった。ぼろぼろと涙がこぼれて、もう言葉の一つも上手く出なかった。
天沢の方もそれは一緒で、義母はもう呻き声を抑えることもできず泣いていた。義父は表情に見えないだけで、ぐっと歯を食いしばっているようだった。申し訳なさそうな顔で立つ医師も、別に悪いわけではない。彼は手を尽くしただろう。
でも。でもまだ幸枝たちは立ち止まれなかった。
悲しんでいるだけでは済まなかった。まだ、まだやらなくてはいけないことが、考えなくてはいけないことがある。生き残った、まだ頑張っている勇子がいるのだから。それが、幸枝の心を強く励ます。
「……手を尽くし下さり、ありがとうございます。案内をお願いします」
涙をぬぐいながら、鼻をすすりながら頭を下げた幸枝がどう見えたか分からない。桜田医師は一度、深くうなずいて幸枝たちの前を歩き始めた。誰もなにも話すことはなかった。でも、考えていることはきっと一緒だろう。幸枝は袖でぐいぐいと目を拭って、挑むように廊下を進む。その先に成功があることを信じて。
「今回の治療について担当になる小此木医師です」
個室で待機していたのは、幸枝もよく知った顔だった。好々爺然とした人の良さそうな顔、医療に対する熱意を持った人。一瞬、目を見張った小此木医師は顔を隠すように深く礼をした。
(そうだ。ここはメガマスの系列だし、小此木先生は病院の先生だ)
「…、小此木です。よろしくお願いします」
「地村です。……今回、事故に遭ったのは姉の娘にあたる、天沢勇子になります」
「それではまず、今回の症例についてお話しさせていただきますが…。幸子さんはまだお目覚めではないですか? 」
当然の質問であったが、その場にいる人間に確認できる者はいなかった。移動している間に頭の中をかすっていたが、確認に動ける場面ではなかった。そう伝えれば、側に控えていた看護師が確認に行ってくれたらしい。まだ薬が効いていて、眠ったままであるらしい。
「そうですか…、いや、そのほうがいいかもしれない。では、幸子さんが目覚めた際にはもう一度説明することになると思います。これは皆さんにとって聞きなじみのない話になるでしょうから」
こわばった表情のまま椅子に座った5人。看護師は小此木医師の後ろで静かにメモをとっているだけだが、その場にいる人間はみんな緊張していた。老年の域にある小此木医師もである。メガマス社としての評価をかけた説明であるからだ。
「今回の事故には様々な条件が重なっています。……電脳メガネをつけていれば、電脳空間とのリンクによって制御された車との接触事故は"普通"、防げるはずでした。しかし、これが上手く働いていません。このバグについて私は専門外なので言及はいたしません」
「そんな…! あなたの会社がきちんとしてないから起きた事故ってことじゃないか!」
そうだ、その通りなのだ。いきり立つ義父にその反応が当然であっても、幸枝は同じように反応することができなかった。その可能性は、開発の現場で働いている彼女自身が薄々と勘づいていたことだった。徐々にずれていく電脳空間との齟齬、頻発する事故とバグ。それでも見ないふりをして、電脳メガネの楽しさに夢中になっていた。
それが、こんなことになるなんて。
「ええそうです。これは私たちの怠慢です。なので万全な状態で治療に当たらせていただきますし、治療費はこちらで受け持たせていただきます。
信彦くんがかばったおかげで、勇子ちゃんは比較的軽傷で済みました。それも手術がうまくいったので、生命にかかわるような状態ではありません。ですが、この後も経過観察が必須です」
「お金がなんだっていうの! そんなバグだか何だか知らないけど、それがなければ信彦は死ななかったのよ!? それをのうのうと! 人の命をなんだと思ってるの」
ひしゃげたような声だった。感情が重すぎて、言葉をつぶしてしまっている。それくらいに悲しくてつらくて、怒りに満ちた言葉だった。顔をくしゃくしゃにして、泣き始めた義母は顔を俯かせている。反対に義父はじっと小此木医師のことを見つめていた。
「大変申し訳ありません……。出来うる限りの手を尽くします」
「あなたは謝ってくれるけどね、実際に会社はそれをどう考えているんだい? 言い方からすると、他に何件も起きているようでしょ。起きた時に解決していればうちの子は助かったかもしれないだろう?」
「はい…、申し訳ありません。本当に申し訳なく思っています」
大きなため息が義父の口から漏れた。それは許す意味の区切りではなく、諦めのこもったため息だ。何を言っても変わることのない返答を分かっているのだ。それも末端の人間に言ったところで変わらない。裁判でも起こさない限りは態度を改めないだろうし、メガマスは今までの被害者を黙らせてきたように手厚くもてなすのだろう。
