第2話 ふたりの日常
テレサを攫ってきた日の夜だった。
XANXUSが幹部と夕食をとる間、テレサはシャワーを浴びて着替えを済ませていた。帰るまでに終わらせるようにという、XANXUSの言いつけだった。それから、扉の横で御主人をひたすら待っていた。これは言われたことではなかったが、それ以外にしてもいいことが見つからなかった。これらが後のテレサの日課となった。
扉が開くと、現れたXANXUSはちらっとテレサを見たが、特に何も言わずに真っ直ぐ浴室に向かった。後ろから付いてくるテレサの足音を聞きながら。
10分もしないうちに、XANXUSはシャワーを済ませて、リビングへ繋がる扉を開いた。やはり横にはテレサが突っ立っていた。しかし、どこか驚いた顔だった。
「なんだ」
「………人違いを…してしまったかと思いました。ご気分を害してしまい、申し訳ありません」
髪のことか、とXANXUSは納得した。テレサが後半に何かごちゃごちゃ言っていたような気がしたが、理由以外どうでもいいので聞き流した。
テレサは、前髪の下りたXANXUSは見慣れず、さらに緊張してその後を付いていった。
XANXUSはそれから酒を飲み始めた。今日はテキーラをロックで飲みたい気分だったので、メイドに準備させた。
ソファに座るXANXUS、その横に空気のように存在感のないメイドが床に膝をつけて酌をしていた。さらに、いつもとは違う存在が部屋にいた。
部屋の隅に身を寄せ、時々XANXUSを伺うように視線をよこす。視線などに敏感なXANXUSは、どうも落ち着かなかった。せっかくの酒が台無しだ。
それでも自分が連れてきたのだと思って少しは我慢していたが、そんなものは関係ない。苛立ちは一瞬で沸点を超えた。
「……うぜぇんだよ」
XANXUSはグラスにヒビが入るほど強く握りしめ、そしてテレサの方へ投げつけた。
––––パリンッ!
「っ……」
すぐ横の壁に当たって中身の氷まで粉々に砕け散った。テレサはビクッと肩を揺らし、小さく声を漏らした。カケラが頬に当たったが、皮膚が切れはしなかった。
「ちっ…」
XANXUSの舌打ちを合図に、メイドは冷や汗をかきながら急いで酒を片付け始めた。
もう酒を飲む気分でもなくなり、席を立とうとしたが、そこである物がXANXUSの目に止まった。
「…っ……」
テレサの目から溢れたものは、涙。
色々な感情が混ざり、涙となって流れてしまったのだった。大きな音に驚いたし、その暴力的な行為に、殴る蹴るなんてことを想起し怖くなった。そして気に触れてしまったことと、存在する申し訳なさ。
すぐに俯いて、顔を両手で隠してしまったのでもう確認はできないが、細い体はかすかに震えていた。
その様子に、苛立ちはついに限界を超えた。つい足が出て机を蹴ると、重い机は大きな悲鳴を上げて壁にぶつかり、壁には少しヒビが入った。
「うぜえから泣くな!!」
XANXUSは怒声を飛ばして立ち上がると、さっさと寝室へ向かい、ベッドに横になった。
テレサは、頭が真っ白になっていたが、ただ「泣くな」という命令に従うため涙を引っ込めようと、床に散らばったガラスの破片を夢中で集めて恐怖から意識を逸らしていた。しかし、グラスが砕け散る瞬間や、恐ろしい怒号がフラッシュバックした。震える手ではうまく掴めず、結局ほとんどはメイドが慣れたように手際よく掃除した。
そのメイド——リラは、そんな様子のテレサに少なからず苛立ちながらチラリと盗み見た。
(……一体何なのかしら、この人)
リラはテレサの正体も、ここに来た経緯も知らなかった。ただのXANXUSの気まぐれで、すぐに殺されて消えるだろうと思った。
それなら別にいい。それだけなら。
ただ今みたいに、XANXUSの気分を害するのは迷惑だった。自分だって、その勢いでついでのように殺されかねないのだから。他のメイドのように。
リラは20代後半だが、メイドの中では年上の方だった。ヴァリアーのメイドや執事は驚くほど回転率が高い。幹部やボスが気に食わないとすぐ殺されるというのが大きい理由だが、他にも隊員の喧嘩に巻き込まれたり、うっかり知ってはいけないことを知ったり。
ここのメイドのほとんどは孤児で行き場のなかった人間か、ボンゴレに吸収されたマフィアの残党か、本部であぶれた者——つまりヴァリアーは、メイドにとって掃きだめのような場所だった。ヴァリアーに就くということはつまり余命幾ばくもないという意味で、見切り屋に送られる気分だった。
そんな中で、リラはうまく生き延びていた。XANXUSの機嫌を壊さず、空気のように過ごしていれば案外やっていけた。
それが、今回はどうだ。テレサのせいで冷や汗をかく目に合った。最後のガラスの欠片を掴みかけていたテレサの手から、リラは半ば奪い取るようにそれを拾うと、少し睨んだっていいだろうと目線を上げた。
すると、手の仕草から苛立ちが伝わったテレサも、リラを見ていた。もう泣いてはいなかったが、ひどく不安げな顔をしていた。
「…………え…」
衝撃を受けた。長い髪から初めて覗くテレサの素顔があまりにも美しくて。
視界に雷が走ったかのように、一瞬真っ白くなった。実際、瞬発的に興奮して血流量が増した血管が、血圧に耐えられずに膨張して視神経を圧迫でもして視覚というものが一瞬利かなくなったんだと思う。それ以外の理由があるのかも、わからないけれど。
そんなことを考えながら呆然とテレサの顔をずっと見ていた。不安な顔が、凝視されて焦ったり戸惑ったり首を傾げたりするのも、何も言えずに半分上の空で見ていた。
…しかし、やがてあることに気づく。
「……顔が真っ青ですよ?」
テレサはひとしきり慌て終わると、ぴたっと動きを止めて血の気が引いてきた。思わずリラも突っ込んでしまった。
「あっ……す、すみません…私、リラ様に迷惑を……」
なんだ、グラスのことか。とリラはそんなことはどうでもよくなっていて、他のことが気になっていた。
「私の名前……知ってるんですか?」
「あの…そう呼ばれているのを耳にして……」
不快だっただろうかとテレサは不安になった。確かに、教えてもいないのに名前を知られているというのは気味が悪いだろうなと。
「あっいえ…そういうわけでは」
と、つい心の声に返事をしてしまうほど、テレサはわかりやすい。
(確かに、敏いXANXUS様にとっては煩わしくもあるのだろうな……でも…)
——なんというか、狡い人だな。
華奢だ。この人はとにかくか弱くて、女性らしい感じがする。
さっき手からガラスを奪い取ったときも本当は少し驚いていた。腕が細くて白くて、こんな殺伐とした場所とは無縁な腕だった。何より、指の一本一本まで、何なら爪の先まで上品な仕草をする。
なんだか、華奢な人だ。体つきだけじゃなくて、たぶん声とか、雰囲気とか透明感とか、全てが儚げなんだ。
それが過ぎて狡く感じてしまうほど、儚げなんだな。
(……あ、またジーっと見ちゃってた)
また焦らせたら気の毒だから、と目を逸らした。