第XX話 微かに笑った。
残りの一ヶ月は、XANXUSの別荘で過ごすことにした。XANXUSは最近は割と真面目に仕事をしていたが、幹部の、主にスクアーロの長年の苦労が功を奏し、ボスが不在でもヴァリアーは上手く回るだろう。実際、一ヶ月空けると告げた時、スクアーロが猛抗議したが、ストレートに「テレサを看取る」と一言言うと、黙って承諾した。もちろん時々には城に戻るし任務もするが。
テレサは、その日から時々発作を起こし、その度に体力と食欲が衰退していった。これまでの半分も満たない食事を日に1度か、多くて2度取るだけになり、徐々に起き上がることも辛そうになっていった。
XANXUSは、横になり外の海を眺めるだけのテレサの髪を撫でたり、ただそばにいるだけだったが、その空間は6年間の想い出の余韻で満たされていた。
何を話すわけでもないが、まるで意味も無く名前を呼び合うかのような、穏やかな時間が流れていた。
いよいよテレサは水しか飲まなくなった。背中に手を当てると、ゴロゴロとした肺の音が手に伝わって、水が溜まり始めているのだと分かった。呼吸をするのも苦しげで、死まで数日しか残されていないのだろう。
そんな夜、テレサが珍しく自分から口を開いた。
「XANXUS様……」
「……なんだ」
こうして聞き返してやるのも、あともう何度もないのだ。
テレサは、意味ありげに瞳を潤ませて、たっぷり間を置いて言った。
「………あの、……いっしょに…海辺を歩いてくださいませんか…?」
XANXUSは流石に迷った。
死にかけている、しかも心臓が弱って息をするのも精一杯な人間を?命を削るか、トドメを刺す行為でしかない。
しかし、ここ最近には珍しく赤く染まった頬に、跳ね除けることはできなかった。これまでのほぼ1ヶ月、それを言う覚悟を固めるのに費やしていたのかもしれない。
テレサにとって命を削るにふさわしい行為なのだと思った。こちらのエゴで少しでも長くなど、望んではいないだろう。
あまり息を止めないように短いキスを一つ落として、抱きしめるようにその背を支えて体を起こした。そしてシーツをめくって、ベッドの淵に座るように足を床に下ろしてやる。
テレサの左手を取ると、立ち上がるためにわずかに下に力が加わった。しかし…
「………?」
テレサの体が持ち上がることはなかった。
立ち上がれるわけがない。ただでさえ非力なのに、今では蚊の止まった程度の力しか感じないのだから。
「んっ…、……っ……っはあ…はぁ……」
テレサは焦って何度かやってみるが、手も足も嘘のように力が入らない。心臓が悲鳴をあげ、息が切れる方が早かった。
「あっ…す、すみません……XANXUS様…」
何も言わずにテレサを見下ろすXANXUSの視線に気づき、慌てて頭を下げた。言い出したのは自分なのに、とても歩くことなどできなさそうだ。
「はあ……」
不安げにため息をつくテレサ。
XANXUSは相変わらずの仏頂面でテレサを抱き上げた。
「あっ……」
テレサは小さく謝って、頬を赤く染めた。
さらさらと儚げに散る砂を睨みながら歩いていた。なぜか、テレサの目は見ることができなかった。
「……こんなのでいいのか」
ぶっきらぼうに言った。最期が海なんかでいいのか?––––半分本気の疑問で、半分は答えなんて分かりきっていると思いながら。
「……………海が見られて……幸せ、です……」
テレサが初めて綺麗だと言ったのは海だった。XANXUSにとってはテレサの瞳の青こそ海にも勝る神秘だと感じるのだが。
それにしても、"幸せ"か。テレサにとって、それはどんなものだったのだろうか。彼女はもうこの先それを見つけることは出来ない––––夢でも見続けるのでなければ。
健気で、儚いテレサ……今、テレサが愛しくて堪らない。10年も、自分を待っていたのだ。何度消えたくなっても、どれほど孤独でも…
「……最初から最期まで、運の無い女だ」
バカにするような声色でXANXUSが言う。
「………それは、違います………私、XANXUS様とまた出会えたから、孤独も忘れたいことも、楽しい思い出になるんだわ………」
