イサコの母方のオバ。転生者だけど原作知識はなし。人間としては割とダメだけど、転生した人間としてはまずまずな性質。
コヨーテの歌
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「…は? 芳野? もう一回言ってもらえます? 」
「…いや、気持ちは分かりますけどね。…コイルスが倒産買収されましたよ」
ぽっかりと開いた口が閉じない。信じがたく、脳みそに意味合いが入ってこない。あのコイルスが倒産! しかも買収だなんて! 青天の霹靂といっていい。あんなに知識があって、ノウハウも順調に育っていたし、頭の切れる主任技師がいて倒産だ。
「いや~、ね。うっすらと予感はしてたんすけど、やっぱりという感じですわ」
「えっ、倒産しそうな雰囲気ってありましたか…?」
「ああ、幸枝さんにはまだ分からないかもしれないですけどね。うちに回ってくる仕事も少なくなってましたし、他のところともそんな感じだったのでね」
そもそもコイルスは手広くやりすぎたのが問題だったらしい。電脳メガネは随分と広がったが、それに対してのバグも多い。様々な企業に導入したものの、使いきれなかったり専門のソフトの応用がきかなかったりと、後手後手な部分もあったらしい。極めつけが医療部門の大幅赤字。小此木医師は外部監督として開発にうまく入れたらしい。順調な部分もあったが、どうもうまくいかない部分があり。また国からの許可も下りずに難航。他の部分も掛け合わせて順調に業績は悪化。そしてついにその日がやって来たのだという。
「…なんだか結果的にコイルスに悪いことをしたような気がします…」
「気にすることはないっすよ。結局そっちに舵を切ったのはコイルスですし。コイルスはなくなったけど、人員はそのまま新しい会社にそっくり変わるだけですしね。猫目さんもそのまま部署に残るって話し」
「…まあ、そうですよね」
「そういうこと」と笑いながら芳野は足早に去っていく。
貴重な人材を遊ばせておくことはないだろうし、流出は痛手だ。多少の異動や変化はあったとしても、研究技術職はそう大きく変わらないだろう。猫目は仕事を失わないだろうし、どうなっているかわからないが小此木医師も場合によっては同じような関係が続く。それなら良かったのかもしれないが、不思議でもあった。コイルスを吸収できるだけの資本と技術のある会社。幸枝には両立する会社を思い浮かべることができなかった。
「……吸収したのはメガマス社、ねぇ」
椅子に深く背を預ければ、ぎいぎいと椅子が軋んだ。画面に映ったネットニュースには様々なコメントが寄せられている。メガネ越しのコメントに幸枝は苦笑を浮かべた。
・・・
・・
・
それから何度かメガマス社との仕事があった。それこそ、小此木医師の考えた医療用メガネに関する仕事が随分と会社に回されてきたらしい。残念なことに幸枝は全ての仕事に関われたわけではない。分野違いもあれば、開発とは違うものもあったらしいと芳野から聞いた。猫目に会うことはなかったが、その噂は幸枝にも届いた。幸枝は社内で少し年長者になった。
電脳メガネの普及はすさまじいものがあり、現在では個人の家屋の中でのメガネの使用が可能になっている。大きな街では外でもメガネが問題なく使えるようになってきた。会社の規模にもよるが、ひとりに1台パソコンを充てるよりもメガネを配るようなところもあるらしい。
バージョンは次々とアップデートされ、メガネはどんどん便利な機能が増えていく。ユーザーも増えていく。使用者が増えていくにしたがって、電脳メガネのバグも随分と上がってくるようになった。電脳空間に関わる一部の人間は、そのバグが不可解なものだと思うようになってくる。まるで規則性がなく、決まった時刻にのみ不通になるような、そんな「オカルト」のようなバグがあるのだ。
その知らせが入ったのも、そういったバグの対処を行っているときだった。息せき切って松川が幸枝の前に立つ。その表情は動揺が色濃い。
「ちょっと! 幸枝ちゃん聞いた!? 」
「…なにをですか…? 」
「猫目さんが失踪したって…! 」
「は…? 」
幸枝はまるでその言葉が理解できなかった。普段の会話では出てこない言葉だ。言葉の意味をうまく処理しきれなかった。松川はそれを理解した上で何度かそれを繰り返し、そして理解する頃には。
