第8章 欠かせないもの
ーーいつも悪夢を見る。
同じ夢を何度も見ている。毎回、薄暗い部屋のベッドで目が覚める。その家は陰鬱としていてすぐに出たくて、出口を探して部屋を出る。廊下は今にも腐り落ちそうなほどギシギシと鳴って、蝋燭が足元を照らすだけで、前も見えない暗闇の中で冷たい壁に手を這わせてなんとか進む。壁にはたくさんの絵画が飾られていて、知らない人や知らない風景、動物なんかの絵がひたすら目に入る。それもすごく不気味で奇妙で怖くて、でも目に入ってしまうから逃げられない。
心臓が痛いほど脈打って、とにかく早くこの家から出なくちゃと本能が告げるのに、どんなに進んでも外には出られない。ようやく廊下の突き当たりに扉が出てきて、懇願するような気持ちで開けてみる。……のに、最初に目覚めた部屋に戻っている。そうして延々と、知らない家の中から出られずに、彷徨って、いつも最後は後ろから大きな足音がして、振り返る間もなく…目が覚める。その後、夢の中の自分はその足音の誰かに殺されるんだと思う。次の夢の中では、前回の夢で足音が聞こえた所の絵画の前に、真っ赤な血の池ができているから。
そんな夢を何度も何度も見る。出口の無い家も、殺される瞬間も、毎回夢だと気付けなくて、本物の恐怖に襲われる。もう廊下は茶色い木目を探す方が難しいくらいに血に染まってしまった。もし…血の池ができる場所さえ無くなってしまったら、一体次の夢はどうなるんだろう。そんな馬鹿げたことさえ考えてしまうーー…
でも、そんな繰り返しの悪夢の中で、一度だけ変わったことが起きた。
暗い廊下を歩いていた時だった。
突然、肩を引かれるような感覚がして、横に倒れ込んだ。思わず目を瞑ったけれど、少しも痛くはなくて、倒れ込んだそこは、すごくすごく懐かしい青草の感覚があった。冷たくて柔らかい生命の感触。
それまで暗くて気づかなかったけれど、何かに引っ張られて廊下の横にも扉があったことを知った。
ーー何が、誰が、外に連れてくれたんだろう…?
目を開けると、そこにいたのは、あの人だった。見知ったその人は、私の肩を抱いて起こしてくれた。
その瞬間、すごく懐かしい安心感が湧き上がった。今までその感覚が恋しくて寂しかったから、その人に会えてすごくすごく嬉しかった。
同時に、私がしてしまったことも思い出した。あの人にされたことも、思い出した。
申し訳ない気持ちに、怖かった記憶に、痛かった感覚に、なによりも、脳に刻まれたあの言葉が呼び起こされて、勝手に体が震えてきた。
そんな私に、あの人はすぐに体を離して、部屋を出ていった。
あの人は私を許してくれたのだろうか?
リラが教えてくれた。あの人が私をこの部屋に連れ戻して、ベッドまで空けてくれているって。
私をまた虐めるために、生かしているわけではないみたい…?会話していないから意図は分からないけれど、たまに目が覚めた時には髪を撫でていたり、手を握ってくれていたりする。悪夢の中で外に出られる時は、いつも目が覚めるとあの人がそばに居る。
目が覚めても嫌なことをされるどころか、私が少しでも怖くなったら、いつも何も言わずに部屋を出るの…。
それに、嫌いな相手が眠っている間に、髪を撫でたり手に触れたりするかしら…?
意図が分からない…けれど、あの人に触れられていると少し安心して、部屋を出て行く時には少し寂しい…。
もう悪夢は見たくない。
少しでも、起きていたい。
最近はそう思うーー…
XANXUSはリビングのソファに寝転びながら、寝もせずに目を瞑っていた。
ーーそのとき、ふと、寝室から微かな物音が聞こえた。
テレサが眼を覚ましたのか、とXANXUSはパチリと眼を開けると、ふらりとソファから立ち上がった。
扉を開けると、ベッドの横にうずくまるテレサが見えた。先ほどの音はベッドから転がり落ちた音か、と状況的に理解した。
膝でも打って痛いのか?とXANXUSは少し呆れてそばに歩み寄る。そっと肩に触れて名前を呼ぶ。しかしーー
「っ…きゃ……!!」
テレサにしては大きな悲鳴を上げて、後退りした。背中がベッドの縁に当たって、それ以上下がれないというのに、テレサは必死に脚で床を蹴って、まるで何かから逃げるように怯えていた。
「っ、は……はぁ…っ……!ぅ、
……」
ガタガタと大きく体を震わせて、呼吸を乱し泣いている。XANXUSに怯えているのとは違うような、そんな直感が働いた。
「テレサ…?…どうした」
肩に手を置き、顔を覗き込む。とめどなく涙が溢れるその目がXANXUSの顔を見る。
…その途端、テレサの瞳に光が戻るかのように輝いて、顔から恐怖が少し消えた。
「…………ざ、XANXUS様……?」
ああやはり、何やら混乱していたらしい。また悪夢にうなされていたのか、夢と現実の区別がつかなくなっていたのだろう。
「夢じゃねえ」
ハッキリとした口調でそう告げて、テレサの頬を撫でる。
二、三度ぱちりと混乱の瞬きをしたが、ようやく言葉の意味を理解したのか、安心したように息を吐いた。
「……………は、ぁ……」
少し泣きそうに声が揺れた。くったりと体の力が抜けて、ずるりとズレた体を慌てて腕で支える。
「(………こ、怖かっ……)」
また夢の中で足音が聞こえて、今度は振り返ることができて、大きな黒い手が暗闇から伸びて、自分の腕や髪を掴んだ。慌てて逃げ出そうとしたら、どうやらベッドから落下して、皮肉にも夢から逃げることができたみたいだ。
でも、振り返ることができたのも、手が伸びてきて掴まれたのも初めて。
次は…?次眠ったら、次の悪夢ではどうなるの…?
