第3話 日常のずれ
その日暮れ、XANXUSは腕の中の熱を持った体横目に少しうんざりしながら、目を瞑って考えていた。テレサとは、体の相性も悪かったのだ。もちろん夜の話ではなく。
まず、脂肪も筋肉も無い女と筋肉質な男では体温が違いすぎる。XANXUS基準の空調だとテレサには寒すぎるようで、とうとう今日熱を出したのだ。ベッドに入ってもシーツ一枚はテレサには過酷なようで、悪寒に震え、露出した肩を手で包んでいた。XANXUSがその上から手を重ねると、指の先まで氷のように冷え切っていて、そのくせ顔は熱かった。
熱なんて放っておけば治るだろう、とまた目を瞑った。XANXUSにとってカゼなどというものはその程度の印象だった。確か最後に風邪を引いたのは10にも満たない頃だ。もちろんボンゴレの次期後継者が床に臥すわけにもいかず、城の人間誰一人にも悟られないように普段通りに過ごした。気付いたらその日のうちに治っていて、それ以来風邪を引いたことはない。スラムで過ごしていたときも、風邪で寝込んだことなどなかった。日銭が稼げないなら飯にありつけないのだから、風邪なんて言っている場合ではなかったのだ。
「けほっ、」
弱々しい咳の音が聞こえて、ピクッとXANXUSの眉根が寄った。
「っけほ、こほこほっ…」
咳はあっという間に酷くなり、息もろくにできなくなった。ごめんなさいと謝ることもできなかった。焦ったテレサは部屋を出ようと急いで起き上がりドアの方へと駆けた。
しかし、ただでさえようやく開けられる重い鉄の扉は、息もできない今では動かせるはずもなかった。
その間もどんどん咳は酷くなり、息苦しさにめまいがして立つこともできず扉の前に座り込んでしまった。
「チッ…」
けほけほという喧しい咳の音は止まず、XANXUSの頭を覚醒させるには十分だった。
ついスクアーロにするように、反射的にベッドサイドの花瓶に手が伸びた。そして、手から離れる瞬間になってようやく、相手がテレサだということを思い出した。
––––バキャッ!!
「っきゃ…!」
咄嗟に的をずらした花瓶はテレサの真横を通り、鉄の扉に当たって砕け散った。
テレサから悲鳴が上がり、恐る恐るXANXUSの方を振り向く。
「…あっ……あの…ごめんなさ、っえほ…っ…」
「………フン」
物を投げようものなら噛み付いてくるスクアーロとは正反対に、そんな風に怯えながら謝られると、なんだか眉根を寄せるしかできなかった。
扉の前に座り込んだままのテレサはまた苦しみだして、抑え込むような咳をした。また始まったと呆れ半分に、XANXUSは見切りをつけてベッドから降りた。そしてテレサの横を素通りすると、軽々しく扉を開けて部屋を出た。
テレサは呼吸が苦しくて立ち上がることも出来ないまま、一人残された部屋で必死に咳を止めようとしていた。しかし、咳をしてはダメ、煩くしてはダメ、と思えば思うほど苦しくなって、どうすればいいかわからず涙が滲んだ。
数十分するとようやく楽になって、普通に息ができるようになった。呼吸を整えて、扉を開けようと手を掛けるが、動かない以前に、体に力が入らない。そういえば、なんだか熱くてだるいし、頭は脈打つように痛くて、目眩もする。もう何も出来ないような気分になって、床に座ったままだというのに目を瞑った。
次に目が覚めると、体は少し楽になっていた。ベッドに横になり、服も替えられている。
「お目覚めですか?」
「…!!」
驚いて声の方を見上げると、そこにはリラの姿があった。
「熱があったので、解熱剤を使用させて頂きました。体調はいかがでしょう?」
「えっ…そ、それは…ご迷惑をお掛けして、すみませんでした…」
「いえ。テレサ様の容態についてですが、医師によると、咳喘息と冷えによる発熱とのことです。薬が処方されておりますので、毎日決まった時間にご使用ください」