「猫目さんが失踪する理由がなくないですか? 」
猫目はコイルスの頃から主任技師を務めている。メガマスに代わってからも地位は変わっていない。先日、下の子が生まれたと聞いた。仕事も家庭も順風満帆、彼がいなくなる理由がない。心配もあるが、幸枝に占めた感情は疑問だった。それに対して松川が答える。
「失踪したのは1週間前で、ご家族から捜索願が出たのが昨日。メガマスは猫目さんが会社に来ていないことを知っていながら、ご家族に待つように伝えたらしいわ。我慢が出来なくなって振り切ったみたいだけど。…理由はなにもわかってないそうよ」
「…随分とお詳しいですね。もう噂が出回っているんですか? 」
頷く松川は顔色がよくない。残念だが幸枝は噂話に明るくない。ネット掲示板なら別だが。松川が話すのを待つしかなかった。落ち着かなくなったのか、松川がうろうろと歩き始める。その隙にネット掲示板でメガマスを検索する。電脳メガネ、バグ、新しい改造の仕方、GPSの不具合、オカルトじみた噂話。
「そうなの。おかしなくらい広まってるのよ。…おかしいわ、メガマスがそんなことを許すはずがないのに」
メガマスはコイルスよりもずっと強かな方針で動いているという。社会を便利にしようとしていたコイルスに比べれば、利益をずっと考えて動いているとは芳野のコメントだ。植村はそれを当然と言ったし、彼と繋がりのある研究員はプロジェクトを切られたという。
ネット掲示板、大手にはすでに噂がのっているようだった。実名は出ていないが、その立場は明確である。見る人間が見れば誰なのかはわかるだろう。更新日は3日前。捜索願が出る前。情報を出した人間は確実に社内の人間だ。
でも、よくあることだ。
「メガマスはそんなに厳しいんですか? ネットの掲示板はすごく盛り上がってますけど」
「ええ? 掲示板が? メガマスがそれを放置するなんてありえないわあ…」
「……猫目さんが失踪するのだってあり得ないですよ」
立ち止まった松川と幸枝の目が合う。思っていることは同じだった。「きな臭い」と。
原因は定かではないがまともではない何かが動いている。人ひとりが失踪するとは穏やかではない。大企業が噂を消火しきれないのもおかしい。たかが噂といえど、放っておくにはリスキーだ。
メガマスになんらかの意思があるのか、それとも別の要因があるのか。部外者である幸枝には想像しかできない。想像できるから、掲示板には心ない言葉が並んでいる。
「…メガマスとの関わり方を考えるべきかもしれないですね」
「そうね…、ボスも知ってるだろうけど、一応上げておくわ」
顔を見合わせてうなずき合った。経営陣も馬鹿ではないので、噂はとっくに手元にあるだろうし、考えもあるだろう。ボス、というのも別に代表取り締まりではないので、気軽に意見を上げることができる。そういう社風なのだ。だから幸枝は楽しく仕事ができる。好きなことやれる。
・・・
・・
・
それから数日、小此木医師と会う機会があった。メガマスに社名が変わってから、正式に会社に所属するようになったらしい。医療分野にも非常に手が広く、治験のようなものが始まっているそうだ。
「小此木先生が元気そうでなによりです」
小此木医師は相応に年を重ねた人だ。幸枝からすれば父親とかわらない。どことなくいつ亡くなってもおかしくない心境があった。
小此木医師は相変わらず、人の良さそうな顔で笑っていた。メガマスは小此木医師の考えに理解を示しているらしく、研究費も潤沢だそうだ。
「…その、猫目くんの話しを聞いたかい? 」
「聞きました。…失踪したと伺いましたけど、噂は本当なんですか? 」
「ある日を境に、本当にいなくなっちゃってね。こっちでも不安と混乱がすごくて…。…理由もわからないし」
「……やっぱりそんな素振りはなかったんですね」
返答に小此木医師は静かな顔である。じっと、腹の中で「どういう言葉が正しいか」を噛みしめている。その言葉には年齢と経験が確かにあった。
「誰にも分からないことだよ。見える物が全てではないからね」
幸枝には返す言葉がなく、ただ頷きを返すのが精一杯だった。自分が猫目に向けていた感情が心配よりも、好奇心に近かったのではないかと後悔した。