それが幸枝にもわかった。幸枝に言えることはなかった。非難をするには業界が近かったし、顔見知りをなじるには人生経験が足りなかったかもしれない。信彦が死んだことも現実感がなかったし、勇子がいまだに意識を取り戻していないことも受け入れ切れていなかった。ただ、混乱と悲しみは心の中に渦を巻いている。
「それと、伝えなければならないことがあります。……、勇子ちゃんは日常的に暴力を受けていた可能性があります」
「は?」
一度深く下げられた頭を眺めた後、幸枝と目が合った小此木医師はそう言った。口が塞がらないというのはこういうことなのだろうか。幸枝は頭の中でもう一度、小此木医師の言葉を繰り返した。「ぎゃくたいを、うけていた可能性が、ある」勇子が、誰に? あの家にいたのは幸子と信彦と勇子だけ。なら、それは。
「確証があるわけではありません。ですが、可能性としては幸子さんからでしょう」
嘘、うそうそ。だって、幸子は姉は勇子のことをとっても大切にしていたのに。信彦も勇子も大切だって、仲良く暮らしていたじゃないか。それは、それはいつのことだっけ。ああ、それはずっと前のことだった。幸枝は仕事に夢中になって、姉のことをほっぽっていた自分のことを恥じた。恥じるという言葉は彼女の心情を表すには生ぬるい言葉だろう。自分を責めた。とても強く。
「もう一点、幸子さんは既往症をお持ちですか? 先ほど看護師から受け取った資料によると、取り乱した時に体調が悪そうな身振りがあったのと、お持ちのお薬手帳に相当の記載がありましたが…」
「…はい、姉は小さい頃から体がつよくなかったので」
「一度、検査を受けるべきかと思います」
その検査もこちらで行いますので、と言った小此木医師はメガネでその表情がよくわからなかった。誰もがそれ以上を話すことなく、居心地の悪い沈黙が続いた後に信彦と勇子のところに案内されることになった。
空気はどこまでも重くて、足音だけがやけに大きく聞こえる。他の入院患者の声も生活の音もあるというのに、不思議なほど耳に入らない。
幸枝の前を歩いている、ふたりがどう思っているかは分からない。顔が見えなければ一言もしゃべらない。何を思っているのかも、これからどうしたら良いのかも分からなくて。ただ、メガマスのせいでこんなことになっているのだと、ぼんやりと理解していた。
さほど歩いたわけではないが、隔離された長い廊下に4422と4423と書かれた札が現れる。一般病棟からは離れた位置だ。ぶらぶらと歩いていてはこんな場所にまでは来れないだろう。
「4422が信彦くんで、4423が勇子ちゃんの病室になります」
看護師が深く頭を下げているのを見て、自分がどうしてここに立っているのかを瞬間忘れてしまった。この人がどうして頭を下げているのかも理解できない。
義母と義父は静かに勇子の病室へと入ったから、(ああ)と思いながら信彦の病室へ足を踏み入れた。
整然とした部屋だった。
病院はどこも似たような部屋だが、それを鑑みても白くて何もなくて、見慣れた信彦すらも白くて。肌を清められて、静かに横たわった信彦があまりにも眠っているようで。
もう耐えられないと思った。
視界が歪んだと思ったら、もう後から後から熱い涙が押し寄せてくる。誰も幸枝のことを見ている人はいなくて、どうしたら正しい判断なのかがわからなくて。それ以上に失われていくものが悲しくて。幸枝は信彦のベッドに近づくことすら怖かった。
近づいていく信彦の、小さな肩とか幸子に似た鼻筋とか。はっきり見えるだけ近づいて、それでやっぱり信彦がそこで、命を失っていることがわかってしまった。言葉にならない、表現するには凶暴な感情だ。荒れ狂って幸枝の心の中をめちゃめちゃにする。
喉の奥から呻きが漏れて、拭ったぶんだけ落ちてくる涙が落ちてくる。食いしばった歯の間から、獣みたいな声が漏れた。がんがんと頭が痛む。耐えきれなくてベッドの側に膝をついた。触れた信彦のその手の冷たさに、触れなければよかったと後悔した。まだ幸枝の手のひらに納まる大きさで。ベッドだってまだまだ余白が多くて。本当はこれから大きくなって、たくさんのものをつかめるようになって、もっともっと自分の好きなことができるはずだったのに。それは永遠に失われてしまった。
うめき声が小さく信彦の名前を呼んだけど、幸枝は我が身の愚かさを思い出して、名前を呼ぶことすら出来なくなった。そうなると、自分が泣いていることも間違いな気がしてくる。
こんな思いを前にもしたと、幸枝は顔を覆ったまま思い出していた。ああ、いつだったかそれは。そうだ、それもまた親の死んだときだった。あの時も間違ったと思ったのだ。親不孝な娘のまま終わってしまったと、これからはそういう生き方をやめようと思ったのに。また、幸枝は同じ間違いをした。
なにも変わっていないのだ。幸枝は幸枝のまま。
ぐずぐずと鼻を鳴らして、泣くだけ泣いて。後悔と失敗を抱えてそれで終わりだ。
──はたして、それでいいのか?
