第8章 欠かせないもの
XANXUSは意識が浮上すると、腕の中で眠るテレサを覗き見た。
ぎゅう、と腕を回して体をくっ付けているから顔は見えない。懐かしいような気もするが、こんなに引っ付いてくるのは珍しいと思った。しばらくの間離れていた反動か、テレサもそれなりに我慢していたのだろうか。
そっと頭を撫でると、テレサの柔らかい髪の感触がじんわりと手に伝わった。今まで心のどこかで認められなかった、認めたくなかったこの心地良さは、一度認めてしまえば何でも無いものだと分かった。何を意固地になっていたのか。自分は何も変わらないのに。
しばらくすると、流石のXANXUSも寝飽きてきた。テレサの肩を押して引っ剥がして起き上がる。こんなのも、酷く懐かしい気がする。
隣に眠るテレサの顔を眺めながら、ふと思い付きで、右の瞼にキスを落とした。
触れるだけのキス。髪や頬にも、気が済むまで重ねていると、びく、とテレサの体が緊張した。
「……起きたか」
珍しいことだ。いつも寝ている間に触ってもキスしても起きなかったのに。
テレサは驚いたのか、ぱっちりと目を開けて、顔を少し赤く染めた。
「(………私が、眠っていても……?)」
少しの違和感で目が覚めたら、頬に柔らかい感触がして、つい驚いて体が揺れた。でも、それがキスだと分かった時に、じんわりと心に甘い色の温もりが広がっていった。
眠っていても、キスしてくれたのが、嬉しかった。だって、もし仮に、 XANXUSがまたからかって喜ばせるフリをしているだけだとしたら、意識の無い時に触れたりしないだろうから。
その裏返しで、眠っていても触れてくれるのは、その意味は……?
そんな風に思い至って、テレサは顔を真っ赤に染めた。
そんなことを考えてボサッとしているテレサそっちのけに、XANXUSはテレサの頬に手を添えて、右眼に指先をかざした。さすがに一晩では何も変わるはずはないか、と思いながらも、何も気付いていないテレサの髪を撫でた。
柔らかい髪を何度か撫でていると、心地良さそうにうとうとしながら目を瞑った。本当に犬か何かと錯覚しそうだ。
ゆっくりと軽い手付きでひとしきり撫でたあと、ほわほわとまた眠りに落ちそうなほどリラックスしているテレサの頬を包む。
「…?」
何も言わずに、優しい手付きで触れるXANXUSに、テレサは少し不思議に思って、そっと見上げた。
「…………海にでも行くか」
「……!」
わあ、と言葉が聞こえそうなほど顔が明るくなるテレサに、XANXUSは少し笑いが込み上げた。撫でられるのも、海に行くのも、大好きだということは知っている。
どこか口数の少ないテレサも、あの思い入れのある場所に行けば、調子が戻るかもしれない。そんな意図も少しはありつつ、ベッドを抜け出した。
この海辺の別荘も久しぶりだ。
テレサがいなければ来る意味も無くなっていたし、しばらくテレサの体調が安定しなかったから、結局数ヶ月ぶりになった。
海はいつもと変わらず、時が止まっていたかのように二人を迎える。
しばらくベッドでテレサを抱き締めてその波の音を聞いていたが、さすがに飽きてきた。
腕の中のテレサは寝ているのか、というよりは眠りとの境で心地よさそうに目を瞑っていた。
そんなテレサを無遠慮に抱き上げると、ぱちりと目を開いた。
「…?」
「……下に降りるか」
「えっ……」
眠そうな目を突然に輝かせて、嬉しそうに目を細める。
いつも興味ありそうに海を眺めていたのは気付いていたが、XANXUS自身がたいして興味がなかったので、数えるほどしか行ったことはない。
裏の門から外に出ると、崖に沿って作られた階段につながる小道がある。月明かりで十分に照らされたレンガの道を、ゆっくりと歩いていく。階段は緩やかで、いくらテレサと言えど、つまずくことはないだろう。
そのまさかを容易に想像できて、ふと後ろを振り向いた。テレサも立ち止まって、XANXUSを見上げる。
青白い月明かりに照らされて、薄桃色の髪は夜桜のように白くさえ見える。瞬くたびに揺れる睫毛も、まるで雪を被ったかのように白く見えて、余計に神秘的でつい目を奪われる。
「………」
「………XANXUS様……?」
ただ無言で見つめるXANXUSに、テレサは戸惑ったように首を傾げる。
「…………」
「……?」
それでも押し黙って、ただテレサを見下ろす。テレサは少し緊張した顔で、視線を泳がせた。
月明かりに包まれる肌も、一層柔らかそうに光を反射して、つい指で触れる。指先は透けることなく肌に当たって、ようやく本当に目の前に存在していると確信できる。