後で医師が説明に来ますが、とリラは淡々と続けた。そして一通り説明が終わると、部屋を出ようと扉へ向かった。
「……ご自愛ください」
扉を開ける前に振り向きもせずにそう言った。そして、急いで出ていった。
テレサは久しぶりの暖かいベッドに少し安心してしまい、もう一度目を瞑った。
XANXUSが部屋に戻り、寝室に入ったとき、テレサはまだ眠っていた。一度メイドが部屋に来て空調を下げていったから部屋は涼しくなっていたが、いつもは無いシーツが一枚増えていた。もちろん自身の部屋に変化があるのを良しとするわけもなく、イライラしながら余分なシーツを剥いで床に捨てた。
それでもテレサは目を覚さない。自分だったら部屋の前に人が近づいた時点で覚醒するだろうから、信じられない思いでテレサの顔を覗き込んだ。
薬のおかげか熱は引いたらしく、少し赤かった顔は白くてむしろ死人のようだった。それに少しも動かない。思わず目を凝らして顔を見て、心臓の上に指先を当てた。
(…息はしてるのか)
わずかに上下する胸に、ゆっくりとした心臓の鼓動を指で感じて、ようやく生きていることに確信を持った。
疑うのも無理はない。テレサの呼吸は、まるで遠慮するかのように薄いのだ。それに表情も少し息苦しそうで、それは咳喘息のせいではなく、薄い呼吸のせいだとわかった。
わかった上で、なお人形が転がっているかのようで気味が悪いと思った。生気のない青白い肌、ピクリとも動かない体、滑らかな肌の表面、その顔の端正な––––そこで、XANXUSはテレサの寝顔を見詰めている自分に気づき、眉を顰めて背を向けるように横になった。
テレサは、目が覚めると隣にXANXUSがいるものだから大いに驚いた。
(…また発作が起きたら、XANXUS様は私をどうされるかしら……)
’’バリン!!’’
今朝の花瓶の割れる音の幻聴が耳元で響き、ビクッと肩を揺らした。ふう、と小さく小さくため息をついた。
(……少し寒くなってきたわ…薬が切れたのかしら……)
一方、XANXUSはテレサの体が少し動いたのに反応して目を開いた。
実は、いつもテレサが眠るまではXANXUSも眠らなかった。暗殺者としての定めなのか、睡眠という無防備な状態を意識のある人間に晒すのは本能的に出来なかった。
もちろんテレサはXANXUSが起きていることも、まして今自分を見ていることも知らないだろう。XANXUSは、ただテレサが不安げに俯いているのを見ていた。そして、テレサが小さな小さな動きで自身の二の腕を握った。
寒いのだろうと分かったが、XANXUSは何も言わなかった。
(……虚弱が)
心も体もこんなにも弱い女を、なぜそばに置いているのだろうとXANXUSはもはや自分に呆れかけていた。『強さこそ全て』––––そのはずなのに。
と、その時、テレサが顔を歪めた。
「っ…こほっ、っは、げほっ…」
喘息の発作が起きたのだ。しかも今朝よりも酷くて、横たわる姿勢がすごく苦しくて何とか反対側を向いたが、起き上がることはできなかった。
(…またか)
XANXUSはため息をついてテレサの背を軽く睨んだ。薬を飲めばすぐ治るだろうと、テレサの横のテーブルにある薬をちらっと見た。
しかし、テレサは一向に薬を手に取らない。かすかに手を伸ばしてはいるが、よほど苦しいのか届きはしなかった。
「はっ…っこほ、けほっけほっ!はあ、はあっはあ…」
テレサは荒い呼吸を繰り返して、胸をさすっていた。咳はどんどん酷くなっていった。
大きい発作らしい。薬を取ることもできないほど苦しいのだろう。酷い咳の中、息を吸い込むので精一杯という様子だった。
「…チッ」
XANXUSは仕方なく体を起こすと、とりあえず楽な体勢にさせようとテレサの肩を抱き起こした。