手のひらを握りしめて、顔を上げる。背中を伸ばして信彦の姿をじっと見据えた。涙は落ちる、悲しくてたまらない。後悔はごうごうと胸に吹き荒れている。立ち上がって、ごしごしと顔をぬぐった。もう涙腺が壊れてしまったのか、止まる気配がない。
深く呼吸をした。消毒液と人間の匂いがした。
信彦の身体には僅かな傷跡と、そして穏やかな表情が残っていた。忘れないようにしようと、じっとその顔を見つめた。きっと無駄だということを分かっていながらも、せずにはいられなかったのだ。
病室の外に出ると、廊下で義父母がひどい顔で立っていた。どうも、私が出てくるのを待っていてくれたらしい。特段、交わす言葉はなかった。お互いに目礼を交わして、また別々の病室に足を踏み入れる。
・・・
・・
・
勇子は部屋中につまった様々な電子機器と、カラフルなコードにつながれていた。部屋を埋めるほどの機械は、全てが様々な計測を行っていることを示していた。
でもそれが示しているのは、確かに勇子が生きているということだ。
ベッド脇にパイプイスが2脚並んでいる。
「・・・勇子、」
白い手のひらに触れれば、信彦と違ってあたたかい。小さな手にすがるように両手で握った。大きな安堵が胸を占める。身体を投げ出すようにイスに腰掛けた。
信彦の時とは違って、幸枝が感じる感情は重くない。小此木医師の説明によって、勇子が「ほぼ」何事もなく目覚めることは分かっているのだ。だからなのか、幸枝には少しの焦りがあるばかり。
「勇子、早く起きて」
肌のいたるところにガーゼがあった。信彦とは大違いだった。
***
翌日は、会社に一度顔を出してから病院に向かった。
勇子はまだ目を覚まさないようだが、姉は意識を取り戻したらしい。幸枝たちに両親はもういないから、天沢の義父母が一緒に来てくれることになっていた。義父母とは昨日に別れたばかりだったが、どこか不思議な連帯感があった。
病院の受付で見舞いを告げると、不思議なことに別室に通された。そこには先に来ていた義父母と、見たことのない医師がいた。彼は一度頭を下げ、私たちに大切な話しがあると話し始める。
「天沢幸子さんですが、小此木から話しがあったように一度検査を行った方がいいように思います。昨夜、皆さんが帰られてから意識が戻られたのですが、具合が悪そうにされていました。検査のために同意が必要ですので、親族の方にご署名をいただきたいと思いまして」
「検査について幸子さんにお話ししてあります」と、そう言いながら何枚かの書類を机の滑らせた。
細かい字で書かれていたのは、検査に関わる同意についてだ。右下にサイン欄があるが、本人もしくは家族とある。
「なぜ姉がサインをしていないんですか? 姉が目覚めていたなら、姉がサインをしていておかしくないはずですが」
「その、幸子さんには今様々な症状が出ています・・・。サインの後にお話しする予定だったのですが、短期的な記憶障害が起きている可能性が高いです。それから、表に見えない疾病を抱えている可能性があると見ています。まだ分からない点も多いので、なんとも言えないのですが・・・」
医師の話に天沢の義父母はショックを受けたようだった。「そんな」と小さく呟いたのはどちらだろうか。幸枝はそれも当然だろうと思った。それが分かるだけに、なんともいいがたい苦い感情が胸をよぎる。
医師がはっきりと言わないのは、それが明確ではないからで。だから検査をしようという話しだ。話しの順序にわずかなちらつきを感じるものの、検査をすることに反感は特になかった。義父と目線を交わして、幸枝はボールペンで名前を書いた。
同席していた看護師に連れられて姉の病室に行く。いくつかの注意を受けての見舞いは、今までの生活で感じたことのないもので不安定さがあった。義父母がいることを心強く感じるほどに。
姉は個室をあてられていた。昨日は大部屋だったが移動したらしい。姉の入院費もメガマス持ちらしい。太っ腹なことだ。
じっとりとした曇り空を仰ぎ見るように、姉はベッドに背を預けて座っていた。入院着に身を包んだ姉は、幼かった頃と同じように病の匂いがする。
「幸子さん、具合はどう? 」
義母の声に振り返った姉は、見たことのある表情をしていた。それもずっと前に。あれはいつのことだったか。
「・・・お義母さん? ごめんなさい、色々と迷惑をかけてしまって」
「いいのよ、大変だったでしょう? 子どもを二人も抱えてね、大変だったねぇ。事故も起きてびっくりしたねぇ、」
義母は善意であるし、善良な人だから本当に姉のことを心配して言ってくれている。幸枝にはできないことでも、義母ならできるサポートがあったからと、そう思っていることが良く分かった。義父も私と並んで頷いていた。良い人達だ。
じっと見つめる先で、姉の表情が不安に傾いていくのが分かった。そうだ、幸枝の一番昔の記憶にある顔。幸枝が幸枝になった頃、姉に突き飛ばされた時の顔だ。
「勇子はね、勇子は生きてるからねぇ」
反応は一瞬で、びっくりするほど過激だった。瞬間湯沸かしよりももっと派手だ。顔色が一瞬で変わって、義母の手をわし掴み。びりびりするぐらい大きな声で言う。不安と怒り、何に対して怒っているのかは分からない。
「どういうこと・・・? 事故ってなに、勇子が生きてるって、じゃあ信彦は・・・? 信彦はどうなったの…! 」
注意事項の1つは「信彦が死んだことを伝えないこと」だった。刺激が強すぎる、らしいが反応を見る限りその予想は適切だった。
側で控えていた看護師がナースコールを押しながら、姉をベッドに押しつける。姉はすさまじい力で義母の腕を掴んだままだ。
「じこ、事故? 事故って、信彦がそんな、そんなわけがないじゃないだって、嘘!! 」
「すいません、病室を出てお待ちください! 」
幾人か入ってくる看護師達と、腕を引きはがされた義母。病室の外に出るまであっという間で、何が起きたのかもよく分からない。