幸枝は猫目のメールアドレスを知っているだけだ。家族の力になることはできない。会社が違うから真相を追究することも出来ない。静かに待つ以外にない。
小此木医師は眉を下げて言う。
「気になっているんじゃないかと思っていたんだけど…どうも、あんまりよくなかったみたいだね。
…お願いがあって呼び出したのに申し訳ないね」
「いえ、私も気になっていましたし。不躾な発言をしてしまいましたし…」
「ああ、気にしないで。もっと露骨に言われることもあるんだよ。…まずはね、この書類を芳野君に渡して欲しい」
机の上から渡された茶封筒は薄い。しかし、メールで送らない時点である程度の機密情報であることがわかる。メールで送った、送ってないの水掛け論をしないように、情報の流出をできるだけ防ぐために紙での受け渡しは今でも現役だ。
「それとね、お願いの話しなんだけどね。……孫娘の誕生日に電脳ペットを贈りたくてね」
「プレゼントに」
「そう、それもデザインも機能も出来るだけオリジナルにしたいんだ。君の会社ならそれも出来るかと思って」
「それは……、確かに可能ですけど時間がかかりますよ。大丈夫ですか? 」
「ああ、大丈夫。来年の誕生日に間に合えばいいんだ」
「じゃあ機能に合わせて見積もりを出します」と幸枝が言えば、小此木医師はそれに嬉しそうに笑った。小此木医師は、その年齢にしてはメガネや電脳空間に造詣が深い。だが一人で電脳ペットを作り上げるのは不可能なのである。なにせ認可がおりない。
孫娘にオーダーメイドの電脳ペットを贈る祖父、という図は微笑ましく、幸枝はこの仕事が楽しみになった。フルオーダーの中身も予算も期待できたし、納期にも余裕がある。芳野もうるさくは言うまい。
嬉しそうに孫娘のことを語る小此木医師は幸せそのものだった。医療用空間や器具について語るときよりも、はるかに喜色が強い。それだけ可愛いのだろう。現に会話の中には何度も「かわいくてねぇ」という言葉が出てくる。どうにも、勇子と同じ年の少女らしい。聞いているだけで、その少女のことをよく知っているような気にすらなった。
(ああそういえば、)もうずっと、幸枝は姉の家に連絡を入れていないことに気がついた。今夜は寝る前にメールを送ることにした。
・・・
・・
・
小此木医師の電脳ペットのデザインは、なんというかどこか間の抜けた犬をモチーフに決定した。デザインを形にしたのは松川で、アイディアと方向性は小此木医師のものだ。彼はしきりに「愛着の持てるものがいい」と口にした。
余計に入った仕事だったが、むしろ松川は乗り気だ。幸枝がヒアリングしてきた状態や参考資料を材料に、嬉々として取り組んでいるようにすら見える。
「こういう仕事がやりたかったのよぉ」
いつか自分の息子にもオリジナルの電脳ペットをつくりたいらしい。「世界に一つだけ」というのは、松川にとって嬉しいのだ。
幸枝は幸枝で内部プログラム──とくに、性格のパラメーター──の調整が難しい。今までのペットはランダムに性格を配置していたが、今回のペットはある程度は固定しなくてはならない。
そして、電脳空間での悪意に対する防御能力だ。孫娘がなんらかの悪意にさらされたとき、それをそうと認識できる能力がこのペットに必要だ。今までの電脳生物よりもはるかに高度だった。格別に高度な判別能力が必要だった。
小此木医師の最後の注文が
「ああ、少しメモリに余裕を残しておいてほしい。自分がそこに入れたいプログラムがある」
というもので、これが一番の難題だった。ペットは基本的に改造不可であるのに、会社がそれを作っては信頼に差し障る。電脳ペットは悪質なプログラムになりえるのだ。現在は外を自由に歩くことはできないが、それでもいつか実現するだろうし、人の手によって書き換えられるとしても難しい注文だ。
それでも製作の方針は決まり、納期も長いことから仕事の合間合間で進められていく。担当に仕事が割り振られ、段々とプログラムが組まれていった。気の詰まるような作業の合間に、その仕事は大変な息抜きになったのである。
リ・リ・リ・リ
「はい、地村です」
『地村幸枝さんのお電話でしょうか? こちらメガマス病院です。落ち着いて聞いて下さい。ご家族が…』
夕暮れの差し込む、穏やかな一日の終わりであった。言葉の意味を分かった途端、背中を冷や水が伝ったかのようで、電話の形にした指の感覚がなくなった。不明瞭な白い図形が視界にちかちかと瞬く。不思議と声が震えることはなく、電話の受け答えに応じていた。