「…!」
そこで、XANXUSは少し目を見開いた。掴んだテレサの肩が、思いがけず細かったからだ。
「っけほ…」
(…薬か)
一瞬思考が持って行かれたが、テレサの咳の音で現実に戻ってきた。
テレサの体を抱き支えながら薬を取る。片手で包装を破りテレサの口に押し入れ、ピッチャーからてきとうに注いだ水を流し込んだ。
「んっ、げほっ…!」
水の量が多かったのか、薬ごと吐き出してしまった。
「チッ…おい、嫌でも飲め」
もう一つ薬を開けると、XANXUSは今度はそれを自身の口に入れ、水を少なめに口に含んだ。テレサの顎を掴んで上を向かせると、唇を合わせ薬と水を流し込んだ。舌で薬を奥の方に押し、唇を離すとすぐにテレサの口を手で塞いだ。
「んんっ…ぅ…」
曇った悲鳴と共にテレサの目から涙が溢れた。苦しいだろうが、薬を飲まなければ治るものも治らないのだから仕方ないだろう。
やがて喉が嚥下したのを確認して、手を離した。即効性の薬なので、数分で効いてくるだろう。
「んう……はあ…はぁ……」
やがて咳が止むと、テレサは息を整え始めた。
依然抱いたままの肩はか細く震えていた。
見れば、荒い呼吸に上下する胸も、と言うより、体が薄い。青白い首筋は生気がなくて、その薄い体は力なくXANXUSの腕に身を委ねていた。これでは発作に耐えられるわけがないと納得せざるを得なかった。
肩から二の腕へ撫で下ろすと、二の腕はゆうに指が回る細さで、筋肉らしい隆起がまるでなく、鉄の扉が押せないのも無理はないと思った。ひんやりと冷え切った皮膚は、XANXUSの手の熱を吸い取っていった。
(………細ぇ)
ひと目見て手足が細いのは知っていたが、よく見てみると、どこもかしこも細い。手首や指や、腰なんかも細いし、肩幅が狭くて––––そもそも骨が、すぐ折れそうなくらい細いのだ。
まじまじと見ていると、テレサはおもむろに髪を耳にかけた。テレサが自身の顔を自ら露出するような行動を見るのは初めてだった。横顔は苦しげに歪んでいたが、それでも美しかった。
そして、よほど辛かったのか、それとも発作が収まって安心したのか、テレサの目からは涙が何粒か溢れ、乾いた涙の跡を辿った。
「……ふう…」
テレサはようやく呼吸が整うと、少し頭がぼうっとしていたが、誰かに支えられているのに気づいた。
「…?」
テレサが隣を見ると、いかにも不機嫌な顔のXANXUSと目が合った。
「!!」
テレサは息を詰めて、絶句の声を上げた。XANXUSは、今更かと呆れていたが。
「ざ…XANXUS様、あの…ご、ごめ、なさい……」
テレサの声が震えた。小さくて細い体は、正面から見ると余計に弱々しく見えた。
その謝る姿が今朝のテレサと重なった。
「………フン、薬ぐらい自分で飲みやがれ、カスが」
XANXUSはそう言うと、テレサの頭を掴んで押し、床にさせた。そして背を向けて横になった。
そんな態度にテレサは首を傾げた。
「…?」
(………怒られなかったわ…今朝よりずっと、お気に障ったはずなのに…)
どっと安心感が寄せてきて、目を瞑るとすうっと眠りに入っていけた。XANXUSもテレサの呼吸が穏やかな寝息に変わるのを見届けて目を瞑った。
意識が落ちる寸前、ふと思い出した。
––––確か、テレサのような女を"華奢"だと呼ぶのではなかったか。
儚げな脆弱さの中に、どこか可憐な品がある––––辞書でしか知らないし、会ったことはないが。虚弱とか貧相とかより、華奢という言葉がしっくりきた。
(……都合のいい言葉もあったものだ)
結局は弱いだけだ、と半ば強情になってしまったが、次の日から無意識のうちにテレサの扱いが少しだけ改善されたのであった。寝室を出るときにテレサも通れるくらい余裕を持って扉を開ける––––その程度には。