呆然、というのが近いかもしれない。義母の腕は赤くなっているし、病室の中からくぐもった声が途切れず聞こえる。
遅れてきた医師は、我々に一礼して病室に入っていった。少しだけ開いた病室からはわずかに「嘘、嘘! 」と姉が叫んでいた。のどが張り裂けんばかりの声だった。
それからちょっとして、医師が病室から出てくる。看護師たちも一緒に。
・・・
・・
・
「ねぇ勇子、勇子。…早く起きて」
義父母は手当てのために別れ、幸枝は勇子の病室に来ていた。病室は昨日よりも様々な器具が増えているようで、狭く感じるほどだった。勇子の病室には、看護師が常駐しているらしく何事かを記録している様子が目に入った。
昨日からの出来事は、幸枝の思考回路をあやふやにしていた。事故の話を聞き、姉も大変で帰ってからは信彦の葬儀の段取りの話をしていた。感情が置き去りになったように、霞がかった現実味の薄さがあった。
ぽつぽつと勇子に呼びかけるように名前を呼ぶ。祈るような気持ちだ。取り残されたような気持ちであったかもしれない。複雑に感情が絡み合って、幸枝にはその感情の名前が分からなかった。
どこかのモニターを観測していた看護師が、はっとしたようにこちらを振り返る。幸枝が問い返す間もなく、待ち望んでいた声が聞こえた。
「──…おか、さ…? 」
「勇子!! 」
思わず握っていた手に力が入る。それに、勇子が一番に呼んだ名前も、幸枝の胸を締め付けた。
寝起きのぼんやりとした目が、周りを探す。
「ユキちゃ、? お兄ちゃんは? 」
「信彦、は・・・」
本当に一瞬のためらいだったと思う。幸枝のためらいは姉の姿を見て思ったこと、勇子の心を考えるなら当然のためらいだった。しかし、この場ではうまくなかった。勇子は聡い子どもだったから。それに、幸枝の知らないところで色々なことを学んでいたから。
「・・・・・・うそ、」
勇子がその間に何を思ったかを幸枝は知らない。でも、幸枝が思ったのは「失敗した」だった。
みるみる顔を強ばらせて、幸枝の手を握った。瞳に涙の膜が出来て、すぐに枕を濡らしていく。
「うそ、うそうそ。なんで・・・? なんで・・・、お兄ちゃ」
「勇子? ・・・・・・勇子!」
身体から力が抜けて、まぶたを閉じていく。ビービーとどこからか危険を示すアラームが鳴っている。驚いていた看護師はどこかへ連絡を取り始めているし、幸枝は幸枝で尋常ではないことを察して何度も勇子を呼んだ。何度も何度も。叫ぶように、祈るように。
すぐに小此木医師が姿を現した。看護師から受け取った記録を見ながら、何事かを話している。ペンライトで勇子の様子を見て、再度確認するように記録を見直す。
目のあった幸枝に向かって、小此木医師は動揺の欠片も見せずに言った。
「幸枝さん、落ち着いてください。勇子ちゃんは眠っているだけです」
「詳しいお話をしましょう」と、そう言って病室を出ていった。
感情が置き去りになっている。幸枝が干渉できる領域にはとうの昔からなかったのだ。そっと入ってきた看護師に背中を押されて別室へと向かう。小さな個室にはもう義父母が座って待っていた。
固い表情で腕をさすっているのは義母だ。簡単な状況を聞いたのかもしれない。幸枝はまた気まずく感じる。それにこれ以上ない失敗に心が重かった。
「今の状況についてお話ししましょう。
まだ詳しい状況はわかっていませんが、データと勇子ちゃんの様子からして睡眠状態にあります。特別おかしなことではありません。体を回復させるために、体が睡眠を求めていると思います。ただ。ただ、勇子ちゃんは精神的なショックを、受けたようでしたね。このまま数日、覚醒の兆しがなければ精神治療をおすすめします。人は、体だけではなく心の傷で目覚めなくなることもあるのです」
「ど、ういう状況なんでしょうか…! 」
息せき切って看護師に聞けば、難しいところだという。事故による身体の損傷は子供の体力を当てにするしかないと。
それも、信彦が多くの傷を負って勇子をかばった様子があるという。
心の中を暴風のような焦燥が暴れ回っていた。きつく食いしばっていなければ今にも不安を叫んでしまいそうだった。たまらなく情けなくて、怖くて、見えない相手に許しを請いたかった。
足早に去って行く看護師に礼も告げず、幸枝は備え付けの椅子に崩れるように腰を下ろした。自然と項垂れる頭に、震える両手で顔を覆った。
姉は別室で鎮静剤で眠っていた。ひどい取り乱し方だったと看護師は同情していた。
病室で姉は死んだように眠っていた。青ざめた肌、落ち窪んだ目。前に会ったとき───家を出た日が最後だという事に気がつき、幸枝は胃の中に氷が落ちてきたような思いだった。───あの時は、もっと健康的な顔つきだったのに。
側のイスに腰掛けて、幸枝は悔いた。情けなくて涙が出た。悲しくて、何も出来なくて自分を哀れんだ。だって、幸枝はなにもしなかったのだ。
ぎゅうぎゅうと手のひらを握ったって戻らない。痛みが罰にはなり得ない。時間が戻ることはありえない。黒い淀が心の底にたまっていくようだった。重たく粘ついたそれが、幸枝の今までの時間を否定する。「どうしてお前は気が付かなかった」と。「お前が楽しいとき、姉が苦しんでいることがわからなかったのか」と。
夕暮れの最後の光が差し込む廊下に、手術のランプが緑に光っている。じりじりと時間が妙に遅い。神に祈る気持ちがよく分かった。
天沢の親族は──信彦と勇子の祖父母にあたる人達──、難しい顔で座っている。姉のベッドの横に、本当は幸枝がいた方がいいのかもしれない。でも、幸枝が立ち上がるには疲れ切っていた。
「幸枝さん、幸枝さん」
悄然と項垂れる幸枝に声をかけたのは義母だ。その表情は疲れが見えた。それで「隣に座っていいか」と声をかける。頷く幸枝を確認して、彼女は座った。
「ねぇ、つらいねぇ」
「そうですね」