そんなことを考えて、つい体が強張った。
「(……触れすぎたか)」
つい体を支えようと腰を抱くようにしていたから、テレサの体が硬くなったのも良く分かった。
それが距離が近過ぎたせいだと勘違いをしたXANXUSは、最近の慣例でテレサの体を解放しようと思った。
その前に、テレサを抱き上げてベッドに座らせる。それだけすると、パッと体を離していつものように部屋を出ようとテレサに背を向けた。しかしーー
「あっ………」
後ろから、小さなテレサの声。
そして、僅かに感じる腕に感じる重さ。
腕を見ると、青白いテレサの両手が、まるで引き止めるようにXANXUSの服の裾を掴んでいた。
つい振り返ってテレサを見る。相変わらず目は合わせないように俯いて髪で顔を隠しているが、振り絞るような小さな声で言う。
「…………ぃっ、……行かない、で………っ……」
悪夢の続きを見るのが怖くて。
そして何より、触れられていると酷く安心するから。
不意打ちに呆然とテレサを見つめるXANXUSに、慌てて続きの言葉を振り絞った。
「あっ、の……ご、ごめんなさいっ………でも、怖く、って…………」
一応、子供じみたお願いをしている自覚はあるのか、恥ずかしそうに真っ赤になって目をギュッと瞑った。
テレサは断られると思っているのか、不安げな顔で俯く。
「(……………何の心配してやがる…)」
そんな必死な顔をされたら、いやそんな態度じゃなくても。そんな頼みをされたら…
「……フッ…てめぇにしては上出来だ」
ぱああ、と花が咲くように、緊張していた表情が解けていく。溢れ出る喜びに思わず笑みが浮かぶ。
最近は塞ぎ込んだ顔ばかりしていたから、こうして分かりやすく喜ぶテレサを見るのは久しぶりだ。
改めて、分かった。
テレサは暗い顔をしているより、こういう顔がよほど似合う。
「(…もう二度と、あんな顔は………)」
脳裏に焼きついて離れないテレサの泣き顔は、こうして笑顔を見ていると薄れていくような気がした。二度と痛苦の涙は流させない、そう思った。
くっ、と笑って、テレサを抱き上げる。そのままベッドに寝転ぶと、腕の中にテレサを抱きしめた。
「…………ふう……」
心の底から安心したような、テレサの吐息が聞こえた。もう体の緊張感は無くて、ようやく以前の過ごし方に戻ってきたような、そんな兆しを感じた。
「(………俺は、テレサを…………)」
テレサの香りを肺に満たしながら、目を瞑る。脳が溶けそうなほど五感全てが心地良くて、嫌に手に馴染むテレサの体。まるで、生まれる前から一緒になることが決まっていたとさえ思うような。
「(………………テレサを、愛しているのか)」
意識が落ちる寸前に、そんなことが頭に浮かんだ。
気色悪いとばかり思っていたが、言葉にしてしまえば、案外あっさり受け入れられるものだ。
本当はずいぶん前から気付いていた。テレサを愛していることを。
鈍臭くて、虚弱で、要領が悪くて、幸の薄い。
それでも、こんなにも純粋で素直で、一途にひとりだけを想って、小さな体で精一杯に愛を受け止める。
いつからか、鈍臭くて虚弱な所も、愛しく感じる自分がいた。今まで苛々していたことさえ好ましく思い始めてしまうと、もはやどんな欠点も愛しくなってしまうから、テレサがどんな言動をしても苛々しないどころか、甘やかしてしまう。
本人はそんなこと夢にも思わないだろう。ただただ、今が幸せで、満たされて、愛を受け止めることだけで手一杯な奴だから、それ以外のことを考える余裕も無いのだろう。
それでいい。お前はそれだけで良い。
笑っているだけで良い。愛されるだ けの存在で良い。
もう二度と傷付かないように。二度と、泣かないようにーー…