緊張が途切れるのは一瞬で、電話が終わった途端に周囲の音が戻ってくる。息が詰まったような閉塞感、心臓は慌てふためいて戻ってくる様子がない。
「幸枝ちゃん落ち着いた方がいいわぁ。ほら、深呼吸して」
関節がこちこちになって、動かなかった手を握って顔を覗いたのは松川だった。心配そうな顔をしている。それがわかった。
手のひらの温度を思い出して、肩から力が抜けた。体温が戻ってくる。でも心臓は慌ただしいままだ。むしろ激しくなっていくようである。意識して深呼吸をした。
「……幸枝ちゃん、何があったのかしら? 」
「あの、アー…」
言葉にするのに躊躇いを感じるのは久しぶりのことだった。言葉にすれば現実を認めることになるので嫌だった。うまく言葉にできなくて、頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにした。
幸枝の様子に、部屋の中にいた人たちは気づいている。わかっていて、静かに松川とのやりとりを見つめている。いつもはうるさいキーボードの音すら聞こえない。気を使ってくれていた。でも、幸枝にはわからない。彼女は焦りの中にいる。
「あ、の。甥と姪が事故にあいました、…姉も状況が悪いと、」
焦りで言葉がうまく出ない一方、ひどく冷静に状況を見ている部分もあった。その部分が急いで病院に向かうことを言っていた。説明すればなんとかなると。
「わかったわあ。説明はこっちでやっておくから病院に行ってちょうだい。明日、ボスに電話をしておけばそれでなんとかなるから大丈夫」
松川は重ねて落ち着くようにと幸枝に言う。
うなずきながら、幸枝は身の回りを片付けて簡単な引継ぎを声に出していく。松川は焦れたようにその姿を見ていた。必要なことだった。だが、一刻も早く病院に行くべきだと思っていた。
「もういいから行っておいで」
「はい、すいません」
一度、深く頭を下げて会社を出た。
階段を駆け下りる足が、だんだんと早くなっていく。自動ドアすら意地悪をしているようだ。駐車場で車のそばに来た時にはもう、息が上がってひどく疲れていた。
西日が目を刺す。
この日のことは忘れようとも忘れられない。
「…いや、気持ちは分かりますけどね。…コイルスが倒産買収されましたよ」
ぽっかりと開いた口が閉じない。信じがたく、脳みそに意味合いが入ってこない。あのコイルスが倒産! しかも買収だなんて! 青天の霹靂といっていい。あんなに知識があって、ノウハウも順調に育っていたし、頭の切れる主任技師がいて倒産だ。
「いや~、ね。うっすらと予感はしてたんすけど、やっぱりという感じですわ」
「えっ、倒産しそうな雰囲気ってありましたか…?」
「ああ、幸枝さんにはまだ分からないかもしれないですけどね。うちに回ってくる仕事も少なくなってましたし、他のところともそんな感じだったのでね」
そもそもコイルスは手広くやりすぎたのが問題だったらしい。電脳メガネは随分と広がったが、それに対してのバグも多い。様々な企業に導入したものの、使いきれなかったり専門のソフトの応用がきかなかったりと、後手後手な部分もあったらしい。極めつけが医療部門の大幅赤字。小此木医師は外部監督として開発にうまく入れたらしい。順調な部分もあったが、どうもうまくいかない部分があり。また国からの許可も下りずに難航。他の部分も掛け合わせて順調に業績は悪化。そしてついにその日がやって来たのだという。
「…なんだか結果的にコイルスに悪いことをしたような気がします…」
「気にすることはないっすよ。結局そっちに舵を切ったのはコイルスですし。コイルスはなくなったけど、人員はそのまま新しい会社にそっくり変わるだけですしね。猫目さんもそのまま部署に残るって話し」
「…まあ、そうですよね」
「そういうこと」と笑いながら芳野は足早に去っていく。
貴重な人材を遊ばせておくことはないだろうし、流出は痛手だ。多少の異動や変化はあったとしても、研究技術職はそう大きく変わらないだろう。猫目は仕事を失わないだろうし、どうなっているかわからないが小此木医師も場合によっては同じような関係が続く。それなら良かったのかもしれないが、不思議でもあった。コイルスを吸収できるだけの資本と技術のある会社。幸枝には両立する会社を思い浮かべることができなかった。