「もうちょっと頑張ろうねぇ。信彦と勇子が頑張ってるからね」
「はい……」
そう言って、幸枝と目を合わせてかすかに笑ったようだった。やさしい人なのだろう。ほとんど顔を合わせたことのない幸枝にも気を遣ってくれる。
だけれど、不安は消えない。焦燥は和らがない。他人を意識するようになった分、気持ちが割かれてどうしたらいいのか分からなくなった。
幸枝は、幸子の妹として彼女の元に行くべきなのか、ここで待つべきなのか。このままこの人と話すべきなのか、黙していいのか。ぐるぐると頭の中が回る。
ばつり。
手術中のライトが消えた。
それに反応するのは廊下にいた3人。立ち上がり医師が来るのを待つ。不安が強い。心臓が強く動いているのが分かる。リノリウムの床に曖昧な影が伸びているのを見た。
スリッパの音がばたばたと近寄ってくる。ドアが開いて、グリーンの手術着を着た医師がどこか疲れた様子で幸枝たちを見ていた。
「天沢、信彦くんと勇子ちゃんのご家族ですか? 今回担当をした桜田と申します」
自然に頭が下がる。重力に引きずられるような下げ方だった。
それも当然だと思う。医師の暗い声のトーンは、それだけで幸枝たちに結果の一つを想像させた。
「大変申し訳ありません。私たちの力不足で信彦くんを助けることはかないませんでした……。
勇子ちゃんは今、かなり危ないところですが命を繋げている状況です。これについては、私より専門の者から別室で説明をさせていただきます」
凍り付いたように、とはこういうことを表現するのだと幸枝は知った。視界に入る天沢の義父母は表情が固まり、桜田医師の言葉を理解しきれていないようだった。かくいう幸枝もそうで、表情筋がうまく動かずやたらと喉が渇いた。それで声を出すのもつらい。
想像よりは幾分良かったのかも知れない。でも、それを「良かった」と表現するのは人間として間違っているし、それに理解が追いつかない。言葉の意味はわかるのに現実を受け入れがたくて怖くて、もうそれはどうにもならない事実であった。ぼろぼろと涙がこぼれて、もう言葉の一つも上手く出なかった。
天沢の方もそれは一緒で、義母はもう呻き声を抑えることもできず泣いていた。義父は表情に見えないだけで、ぐっと歯を食いしばっているようだった。申し訳なさそうな顔で立つ医師も、別に悪いわけではない。彼は手を尽くしただろう。
でも。でもまだ幸枝たちは立ち止まれなかった。
悲しんでいるだけでは済まなかった。まだ、まだやらなくてはいけないことが、考えなくてはいけないことがある。生き残った、まだ頑張っている勇子がいるのだから。それが、幸枝の心を強く励ます。
「……手を尽くし下さり、ありがとうございます。案内をお願いします」
涙をぬぐいながら、鼻をすすりながら頭を下げた幸枝がどう見えたか分からない。桜田医師は一度、深くうなずいて幸枝たちの前を歩き始めた。誰もなにも話すことはなかった。でも、考えていることはきっと一緒だろう。幸枝は袖でぐいぐいと目を拭って、挑むように廊下を進む。その先に成功があることを信じて。
「今回の治療について担当になる小此木医師です」
個室で待機していたのは、幸枝もよく知った顔だった。好々爺然とした人の良さそうな顔、医療に対する熱意を持った人。一瞬、目を見張った小此木医師は顔を隠すように深く礼をした。
(そうだ。ここはメガマスの系列だし、小此木先生は病院の先生だ)
「…、小此木です。よろしくお願いします」
「地村です。……今回、事故に遭ったのは姉の娘にあたる、天沢勇子になります」
「それではまず、今回の症例についてお話しさせていただきますが…。幸子さんはまだお目覚めではないですか? 」
当然の質問であったが、その場にいる人間に確認できる者はいなかった。移動している間に頭の中をかすっていたが、確認に動ける場面ではなかった。そう伝えれば、側に控えていた看護師が確認に行ってくれたらしい。まだ薬が効いていて、眠ったままであるらしい。
「そうですか…、いや、そのほうがいいかもしれない。では、幸子さんが目覚めた際にはもう一度説明することになると思います。これは皆さんにとって聞きなじみのない話になるでしょうから」
こわばった表情のまま椅子に座った5人。看護師は小此木医師の後ろで静かにメモをとっているだけだが、その場にいる人間はみんな緊張していた。老年の域にある小此木医師もである。メガマス社としての評価をかけた説明であるからだ。
「今回の事故には様々な条件が重なっています。……電脳メガネをつけていれば、電脳空間とのリンクによって制御された車との接触事故は"普通"、防げるはずでした。しかし、これが上手く働いていません。このバグについて私は専門外なので言及はいたしません」
「そんな…! あなたの会社がきちんとしてないから起きた事故ってことじゃないか!」
そうだ、その通りなのだ。いきり立つ義父にその反応が当然であっても、幸枝は同じように反応することができなかった。その可能性は、開発の現場で働いている彼女自身が薄々と勘づいていたことだった。徐々にずれていく電脳空間との齟齬、頻発する事故とバグ。それでも見ないふりをして、電脳メガネの楽しさに夢中になっていた。
それが、こんなことになるなんて。
「ええそうです。これは私たちの怠慢です。なので万全な状態で治療に当たらせていただきますし、治療費はこちらで受け持たせていただきます。
信彦くんがかばったおかげで、勇子ちゃんは比較的軽傷で済みました。それも手術がうまくいったので、生命にかかわるような状態ではありません。ですが、この後も経過観察が必須です」
「お金がなんだっていうの! そんなバグだか何だか知らないけど、それがなければ信彦は死ななかったのよ!? それをのうのうと! 人の命をなんだと思ってるの」