口答えも出来るようになったのだ。ようやく、というより、ほとんど初めてかもしれない。
ようやくそうなったのに、そうかこれから逝くのか、とXANXUSは思った。
ーーもしこの先何年、何十年とテレサと生きることができたなら、そんな風に、テレサが人間らしさを取り戻すところを、もっと見られたのだろうか。
「……お前にとって、俺は何だったんだ」
テレサはいつも従順だった。まるでそこにテレサの意思は無いかのようで、常々何のために側に居たがるのか、理解はできても納得できなかった。
そこでようやく見れたテレサの目は、気配も無くいつの間に泣いていたのか、睫毛が濡れていた。
「XANXUS様は……とっくに気づいておられるのかと…」
「……なにがだ」
「……、…」
テレサは一瞬視線を逸らして、躊躇うようにXANXUSを見上げた。なんだか懐かしい仕草だとXANXUSは思った。
「………私は、…あなたの後ろをついて歩くだけで、すごく幸せで………」
苦しくて最後まで言い切れなかったが、それは翻訳すれば、"あなたを愛しています"くらいになるのだと、XANXUSはすぐにわかった。
顔を赤らめて遠慮がちにXANXUSを見上げるテレサに、返事のつもりでキスを落とした。テレサも、それがXANXUSにとって愛を表明する行為だとすぐにわかった。
それでも、XANXUSは言葉にはしなかった。いや、できなかった。
どうか、時間よ、分かってはくれまいか。彼女が波に飲まれる前に、伝えなければいけないことがあるということを。
終わりの時間が訪れたのは、次の夜だった。
目が覚めてからずっと意識が半分落ちている感じで、もう半分死んでいるのだと思った。
XANXUSは、今日の海のように凪いだ心で、息の浅いテレサの冷たい手を握っていた。
唐突に、きゅっと、テレサの手に弱く力がこもる。
次いで、薄く瞼が開き、濡れた瞳がXANXUSを捉えた。
「………行くのか」
声を出すことは叶わなかった。
代わりに、両目から涙が溢れ出した。
「(生きて………生きて、いたい)」
今、生まれて初めてそう思う。
ここで眠ってしまえば、このまま全てが終わるだろう。存在も思い出も全て無に還り、海に沈んだ船のように沈黙するのみ。別れが惜しい、未来が欲しい、過去を忘れたくない…。
「(こんなにも私にたくさん与えてくれた……それなのに、私はまだ何も………)」
目を瞑ると、後ろに引っ張られて、暗闇に吸い込まれたような感覚がした。
自分は、あともう少しで死ぬのだとわかった。
意識がハッキリしなくて、思考とは別の所にたくさんの想いが降ってきた。
「(あなたを一人にする自分を許せないと言ったら、笑うでしょうか……私がいなくても生きていくあなたを、悲しいと言ってはいけませんか…?)」
目を瞑るその顔は涙に濡れて綺麗で、どこか苦しそうだ。
「(どうして笑うことができないの…?怖い、寂しい…それだけで、こんなにも残酷なことをこの人にしてしまうんだわ…忘れてほしいと言うのが、一番優しいはずなのに……)」
心もとない薄桃色の炎が、ゆらゆらと二人の手を包んだ。
XANXUSはそのか弱い炎に、テレサの必死の訴えを聞いた。最後の力を使って、自らの存在を刻もうとしているのだと分かった。
「わかってる。覚えといてやる」
少し呆れたような声色。いつものその声に、安心が溢れると、また一つ心音は弱くなった。
「(……いや…嫌。逝きたくない…あなたともっと、一緒にいたい。どうして私は死ぬの…?せっかく会えたのに、)」
「……テレサ」
低く重く呼ばれた名前が、まるで最後の光のように暗い瞼に射し込んだ。
髪にそっと触れるあの人の手が心地いい。そのまま頬を包んで、少し撫でた。
––––愛しているの。あなたを…。
怒ったような顔でいいから、不機嫌な声でいいから、もっと撫でて、「なんだ」って呆れてほしいの。あなたのことが、大好き。本当よ、本当なのよ––––
テレサの心の声が届いたかのように、それに返事をするかのように、XANXUSが少し笑った。