「(…………綺麗だ)」
何かの間違いのように、テレサは全てが美しい。本人は夢にも思わないし、きっとこの先もその事実に気付かないのだろう。
今は、そんな所も嫌いじゃない。
実を言うと最初から、上手く扱えなかった昔の日々さえ、今となっては思い返しても別に嫌なことはなかったと思う。
「……??」
何も言わないXANXUSに少し不安げに眉を下げる。
つい見惚れていたが、そんなテレサの顔にようやく気が付いて、誤魔化すようにそのまま頬を撫でた。
「……捕まっとけ。転げ落ちても知らねえぞ」
テレサの腕を軽く引いて、引き寄せる。
「え……あ、…ありがとうございます…っ……」
そっ、とテレサがXANXUSの左腕に抱き付いた。テレサの心臓の鼓動が腕に伝わる。よほど緊張しているらしい。
ゆっくりと階段を降りていくと、やがて砂浜を踏んだ。二人以外が踏み入ることのないこの砂浜は、誰の足跡も付いていない。XANXUSは海に興味が無かったから、以前来た時にテレサが下に降りたいと言うのに渋々付き合って、初めて気付いたのだ。
波の音と月の光に満たされた静かな空間。テレサの横顔を見ると、少し照れたような、穏やかな笑みを浮かべていた。
しかしふと、テレサは遠くの地平線を眺めて、少し寂しげな目をした。
その一瞬の瞳の濁りを見逃さなかったXANXUSは、テレサの髪を耳にかけながら、その横顔に言葉を投げた。
「……どうした」
なんだか懐かしい言葉。
当たり前のように側にあったその言葉は、無くなって初めて、こんなにも嬉しくて大事な言葉だと気付いた。
ふと、こんなことを考えてしまう。
ーーあなたは、私のこと、嫌じゃない……?
……実のところ、まだ拭いされなくて。
自分に流れる血が、まだ黒く穢れている気が、心の底のどこかではしている。
ふとしたときに、それが頭をよぎって、そのたびにお腹に石があるように重くなって、喉が狭まるような感覚がする。
こんなに大切にされているのに。
分かっているはずなのに。
むしろ幸せを実感するほどに、そう感じる。まるで光が強くなるほど、影も濃くなるみたいに、強く思い起こされる。
本当にこの人に触れて良いの?
私なんかが隣にいて良いの?
どうして、そんなに優しく私に触れてくれるの…?
「……、……XANXUS様、ごめんなさい。……私は…………」
XANXUSを見上げて、小さく息を呑む。きっと何かの決心をしているんだろう。体に緊張が走っているのがわかるから。
「…………あなたが好き……」
それだけを言って、切なげに目を伏せる。
「………………好き、で……」
何に耐えられなくなったのか、途端に涙が溢れて、両手で顔を隠して俯く。
どんなに態度と表情で見え透いてるとしても。こうして言葉にされると、いよいよ本当に恋しているんだと、分かる。
それを伝えることが、テレサにとってどれほど勇気が要ることだろう。俯いて泣きながら震える体が、なんだか狂おしいほど愛しい。
「…分かってる」
そして、その続きの言葉を言おうとして、ふと気づく。
薄く涙を張った瞳が、穏やかな海面のようにゆらゆらと青く揺れていた。
海なんて興味はないが、テレサの青い瞳は確かに綺麗だと思う。よほど綺麗だと思う。
テレサが世界で一番綺麗だなんてことは、ずっと昔から知っている。分かり切っている。言葉にこそしなくとも、数え切れないほど思ってきたのだから。
「……テレサ、……」
あまりに言い慣れない言葉だからか、喉につかえるような感覚がある。そんな自分に少し笑えてくる。
本当に、愛し方なんて知らない。
それどころか、壊しかけた。
本当は最初から、心に決めていたのだろう。濁りひとつない繊細なガラス細工のように美しいテレサを、誰にも壊させはしないと。
「………綺麗だ。テレサ…」
生まれて初めてだ。こんな言葉を吐くのは。自分の声とは思えなくて、その違和感とむず痒さに眉を顰めるほどだ。
その言葉を聞いた途端に、テレサの瞳にじんわりと涙が浮かぶ。慌てて俯くが、一瞬嬉しそうに瞳を輝かせたのは、しっかりとXANXUSの眼に映っていた。
血統なんてどうでもいい。
とにかく隣に居るのはテレサでなければ駄目なのだ。
流石にそんなことまで言葉にするXANXUSではないが、酷い扱いをした後だからか、それかただの気まぐれが、テレサの左手を掬い取る。指輪はどこかに行ってしまったが、もうどうでも良い。
不思議そうな顔でXANXUSを見上げるテレサの前髪に、ひとつキスを落とす。