ひしゃげたような声だった。感情が重すぎて、言葉をつぶしてしまっている。それくらいに悲しくてつらくて、怒りに満ちた言葉だった。顔をくしゃくしゃにして、泣き始めた義母は顔を俯かせている。反対に義父はじっと小此木医師のことを見つめていた。
「大変申し訳ありません……。出来うる限りの手を尽くします」
「あなたは謝ってくれるけどね、実際に会社はそれをどう考えているんだい? 言い方からすると、他に何件も起きているようでしょ。起きた時に解決していればうちの子は助かったかもしれないだろう?」
「はい…、申し訳ありません。本当に申し訳なく思っています」
大きなため息が義父の口から漏れた。それは許す意味の区切りではなく、諦めのこもったため息だ。何を言っても変わることのない返答を分かっているのだ。それも末端の人間に言ったところで変わらない。裁判でも起こさない限りは態度を改めないだろうし、メガマスは今までの被害者を黙らせてきたように手厚くもてなすのだろう。
それが幸枝にもわかった。幸枝に言えることはなかった。非難をするには業界が近かったし、顔見知りをなじるには人生経験が足りなかったかもしれない。信彦が死んだことも現実感がなかったし、勇子がいまだに意識を取り戻していないことも受け入れ切れていなかった。ただ、混乱と悲しみは心の中に渦を巻いている。
「それと、伝えなければならないことがあります。……、勇子ちゃんは日常的に暴力を受けていた可能性があります」
「は?」
一度深く下げられた頭を眺めた後、幸枝と目が合った小此木医師はそう言った。口が塞がらないというのはこういうことなのだろうか。幸枝は頭の中でもう一度、小此木医師の言葉を繰り返した。「ぎゃくたいを、うけていた可能性が、ある」勇子が、誰に? あの家にいたのは幸子と信彦と勇子だけ。なら、それは。
「確証があるわけではありません。ですが、可能性としては幸子さんからでしょう」
嘘、うそうそ。だって、幸子は姉は勇子のことをとっても大切にしていたのに。信彦も勇子も大切だって、仲良く暮らしていたじゃないか。それは、それはいつのことだっけ。ああ、それはずっと前のことだった。幸枝は仕事に夢中になって、姉のことをほっぽっていた自分のことを恥じた。恥じるという言葉は彼女の心情を表すには生ぬるい言葉だろう。自分を責めた。とても強く。
「もう一点、幸子さんは既往症をお持ちですか? 先ほど看護師から受け取った資料によると、取り乱した時に体調が悪そうな身振りがあったのと、お持ちのお薬手帳に相当の記載がありましたが…」
「…はい、姉は小さい頃から体がつよくなかったので」
「一度、検査を受けるべきかと思います」
その検査もこちらで行いますので、と言った小此木医師はメガネでその表情がよくわからなかった。誰もがそれ以上を話すことなく、居心地の悪い沈黙が続いた後に信彦と勇子のところに案内されることになった。
空気はどこまでも重くて、足音だけがやけに大きく聞こえる。他の入院患者の声も生活の音もあるというのに、不思議なほど耳に入らない。
幸枝の前を歩いている、ふたりがどう思っているかは分からない。顔が見えなければ一言もしゃべらない。何を思っているのかも、これからどうしたら良いのかも分からなくて。ただ、メガマスのせいでこんなことになっているのだと、ぼんやりと理解していた。
さほど歩いたわけではないが、隔離された長い廊下に4422と4423と書かれた札が現れる。一般病棟からは離れた位置だ。ぶらぶらと歩いていてはこんな場所にまでは来れないだろう。
「4422が信彦くんで、4423が勇子ちゃんの病室になります」
看護師が深く頭を下げているのを見て、自分がどうしてここに立っているのかを瞬間忘れてしまった。この人がどうして頭を下げているのかも理解できない。
義母と義父は静かに勇子の病室へと入ったから、(ああ)と思いながら信彦の病室へ足を踏み入れた。
整然とした部屋だった。
病院はどこも似たような部屋だが、それを鑑みても白くて何もなくて、見慣れた信彦すらも白くて。肌を清められて、静かに横たわった信彦があまりにも眠っているようで。
もう耐えられないと思った。
視界が歪んだと思ったら、もう後から後から熱い涙が押し寄せてくる。誰も幸枝のことを見ている人はいなくて、どうしたら正しい判断なのかがわからなくて。それ以上に失われていくものが悲しくて。幸枝は信彦のベッドに近づくことすら怖かった。
近づいていく信彦の、小さな肩とか幸子に似た鼻筋とか。はっきり見えるだけ近づいて、それでやっぱり信彦がそこで、命を失っていることがわかってしまった。言葉にならない、表現するには凶暴な感情だ。荒れ狂って幸枝の心の中をめちゃめちゃにする。
喉の奥から呻きが漏れて、拭ったぶんだけ落ちてくる涙が落ちてくる。食いしばった歯の間から、獣みたいな声が漏れた。がんがんと頭が痛む。耐えきれなくてベッドの側に膝をついた。触れた信彦のその手の冷たさに、触れなければよかったと後悔した。まだ幸枝の手のひらに納まる大きさで。ベッドだってまだまだ余白が多くて。本当はこれから大きくなって、たくさんのものをつかめるようになって、もっともっと自分の好きなことができるはずだったのに。それは永遠に失われてしまった。
うめき声が小さく信彦の名前を呼んだけど、幸枝は我が身の愚かさを思い出して、名前を呼ぶことすら出来なくなった。そうなると、自分が泣いていることも間違いな気がしてくる。
こんな思いを前にもしたと、幸枝は顔を覆ったまま思い出していた。ああ、いつだったかそれは。そうだ、それもまた親の死んだときだった。あの時も間違ったと思ったのだ。親不孝な娘のまま終わってしまったと、これからはそういう生き方をやめようと思ったのに。また、幸枝は同じ間違いをした。
なにも変わっていないのだ。幸枝は幸枝のまま。
ぐずぐずと鼻を鳴らして、泣くだけ泣いて。後悔と失敗を抱えてそれで終わりだ。
──はたして、それでいいのか?