そして、唇に柔らかいものが当たる。毎日のように刻み込まれたキスの感覚。今、世界はその感触で一杯だ。
そして彼女の世界では、この瞬間が永遠に続くのだ––––––––……………………
テレサの炎は消えた。明確な境界線がわからないくらい、長い長いキスの間にゆっくり確かに空気に溶けていった。テレサは微笑を浮かべていた。楽しそうに、心地好さそうに。
しかし、もうこの体は抜け殻であり、後には氷のように冷えた体が残るばかり。
頭では分かっている。それでも、この冷たい手を放すことは出来なかった。
「………………行くな……テレサ」
––––『かなしい』
これは"悲しい"なのだと、XANXUSは思った。海を流れる月光のように、一筋の雫が頬を伝った。それは、XANXUSの生涯において最後の涙であった。
まったく笑わせる。人の命を何とも思わない人間が、人の死に涙を流すなど、可笑しい話ではないか。
涙の跡が乾いて消える頃には、テレサの死を受け入れた。
もう何も感じはしなかった。悲しみは心を追い越し、胸中は無になった。
言葉通り人形となったその体を抱き、人一人いない砂浜を行く。月は雲に隠れ、外は闇で満ちていた。
目指したのはあの場所だった。
テレサと初めて、海を見たあの海辺。
寸分違わぬその場所に腰を下ろすと、見計らったように雲は晴れ、月明かりが惜しげなく二人に注いだ。
いつかの微睡みの中に聴いた、テレサの歌がどこからか聞こえる気がした。あの、海辺の少女の、ありふれた片想いの、寂しい恋の唄が…
少しの間、目を瞑って、何を思うでもなくテレサを抱きしめていた。
波風立たない穏やかな心に、戻ることのない日々の思い出だけが過ぎていった。
そしてどこから降ってきたのか、一番肝心なことを伝えたことがなかった、ということを思い出した。
そういえば最後の最後で、テレサを救ってやれるような気の利いた言葉が浮かばなかったと、自分の子供のような不器用さに少し嗤った。
XANXUSは目を閉じて、冷たい頬に自身の頬を当て、耳元で小さく小さく呟いた。
「Ti amo.」
––––なぜ、失わないと、こんな一言も口に出来ないのだろうな。
木の葉の揺れる音さえ何者にでも聞かれるほど静かな夜に、その言葉はしんみりと闇に染みていった。
そして、XANXUSの手に炎が灯る。
しっかり抱きしめ、その体を温めるように炎で包んでいく。
「…………これで最後だ、テレサ」
その肩を強く抱きしめる。力を込めた指先はわずかに震えた。
その冷たい左手に右手を絡めて、ぎゅっと握りしめ、呟いた。
「…………Grazie.」
––––届くわけもないか。最後まで、言葉では。
そう吐息だけで笑った。
しかし、テレサはわかっていただろう。全てを打ち明けたあの夜に、胸の内で同じ言葉を吐いてキスしたことを。心の中でさえはっきり言葉にはしなかったが、この手が毎日のように愛をささやいていたことを。
––––忘れるものか。
ゆっくり優しくテレサの身を包んだ憤怒の炎は、次の瞬間にはその体を灰も残さず風化した。
力を込めたままだった右手は拳となり、手の中にテレサの体温を閉じ込めた指輪だけが遺った。
––––忘れられるものか––––…
テレサだった塵が穏やかな風に吹かれて、XANXUSの身を包みながらどこぞへ消えると、さっさと立ち上がって屋敷に向かって歩き出した。
もう彼女はここにはいない。どこにもいない。これ以上考えてもどうにもならないことだ。
明後日には遠くの国で暗殺の仕事があるし、幹部だけで出来ないこともないが、自分がいた方がいい。今日の昼にはイタリアを出なければならないから、もうここを去ろう。
踵を返し月に背を向けると、月灯りがXANXUSの横顔に少しだけ影を落とした。
右手に指輪を握りしめると、絡ませた彼女の指の細さを寸分狂わず思い起こした。
熱い瞼を固く閉じると、彼女の幻像が左腕に抱きついて、そっと頬をよせた。
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