「……吸収したのはメガマス社、ねぇ」
椅子に深く背を預ければ、ぎいぎいと椅子が軋んだ。画面に映ったネットニュースには様々なコメントが寄せられている。メガネ越しのコメントに幸枝は苦笑を浮かべた。
・・・
・・
・
それから何度かメガマス社との仕事があった。それこそ、小此木医師の考えた医療用メガネに関する仕事が随分と会社に回されてきたらしい。残念なことに幸枝は全ての仕事に関われたわけではない。分野違いもあれば、開発とは違うものもあったらしいと芳野から聞いた。猫目に会うことはなかったが、その噂は幸枝にも届いた。幸枝は社内で少し年長者になった。
電脳メガネの普及はすさまじいものがあり、現在では個人の家屋の中でのメガネの使用が可能になっている。大きな街では外でもメガネが問題なく使えるようになってきた。会社の規模にもよるが、ひとりに1台パソコンを充てるよりもメガネを配るようなところもあるらしい。
バージョンは次々とアップデートされ、メガネはどんどん便利な機能が増えていく。ユーザーも増えていく。使用者が増えていくにしたがって、電脳メガネのバグも随分と上がってくるようになった。電脳空間に関わる一部の人間は、そのバグが不可解なものだと思うようになってくる。まるで規則性がなく、決まった時刻にのみ不通になるような、そんな「オカルト」のようなバグがあるのだ。
その知らせが入ったのも、そういったバグの対処を行っているときだった。息せき切って松川が幸枝の前に立つ。その表情は動揺が色濃い。
「ちょっと! 幸枝ちゃん聞いた!? 」
「…なにをですか…? 」
「猫目さんが失踪したって…! 」
「は…? 」
幸枝はまるでその言葉が理解できなかった。普段の会話では出てこない言葉だ。言葉の意味をうまく処理しきれなかった。松川はそれを理解した上で何度かそれを繰り返し、そして理解する頃には。
「猫目さんが失踪する理由がなくないですか? 」
猫目はコイルスの頃から主任技師を務めている。メガマスに代わってからも地位は変わっていない。先日、下の子が生まれたと聞いた。仕事も家庭も順風満帆、彼がいなくなる理由がない。心配もあるが、幸枝に占めた感情は疑問だった。それに対して松川が答える。
「失踪したのは1週間前で、ご家族から捜索願が出たのが昨日。メガマスは猫目さんが会社に来ていないことを知っていながら、ご家族に待つように伝えたらしいわ。我慢が出来なくなって振り切ったみたいだけど。…理由はなにもわかってないそうよ」
「…随分とお詳しいですね。もう噂が出回っているんですか? 」
頷く松川は顔色がよくない。残念だが幸枝は噂話に明るくない。ネット掲示板なら別だが。松川が話すのを待つしかなかった。落ち着かなくなったのか、松川がうろうろと歩き始める。その隙にネット掲示板でメガマスを検索する。電脳メガネ、バグ、新しい改造の仕方、GPSの不具合、オカルトじみた噂話。
「そうなの。おかしなくらい広まってるのよ。…おかしいわ、メガマスがそんなことを許すはずがないのに」
メガマスはコイルスよりもずっと強かな方針で動いているという。社会を便利にしようとしていたコイルスに比べれば、利益をずっと考えて動いているとは芳野のコメントだ。植村はそれを当然と言ったし、彼と繋がりのある研究員はプロジェクトを切られたという。
ネット掲示板、大手にはすでに噂がのっているようだった。実名は出ていないが、その立場は明確である。見る人間が見れば誰なのかはわかるだろう。更新日は3日前。捜索願が出る前。情報を出した人間は確実に社内の人間だ。
でも、よくあることだ。
「メガマスはそんなに厳しいんですか? ネットの掲示板はすごく盛り上がってますけど」
「ええ? 掲示板が? メガマスがそれを放置するなんてありえないわあ…」
「……猫目さんが失踪するのだってあり得ないですよ」
立ち止まった松川と幸枝の目が合う。思っていることは同じだった。「きな臭い」と。
原因は定かではないがまともではない何かが動いている。人ひとりが失踪するとは穏やかではない。大企業が噂を消火しきれないのもおかしい。たかが噂といえど、放っておくにはリスキーだ。