そして、薬指にゆっくりと指輪を通す。
テレサは一瞬息を止めて、その指輪を見ていた。小さなピンク色のダイヤが付いたシンプルな指輪。薬指にそれが在ることの意味くらい、知っている。
「………私、に……?」
「…ああ」
「………」
まだ少し信じられないような顔で見上げてくるテレサに、XANXUSの短気な性分が出てきたのか、少し苛立ちながら強引に唇を奪う。
もう何も言うなよ、と釘を刺すようなキスだったが、何度か角度を変えながら啄むうちに、いつもの癖でテレサの体を抱き上げてしまった。そう、いつもならこのままベッドに連れ込むのだが、今のテレサの気分はどんなものか…と、唇を離してテレサの顔を覗き込んだ。
「……っ…」
テレサは精一杯に俯いて、真っ赤な顔を隠そうと両手で顔を覆った。腕に座らせるような不安定な体勢だというのに、背中を支えるXANXUSの腕に体を預けて、自分は照れた顔を隠すので必死のようだ。テレサらしいといえばそうだが、以前のようにXANXUSを信頼して体を委ねるその態度に、途端に愛しさが湧き上がる。
「………もう海は飽きた」
くるりと海に背を向けて、早足で屋敷に戻る。
そのまま寝室に直行すると、ベッドの縁に座らせるようにテレサを下ろす。頭に手を添えて、そっとキスをすると、テレサも懐かしい行為前の仕草を思い出したかのように少し体をこわばらせた。
静かに重ねるだけのキス。
テレサの緊張が伝わって、少し笑いそうになった。
少しの衝撃も与えないように、ゆっくりとテレサの体をシーツに沈ませる。
唇を離すと、テレサの緊張に染まった瞳と目が合った。
久しぶりなのと、まだ痛かった記憶が張り付いているのか、少し呼吸が浅くて、じんわりと涙が滲んでいく。
「……」
その涙を見て、反射的に少し体を離した。一瞬、テレサの傷付いた泣き顔がフラッシュバックして、触れていた肩からパッと手を退ける。
「…………XANXUS様……」
何かを感じ取ったように、テレサが名前を呼ぶ。そして、少し笑って、手を伸ばした。
ーー……とん
そうっと、テレサの手が、XANXUSの背に回る。指先が震えているのが、背中に伝わった。
「……………離れないで………」
なんとか薄く目を開いて、懸命に見上げる。遠慮がちに背に添えられる手も、声も、不安で震えていて、瞳には涙がじんわりと溜まっていく。
それだけ。それしかできない。けれども、テレサにとってはそれが精一杯でーーそんなところが愛おしい。
テレサを愛でたい衝動が込み上げてきて、少し戸惑った。こんな感情はどう処理したら良いものか、知る由もない。
「(………いつも通り、やれば良いだけか)」
自分の中で、あっさりと解答が出た。
そう、今までと何も変わらない。ただ胸の内で湧き上がる感情を受け入れて、名前を付けただけの違いだ。今までと同じように、その感情に突き動かされるままに触れれば良い。
静かにテレサの髪に口付けを落とす。
いつも、愛しさに突き動かされて無意識にキスをするのは、テレサの柔らかい髪だった。
いつもいつも、テレサに文句ばかり垂れていたのを思い出す。いつまでも初々しくて慣れなくて、自分以外の誰にも心を開かない。ガキのようで陰気な奴だと、何度馬鹿にしたことか。
しかし今になって、心を許していなかったのは自分の方だったと分かる。愛することを拒み、恐れ、テレサを愛しいと感じていることを認めず、頑なになっていた。
あまりにも真っ直ぐに純粋に一途に、テレサに愛されたせいかもしれない。
テレサがどんなに無碍に扱われても、あまりにも性懲りも無く全てを受け入れるからかもしれない。
テレサに受け入れられるたびに、何か柔らかいものに沈んでいくような感覚がする。
髪から頬へ、そして唇へとキスしていく。テレサの腕が、まるで離れるなと云うようにXANXUSを抱きしめる。
背中に感じるテレサの腕の重さが心地良い。自身の腕に収まる小さな体も、テレサの一途で純粋で自信なさげな心も、全てが、全てが愛おしい。
まるで永遠とも思える間、抱き合って唇を合わせて、やがて少しずつキスは深いものに変わっていく。
相変わらずたまに唇を離して呼吸をさせながらだが、もうそれで良いのだ。
ようやく取り戻した日常を思い起こすように、丁寧に触れる。もうテレサの体の緊張も解けて、懐かしい溶けた目をしていた。
二度と見ることは叶わないと思っていたその瞳に、少しだけ心が震えた感覚がした。
そしてまるで海に抱かれるように、テレサの青い瞳に沈んでいった。