手のひらを握りしめて、顔を上げる。背中を伸ばして信彦の姿をじっと見据えた。涙は落ちる、悲しくてたまらない。後悔はごうごうと胸に吹き荒れている。立ち上がって、ごしごしと顔をぬぐった。もう涙腺が壊れてしまったのか、止まる気配がない。
深く呼吸をした。消毒液と人間の匂いがした。
信彦の身体には僅かな傷跡と、そして穏やかな表情が残っていた。忘れないようにしようと、じっとその顔を見つめた。きっと無駄だということを分かっていながらも、せずにはいられなかったのだ。
病室の外に出ると、廊下で義父母がひどい顔で立っていた。どうも、私が出てくるのを待っていてくれたらしい。特段、交わす言葉はなかった。お互いに目礼を交わして、また別々の病室に足を踏み入れる。
・・・
・・
・
勇子は部屋中につまった様々な電子機器と、カラフルなコードにつながれていた。部屋を埋めるほどの機械は、全てが様々な計測を行っていることを示していた。
でもそれが示しているのは、確かに勇子が生きているということだ。
ベッド脇にパイプイスが2脚並んでいる。
「・・・勇子、」
白い手のひらに触れれば、信彦と違ってあたたかい。小さな手にすがるように両手で握った。大きな安堵が胸を占める。身体を投げ出すようにイスに腰掛けた。
信彦の時とは違って、幸枝が感じる感情は重くない。小此木医師の説明によって、勇子が「ほぼ」何事もなく目覚めることは分かっているのだ。だからなのか、幸枝には少しの焦りがあるばかり。
「勇子、早く起きて」
肌のいたるところにガーゼがあった。信彦とは大違いだった。
***
翌日は、会社に一度顔を出してから病院に向かった。
勇子はまだ目を覚まさないようだが、姉は意識を取り戻したらしい。幸枝たちに両親はもういないから、天沢の義父母が一緒に来てくれることになっていた。義父母とは昨日に別れたばかりだったが、どこか不思議な連帯感があった。
病院の受付で見舞いを告げると、不思議なことに別室に通された。そこには先に来ていた義父母と、見たことのない医師がいた。彼は一度頭を下げ、私たちに大切な話しがあると話し始める。
「天沢幸子さんですが、小此木から話しがあったように一度検査を行った方がいいように思います。昨夜、皆さんが帰られてから意識が戻られたのですが、具合が悪そうにされていました。検査のために同意が必要ですので、親族の方にご署名をいただきたいと思いまして」
「検査について幸子さんにお話ししてあります」と、そう言いながら何枚かの書類を机の滑らせた。
細かい字で書かれていたのは、検査に関わる同意についてだ。右下にサイン欄があるが、本人もしくは家族とある。
「なぜ姉がサインをしていないんですか? 姉が目覚めていたなら、姉がサインをしていておかしくないはずですが」
「その、幸子さんには今様々な症状が出ています・・・。サインの後にお話しする予定だったのですが、短期的な記憶障害が起きている可能性が高いです。それから、表に見えない疾病を抱えている可能性があると見ています。まだ分からない点も多いので、なんとも言えないのですが・・・」
医師の話に天沢の義父母はショックを受けたようだった。「そんな」と小さく呟いたのはどちらだろうか。幸枝はそれも当然だろうと思った。それが分かるだけに、なんともいいがたい苦い感情が胸をよぎる。
医師がはっきりと言わないのは、それが明確ではないからで。だから検査をしようという話しだ。話しの順序にわずかなちらつきを感じるものの、検査をすることに反感は特になかった。義父と目線を交わして、幸枝はボールペンで名前を書いた。
同席していた看護師に連れられて姉の病室に行く。いくつかの注意を受けての見舞いは、今までの生活で感じたことのないもので不安定さがあった。義父母がいることを心強く感じるほどに。
姉は個室をあてられていた。昨日は大部屋だったが移動したらしい。姉の入院費もメガマス持ちらしい。太っ腹なことだ。
じっとりとした曇り空を仰ぎ見るように、姉はベッドに背を預けて座っていた。入院着に身を包んだ姉は、幼かった頃と同じように病の匂いがする。
「幸子さん、具合はどう? 」
義母の声に振り返った姉は、見たことのある表情をしていた。それもずっと前に。あれはいつのことだったか。
「・・・お義母さん? ごめんなさい、色々と迷惑をかけてしまって」
「いいのよ、大変だったでしょう? 子どもを二人も抱えてね、大変だったねぇ。事故も起きてびっくりしたねぇ、」
義母は善意であるし、善良な人だから本当に姉のことを心配して言ってくれている。幸枝にはできないことでも、義母ならできるサポートがあったからと、そう思っていることが良く分かった。義父も私と並んで頷いていた。良い人達だ。
じっと見つめる先で、姉の表情が不安に傾いていくのが分かった。そうだ、幸枝の一番昔の記憶にある顔。幸枝が幸枝になった頃、姉に突き飛ばされた時の顔だ。