メガマスになんらかの意思があるのか、それとも別の要因があるのか。部外者である幸枝には想像しかできない。想像できるから、掲示板には心ない言葉が並んでいる。
「…メガマスとの関わり方を考えるべきかもしれないですね」
「そうね…、ボスも知ってるだろうけど、一応上げておくわ」
顔を見合わせてうなずき合った。経営陣も馬鹿ではないので、噂はとっくに手元にあるだろうし、考えもあるだろう。ボス、というのも別に代表取り締まりではないので、気軽に意見を上げることができる。そういう社風なのだ。だから幸枝は楽しく仕事ができる。好きなことやれる。
・・・
・・
・
それから数日、小此木医師と会う機会があった。メガマスに社名が変わってから、正式に会社に所属するようになったらしい。医療分野にも非常に手が広く、治験のようなものが始まっているそうだ。
「小此木先生が元気そうでなによりです」
小此木医師は相応に年を重ねた人だ。幸枝からすれば父親とかわらない。どことなくいつ亡くなってもおかしくない心境があった。
小此木医師は相変わらず、人の良さそうな顔で笑っていた。メガマスは小此木医師の考えに理解を示しているらしく、研究費も潤沢だそうだ。
「…その、猫目くんの話しを聞いたかい? 」
「聞きました。…失踪したと伺いましたけど、噂は本当なんですか? 」
「ある日を境に、本当にいなくなっちゃってね。こっちでも不安と混乱がすごくて…。…理由もわからないし」
「……やっぱりそんな素振りはなかったんですね」
返答に小此木医師は静かな顔である。じっと、腹の中で「どういう言葉が正しいか」を噛みしめている。その言葉には年齢と経験が確かにあった。
「誰にも分からないことだよ。見える物が全てではないからね」
幸枝には返す言葉がなく、ただ頷きを返すのが精一杯だった。自分が猫目に向けていた感情が心配よりも、好奇心に近かったのではないかと後悔した。
幸枝は猫目のメールアドレスを知っているだけだ。家族の力になることはできない。会社が違うから真相を追究することも出来ない。静かに待つ以外にない。
小此木医師は眉を下げて言う。
「気になっているんじゃないかと思っていたんだけど…どうも、あんまりよくなかったみたいだね。
…お願いがあって呼び出したのに申し訳ないね」
「いえ、私も気になっていましたし。不躾な発言をしてしまいましたし…」
「ああ、気にしないで。もっと露骨に言われることもあるんだよ。…まずはね、この書類を芳野君に渡して欲しい」
机の上から渡された茶封筒は薄い。しかし、メールで送らない時点である程度の機密情報であることがわかる。メールで送った、送ってないの水掛け論をしないように、情報の流出をできるだけ防ぐために紙での受け渡しは今でも現役だ。
「それとね、お願いの話しなんだけどね。……孫娘の誕生日に電脳ペットを贈りたくてね」
「プレゼントに」
「そう、それもデザインも機能も出来るだけオリジナルにしたいんだ。君の会社ならそれも出来るかと思って」
「それは……、確かに可能ですけど時間がかかりますよ。大丈夫ですか? 」
「ああ、大丈夫。来年の誕生日に間に合えばいいんだ」
「じゃあ機能に合わせて見積もりを出します」と幸枝が言えば、小此木医師はそれに嬉しそうに笑った。小此木医師は、その年齢にしてはメガネや電脳空間に造詣が深い。だが一人で電脳ペットを作り上げるのは不可能なのである。なにせ認可がおりない。
孫娘にオーダーメイドの電脳ペットを贈る祖父、という図は微笑ましく、幸枝はこの仕事が楽しみになった。フルオーダーの中身も予算も期待できたし、納期にも余裕がある。芳野もうるさくは言うまい。
嬉しそうに孫娘のことを語る小此木医師は幸せそのものだった。医療用空間や器具について語るときよりも、はるかに喜色が強い。それだけ可愛いのだろう。現に会話の中には何度も「かわいくてねぇ」という言葉が出てくる。どうにも、勇子と同じ年の少女らしい。聞いているだけで、その少女のことをよく知っているような気にすらなった。
(ああそういえば、)もうずっと、幸枝は姉の家に連絡を入れていないことに気がついた。今夜は寝る前にメールを送ることにした。
・・・
・・
・
小此木医師の電脳ペットのデザインは、なんというかどこか間の抜けた犬をモチーフに決定した。デザインを形にしたのは松川で、アイディアと方向性は小此木医師のものだ。彼はしきりに「愛着の持てるものがいい」と口にした。
余計に入った仕事だったが、むしろ松川は乗り気だ。幸枝がヒアリングしてきた状態や参考資料を材料に、嬉々として取り組んでいるようにすら見える。
「こういう仕事がやりたかったのよぉ」
いつか自分の息子にもオリジナルの電脳ペットをつくりたいらしい。「世界に一つだけ」というのは、松川にとって嬉しいのだ。
幸枝は幸枝で内部プログラム──とくに、性格のパラメーター──の調整が難しい。今までのペットはランダムに性格を配置していたが、今回のペットはある程度は固定しなくてはならない。
そして、電脳空間での悪意に対する防御能力だ。孫娘がなんらかの悪意にさらされたとき、それをそうと認識できる能力がこのペットに必要だ。今までの電脳生物よりもはるかに高度だった。格別に高度な判別能力が必要だった。
小此木医師の最後の注文が
「ああ、少しメモリに余裕を残しておいてほしい。自分がそこに入れたいプログラムがある」
というもので、これが一番の難題だった。ペットは基本的に改造不可であるのに、会社がそれを作っては信頼に差し障る。電脳ペットは悪質なプログラムになりえるのだ。現在は外を自由に歩くことはできないが、それでもいつか実現するだろうし、人の手によって書き換えられるとしても難しい注文だ。
それでも製作の方針は決まり、納期も長いことから仕事の合間合間で進められていく。担当に仕事が割り振られ、段々とプログラムが組まれていった。気の詰まるような作業の合間に、その仕事は大変な息抜きになったのである。
リ・リ・リ・リ
「はい、地村です」
『地村幸枝さんのお電話でしょうか? こちらメガマス病院です。落ち着いて聞いて下さい。ご家族が…』
夕暮れの差し込む、穏やかな一日の終わりであった。言葉の意味を分かった途端、背中を冷や水が伝ったかのようで、電話の形にした指の感覚がなくなった。不明瞭な白い図形が視界にちかちかと瞬く。不思議と声が震えることはなく、電話の受け答えに応じていた。
緊張が途切れるのは一瞬で、電話が終わった途端に周囲の音が戻ってくる。息が詰まったような閉塞感、心臓は慌てふためいて戻ってくる様子がない。
「幸枝ちゃん落ち着いた方がいいわぁ。ほら、深呼吸して」
関節がこちこちになって、動かなかった手を握って顔を覗いたのは松川だった。心配そうな顔をしている。それがわかった。
手のひらの温度を思い出して、肩から力が抜けた。体温が戻ってくる。でも心臓は慌ただしいままだ。むしろ激しくなっていくようである。意識して深呼吸をした。
「……幸枝ちゃん、何があったのかしら? 」
「あの、アー…」
言葉にするのに躊躇いを感じるのは久しぶりのことだった。言葉にすれば現実を認めることになるので嫌だった。うまく言葉にできなくて、頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにした。
幸枝の様子に、部屋の中にいた人たちは気づいている。わかっていて、静かに松川とのやりとりを見つめている。いつもはうるさいキーボードの音すら聞こえない。気を使ってくれていた。でも、幸枝にはわからない。彼女は焦りの中にいる。
「あ、の。甥と姪が事故にあいました、…姉も状況が悪いと、」
焦りで言葉がうまく出ない一方、ひどく冷静に状況を見ている部分もあった。その部分が急いで病院に向かうことを言っていた。説明すればなんとかなると。
「わかったわあ。説明はこっちでやっておくから病院に行ってちょうだい。明日、ボスに電話をしておけばそれでなんとかなるから大丈夫」
松川は重ねて落ち着くようにと幸枝に言う。
うなずきながら、幸枝は身の回りを片付けて簡単な引継ぎを声に出していく。松川は焦れたようにその姿を見ていた。必要なことだった。だが、一刻も早く病院に行くべきだと思っていた。
「もういいから行っておいで」
「はい、すいません」
一度、深く頭を下げて会社を出た。
階段を駆け下りる足が、だんだんと早くなっていく。自動ドアすら意地悪をしているようだ。駐車場で車のそばに来た時にはもう、息が上がってひどく疲れていた。
西日が目を刺す。
この日のことは忘れようとも忘れられない。