「勇子はね、勇子は生きてるからねぇ」
反応は一瞬で、びっくりするほど過激だった。瞬間湯沸かしよりももっと派手だ。顔色が一瞬で変わって、義母の手をわし掴み。びりびりするぐらい大きな声で言う。不安と怒り、何に対して怒っているのかは分からない。
「どういうこと・・・? 事故ってなに、勇子が生きてるって、じゃあ信彦は・・・? 信彦はどうなったの…! 」
注意事項の1つは「信彦が死んだことを伝えないこと」だった。刺激が強すぎる、らしいが反応を見る限りその予想は適切だった。
側で控えていた看護師がナースコールを押しながら、姉をベッドに押しつける。姉はすさまじい力で義母の腕を掴んだままだ。
「じこ、事故? 事故って、信彦がそんな、そんなわけがないじゃないだって、嘘!! 」
「すいません、病室を出てお待ちください! 」
幾人か入ってくる看護師達と、腕を引きはがされた義母。病室の外に出るまであっという間で、何が起きたのかもよく分からない。
呆然、というのが近いかもしれない。義母の腕は赤くなっているし、病室の中からくぐもった声が途切れず聞こえる。
遅れてきた医師は、我々に一礼して病室に入っていった。少しだけ開いた病室からはわずかに「嘘、嘘! 」と姉が叫んでいた。のどが張り裂けんばかりの声だった。
それからちょっとして、医師が病室から出てくる。看護師たちも一緒に。
・・・
・・
・
「ねぇ勇子、勇子。…早く起きて」
義父母は手当てのために別れ、幸枝は勇子の病室に来ていた。病室は昨日よりも様々な器具が増えているようで、狭く感じるほどだった。勇子の病室には、看護師が常駐しているらしく何事かを記録している様子が目に入った。
昨日からの出来事は、幸枝の思考回路をあやふやにしていた。事故の話を聞き、姉も大変で帰ってからは信彦の葬儀の段取りの話をしていた。感情が置き去りになったように、霞がかった現実味の薄さがあった。
ぽつぽつと勇子に呼びかけるように名前を呼ぶ。祈るような気持ちだ。取り残されたような気持ちであったかもしれない。複雑に感情が絡み合って、幸枝にはその感情の名前が分からなかった。
どこかのモニターを観測していた看護師が、はっとしたようにこちらを振り返る。幸枝が問い返す間もなく、待ち望んでいた声が聞こえた。
「──…おか、さ…? 」
「勇子!! 」
思わず握っていた手に力が入る。それに、勇子が一番に呼んだ名前も、幸枝の胸を締め付けた。
寝起きのぼんやりとした目が、周りを探す。
「ユキちゃ、? お兄ちゃんは? 」
「信彦、は・・・」
本当に一瞬のためらいだったと思う。幸枝のためらいは姉の姿を見て思ったこと、勇子の心を考えるなら当然のためらいだった。しかし、この場ではうまくなかった。勇子は聡い子どもだったから。それに、幸枝の知らないところで色々なことを学んでいたから。
「・・・・・・うそ、」
勇子がその間に何を思ったかを幸枝は知らない。でも、幸枝が思ったのは「失敗した」だった。
みるみる顔を強ばらせて、幸枝の手を握った。瞳に涙の膜が出来て、すぐに枕を濡らしていく。
「うそ、うそうそ。なんで・・・? なんで・・・、お兄ちゃ」
「勇子? ・・・・・・勇子!」
身体から力が抜けて、まぶたを閉じていく。ビービーとどこからか危険を示すアラームが鳴っている。驚いていた看護師はどこかへ連絡を取り始めているし、幸枝は幸枝で尋常ではないことを察して何度も勇子を呼んだ。何度も何度も。叫ぶように、祈るように。
すぐに小此木医師が姿を現した。看護師から受け取った記録を見ながら、何事かを話している。ペンライトで勇子の様子を見て、再度確認するように記録を見直す。
目のあった幸枝に向かって、小此木医師は動揺の欠片も見せずに言った。
「幸枝さん、落ち着いてください。勇子ちゃんは眠っているだけです」
「詳しいお話をしましょう」と、そう言って病室を出ていった。
感情が置き去りになっている。幸枝が干渉できる領域にはとうの昔からなかったのだ。そっと入ってきた看護師に背中を押されて別室へと向かう。小さな個室にはもう義父母が座って待っていた。
固い表情で腕をさすっているのは義母だ。簡単な状況を聞いたのかもしれない。幸枝はまた気まずく感じる。それにこれ以上ない失敗に心が重かった。
「今の状況についてお話ししましょう。
まだ詳しい状況はわかっていませんが、データと勇子ちゃんの様子からして睡眠状態にあります。特別おかしなことではありません。体を回復させるために、体が睡眠を求めていると思います。ただ。ただ、勇子ちゃんは精神的なショックを、受けたようでしたね。このまま数日、覚醒の兆しがなければ精神治療をおすすめします。人は、体だけではなく心の傷で目覚めなくなることもあるのです」